2019年11月19日火曜日

親子煮のネジ


ひとつ前のエントリ、「釜玉うどん」の反省で、捨てられたうどんの悲話と私の反省を書いたが、その翌日、上の写真のメールが、愛しい私のガラ系携帯に届いた。娘が通う中学校からだ。内容は、

給食の調理中に手鍋のネジが「親子煮」に入ってしまい、(全校生徒分の大量の「親子煮」の中から)見つけられなかった。したがって、きょうの給食の「親子煮」は、急遽無しになりました。生徒さんにご迷惑をお掛けしましたことを、給食室を管理する学校として、お詫び申し上げます。

というものだ。「ネジが発見できなかったため」ということは、もしかしたら「床に落ちた」など、混入していなかった可能性もあったかも知れない。後から、娘にそのときの給食のことをきくと、ネジのことを聞いたのは、各教室にその親子煮が運ばれた後だったらしい。だから、その親子煮を目の前にして、「『食べちゃえば』という先生もいたけど、結局は『食べてはいけない』となって、誰もその親子煮を食べなかった。親子煮は、その日の主菜だったので、それ無しはきついとみんな言ってたよ」とのことだった。「その親子煮は、どうなったと思う?」ときくと、「捨てられちゃったと思う」と残念そうに言った。

彼女から話を聞くに及ばす、急遽無しの「無し」とはこの場合、現実的には「廃棄」ということだろう。想像をたくましくしても、養豚場の餌か。いずれにしても、私は、冒頭のメールを読んで、何となくの違和感を覚え、しばらく考えた。

まず、ご存じない方もいると思うので、軽く前置きを。今どきの学校給食は、給食センターと呼ばれる、学校から独立した施設で数校分の給食が集中調理され、昼前に各校に配達されるパターンが多い。そんな中、娘が通う中学校には自前の給食室があって、全てそこで調理された給食が生徒に提供されている。娘は「だから、うちの中学の給食はおいしいのよ。栄養士さんもよく考えてくれてて、いいのだけど」と言う。

言わずもがな、学校としては、「もしも、誤ってそのネジを飲み込んだり、かじって歯が欠けるようなことがあっては絶対ならない」ということで、このようになったのだろう。

この件を知って、最初に私が思ったのは、外れたネジに気がつかなかった調理師さんのことだ。手鍋の、たぶんカシメが、調理中の熱の経年劣化で徐々に緩くなることはよくあること。毎日大量の調理をする大鍋は、かなり激しい使われ方をしていることは想像に易い。調理師はそれが外れる前に鍋を修理するなり買い替えるなりしなくてはならない・・・・のだが、限られた時間の中、ついそれを怠って調理し続けてしまう。それもよくあることではないか。こんなことになってしまい、落ち込んでいるかも知れない調理師さんに、「よくあることですよ。いつもおいしい給食をありがとう」と伝えたい。こんなことがあれば、父兄としては「今後は気をつけてよ」とわざわざ指摘するまでもない。そして、忘れちゃいけないのは、必ず誰かが「廃棄」していることだ。もしもその人が、その調理師さんだったとしたら、あまりにも悲しい話ではないか。

そして、学校に対して思うこと。

これがもしも、一般家庭や飲食店で起こったならば、それは各々の自由だと思うが、公立の中学校で起こったことだ。教育の場である学校で起こったことだ。先述の「言わずもがな」の理由は、「生徒の安全を思って」とも取れるが、私からすると、無難な策を取った感もなくはない。「無し」にしたことで、学校の運営責任を問われることは、確実になくなった。

それはそれとして、今や、日本の食品ロスの問題は、大きな社会問題だ。賞味期限の新しいルールなどが敷かれたりしているが、まだまだなのは言うまでもない。擦り切れた言葉かも知れないが、世界には食うに困っている人が、子供が本当にたくさんいる。中学校を生徒たちの教育の場と捉えた場合(そうなんだけど)、せめて、「こういうことも、ひとつの食品ロスです。しかし、社会的責任を負う立場の本校としては、今回、残念ながら無しにする(廃棄する)しかありませんでした。親子煮おいしいのに、もったいなかったね」などと言って欲しかった。

「せめて」ではなく、ここでは私が望ましく思う学校の判断と想像を言いたい。「無し」にして、生徒に学校の運営責任や、「大人って大変なんだよ」ということを学ばせるよりも、こっちの方がより大事なことを学べるんじゃないかという意味だ。

配膳後、「いただきます」の前に、担任の先生は、これこれこういう訳で、その「親子煮」にはネジが入っている(または可能性がある)ことを生徒に告げる。したがって、「ネジに注意して食べること」と「食べないこと(=廃棄すること)」を、各生徒に選択してもらう。この2つの選択肢は、現実的には一枚のコインの裏表だということを分かってもらうことが大事だ。そして、食品ロスの社会問題の説明をし(中学生なら難なく理解すると思う)、「君たちが、廃棄しないで、この親子煮を注意しながら食べることは、食品ロスを減らすことになる」と付け加えると同時に、「かといって、飲み込んだり囓ったりする危険はともなうので、食べない(=廃棄する)のも全然アリです」とも言う。もう、中学生にもなれば、責任を持って、このぐらいの状況判断は出来るだろうと、私は思う。

ここからは私の想像だが、ここまで先生が生徒たちに伝えると、「ネジに注意して食べること」を選んだ(おそらく多くの)生徒たちは、一斉に目の前の「親子煮」の中のネジを、スプーンで探し始めるだろう。おそらくそのネジは一本だろう。誰かがその一本を見つけたら、すぐに校内放送で全校生徒に知らせる。その後は、「食べないこと(=廃棄すること)」を選んだ生徒を含め、みんなで普通においしい親子煮を食べればいい。(余談だが、その後しばらくは、「あのネジ見つけたの誰だ?」の話題が校内で持ちきりになりそうだ)

ただし例外もある。
生徒の中に、障害者など、ネジに十分に注意を払おうにも払えない生徒がいたら、その人たちは別だ。当たり前だが。

食品ロスの問題は、今回のネジ事件と根は同じだと思う。人間は効率を求めると、必ず行き過ぎる。だからそれをコントロールするために絶対安全なルールを設け、それに基準(責任)が貼り付けられる。絶対安全とは、万人に対してだから、極力例外がないようにする。これは一見ユニバーサル(万能)のようにも思えるが、その分、曖昧さは排除されているから、融通はきかず、工夫しないことが前提とも言える。世の中が複雑になった分、こうした画一化が必要になるのだろうが、その画一化のシワ寄せこそが食品ロスの問題の根ではないのか。本来は、複雑になったその分、工夫も必要になると思うのは私だけか。そこは校長先生の腕の見せ所と思いたいのだが。

「ネジが給食に入っちゃったけど、生徒みんなで探したら、見つかったんだって」
「へぇ〜、今どきそりゃあスゴいな。先生たち、考えたねー」

なんてブログを書いてみたい。

2019年11月12日火曜日

「釜玉うどん」の反省


東京も最近、グッと冷える日があって、そんな日のランチに、仕事場近くの丸亀製麺へ、うどんを食べに行った。

冷えるのだからと汁物を目指して入店したものの、注文したのは、「釜玉うどん」。列に並んでいる間、室温が暖かいせいか、まだまだ冬ではないのだからと、汁無しの暖かいうどんに気変わりした。

で、私は「釜玉うどん」と注文したつもりだったのだが、出てきたのは、それに(単純に)明太子がのってる「明太釜玉うどん」だった。メニューの写真で見た「明太釜玉うどん」は、明太子の赤色が毒々しいと感じたので「明太子ない方がいいな」と判断した経緯が私の中にあったので、出てきた「明太釜玉うどん」を見て、私は自信を持って「明太子がのってないのを注文したんですけど」と言った。

それを言った瞬間、私は「しまった」と思った、が遅かった。

お兄さんは、何事も無かったかのように、「明太釜玉うどん」の中身を全部ゴミ箱にボンと捨てた。無論、昼時は忙しく、数人が私の後ろに列を作っていた。でも私は、余計な明太子を取り除いてくれるだけでよかった。うどんの上に、ちょっと明太子が残っていようが、そのぐらいどうでもよかった。でも、捨ててしまった後から、何を言っても始まらない。

改めて出してくれた、「釜玉うどん」をテーブルについて食べてるときに撮った写真が冒頭のもの(by ガラ系のカメラ)。この「釜玉うどん」は何かを私に語っているように感じた。あのゴミ箱の中の「明太釜玉うどん」に、私はとても悪いことをしたと思い、悲しくなった。そしてこの「釜玉うどん」を食べながら、反省した。

それをサッと捨てるのは、店のマニュアル通りだと思う。私にとって、それは簡単に想定出来た範囲だったじゃないか。だから、「しまった」と思ったのだ。にも関わらず、きっとそのときの私の中では、「おれは間違っていない」といった、持つ必要のない意地があったからこそ、自信を持って「明太子がのってないのを注文したんですけど」と言葉に出たのだと思った。その余計な意地がなければ、きっと「明太子のってないのを注文したので、その明太子をとってくれたら、それでいいよ」と言ってたハズだった。

こういうことは、その一瞬に試されるものだ。
「私にはきっと成長の余地がある」。
きょうは、そうポジティブに思うようにしよう。

2019年10月29日火曜日

映画「ジョーカー」を、15歳の娘と観に行った

1〜2週間前に、新聞のコラムで、この映画のことが書かれていたのを読んで、観てみたいなと思った。そしたら、先週末の朝、中3の娘が、「私、ジョーカーって映画、観てみたい〜」と言い出したので、ちょっと驚いた。

「重い内容の映画で、暴力シーンも結構あると思うよ。決して楽しい映画じゃないけど、それでも観てみたい?」

「だって、今、話題の映画なんだもん。観てみたーい」

「今話題の映画だから」という理由は、理由になるのだろうかと思いつつも、その日の午後、二人で観に行った。ちなみにR15指定。彼女はちょうど15歳。

で、映画を見終わって、彼女に感想をきいてみた。

「こういうことって、世の中にあるんだなーって思った。日本は平和だね」

この映画をまだ観てない人に、ここで私がとやかく言うのは野暮ながら、私の感想は、あまり肯定的ではない。主人公アーサー自身が殺人を犯すようになっていく描写はされてるものの、多数の暴徒になった人たちの「暴徒になった」理由の描写がほとんどない。何となく金持ち層に対しての不満を持っているぐらいか。

今の時代背景として、ポピュリズム、アラブの春のようなことがある中なので、大衆の力・多数の暴徒の描写は特に描かなくても、何となく「今の時代、こういうことってあるでしょ」と、制作側が観る側に前提として委ねているような気がして、そこが乱暴というか無責任に感じた。どんな暴動にも、個々の理由が必ずあると私は思っているから、そこを描かないで、直接「暴徒と化した大衆」に繋げるのには抵抗を感じてしまう。それは特別な理由はなくても「暴動はアリ」と、暗に表現しているようにも思えてしまうのは、私の偏見か。

私の感想は別にして、全体的にこの映画では、「大衆が(特に若者が)不満を募らせると、暴動が起こりうるものだ」というメッセージはある。そして、主役の男優(テニスのロジャー・フェデラーにそっくり)の演技はよかった。

そして、この映画は、映画「バットマン」の敵役のジョーカーが生まれた経緯を示すものらしいので、主人公アーサーは、最後は「ジョーカー」と呼ばれるようになり、生き延びる。ラストシーンは、その生き延びる様子を、少しコミカルに描いてもいる。

さて、話を日本の中学生に戻す。

どうも、この映画、うちの娘という狭い話ではなく、「観てみたい」という、日本の中学生(たぶん高校生も)が少なくないらしい。その理由は、おそらくうちの娘のように「今話題の映画だから」という、内容とは関係ないところなんだと思うのだが。(それにしても、この映画を見終わった今でも、十代の人たちの間で、なぜ「今話題の映画」なのか、私には分からない)

