2009年10月20日火曜日

人力山荘が語るもの


写真は、人力山荘名物、露天・五右衛門風呂に浸かる中山氏。1年前ぐらいの撮影。現在は、絶景はそのままに、屋根がついている。さて、きょうも前のブログ「人力山荘@東京・奥多摩」の続き。

私は、この人力山荘で2つのことを思った。

ひとつは、個人的な趣味趣向として。私にとって、自分や家族が住む家を建てたり古い家を改築したりするのは、最高の趣味または道楽だと思っている。その土地の事情に合わせながら、家の全てのディテールを自分たちの好きなようにして、その家に住む。最高の贅沢ではないか。価値基準はあくまで自分たちの住み心地だから、特に高価な建材は要らない。廃材を含め雰囲気のある建材は多少欲しい程度だ。高価で新しい建材ばかりの家は自分が落ち着かない。そういった自分の感覚が現実のフィルターにかけられ、リアルに形になって家が出来る。究極の道楽じゃ。

しかし残念ながら、今の私にはそれが出来ない。今の私の生活を支える諸般の事情では、それが出来ないからだ。「類は友を呼ぶ」のか、私の友人には自分でそれをやった者が、中山氏も含め数人いる。彼らは決してカネ持ちではないことが、私の諸般の事情がカネではないことをリアルに教えてくれる。語弊はあろうが、(土地を含め)変にカネが使われた家は魅力的ではなくなる。それは、変にカネが使われている生活が魅力的でないことと同じだ。そしてなぜか「自分の営むその生活を形にしたい」という欲が私にもあり、それを昇華することが家作りであり、その実現は最高の贅沢に感じるのだ。中山さん、いいな〜と素直に思う。時間がたっぷりあって、日々「ここはああしよう、あそこは・・・」と考えながらそんなことが出来たらと思うと、夢のようだ。

そして、人力山荘で思ったもうひとつのこと。それは、やや社会的なこと。景気が悪いとか、勝ち組/負け組(もー古いか)とかイヤな言葉が流布してるが、そんな今の日本で大事なのは、「幸せのあり方」だと思う。景気が悪くても負け組であっても、幸せなら何の問題もない。

高度経済成長期のように、多くの人々が同じような方向を向いてると、ある意味幸せ実現の効率がいい。例えば家なら、通勤1時間ぐらいの30坪の新築が幸せの形であるなら、不動産業者・建設業者・金融業者はそれを集中的・効率的に作って売ればいい。買う方もある程度その効率の恩恵を受けられるだろう。でも、本当は違うんだと思う。「多くの人々が向く同じような方向」は確かに効率的だが、それは仮想的でもある。元来、幸せとは自分自身で切り開かねばならないものだ。オーダーメイドなのだ。だから解決しなくてはいけない問題もオリジナル。よって例外なく大変なのだ。いくら人から幸せそうに見えても、本人が幸せと感じないと幸せではない。またいくら人から不幸そうに見えても、本人が幸せを感じていれば幸せだ。

私個人的に、自分の住み家を自分の好きなように作っている中山氏を羨ましいと思う。そしてそれは私の大きな参考にはなるが、私に同じようなことは出来ない。私は私なりの形を模索するしかない。それはきっと、人力山荘の他にも、有形無形のいろいろな縁といろいろなことを感じる私の経験によって少しずつ育まれるものと信じている。だから、大変なのだ。しかし、そんなもんだ。

中山氏を「変わり者」扱いするのは簡単だ。でも、人力山荘は、私に、そして社会に、「幸せのあり方」のヒントを示してくれているように思えてならない。各人の「幸せのあり方」を束ねると、「幸せの多様性」とも言えるかも知れない。しかし、「多様性」という言葉は使いたくない。なぜなら、元々幸せは多様なものだから。「多様性」とは、単一的だった高度経済成長期の価値観に対するアンチテーゼというだけで、本質的な具体性はない。さぁ、あなたの幸せは? そして私のは?

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

拙宅について、このように書いてくださりありがとうございます。

いままで雑誌の取材で、何度か同じようなことをしている人にインタビューしたんですが、その多くの人が、

「自分で家を建てるのは最高のゼイタクだ」

と言っておられ、非常に納得したものです。


お金もそうですが、時間とか気力とか、制約がたくさんある中で、それらをクリアして家を建てられるのは恵まれた人だけなんでしょうね。。。。

下条剛史 さんのコメント...

> 中山さん

“ナチュラルソルトカフェ” 店長です。ご本人からのコメント嬉しいです。

たしかに、中山さんを含め、そうした方々は恵まれてますね。でも、もちろん家を建てるだけが幸せの形ではないから、広い意味で、それにめぐり会えたことが恵まれているんです、きっと。誰でもめぐり会えることではないかも知れないから。私はもっと現実的で身近なことにそれを求めようかなぁ〜。何かなぁ〜