逆に、内容として、「観てみたい」となったとすると、ちょっと怖い。私を含む多くの大人がそうだったように、若い頃、特に十代は、エネルギーが満ち満ちていても、そのやり場がないということがよくあるものだ。少ない人数でも、そのエネルギーのやり場として、「ジョーカー」の「暴動はアリ」と繋がったら・・・・。これもオッサンの私の考え過ぎと思いたい。

2019年9月24日火曜日

小梅の赤梅酢とクエン酸


涼しくなりそうで、なかなか涼しくなってくれないのが、少しもどかしいきょうこの頃。この夏の日のことで、書いておきたいことをひとつ思い出した。

今年6月、小梅の梅干しを仕込んだら、梅酢が足りなくて塩水を足したことを、このブログで書いた。

小梅の赤梅酢が足りな〜い(2019年6月14日)

この6月14日のエントリの最後の方に、この小梅の生産者でもある、群馬・農cafeの岩田さんにいろいろ聞いてみよう、と書いた。で、実際に、聞いてみた。「小梅の梅酢が少ないこと」を、まず話し、「700ccもの塩水を足したけど、どうでしょう?」と聞いてみた。すると、「それはいい」と100%賛成なご意見だった。

小梅の梅干しの仕込みについてはそれでいいとして、その後の問題は、その「梅酢+塩水」自体だ。きょうは、そうして出来た赤梅酢について。冒頭の写真がそれ。色は普通の赤梅酢のように写っているが、普通サイズの梅で同じような赤ジソの量で仕込んだものより、赤色がやや薄い。(塩水で薄めてるからね) そして、私の赤梅酢の使い途のメインは、何と言っても梅酢ドリンク。2年前のエントリでも書いた。

梅酢ドリンク(2017年8月21日)

当然のことながら、700ccもの塩水を足した「梅酢+塩水」は、普通サイズの梅から出来た純粋な赤梅酢と味がずいぶん異なり、塩っぱさばかりで、酸っぱさが足りず、物足りない味。つまり、梅の成分(クエン酸)が足りない。

したがって、この夏の我が家の梅酢ドリンクは、「(小梅の)赤梅酢+塩水+クエン酸」ということになった。小梅の梅干しを仕込みの際、塩水を足し、同じように梅酢の味にご不満をお持ちの、世間で極々少数の方々。クエン酸を足せば普通の梅酢に近づきます。ただし、市販のクエン酸は、少量でかなり酸っぱいので、最初はちょっとずつ足して、味見をしながら、調整してください。私は最初、クエン酸を適当に加えたら多過ぎて、ちょっと困りました、はい。

2019年8月30日金曜日

新素材の前に


前回のエントリで、プラスチックに替わる新素材が開発されることを想像した。夢見がちで書いたが、それには結構な時間がかかりそうだ。となると、その前に、今あるプラスチックを減らすということがある。順序として、こっちが先だ。

冒頭の写真は、栃木県が、「プラごみ『ゼロ宣言』」をしたという新聞記事。(2019年8月28日夕刊、東京新聞)画像をクリックすると拡大します。

「取り組みとして、レジ袋やプラスチック製スプーンなどが不要な場合は断り、分別して捨てることを県民に呼びかける。小売店などには、客への声かけやマイバッグ持参などを要請したり、企業や農業者には、紙など再生可能な資源への代替を求めたりする」

いいことだが、内容に特に目新しいことはないので、この記事を読む限りでは、この道のりはなかなか険しそうに感じる。だが、海のない栃木県が宣言したという点は、見過ごせない。記事にも県の発言として「海洋へのプラごみの流出を削減するため・・・」と載っている。プラスチックの海洋汚染は、人間が住む陸地で始まる。

左は、今年6月に東京新聞に載った、「マイクロプラスチック」と題された特集記事の一部分。(クリックすると拡大します) 右側の水色の囲み記事「今こそ循環経済へ転換を(東京農工大教授の高田秀重氏)」を読んでもらいたい。この特集記事のタイトルはこの画像外の左端に大きく「マイクロプラスチック」なのだが、マイクロプラスチックの問題というよりは、今のプラスチック社会に対する問題提起だ。日本では、プラごみの約4分の3が焼却処分されていて、温暖化を進めている。(日本も欧州のように)バイオマスプラスチックへの転換やプラスチックを使わない生産・流通の仕組みをつくらないと、産業自体が成り立たなくなる、という内容。「海洋に漂うマイクロプラスチックで、魚が・・・・」とはまた別の視点だ。


この高田氏の指摘は、「プラごみは(自治体の規則通りに)しっかり分別して捨てれば、海に流れ込むことはない」では極めて不十分で、それでは温室効果ガスの放出を促してますよ、ということ。地球温暖化問題については、諸説あるのかも知れないが、プラごみの焼却処分は、地下から掘り出した石油を燃やし続けているようなものだと。その意味では、車の排気ガスの問題と並列の関係にある。

一言でプラスチックと言っても、かなりの種類があるため、プラごみのリサイクルはとても難しく、焼却するか土に埋めるかのどちらからしい。比較的プラスチックの種類を特定しやすいPET(ペットボトル)も、リサイクルするにはそれ以上のエネルギーがかかるとも聞いたことがある。一時期、ペットボトルのリサイクルでフリースという冬物の生地が流行ったことがあるが、あれはかなり細かなプラスチックの繊維のため、洗濯時に下水に大量の細かなプラスチックが流れ出て、その細かさ故に、水道局のフィルターを通り抜ける(海に放出される)、とも聞いた。

人間は、目先の楽な方、便利な方に手が出る。日々忙しいからとコンビニで弁当を買って、ガサばるほどのプラ容器を捨てる。ほんの50年ほど前、私の子供の頃はペットボトルはなく、ガラス瓶だった。そのガラス瓶は当たり前に、洗浄後再利用されていた(リユース)。また、惣菜屋さんで佃煮を買うときは、量り売り。三角にした経木(きょうぎ)の容器に入れて、それを紙で包んで輪ゴムでとめてくれた。ときどき、その三角の隅から汁がちょっと漏れたりしてたが、当時はそれを不都合とは全く感じなかった。今、ガラス瓶に戻すと、重いとか、割れると危ないとかになるんだろう。経木に包んでは、不衛生とか、いちいち量ってられないということになるんだろう。そうなると、結局は、先の栃木県の「プラごみ『ゼロ宣言』」のように、ありきたりなことを地道に進めるしかない、となるのか。

目先の便利や楽には、回り回ってそれなりに負荷がかかっている。その便利や楽を皆で続けたら、大変な負荷になり、それを取り戻すのは至難の業となる。土に埋めるは論外としても、燃やせば温室効果ガス。海に漂うマイクロプラスチックは、もはや回収出来ない。そう思うと、すこぶる重〜い気分になってきた。これら目先の便利や楽を、危ないぐらいに負荷がかかっているからという理由で、人間は超えることが出来るのだろうか。

プラスチックに替わる新素材。生分解する新素材は、白馬にまたがった王子様か。仮にだが、今のプラスチックが全て新素材に替わったとしても、その絶対量の多さからして、それで解決とはならない気がしてきた。

出口を探したい。

先のエントリ「新素材への道のり」の冒頭で、「(食べ終わった)コンビニの弁当や麺類のプラスチック容器のガサを見ると、げんなりする」と書いた。私は、自分が感じたその「げんなり」を尊重したい。その「げんなり」を、一時的に通り過ぎる感情としてではなく、ひとつの「嫌なこと」として。きっとこの「嫌なこと」が積み重なって、「すこぶる重〜い気分」になるからだ。例えて言えば、添加物いっぱいの食品を出来るだけ避けるようなこと。この点、うちのカミさんもうるさいのだが、私や家族の食事、子供に作る弁当も含め、多少不便でも(手間がかかっても)、食品添加物を出来るだけ避けるのは、それを「嫌なこと」と感じているところが出発点になっている。

バラ色の人生なんかありゃしない。今感じる「げんなり」を流さず、「嫌なこと」の感覚を抱えていこうと思う。小さいながらも、それが今の私の出口だ。

2019年8月20日火曜日

新素材への道のり


ときどき、昼食に、仕事場近くのセブンイレブンで弁当や麺類を買う。レジで「レジ袋と箸は要りません」と言う。しかし、弁当や麺類自体のプラスチック容器のガサを見ると、げんなりする。廃棄は自治体のルールどおりに出しはするものの、この巷に溢れるプラスチック容器、スゴイ量だ。以前、このブログでも、触れたことがあるが、この量だとリユースも難しい。

ダンボールはリサイクル?(2010年3月26日)

マイクロプラスチックの問題がマスコミなどで取り沙汰されると、「○○社は、プラスチックのストローを○○年までに廃止すると発表」とも報道される。実際にどこまで実用化の見込みがあってそう宣言しているのかが気になると同時に、意地悪に人気取りのように感じたりもする。しかし、ストローだけでも現実的に廃止となると、プラスチックの代替品、つまり自然界で生分解する新素材の開発と実用化がされるということだから、「人気取り」で片付けては甚だ失礼だ。ただ、そこへ辿り着くまでの道のりはどんなものだろうか。それは、気になる。

ということで、プラスチックからそれに替わる新素材への転換の道のりを、ちょっと想像してみた。

当然のことながら、現在、各素材メーカーは、その開発に躍起だろう。で、今の段階だと、開発されても、枕詞のように、「コスト高が問題だ」となる。実用化には大量生産が必須条件だ。私の想像だが、現在のプラスチックのメインストリームの流通イメージは、大ざっぱには以下。

素材メーカー
  ↓
容器加工メーカー
  ↓
容器ユーザー(各メーカーや大手小売店)
  ↓
消費者

新素材もこれと似たような流通だとする。新素材の容器を作る側(素材メーカー・容器加工メーカー)としては、生分解の速度や機能性など過去にデータ・実績のないものを作るので手間も時間もかかる。そして「これならイケる」素材を開発しても、定期的に一定量以上の受注の目算がないと投資もしにくい。一方、その後ろの買って使う側(容器ユーザー)としては、定期的な大量発注は大きな変化になるので、慎重にならざるを得ない。新素材での機能的な問題は当然気になるところだし、定期的な大量発注の契約を容器加工メーカーと結んだものの、半年後に、より優れた安価な別の新素材が開発されては、困る。

規模の小さな会社にはなかなか出来ないが、こういうときこそ、おっきいところ、例えば、私が昼食をときどき買うセブンイレブンさんなんかどうでしょう? 手始めに、全国のセブンイレブンのレジ袋だけでも新素材の袋にする。これだけでも、素材・容器加工メーカーにとって、低価格化出来る受注量に満たないものか。アイスコーヒーのストローもいいが、ストローは口で直接吸うものなので、レジ袋の方がリスクが低い気がする。消費量はレジ袋の方が断然多いだろうし。多種多様な用途と形があるプラスチックは、素材自体、何種類もある。しかし、まずはひとつ。象徴的にレジ袋用の新素材だけでも、船出することが出来たら、気運が高まりはしないか。

あと、新素材の開発と平行して、普及初期の段階では、容器の規格数を少なくすべきと思う。一升瓶やワイン瓶のように、商品容器を数少ない規格に絞り込む。プラスチックは、成形するのが簡単なためだと思うが、今や商品の数だけ、容器の規格がある。特にPETボトル。同じ500mlでも商品によってみんな形が違うんだもの。それではなかなか前に進まない。新素材もいずれはプラスチックのように成形が簡単なものも出てくるだろうが、一般普及するまでの間は、規格数を絞ることによって、ひとつひとつの規格の生産数量を稼ぎ、普及に勢いをつける。それは全世界で、大手企業だけでなく、小さな企業も、おこぼれとして低価格で購入出来るようにして、普及を後押しする。

言うまでもなく、素材メーカーにとって、これは大きなビジネスチャンス。だけど、プラスチック→新素材の問題は、大企業・小企業・一般消費者というだけでなく、全世界的な問題なのだから、特定の企業や地域というものではなく、ボーダレスで早急な普及を目指してもらいたいところだが、それはキレイ事か。

まずは、素材メーカーさん、よろしくお願いします。

2019年7月30日火曜日

小梅の土用干しをしながら、赤ジソの処理法を考える


梅雨が明けた。暑い。うだるように暑い。でも、こんな日にこそ、梅干しの土用干しだ。ということで、待ちに待ったこの強烈な真夏の陽差し。去年の梅雨明けが、6月末だったように、ここ数年、梅雨明けが滅法早かったので、このブログでも、「早めに準備を」と呼びかけていたが、今年は全然早くない7月末。お陰で、赤梅酢に浸かってる時間が長くなってしまったため、かく言う私も、少しだが、カビが生えてしまった。私の呼びかけで、カビを生やしてしまった方がいらしたら、ごめんなさい。

さて、今年は小梅(甲州小梅)の梅干しを初めて仕込んだ。それにこの甲州小梅という品種は、カリカリ梅タイプで、これも初めて。一個一個の梅が小さいから、収穫が大変だの、ヘタ取りが大変だのと書いたが、干すのもやや大変と最初は思った。

関連エントリ:
初めての、小梅の梅干し(2019年5月31日)

普通サイズの梅の場合は、土用干しの際、ザルにへばりつくことがあるので、一個一個裏返していたが、今朝干し始めた小梅は、数・サイズからして、とてもそんな気にならない。冒頭の写真は、今朝、その小梅を干し始めたところ。車の屋根の上で干している。これで、4キロ。一個ずつ裏返す気にならないことが分かると思う。なので、篩(ふるい)に掛けるようにザルを水平に揺すったり、手の平で転がしたりして、何となく陽に当たるところをずらしたぐらい。特にこのカリカリタイプだと、全くザルにへばりつくことがないので、これで十分だ。だから、やってみれば、あ〜りゃま。かえって、より楽だった。

20年梅干し仕込んでいても、毎年、細かいことを含め「これはこうした方がいい」というアイデアが浮かぶものだ。今年は、「赤梅干しの赤ジソをどうするか?」ということだった。早速、「カンホアの塩」のサイト上の梅干しレシピにも簡素に書き込んだが(作り方3:土用干しと保存)、それは、最終的に、梅干しをどう仕上げたいかによると思う。ここにそれを詳しく書いてみたい。

土用干しが終わると、梅干しを瓶に戻して一年ほど寝かす工程(保存・熟成)に入るが、赤ジソはそのときの添え物になる。その添え物の水分量で、最終的な梅干しの水分量の調整が出来るということだ。その水分量の調整で一番影響が大きいのは、土用干しが終わった梅干しを、赤梅酢にくぐらせてから寝かせるか、くぐらせないで寝かせるかになるが、添え物の赤ジソでも、微調整が出来る。

例えば、私の場合。乾燥タイプの梅干しが好みだ。したがって、土用干し後、赤梅酢にはくぐらせない。そして、悩むのは、添え物の赤ジソの水分量だ。若干のシットリが欲しければ、赤梅酢から上げたばかりの赤ジソをギュッと絞って、保存・熟成の添え物とする。出来るだけ、梅干しを乾燥した状態に保ちたければ、赤ジソは、梅と一緒にザルで土用干しして、カラカラになったものを、保存・熟成の添え物とする。この二通りで悩んだが、今年はカリカリ小梅なので、そのカリカリさを長持ちさせるためにはよさそうな「できるだけ乾燥の梅干し」の方に決めた。カリカリ梅でなければ、「若干のシットリ」を選んだ。

先ほど、「最終的な梅干しの水分量の調整で一番影響が大きいのは、土用干しが終わった梅干しを、赤梅酢にくぐらせるか否か」と書いたが、その調整はそう単純ではない。なぜなら、「土用干し後に赤梅酢にくぐらす」ときに足される赤梅酢の量の調整はとても難しいからだ。しっかり調整したければ、決まった赤梅酢の量を計ってスプレーするなどの手もあるが、一年ほどの保存・熟成期間を経ると、たとえ最初は乾燥してシワくちゃな梅干しでも、空気中の水分の影響で、ややシットリの方向に傾く。しっかりと水分を吸収した思いっきりネットリした梅干しを目指すなら、微妙な赤ジソの水分量はどうでもよく、ただたっぷりと赤梅酢にくぐらせればいいのだが、「適度にシットリ」を理想とする私としては、赤梅酢にはくぐらせないで、ギュッと絞った赤ジソの若干の水分量を足すぐらいがちょうどいい。だから、私にとって、この赤ジソの処理法はどうでもいいことにはならず、赤梅酢からあげた赤ジソを絞るときの絞り加減にも気を使う・・・・。

いや〜、このエントリも、ずいぶんマニアックになってしまった。参考になった方が一人でもいれば嬉しいし、また別の見方もある思うので、そういう方からは、是非とも意見を聞かせてもらいたいものだ。

2019年7月29日月曜日

楠(クスノキ)と「だしパック」


去年の春、担任の先生との面談で、息子が通う小学校に行ったら、校門入ってすぐのところにあるでっかい楠の枝打ちをしていた。私にとって、楠=樟脳(しょうのう)。目の前にある枝打ちされたこれらの枝は、その生木と生葉ではないかと思った私は「これは使える」と思い、その植木屋さんから、ひと枝もらって帰ってきた。

その当初は、葉っぱをそのままタンスや衣装ケースに入れようと思ったのだが、考えてみると、乾燥した葉っぱがボロボロになって厄介だなと、思いとどまってしまった。そして結局何にも使わずに1年以上、乾燥した葉っぱがいっぱいついた楠の枝が我が家に置かれたままになっていた。(冒頭の写真)

先週、部屋の隅に立てかけられたその枝を見て、「そろそろ処分しようかな」と思いながら、乾燥した葉っぱを一枚クシャクシャに揉んでみたら、まだまだ樟脳の香りがするではないか。と思った矢先に、「お茶パック」を思いついた。緑茶はもちろん、いろんなハーブを煎じる前にまとめておく「お茶パック」だ。あれなら、目が細かいので、乾燥した葉っぱの粉が出ないかもと思った。

早速、百均に行ったら、「お茶パック」と、それより一回り大きな「だしパック」があった。(45枚入り100円) 葉っぱが大量にあったので、大きめの「だしパック」の方を選択。ビール飲みながら、プロ野球を見ている間に、10個の「だしパック」入りの防虫剤が出来た。下の写真は、その「だしパック」と楠の葉っぱを詰めたパック。最近は、コーヒーの紙フィルターのように、漂白していない「だしパック」、「お茶パック」があるが、防虫剤用なら、百均の漂白したもので十分だ。


こいつはなかなかいい。この袋をクシュクシュ揉むと、香りが強くなる。しかも、揉み揉みしても粉が出ない。香りが弱くなったら、その都度揉み揉みすれば復活しそうだ。市販の防虫剤って、だいたい「半年たったらお取り替え」とか書いてあって、取り替える度に「こんなに頻繁に取り替えなきゃならないのか」と常々感じていた。特にナチュラル系の防虫剤は安くない。それに比べたら、この「だしパック防虫剤」は、「半年たったらお取り替え」ならぬ、「半年たったら“揉み揉み”」で長持ちするかも知れない。あー何故、生枝をもらってきたときにこれを思いつかなかったか。(乾燥前の)生葉なら、もっと効果的な防虫剤だったはずだ。やや情けない気持ちになりながらも、本格的に夏を迎えたこの時期に間に合ったことを少しだけ喜んだ。そして全ての「だしパック防虫剤」を冬物が入った衣装ケースとクローゼットに入れた。そこにはナチュラル系の防虫剤がすでに入っていたが、ケチって少なめに入れてたので、これで一安心。秋になって冬物を出す際、再び揉み揉みするのがとっても楽しみだ。

楠の枝打ち現場に遭遇したら、「だしパック」や「お茶パック」を連想しましょう。そうそうあることじゃないけどね。

2019年7月16日火曜日

ドクダミ・ヨモギ風呂〜煎じ汁編


 前のエントリで、ドクダミ風呂について書いたが、それは採りたての生のドクダミを風呂に入れたもの。で、今回はその生ドクダミを煎じて風呂に入れて見た。

生ドクダミのときと同様に、採りたての生ドクダミをざっと洗った後、ハサミで5センチぐらいにバサバサ切る。今度はそれを大きな鍋に詰めて、ひたひたの水を加えて、最初強火、沸騰しそうになったら弱火。これで計約30分。ときどき、木べらでかき混ぜたが、そのとき、ふと妙な気分になった。「これってなんか、子供の頃見た絵本に出てきた魔法使いのおばあさんみたいだ。鷲鼻で顔には深いシワがあって、黒い服着てたよな〜」。薄暗い洞窟のようなところで、「ヒッ、ヒッ、ヒッ」とか呟きながら大きな木べらで得体の知れない薬草茶を煎じる魔法使いのおばあさん。そう思うと、なんだか効きそうな気がしてきた。

さて、あらかた冷ました後、今度は、細かい目の洗濯ネットを用意する。生のままだと粗めの洗濯ネットでもいいが、煎じると、葉っぱはトロトロになるので、細かい目の方が、下水管が詰まりにくいだろうなと思ったということ。

この段階が、冒頭の写真。この鍋ごと風呂場へ持っていき、風呂の栓をした後、風呂桶内で洗濯ネットの口を広げて、鍋の煎じ汁をザーっと注ぐ。濃ーい、煎じ汁が風呂桶の底に溜まる。我が家の風呂は、熱い湯が注がれる式なので、この後、スイッチオンして、湯船にぬるめの湯を溜める。(循環式の風呂の場合は、風呂に湯を張った後、煎じ汁を入れた方が、風呂釜のためにいいでしょう)それが下の写真。


冒頭の写真だと、結構透明感があるが、ご覧のとおり、風呂に入れると、生のときよりもかなり濃い深緑色。ただしこの色が、風呂桶に若干付着する。この色、通常のスポンジでは落ちないが、我が家の風呂桶の場合、激オチ君で落ちる。ちなみに、生ドクダミの場合は、下の写真のようだった。


さーて、こうして自分の足先も見えないぐらい色の付いたぬるい風呂にゆっくりと浸かる。生ドクダミのときと同様に、この風呂に入る前に、草取りしたり、切ったり煎じたりしているから、入浴時には香りを強くは感じない。じいーっと10分ほど浸かっている間、ときどき、洗濯ネットを湯船の中で絞って、薬草成分をより出したりして。

また、我が家の庭には、この時期に草取りしたいのはドクダミだけでなく、ヨモギもある。3日目からは、ドクダミだけでなくヨモギを半分にして煎じている。もちろんどっちも生のまま。ヨモギを入れようが入れまいが、色に変わりはないものの、ヨモギが入ると香りがちょっと草餅っぽくなる。煎じる場合、お茶なんかは、草を乾かすが、それも面倒(待ってられない)。上の2点の写真で分かるとおり、これだけ色が違うので、薬草成分の量としては、煎じた方が多いだろう。ただ、生は生なりのフレッシュさというものも感じた。

さてさて、煎じようが煎じまいが、カミさんの全身湿疹ために思いついたドクダミ・ヨモギの薬草風呂。肝心のその当人の症状はというと、現在、生そして煎じ汁と4〜5日続けて入りつつ、回復の方向に向かっている。強力なステロイド剤との併用なので、ただそのステロイド剤が効いただけかも知れない。この手のことは、簡単に結論を出せないが、薬草風呂も悪くはなさそうだ。それと同時進行で、ドクダミとヨモギに覆われた我が家の庭は、どんどんスッキリな方向に向かっている。草取りが嫌になるほど、ドクダミとヨモギの生命力は物凄い。その生命力を拝借するように、薬草風呂にする。あと1〜2回、草取り&薬草風呂すると、庭はすっかりスッキリになる。これも悪くない。今まドクダミは、草取りの後、少量をドクダミ茶にするだけだったし、ヨモギは春先の柔らかい葉を少量、団子にするだけだった。そのため、あまり草取りに積極的になれなかった。でも今回、風呂に入れるという一度にたくさん使う方法を思いついた。今後は(来年以降は)この時期、風呂に使う方法も、生のまま、煎じ汁、(余裕があれば)乾燥ものと、いろいろやってみることを念頭に置くと、気が重かったドクダミとヨモギの草取りに積極的になれそうだ。梅雨時に、薬草風呂の健康管理と庭の草取りの一石二鳥。悪くない。

出来るものなら、何事も一気に好転させたいと思うのが人情だが、こうして少しずつの「悪くない」を積み重ねることに感じる幸福感というものもある。

2019年7月12日金曜日

ドクダミ風呂


一昨日、一週間の出張から帰ってきたカミさんが、全身を湿疹に覆われていた。ハッキリとした原因は分からないが、その湿疹がとても痒く、夜寝るのもままならないというから大変だ。

皮膚科へ行くと、飲み薬と塗り薬ともに強力なステロイド剤を処方された。飲み薬はあまりにも強力なので、胃薬も一緒にのむというぐらい。ちょっと怖いけど、このステロイド剤っていうのは、短時間で効くんだよな。全身が痒くて眠れないというんだから仕方ないか。数年前、私もこの時期に体調を崩して、ステロイド剤のお世話になったことがあった。テロイド剤のいいところも悪いところも経験している。

natural salt cafe:長い夏風邪(2010年6月25日)

そんな私は、このステロイド剤治療をしながらでも、何か他に出来ることはないかと、昨日仕事をしながら考えていた。そして、思いついたのが、ドクダミだった。今、我が家の裏庭にたくさん生えてるドクダミだ。早速ネットで調べてみると、抗菌、皮膚炎などとあったので、悪くなさそうだ。おそらくベストなのは、採りたてのドクダミをフードプロセッサーでペースト状にして全身に塗りたくることかと思いはしたが、それも大変だ。なので、ハサミで5センチほどに切ったドクダミを洗濯ネットに入れて風呂に入れることにした。それが(冒頭の写真の)ドクダミたっぷりのハーブ風呂だ。難しいことじゃない。

ところで、私は、ドクダミが好きだ。夕暮れ時、暗さが深まるにつれ、浮かび上がってくる純白の花。あれは大変美しい。私は、腎臓・膀胱が弱かったのだが、30年ぐらい前、京都にいた頃、天神さんの市の薬草茶屋さんからドクダミ(十薬)を薦められ、しばらく飲んでいたが、とてもよかった。味も好き。また、私がよく行くベトナムでは、ハーブとしてよく食べる。ただし、ベトナムのドクダミは、日本のよりも、茎がか細くて柔らかく、香りも穏やか。大概、数種類のハーブと一緒に皿に盛られているので、日本人観光客はドクダミと気付かずに食べていたりする。

また、十数年前のこと。当時住んでいた築50年ほどの家の庭が結構広かった。ある夏、「あれっ、この庭にドクダミが一本もないのは寂しいな」と思って、2〜3株のドクダミを植えたことがあった。その2年後、広い庭の半分がドクダミに覆われた。慌てた私は、その群生したドクダミを抜きまくった。地下茎で広がるので、鍬で草刈りではなく根っこごと抜き続けた。時間にして2時間ぐらいかかっただろうか。最初は気がつかなかったが、30分ほど経つと、少しスースーする感じの香りに包まれた爽快感に気がついた。そして草取りが終わった頃には、鼻の呼吸の通りがスムーズになり、全身と脳が軽くなった感覚を味わった。その気持ちよさは今でも忘れられない。ドクダミのアロマテラピーを体験したと思った。今で言うところのデトックス?

またまた話はそれるが、やはり20年前ぐらいにインドのケララへ行って、アーユルヴェーダのセラピーを受けたことがある。その人の体質に合わせて配合された油を額にタラタラ垂らすシロダーラというのが有名だが、ハーブの蒸し風呂もある。1メートル四方の箱の中に入って首から上だけ上面の穴から出す。箱の中では、ハーブが蒸されている。それを1時間ぐらいだったか。文字通り、ハーブの香りに包まれる。ここで話を戻すが、先の2時間のドクダミの草取りで、私は、そのハーブの蒸し風呂を連想したのだった。

さてさて、くどいが、私はドクダミが好きだ。好きだが、ドクダミだけが好きな訳ではない。先述のとおり、あまり自由奔放にさせると大変なことになる。だから、今住んでいる家の裏庭のドクダミも、抜いていかねば、好きなドクダミとうまく付き合っていけない。毎年ドクダミの草取りが終わると、大量の採りたて生ドクダミが目の前にドーン盛られるのだが、これまでは、そのほんの一部を干して、ドクダミ茶(十薬)にするだけだった。

しかし、今回、カミさんが全身の湿疹に罹って、このドクダミの風呂を思いついた。何も、湿疹に罹らなくたって、体調を崩しやすいこの時期、ちょうど純白の花が咲き誇っているドクダミで、五月の菖蒲湯のように、六月〜七月にドクダミ湯をたしなむ。この時期の風物詩としても趣がありませんか? それにこれでうっとうしい梅雨時のドクダミ草取りにも、自然とやる気が起こる。採りたて生ドクダミを、少量のドクダミ茶だけでなく、ただ堆肥にするだけでなく(風呂に使った後、堆肥にすればいい)、フル活用出来るなんて何とすばらしいことか。

いいことばかり書いたが、ちょっと気になることをひとつ。ドクダミの草取りをしていると、ドクダミの香りに包まれる。そして、その生ドクダミをハサミで切っていても部屋中が香りいっぱいになる。だから、その後ドクダミ風呂に浸かる時点では、鼻が慣れてしまっていて、ドクダミの香りに包まれてる感があまりしないのがちょっと残念なことだ。

あと、冒頭の写真は、ドクダミ風呂に入る前の状態。下の写真は、この風呂に浸かりながら洗濯ネットに入ったドクダミの細切れを手でゴシゴシ揉んだ後の状態。深緑色が濃くなっているのが分かると思う。


wikipediaによると、ドクダミという名前の由来は、

どくだみの名称は「毒矯み(どくたみ)」(毒を抑える)から来ている。

とある。「矯(た)める」という言葉を初めて知った。広辞苑(第七版)で、「矯める」の最初に出てくる意味は、「まがっているのをまっすぐにする」とある。歯の矯正の「矯」だ。「毒」は悪いイメージだが、それを矯(た)めるドクダミ。庭にドクダミがはびこって困ったな〜と思ったら、ドクダミ風呂で矯めてみてはいかが?

追記:この後、生ドクダミを煎じて風呂に入れて見た。
natural salt cafe
ドクダミ・ヨモギ風呂〜煎じ汁編

2019年7月4日木曜日

ベトナムのベッドの角


2週間ほど前、ベトナムに行った。この20年余り、数十回ベトナムを訪れてきたが、ほぼ定期的に見舞われた、ちょとした災難を、今回改めて経験した。そしてその痛みに耐えながら「これまでに何度もあったよなー」とつくづく思った。それは心がけ次第で防げる災難でもあるので、備忘録、または御守りのようにこのエントリを書きたいと思う。

それは、ベッドだ。

まずは冒頭の写真を見て頂きたい。これは今回、ベトナム・ニャチャンで泊まった一泊30ドルぐらいのホテルの部屋のベッド。知り合いが経営するこのホテルを、私は常宿にしているので、ここにはもう何度も泊まっている。一見、小ぎれいで何の変哲もないように見えると思う。この「何でもないように見える」という、この時点で、この災難はすでに始まっている。おー恐っ。想像だけど、一泊100ドル以上するような高級ホテルのベッドにはこの災難はないような気がする。反対に、10ドルとかのドミトリーのベッドもこうじゃない気がする。この30ドルという宿泊料で、安易に高級感を出そうとしている中途半端なランクのホテルに多く見られることのように思う。

参考まで、下の写真は、日本にある我が家の子供たちのベッド。さて何が違うか。散らかったベットの上の衣類は関係ない。


もう一度、冒頭の写真を見て頂きたい。それは木枠だ。頭の方の木枠は、概ねどちらも共通だが、足下の方にも木枠がついているのは、多くのベトナムのベッドの特徴なのである。何で、こんなのが付いてるのか? おそらく装飾だろう。装飾は別にして、これがあるのとないのとで、現実的に何が違うか想像がつきますか? 無論、ベッドは寝るための物だが、実際には、腰掛けたり、多くの書類を広げて整理するのに使ったりと、この部屋の中心は間違いなくこのベッドである。だから、ベッドの周りをうろつくことは当たり前のことだ。で、下の写真。


この足下の木枠の出っ張り。こうして見ると特別に見えるかも知れないが、例えば数ヶ月ぶりにこのベッドの部屋に入った私の感覚では、この「角」は部屋の風景に溶け込んでいる。そして何の気なしにベッドの近くを歩いているとき、突然、無防備に、強烈に足をぶつける。高さからして、私の場合、だいたい太ももの真ん中ぐらいのところにこの「角」がぶつかる。ぶつけたときは毎回、10分ほどそのままベッドに倒れ込んで痛みが引くのを待たなくてはならない。5センチほどのアザが出来る。そばにノコギリがあったら、衝動的にこの「角」をギコギコ切り取ってしまいたくなる。

今回は、素面(しらふ)でぶつけたが、酔って部屋に帰ってきて太ももぶつけたことが、何度あったことか。晩飯がてらに酒を飲み、気持ちよ〜くホテルの部屋に帰って、フラフラしながらベッド周りを歩いてて、突然、ぶつける。嗚咽とともにベッドの上で痛みに耐えながら「あっ、そーだったー」とそのときは思う。しかし、このベトナムのベッドにお世話になるのは、一年に数日なものだから、次回は忘れていて、またぶつけるの繰り返し。私はこれを、少なく見積もっても10回以上は続けている。

私は、学習能力のない、ただの馬鹿かも知れぬ。しかし、馬鹿なのは私だけではない。ベトナムの人にこの「角」についてきいたことがあるが、「あー、あれね。私も年に2〜3回はぶつけるね。痛いよねー」と言っていた。

この足下の木枠は、明らかに不要と思う。毎日、ベトナムのどこかで、きっと100人ぐらいは、この「角」に足をぶつけて、悲鳴を上げている人がいるんじゃなかろうか。この問題を解決するのに、難しい技術は要らない。ベッドのメーカーは、ただ、ベッドの足下に木枠を付けなきゃいい。また、既存の木枠は取り外してしまえばいい。しかし、なかなかそうはならないこの現実・・・・。

少し、考えてみる。

「明らかにそうした方がいいと思うことが、なぜか現実的にそうはならない」

こういうことって、私たちの身の回りに少なからずあるんじゃなかろうか。ベトナムと日本では、その種類が異なるかも知れないけれど・・・・。酒・煙草は身体によくないと分かっていながら止められない。甘いものを食べ過ぎちゃいけないと知りつつ、そうはならない。化学調味料なんて使わない方がいいのに、ほとんどの食品に使われている。原発なんてない方がいいのに、なくならない。プラスチック容器は止めた方がいいのに、山ほど使われている。その昔、植木等は「分かっちゃいるけど、止められない♪」と唄った。

ベトナムのベッドの「角」がなくならないのは、ポジティブに捉えれば、ベトナムの人たちの包容力や寛容さの現れか。「あれにぶつけると痛いけど、そんなの些細なことじゃない?」ってな感じでね。ベッドの「角」ぐらい、たしかにガタガタ言う程のことではないのかも知れない。それでもやはり私には、簡単になくせるものならば、早いとこなくしちゃえばいのにと思えてならないのだけど・・・・。

2019年6月14日金曜日

小梅の赤梅酢が足りな〜い

先のエントリで、梅干し用に小梅の収穫をしたことを書いた。それを自宅へ持って帰って、まずは塩漬け。2週間後、梅酢が上がったところに、塩揉みした赤ジソを混ぜ込んだ。もう20年も毎年梅干しを仕込んでいるけど、小梅は初めて。ここまでは、塩漬けの塩の量以外は、普通サイズの梅と同じように進めてきた。が、どうも普通サイズの梅とは勝手が異なることに気がついた。

塩漬け後、3日もしたら、ちょうど小梅全体を覆うぐらいの(白)梅酢が上がって来て、よしよしと思っていたが、何となく、普通サイズの梅のときより、梅酢の量が少ないなあとは感じていた。でもそのときはそれより、まだ青々した小梅を漬けたので、梅酢が上がって一安心という気持ちになっていた。小梅は、普通サイズの梅に比べ、果肉量・水分が少ないので、塩漬け用の塩の量を、私の場合、普通サイズの梅だと17.5%のところを、小梅だからと15%にしていた。

そして、塩揉みした赤ジソ投入の段階を迎えた。

赤梅酢の量が足りない。赤ジソ投入の前には、白梅酢はギリギリ小梅全体を覆っていたが、絞った赤ジソを投入すると、赤ジソが梅酢を吸って、小梅全体が赤梅酢に浸からない。それでも、「重石をのせれば何とかなるかも」と思い、小梅の量3kgに対して、5kgの重石を3日間のせて様子をみたが、小梅全体が浸かるには程遠い。(そのとき、「どのぐらい浸かってないか」を記録するために、その重石を外して撮ったのが冒頭の写真)

「このままだと、梅酢に浸かってないところが漬からない。それに浸かってないところにカビが生えてくるかも知れない」

と、心配になってきた。
とりあえず、重石を外して、全体をかき混ぜ、梅酢に浸かってなかった梅にも赤梅酢をからませた。そして再び重石。これを改めて3日間続けてみたが、状況は変わらない。それが2〜3日前のこと。私事だが、明後日の日曜日からの一週間、ベトナム・カンホアへ出張する。その一週間の間、放っておくのは余りにも心配になった・・・・。

しばらく考えた後、塩水を足してみることにした。

最初に小梅に対して15%の塩で漬けたので、塩水は15%にした。(厳密にはこの両者の塩分濃度は異なる) この塩水追加は最小限にしたかったので、最初に恐る恐る200cc。30gの「カンホアの塩」に170gの水を加えて混ぜた。瓶に投入後、全体を攪拌。小梅全体を浸からせるためには、まだまだ足りない。で、少しずつ追加して、結局合計700ccもの塩水(塩分15%)を足して、全体を混ぜ、今度は2kgの重石をのせて、やっとギリギリ全体が梅酢(+塩水)に浸かった状態になった。

ベトナム出張からは再来週の日曜日に帰ってくる。その時点で改めて様子をみて、重石を外し、赤梅酢を小梅にしみ込ませてから、7月上旬の「土用前の土用干し」に備えよう、というのが今描いている青写真。

思い出すのは、この小梅(甲州小梅)の収穫をさせてもらった群馬・農cafeの岩田さんが言ってたこと。「漬けて3ヶ月ぐらいは、カリカリの食感を楽しめます」。このカリカリ食感というのは、この梅酢の量(または梅の水分量)と関係あるのだろうか? カリカリではなく、すぐにネットリになる梅と違うだろうか? 今度、6月30日に行われる農cafeでの「梅祭り」のときにきいてみようと思う。小梅も初めてながら、カリカリ梅も初めて。「土用前の土用干し」に備えるのに、6月30日はちょうどいいタイミングだ。

来年、高校生になる予定の娘のお弁当のためというキッカケで、初めての小梅の梅干し。思いの外、新たに気に掛けることがある。あと岩田さんは、「3日も干さない方がいいわよ」とも言ってたなー。今年の梅の仕込みもまだ中盤戦。干すときもいろいろあるかも知れない。その前に、ベトナムから帰って来たら、カビだらけなんてことがないといいんだけどな〜。

関連エントリ:
小梅の赤梅酢とクエン酸(2019年9月24日)

2019年5月31日金曜日

初めての、小梅の梅干し



一週間ほど前、群馬の農cafeさんの梅林へ行って、梅干しの梅をもいできた。もう20年、毎年梅干しを仕込んでいるが、小梅を使うのは今回が初めて。もいだ品種は、「甲州小梅」。農cafeさんは、2種類の小梅を育てていて、もうひとつは、「織姫」。「甲州小梅」より一回り大きい。ただし、より小さい「甲州小梅」の方が果実が肉厚。「織姫」の方が種が大きいとも言える。どっちももちろん、無農薬。

下の写真は、甲州小梅を収穫中の私と農cafeの岩田さん(右)。小梅を使うのは初めてと書いたが、梅もぎするのも初めて。脚立にのって、枝をたぐり寄せながら摘んでいく。脚立の移動はいちいち下りなきゃならないから面倒だが、だからといってあんまり欲張って一所で頑張るのも危ない。木になってる果実をもいでいると、本能が刺激されてか、夢中になってしまい、多少遠い枝の小梅も勢いで取ろうと思ってしまう。それにしても、天気もよくて気持ちのいい収穫だった。無農薬だからなおさら。


さて、冒頭の写真が今回収穫した甲州小梅だが、まだ青く、熟していない。普通サイズの梅の場合、梅酒に青い梅ということはあっても、梅干し用には多少なりとも熟した梅がいいとされる。でも、岩田さん曰く、「小梅は皮が破けやすいので、このぐらい青いうちに漬けるのがいい」とのアドバイス。追熟も脳裏をかすめたものの、小梅初心者の私はそのまま従った。このぐらいの青さだと、漬けて最初の2〜3ヶ月、果肉はカリカリらしい。それ以降はネットリになっていくとのこと。普通サイズよりも少し少なめ(15%)の「カンホアの塩」で漬けて、2日後には、梅酢が上がってきた。

ところで、私が今年初めて小梅で梅干し仕込むのには理由がある。来年から、我が娘は高校生の予定で、毎日弁当を持っていくことになるだろうという予想の下、主に弁当を用意することになるであろうカミさんから「今年は小梅で」とのリクエストがあった。群馬の農cafeから帰宅後、娘と二人で収穫した甲州小梅のヘタ取りをした。農cafe岩田さんは、「ヘタは取らなくても大丈夫。梅酢に浸かる頃には自然と離れるから、そのとき漉せば簡単よ」と言われていたが、選別を兼ねてのヘタ取り作業を一緒にやりながら、彼女の話を聞くのは楽しみなので、やりました。小梅は小さい分、ブルーベリーのように収穫(梅もぎ)作業もより手間がかかるが、それはヘタ取りも同様。普通サイズの同じ重さの梅のおそらく3倍ぐらいの数になる。おかげで今年はたっぷりと彼女の愚痴を聞くことが出来た。彼女と一緒にこのヘタ取り作業をして数年経つが、あと何回出来るだろうか。一緒にやらなく、やれなくなったら、岩田さんの言うようにヘタ取りしないで漬けることとしよう。

ところで、小梅のメリットは、弁当に添えるのにちょうどいいサイズというだけではない。小梅は南高梅や白加賀など普通サイズの梅よりも収穫のタイミングが2〜3週間早いので、土用干しも早めに出来ることだ。

私が「カンホアの塩」のwebサイト上で載せてる梅干しレシピにも書いてるが、この数年、梅雨明けが滅法早い。去年(2018年)なんかは、記録的早さで、関東甲信地方は6月29日だった。早いだけならまだしも、いざ7月末から8月初めの土用の頃になると、朝は晴れてても昼頃雲行きが怪しくなる日が多く、土用干しがしにくい。それがこの数年の傾向のように思っている。気象庁発表の過去の梅雨明けの日のデータを見ると、「少し早まっている」程度なのだが、梅干しの天日干しを前提にした私の感覚では、7月の初旬には(土用前の)土用干しをスタンバっていたい。それには、収穫時期の早い小梅は好都合だ。去年までは、九州のサムライ菊の助さんから無農薬の普通サイズの梅を送ってもらっていたが、それも、関東より九州の方が収穫時期が早いということがある。

梅の熟度、数的手間など、小梅ならではのことがあるが、もうひとつ、土用干し(天日干し)の度合いについて。「小梅は普通サイズの梅のように3日も干さない方がいい」という農cafe岩田さんのアドバイスがあった。3日も干すと梅干しの水分が極端に少なくなってカラカラになってしまうということだ。考えてみると、小粒の方が、梅の総表面積は広くなるだろうから、乾燥も早いはずだ。なるほど。1〜2日でよさそうだ。

現在、瓶の中の小梅は、梅酢がしっかり上がった状態になっている。1〜2週間のうちに、赤ジソを加えての本漬け。その2〜3週間後の7月初旬には、いつ梅雨明けしてもいい状態にしたい。

関連エントリ:
小梅の赤梅酢が足りな〜い(2019年6月14日)

2019年5月14日火曜日

駅の「カッコウ」

先週末、東京・立川からモノレールに乗ろうと、プラットホームで待っていると、「カッコー、カッコー」と聞こえてきた。最近は、極たまにだけど、カッコウの声を自宅(立川の隣の昭島)で聞くことがあってビックリしたことがあったが、そのプラットホームのカッコウは無論、録音だ。

以前春に、東京のどこかの駅で、ウグイスのさえずりが聞こえてきて、「えっ、こんなところで」と、一瞬だまされたことがあったが、同じ鳴き方が続くので、すぐに録音と分かった。

こーゆーの、どーなんだろー。

プラットホームで録音のさえずりが聞こえてくると、いつも思っていた。せっかくの鳥のさえずりだが、同じ鳴き方が続くと余計に無機質に感じてしまい、「こんなBGM、ない方がいいのじゃないか」と不快にさえ思えてきた。

で、話を先週末の立川に戻す。

たまたまその「カッコウ」の音源の方に視線を移したとき、「あれっ」と思った。それが冒頭の写真だ。「↑エレベーター」、「↓出口」の看板の上に、長方形の白い箱がある。六角形に穴が開いたスピーカーの左には、ブルーの視覚障害者のマーク。(写真をクリックすると、拡大されます)

「あっ、そーいうことだったのか」

この看板の下は、ちょうど出口へ下りてく階段が始まるところだ。この「カッコウ」は、私なんかのために流されているんじゃなくて、視覚障害者の人たちのために、「ここから下がる階段が始まりますよ」という合図だったのだ。そう思うと、「カッコウ(郭公)」が、「滑降」のシャレにも思えてきて、ひとりほくそ笑んだ。

もうこれからは、駅の「カッコウ」を、不快に思うことはない。

2019年5月9日木曜日

タコ焼きプレートのお好みアヒージョ


上の写真。よくあるタコ焼きプレートの穴に、いろんな食材が入っている。

先のゴールデン・ウィークに、我が家でパーティした。最初はタコ焼きパーティのつもりだった。大人数人に子供も数人いたので、腹を空かせた子供たちに、まずはタコ焼きを焼きまくる。もちろん、子供たち自身でも焼く。その間、最初からサーブされた鰹のたたきやサラダを皆で食べる。子供らがタコ焼きでお腹一杯になった後、上の写真のように、タコ焼きに替わって、いろんな食材を穴に入れる。基本は、アヒージョ。オリーブオイルとニンニクのスライスで煮る。

通常、アヒージョは、耐熱陶器や小さなフライパンを使うが、それをタコ焼きプレートの小さな穴にして、多くの種類の食材をちょこちょこ食べるのはいいんじゃねぇ〜かという狙い。「タコ焼きだけじゃ、酒飲みにはつまらないな」と思って浮かんだアイデアだった。何となく、この一口サイズ単位のチマチマしたところが、にぎり寿司っぽいというか、箱庭っぽいというか・・・・で、いいと思いませんか? ホットプレートだと、直火より温度管理が簡単というメリットもある。

タコ焼きでお腹一杯になった子供たちは、子供たち同士で遊び始め、大人たちは好みの食材をちょこちょことアヒージョしながら酒を飲む。そこにときどき、子供たちがつまみに来る。そして、最後に、残しておいたタコ焼きの材料で、大人は締めのタコ焼きを食らう。つまり、タコ焼き→アヒージョ→タコ焼き。というのがこないだのパーティだった。だったが、アヒージョしたオイルもおいしいから、締めにタコ焼きなんてことしないで、パンにオイルを吸わせて食べてもいいだろう。そっちの方がアヒージョらしい。

あとは、アヒージョする食材だ。写真では、サイコロに切った牛肩ロース、鶏モモ肉、ツブ貝、エビ、エリンギ、舞茸、ズッキーニ。レモンを添えて。ツブ貝は冬のイメージだが、とてもうまかった。この後終盤戦には、オイル&ニンニクなしで、カマンベールチーズをトロトロにしてみたが、これもいけた。

たいした注意点もなく、だいたいうまくいくが、強いて言えば、ニンニクのスライスは一回ずつ取り出すこと。ついアヒージョされた食材だけを食べてしまうが、オイルにニンニクを残したまま次の食材を入れると、そのうちニンニクが焦げて香ばしい以上になってしまう。また、タコ焼きはプレートを熱くしてから生地を入れるが、アヒージョの場合、温度をあまり上げずにゆっくりと加熱し、加熱し過ぎないこともおいしく食べるコツだ。

タコ焼きプレートでタコ焼き焼くのは当たり前なので、ついついアヒージョを強調したが、よーく考えてみたら、タコ焼き焼きながらアヒージョするっていうハイブリッドな手もあるな。例えば、冒頭の写真のタコ焼きプレートの穴は30個。10個の穴でタコ焼き焼いて、20個の穴でアヒージョするってとかね。

30年ぐらい前、「関西では、各家庭にタコ焼きプレート(主に鋳物のやつ)がある」と関西の知人から聞いたとき、東京人の私はビックリしたが、大阪の人に「タコ焼きプレートのお好みアヒージョ」なんて話をしたら、怒られるだろうか?

2019年4月17日水曜日

10年パスポート 第2章


また、やってしまった。
こんな愚かな人って、他にいるのだろうか。

ちょうど10年前、ベトナム出張出発の直前(4日前)に、パスポートが切れてることに気がついた。それを書いたエントリが下。

10年パスポート(2009年5月11日)

今回は、出発の2日前に、一ヶ月しか残ってないことに気がついたということだが、同じこと。(ベトナム入国の場合、6ヶ月以上残ってないとならない)

10年前のエントリでは、

今回のことは、10年たっても深く記憶にとどまるだろう。それだけが救いか。

と書いたが、今回は、その「救い」さえない。しかし、改めて、この失態を考えてみる。考えてみないと私が消えて無くなってしまいそうだから。

10年前のエントリでも書いたとおり、10年という時間が、私に「切れる」ことを忘れさせる。それは事実だ。しかし、その経験がありながらも、再び同じ失態を繰り返すのだから、10年という理由だけでなく、もう一歩踏み込んで、他の要因も考える必要があると思った。無論、10年後のために。

まずは、一ヶ月を残したパスポートをペラペラめくり、この10年の間の出入国のスタンプを集計してみた。パスポートを使ったのは全部で15回の渡航。そのうち、13回が出張のベトナム。残りはロシアと台湾が1回ずつの観光。見慣れたベトナムの出入国スタンプがいくつも並んでいるのを見ていて思った。至って事務的で、何の特別さを感じない。ロシアや台湾のスタンプを見て、私の気分はやや特別な感じになったが、同じパスポートを使うんでも、ベトナムの出入国は私にとって、全く特別な気分になってない。改めて自問自答してみると、沖縄のちょっと先へ行くぐらいの感覚。車で2時間の温泉へ行くぐらいの感覚と言ってもいい。ベトナムは、いつもだいたい同じ場所(「カンホアの塩」の専用塩田)へ行くのだから、初めて行く温泉よりずっと慣れている。

また、20年ぐらい前は必要だったビザは、十数年前から要らなくなっているし、勝手知ったるベトナムへは、航空券さえあれば行ける。そんな感覚にすっかりなってしまっている。航空券より、宿の予約より、どんなに大事な仕事の段取りより、パスポート。残り6ヶ月以上あるパスポートだ。その意識が私に欠如していた。無論、これは無意識の欠如なのだが、その無意識さは、「本来パスポートなんぞは必要のないものだ」と、心の底で思っている私の気持ちをあぶり出しているようにも思えた。しかし、実生活において、それは必要だ。きっとこれは私の中の、一種の社会性の欠如なのだ。

昔、観た寺山修司の映画(たぶん「さらば箱船」)のワンシーンを思い出す。40年近く前に観た映画なのにも関わらず。山崎努が物の名前を憶えることが出来なくなって、妻役の小川真由美に命じて、部屋の全ての物という物にその名前を書いた紙を貼っていったシーンだ。例えば、やかんには「やかん」と書いた紙を貼り、壁には「壁」と書いた紙を貼る。その紙が部屋中に貼りめぐらされ、神社のお札のようにヒラヒラしている。そのシーンを観て、名前、記憶、そしてその社会性とはどういうことか? を問いかけていたように感じた、私の記憶がある。

今の私の場合、「パスポートに期限あり」と書いた紙を10年間、部屋に貼り続けることにしよう。この社会性欠如の私が、そして何よりそんな私に振り回される関係者が三度困ることのないように。

2019年4月12日金曜日

9年もの梅干し


私は、毎年梅干しを仕込んでいる。だいたい「一年寝かせて食べる」を毎年繰り返しているから、一番長く寝かせた梅干しでも、だいたい二年ものということになる。しかし、「ひょんなこと」というのはあるものだ。こないだは、9年ものの梅干しを食すことが出来た。これまでで、そしておそらく将来を含めても、これが一番長く寝かせた梅干しということになると思う。

「カンホアの塩」の、かつてのユーザーに、紀州の梅農家さんがいた。毎年梅干しを作ってくれていたが、高齢のため、9年前を最後に引退された。紀州なので、無論梅は南高梅。皮は薄く、しっかり干されていながらも、ジューシーな仕上がりで香りがとてもよかった。塩気と酸味のバランスも私の好み。私が梅干しに使う梅は、こんな南高梅ではないので、同じようにはならない。でも、その梅農家さんの梅干しは、私の中のひとつの理想(お手本)だった。

それで、つい2〜3週間前、会社の棚の整理をしていたら、小箱に入った9年前のその最後の梅干しが出てきた。その梅農家さんが引退すると聞いて、多めに購入していたうちの一箱だけが残っていたのだ。

ポリ袋に入っていたので、水分はほぼ保たれていた。真っ赤だった赤ジソの色は茶色に、そして、塩辛さが減っていた。俗に「塩角(しおかど)が取れる」と言われるが、まさにこれがそうなんだと思う。また、梅干しを粒ごと食べて残った種。この種に梅干しの味がしっかり染み込んでいて、30分しゃぶっていても味が続いて、おいしい。梅の果肉の味が、この種に移ったせいで、果肉の酸味・塩辛味が柔らかくなった、なんてことがあるんだろうか?

慌ただしく過ぎていく日々の時間の中で、ひょんなことから9年前の梅干しを頬張ることになった。当然ながら、9年前に思いを馳せる。そして9年前からして今自分は、少しは何かが良くなっているだろうか、なんて考える。その「何か」はハッキリとは分からないけど、9年の間に少しずつ変化しているようには感じる。そしてこれからも変化していくと思うと、たまには、立ち止まって過去の自分の感覚を思い起こしてみるのも悪くないと思った。

2019年3月18日月曜日

野草とスルメの天ぷら


上の写真、ゴボウ、ふきのとう、ヨモギ、レンコン、雪の下、芹。ヨモギと雪の下は、我が家の庭から。ふきのとうと芹は、秩父の道の駅で買ったもの。

ヨモギがうまい。この時季、柔らかくて香りがいい。そしてほんのりとした甘味を味の奥の方に感じる。ふきのとうの苦味は春先の代表選手みたいなものだが、このヨモギのほのかな味も捨てがたい。ヨモギは天つゆがうまいが、何故か芹は塩がうまい。芹の香りをより感じられるからか。やさしく鼻腔を刺激する。歳を取るほど、柔らかな淡い味を好きになってるのを感じる。

写真の天ぷらの後、カミさんが出してくれたのは、スルメの天ぷら。初めてだ。


「へぇ〜」なんて言いながら食べたら、うまかった。熱いうちが、柔らかくていい。ふと、子どもの頃、駄菓子屋で、さきイカの天ぷらのようなものを売ってたのを思い出した。そんな記憶も相まって、うまいうまいと、やや食べ過ぎて、腹が膨れた。さて、こいつには、天つゆでも塩でもなく、菊之助さんの「カボ酢コ」がおいしい。(原材料:無農薬かぼす果汁・穀物酢・無農薬唐辛子・カンホアの塩) 本家のタバスコより酸味が柔らかい。毎年12月頃の発売で、もう在庫はないと思うが、2018年12月時点の情報は、コチラ


あー、どんどん春になっていく。気が早る。

2019年3月6日水曜日

ドブロクの失敗


先のエントリで、「この冬新たに、ドブロクの泡切り装置を作って」と張り切っていたが、失敗した。酸っぱくなってしまった。これまで、十数年、毎年仕込んできたが、こんなに酸っぱくなったのは初めてで、とってもショック。酒の酸味(乳酸)というより、お酢のような酸っぱさ(酢酸)が出てきてしまった。アルコール度数も去年より上がってない。

今年は2月の後半に、最高気温15℃〜20℃と暖かい日が続いた。その3日目。その前日まで順調に進んでいた味のモロミが、急に酸っぱくなってしまった。基本的なところでは、気温の上昇とともに、アルコール発酵が進みすぎ、酢酸が生成されちゃったんだと思う。

また、合わせて雑菌の繁殖もあったのかなと思う。なぜなら、過去にこのぐらいの気温でもおいしくなったことがあったからだ。完成まであと一週間というタイミングだったので、それら雑菌が繁殖する前に、アルコール度数がもっと上がっていたら、こんな失敗にはならなかったのかも知れない。なので、雑菌の混入をもっと防げたら、このぐらいの気温の上昇でも、大丈夫だったのかも知れないとも思っている。

まー、嘆くのは程々にして、こういうときこそ、次回の成功に向けて、冷静にその原因を整理して考えねばならない。無論、来年の成功のために。

この失敗の原因は、大きく分けて2つの面があると思っている。

ひとつは、温度管理の問題。もうひとつは、雑菌の混入の問題。この2つは表裏の関係だ。温度管理がしっかり出来ていれば、多少雑菌が入っても大丈夫だったろうし、温度管理が厳密に出来なくても、雑菌の混入を抑えられれば、大丈夫だったろう。全てうまくいくに越したことはないが、現実的に出来る範囲で、全体的にうまいくよう具体的な対策を考えなければならない。

1.温度管理と仕込み期間

ドブロクの仕込みから完成までは、およそ一ヶ月。雑菌の繁殖を極力抑えるため、その一ヶ月を一番寒いときに設定するのが望ましい。今年は1月末から2月末に行った。仕込み期間だけが失敗の原因ではないとは言え、一番低気温の、1月初めから2月初めの一ヶ月に仕込むことが、やはり望ましい。この期間だと、気温が20℃になることはまずない。

2.泡切り装置

先のエントリで書いた「ドブロクの泡切り装置」。これは今年新たに始めたことだったので、疑ってみた。これで確かに泡は溢れなくなった。溢れなくなったが、気になることがひとつあった。

毎日朝夕で2回、モロミを攪拌したが、その度に泡切り装置の羽を止めて、装置を瓶からはずした。当然ながら、装置の羽に、泡を切ったモロミが付着していた。私は、その少量のやや干からびたモロミをモッタイナイと思い、瓶のモロミに戻していた。無論、空気中には菌がたくさん浮遊している。少量とは言え、粘性のあるモロミが付着した羽が1秒間に1周回り続けていると、ハエ取り紙のように、多くの空気中の雑菌を集めていた可能性はなかったか。それを瓶に戻していたとしたら、それはわざわざ雑菌を加えていたことになっていなかったか。

羽を止める度に、羽に付着したモロミを綺麗に水洗いすること。熱湯消毒まですればなおいい。また今回は、羽の素材は(きれいに洗った)子供用の定規だったが、それをより清潔を保てる素材に変えるのも一手かも知れない。ゆめゆめ、羽に付着したモロミを瓶に戻すことはしない。

3.麹の選別

今年を含めこの数年、同じ味噌蔵さんから同じ米麹を購入していた。最初は気がつかなかったが、蒸し米と水と混ぜ合わさった真白なモロミの中に、黒っぽい粒がいくつも混じっていた。三段仕込みなので、段階的に瓶に入れる「蒸し米+米麹+水」の量が増えていくのだが、その黒っぽい粒も増えていって気になった。結局、留め添え(仕込みの最後段階)のときには、20〜30個ぐらいの黒っぽい粒をモロミの中からひとつひとつ取り出したが、おそらく全部は取り切れていなかった。もう数年間、同じ味噌蔵さんから購入していたのだが、こういうことは初めてだった。来年は、仕込み前に、色の変わった米麹を選別する。

以上3点を覚え書として、ここに残しておいて、来年の仕込み前に読み返す。

今年は、気張って1月に「泡切り装置」を作ったが、それが原因で仕込み期間が遅れた。そして、上に書いた通り、その「泡切り装置」自体が雑菌を集めていたかも知れないと思うと、「まさか?」の展開だった。自ずと来年の仕込みに気合いが入る。

2019年2月19日火曜日

ドブロクの泡切り装置


先週、自転車をこぎながら、近所の公園の梅の香りを嗅いだせいか、春が何となく近づいてきたような気がする今日この頃。今年は1月末にドブロクを仕込んだ。

何度もこのブログで書いてるが、夏の一番暑いとき、梅干しを干し、冬の一番寒いとき、ドブロクを仕込む。うだるような暑さの下、「この暑さだからこそ、梅干しがよく乾く」。そして、冷え込む1月〜2月に、「この寒さだからこそ、低温でドブロクが仕込める」。こう思うことで、暑さと寒さに向き合える私です。

ということで、今はドブロク仕込みの真っ最中。もう十数年、毎冬一回ドブロクを仕込んでいるが、毎回変えていることがある。原材料を固定して、仕込み方を変えてみたり、仕込み方を固定して、原材料を変えてみたり。今年は、主に後者で、仕込み方を去年と同じにして、原材料を変えてみた。去年まで3年連続して使っていた米(イセヒカリ)の生産者さん(農家)が栽培を止めてしまい、入手出来なくなってしまったためだ。イセヒカリは、何となく酒米に近い感じ(デンプン質が多い)がしてたので、ちょっと残念だが、その分、今年は精米歩合を83%から80%に上げてみた。

さて、このエントリでは、タイトルにもしている「ドブロクの泡切り装置」について。

ドブロクを仕込む私たち素人には共通した悩みがいくつかあると思う。原材料から温度(室温)調整などいろいろある中で、泡対策もあるんではなかろうか。発酵が進んでくると、米のデンプンが麹の酵素によって糖化された糖を、酵母がアルコールと炭酸ガスにする。モロミは多少の粘性があるので、炭酸ガスが出ると泡が水面にボコボコ出来る。それが続くと、泡が積み重なっていき、仕込んでいる瓶からあふれ出る。一日中、面倒をみれれば(2〜3時間に一度など)、その都度泡を切って、あふれ出るのを防げるが、現実はそうはいかない。

ちなみに去年までは、泡立ってきたところで、8割方入っていた瓶の3分の1ぐらいを別の一回り小さい瓶に移した。これで、2つの瓶にモロミが、半分ぐらいずつ入った状態になり、朝夕一度ずつ。瓶の中で立った泡を切れば、あふれ出なくなる。これでいいと言えばいいのだが、狭い我が家で瓶2つは場所をとるし、一番気になったのが、2つの瓶で、若干味が変わることだ。だいたい大きい方がおいしい。モロミの瓶(容器)は量が多い方が、気温の変化による温度の上がり下がりの幅が小さくなるため、発酵が安定するんではなかろうか。二つの瓶の味の違いは、それが原因なのではないかと思っている。だから、出来たら、最後までひとつの瓶で仕込みたーい。

何とか最後までひとつの瓶で仕込めないものか?

私は、20年ぐらい前に酒蔵さん(千葉・寺田本家)へ見学に行ったときのことを思い出した。モロミが入った大きな丸いタンクには、その中心の上にモーターが据え付けてあって、それを軸に半径の線に付いた羽が、水面スレスレのところをグルグル回っていた。少しでも泡が立ってくると、その羽が泡を切る。切り続ける。その後、直接目にはしていないものの、どうも他の酒蔵さんも、これと同じような装置を使っていることも知った。

この十数年の間、私は瓶を移す度に、「あー、こんなのがあったら、便利だなー」と思っていたのだが、今年1月に、「よーし、作っちゃえばいいんだ」と思い立った。実は、「こんなのがあったら、便利だなー」というとき、「それなら作ればいい」という発想をいつもしていた知人が、1月に亡くなった。十数年間、知識としては知っていながらも、今年、私が具体的な行動を伴う発想をしたのは、草葉の陰で彼が私の背中を押してくれたからだと思っている。そして、簡単な設計図のメモでイメージを作った後、ジョイフル本田へと向かった。

そして、出来たのが、コレ。回転してます。(金ちゃ〜ん、出来たよ〜)
十字に組んだ胴縁の中心に穴を空け、その穴にモーターの軸を通してある。胴縁の裏にビスをもんで、瓶に固定した。



中心にあるこのモーター(1分間に60回転)が1,814円(税抜き)とやや高価ながら、費用は3,000円には収まった。


私は大工仕事は好きなのだが(これも故知人の影響大)、こうして動くモノをあまり作ったことがなかったので、やや不安だったが、何度か調整を繰り返しているうちに、水面から1センチぐらいの高さを羽が回るようになった。だいたいこういうのはそうなんだけど、次に作ることがもしあれば、もっと上手に作れる気がする。いい経験になった。先の動画では、泡を切ってる様子までは分からないので、モーターのスイッチを止めて撮った写真が下。


子ども用の定規を流用した羽、それをバルサ材で固定しネジ留めしている。黒い部分は薄く柔らかいシリコンゴムのシート。ポイントは、モーターの軸が空回りしないようにすること、バルサ材を含めた羽が水面と平行の状態をキープしないとならないことなど。この羽はおよそ半径になってるが、平行状態をキープするには、直径にした方がバランスを取りやすかったな。それは来年の検討要素だ。

で、この羽にモロミが付いている。1周1秒の速さで回っているので、泡を切る瞬間はよーく観察しないと分からないが、泡が羽の高さに至った瞬間に切ってくれている。また、これは3日前のこと。今はもっと活発に泡立っているので、羽に付着するモロミの量が増えているが、今のところ順調。このドブロクは、あと一週間から10日ぐらいで完成なのだけど、まずは何とかそれまで壊れないでくれたら嬉しい。そして、来年以降も使えたら、もっと嬉しい。

素人の私でも、こんな装置作れちゃうんだよ(だから、貴方も・・・・)、ということを言いたいのだが、実は、先週末、ドブロク仲間にこの話をしたら、「もっと簡単な方法があるよ」と教えてくれた。それは、例えば、下水道に使う塩ビ管のぶっ太いの、または、空調や排気に使うダクトなど、太い筒状のもので、ドブロクを仕込んでいる瓶の口の径と同じぐらいの筒を瓶のフチにのせる(出来たら落ちない程度にちょっと内側に)。瓶のサイズにもよるが、私のように擦り切れ10リットルぐらいの容量だと、高さは20〜30センチぐらいか。これ以上説明は不要かも知れないが、これで、泡が積み重なっても筒の高さ分はこぼれない。私は実際にやってはいないので想像だが、気になるのは、瓶の口と筒の接合部分かな。ここがズレたらもちろん、隙間があると漏れるかも知れない。でも、モーター式泡切り装置より、ずっと簡単だ。

最後にひとこと。

これも以前書いたが、私が毎冬ドブロクを仕込むのは、自分で作ると(気のせいか)いくらかおいしく感じるから・・・・、というだけではない。それよりずっと大きな理由がある。私が、毎年必ず、原材料や仕込み方の何かを変えるのは、「少しでもおいしくするには」とそれなりに考え試みているからだ。その冬に完成すると、「次は、どうしよう」と考え始める。これを繰り返していると、市販されている(プロの酒蔵さんが作った)おいしいお酒を飲んだとき、私は「この味はどうしてこうなっているんだろう?」と具体的に考える。そして、自然とその酒蔵さんへ思いを馳せることになる。酒好きの私にとって、下手なりに毎冬ドブロクを仕込むのは、それによっておいしいお酒への尊敬・感謝の念がより深くなると感じ、それを心地よく思っているからなのです。

2019年2月6日水曜日

「半生(はんなま)白菜キムチ」のおいしさ


おそらく30年も前のこと。ある韓国人の演歌歌手(女性)が、日本のコンサートホールでたくさんの観客を前に歌っている姿が、日本のテレビで放映されていた。数曲歌った後、流ちょうな日本語で、「日本の歌はワサビの味、韓国の歌は唐辛子の味。ワサビはツンと辛い。そして韓国の唐辛子は甘いのよ〜。本当よ」と語っていた。

その後、韓国の唐辛子がある度に、私は味見するのがクセになった。韓国の唐辛子は、総じて日本の唐辛子より辛くない。そして、その抑えられた辛さの奥にあるほんのりとした「甘さ」。それを感じる度に、彼女が言ってた「甘いのよ〜」を思い出す。

今や白菜キムチは、季節を問わず、日本のどこのスーパーでもある。そんな普通に市販されている白菜キムチを食べると、辛さはもちろんながら、甘味が結構ある。でもこの甘さは「辛さの奥にあるほんのりとした甘さ」ではなく、砂糖などの強い甘味だ。また、化学調味料らしき旨味も強い。これでは、あの演歌歌手が語っていた「甘いのよ〜」を、なかなか感じることが出来ない。

さてさて、私は「カンホアの塩」を作っているのだが、3種類ある「カンホアの塩」の中に、【結晶のまま】というのがある。天日で作っているので、海水を濃縮する温度は最高で40℃ぐらい。このぐらいだと、塩がゆっくりと結晶するので、その間に粒が育って、結晶の粒が大きくなる。大きいのだと4〜5mm。その粒のままが【結晶のまま】なので、これは「カンホアの塩」の原型に当たる。自然に結晶した立方体の粒を、私は美しいとさえ思う。ただし、このままだと溶けにくい。だから、ほとんどは【結晶のまま】の粒を石臼で挽いて、粒の小さな【石臼挽き】というのになっている。

需要からすると、溶けにくい【結晶のまま】は商品にしなくてもいいのだけど、私としてはどうしてもこの結晶の姿を見てもらいたくて、【結晶のまま】を商品としてデビューさせている。そしてこの【結晶のまま】が、ほんのりとした甘さの日本の白菜キムチに出会った。新潟の農家、「ひかり畑」が作る白菜キムチ(ひかり母さんが育てたキムチ)だ。


日本の白菜の塩漬けは、葉の隙間まで塩をして重〜い重石をのせてしっかり漬け込むが、この白菜キムチは、半生(はんなま)な漬かり具合で届く。私の感覚では、「浅漬け」よりも「半生(はんなま)」という表現がふさわしい、いわば半サラダ感覚で、歯ごたえが実にいい。ひかり畑さんが自分たちで育てた食感のいいキムチ用品種の白菜が使われている点も見過ごせない。おそらく日本では鍋などでトロトロになった白菜のイメージがあって、柔らかめ。韓国では、キムチに歯ごたえを求めるので、やや硬めなんだと思う。白菜の品種もこの歯ごたえに繋がっている。この白菜キムチに、溶けにくい「カンホアの塩」の【結晶のまま】が使われている。大粒の【結晶のまま】は溶けにくいが、その溶けにくさが故に浸透圧がゆっくり進み、半生状態で仕上がる。陰ながら、これもこの歯ごたえに繋がっている。

そして、肝心な原材料は以下のとおり。


和梨の柔らかい甘さと香りに、魚醤・アミエビ・煮干し・昆布などの旨味。玉ねぎ・にんにく・しょうが・小麦粉・砂糖・ねぎ。砂糖も入っているが、(多い順の原材料で)塩の前なのでかなり少量だ。砂糖の強い甘味や化学調味料の強い旨味とは無縁の白菜キムチ。

辛さをベースに、様々な柔らかい味が互いを尊重し合いながら、一体となっている。特に、和梨の柔らかな甘みと唐辛子の「辛さの奥にあるほんのりとした甘さ」のハーモニー。そして、抑えの効いた複雑な旨味。こういう味でないと、「カンホアの塩」の味も活きてこない。この白菜キムチを、半生の食感でバリバリ食らう。

それにしても、この半生の食感。本場、韓国ではどうなっているのか?
ひかり畑さんの話だと、

「家庭のキムチは年に1度、1年分のキムチを漬けるため、白菜の半生感はあまりなく、塩も少しキツメに漬けているのですが、韓国の食堂のキムチは、日々漬けているので塩味も少なく半生状態でのキムチを食べる事ができます」

ひかり畑さんは、この食堂のキムチを目指している。そして、この手の白菜キムチは、日々半生状態で旬の白菜を漬けることが出来る、この短い時期ならではのものであり、さらに漬かり始めだからこその食感なのだ。

さて、届いて短い間だけのシャキシャキの白菜キムチ。数日たった今は、少しずつポリ袋の中で漬かりが進んでいる。もう少しすると、乳酸発酵の酸味も出てくるだろう。しっかり漬かったタイプが好みの方は、冷蔵庫の中で好みの頃合いまで寝かせたらいい。こうして、届いた当初はシャキシャキの食感と酸味が差ほど出ていない味を楽しみ、その後は、少しずつ進んでいく食感の変化と味を楽しむ。漬物は生き物のよう。この白菜キムチの第二幕も楽しみだ。

「ひかり畑」さんのサイトはコチラ。
http://hikaribatake.com/

備考:私がこのサイト内の通販ページで白菜キムチ1kgを3個注文した際、送料が3倍になってカウントされました。でも、過剰分は後から返金されたので、念のため。webのシステムはややこしいからね。詳しくは、ひかり畑さんへ直接問合せてください。

2019年1月25日金曜日

VARよりベトナム代表


昨日の試合での日本のスタメン、私の予想はすっかり外れて、出場停止のFW武藤以外、サウジ戦と同じ。これは、次戦の出場停止のリスクをあえて負った森保監督の「走れるところまで、トップスピードで走るぞ」というメッセージに映った。しかし、終わってみれば、私にとっては、日本が勝ったというよりは、ベトナムが負けちゃった試合だった。つまりは、ちょっと残念。

ベトナムはGKを含めよく守った。そして、日本より、がむしゃらによく動いた。いくつかの思い切ったミドルシュートもよかった。前半、日本のGK権田とDF吉田の連携ミスによるベトナムの大チャンス。そこで、ベトナムは点を取れなかった。あれが痛かった。ああいう相手のミスから点を取れると、日本側の心理的なダメージも大きかったと思う。そして、最後は、やや動きが鈍くなっちゃったかな。日本には「固く勝ち切る」感覚があったろうから、日本としては、「うまくいった」ともとれるが、そんな日本に対してのベトナムチームの、がむしゃらなプレー。よかったな。

思い出すのは数年前。たしかザッケローニ監督の日本代表が、国立競技場でベトナム代表と親善試合を行ったことがあった。スコアは、1-0で日本だったが、あのときのベトナム代表もよかった。あのときは、昨日の試合ほどベトナムにチャンスはなかったと思うが、チーム全体で献身的に本当によく動くチームだった。その延長線上に今回のベトナム代表があるようにも映った。

それにしても、結果的にVARで勝負が決まっちゃったのは、何かスッキリしない。特に堂安へのファウルの際、レフリーはいったん流していて、しばらくした後にVAR。流さず、すぐさま笛吹いてVARならもっとスッキリしていたように思うのだが。レフリーも人間なので、迷うことはあろうが・・・・。よく片方にPKが与えられると、その後レフリーは他方へPKを与えやすくなると言われるが、それと似た力学がここでも働いたようにも思うのは穿った見方か。

ところで、吉田の幻ゴールのとき、ベトナム選手は誰一人ハンドをアピールしてなかったのではないか。また、堂安が倒れたとき、堂安はそれほど相手のファウルをアピールしていなかった。(少しはしていたが、決して見苦しいほどではなかった) これらは、両チームともにスマートで、とてもよかった。

冒頭は、今朝のホーチミン市発行の新聞の二紙の一面。

左の見出しは、「最後の1分までの献身」。
右は、「戦い終わって、上を向こう」。

真っ直ぐに、ベトナム代表の健闘を讃えている。ベトナム国民全体として「大健闘」という評価なんだと思う。『次はワールドカップ初出場だぁ〜』と、今頃ベトナムではなってるに違いない。

日本は優勝まであと二つ。次はイラン。中3日で、こっからイエロー累積が消えることもあるから、激しい試合になりそうだ。日本には、ベトナムのためにも、優勝してもらおうじゃないか。

2019年1月24日木曜日

きょう夢の対決、ベトナムvs.日本

『ベトナムのサプライズを待っている』
いよいよ、日本時間で今夜、ベトナム対日本。私にとっては、夢の対決だぁ〜。

もう20年通い続けているベトナム。通い始めた頃、ベトナムの人たちは「何とかタイぐらい強くなれないかなー」と思っていた。ベトナム戦争終戦は1975年。南ベトナム・アメリカ側だったタイは、その戦争で潤った。だから、ベトナム人にとって、「東南アジアの雄」とも呼ばれるタイの経済発展を見る目は、日本人とは違う。「何とかタイぐらい強くなれないかなー」という思いも、そう単純なものではない。それが、今回のアジアカップという公式戦では、タイも残れなかった準々決勝まで進んだ。そして、今やワールドカップ常連国の日本と当たる。この1〜2年でグッと強くなったベトナム代表は、何しろ選手が若い。そして、勢いがある。去年8月、アジア競技大会では、このベトナム代表チームは、U-23の日本代表に1-0で勝っている。無論、パク・ハンソ監督の指揮・采配も大きい。彼は日韓ワールドカップ、ベスト4の韓国代表監督ヒディング氏の下でコーチをしていた。現役時代は、木村和司氏いわく、「よく動く選手だった」。

この10〜20年のベトナムの経済発展もスゴイ。10年ぐらい前、建設ラッシュの町中を歩いていて、ふと私の幼少時代(1960年代)の東京下町を思い出すことがあったが、今はもうそれをすっかり通り越している。ベトナムの人たちもそれは自覚していて、その勢いと今のベトナム代表チームの勢いを重ねてみてる人がたくさんいると思う。

ちなみに、ベトナムのサッカー観戦の熱は、日本の比ではない。例えば、特にサッカー好きでもない「カンホアの塩」の現地担当者でも、プレミア・リーグの首位は今どのチームかを知っているぐらいだ。そのベトナムにとって、いよいよ自国の代表チームが、アジアカップという公式戦で強敵ヨルダンを圧倒しながら、PKで勝っての準々決勝なのだから、もー、並大抵の盛り上がりではない。これで日本に勝ちでもしたら、国中、狂喜乱舞となるのはいいが、怪我人が出やしないかと心配になるぐらいだ。

周りの人から私は、「どっちを応援するの?」ときかれる。が、どうしても私には「どっち」というふうには思えない。日本代表にも愛着はあるものの、国民の期待を背にがむしゃらに頑張ってる若いベトナム代表も応援している。私にとって、この準々決勝はまさに夢の対決であり、何年先までも語り草になるようないい試合をしてもらいたいと、心底思っている。

さて、きょうの試合、ベトナムは中3日、日本は中2日で迎える。ベトナムは中3日とは言え、日曜日に延長含め120分やっている。しかし、選手のほとんどが20歳前後と若いので、回復力は日本より上だろう。一方、日本も、月曜日のサウジ戦ではかなり消耗したはずだ。その消耗と、イエローもらってる選手が何人かいるせいで、スタメンの半分は、サウジ戦から変わるんじゃなかろうか。日本はベトナムに勝つと次はイラン・中国の勝者だが、日本はそこまで考慮する気がする。若いベトナムは、怪我のない限り、前戦のメンバーがそのままスタメンなのではなかろうか。セットプレーで1点取られたものの、守備はとても安定してした。詳しくはないが、ヨルダン戦はベストメンバーだったはずだし、私の勝手な印象として、リザーブの選手を含めたスタメンのバリエーションまでの余裕はないのではなかろうか。

ベトナムからすると、1-0で勝つか、延長含め0-0または1-1でPK戦に持込みたい。ヨルダン戦のように5バックで守りに守って、何とか取った虎の子の1点を死守する。それはまるで月曜日、日本がサウジの攻撃を守りに守り切ったように。また、ベトナムはヨルダン戦、20〜30メートルから果敢にミドルシュートを何本も打っていたが、あれは日本の脅威になろう。ただちょっと気になるのは、ベトナムの若さがマイナスに働くことだ。例えば、前半にベトナムが先取点を取ると、残り時間たっぷりの中、若い選手たちが「勝てるぞ」と思っちゃったりすると、油断に繋がる。これはまるで、先のワールドカップのベルギー戦の日本のように。だから、理想を言えば、ベトナムは前半は0-0で折り返し、後半、それも残り僅かの時間帯に1点とれたらベストだ。0-0で終盤を迎えると、日本の方は焦ってくる。そこにベトナムのチャンスがあるかも知れない。そしてPK戦になれば、前戦でも勝ってるし、今の勢いのあるチームにとっては、イケイケの雰囲気になるだろう。

逆に、そんなシナリオにはしたくない日本からすると、なるべく早い時間に先取点を取りたい。もしも先取点を取って、1-0で後半20分もすると、攻めるしかなくなったベトナム・ディフェンスの裏狙いやカウンターで、日本はダメ押しの2点目を狙う。高さで劣るベトナムには、セットプレーは大事だ。また、サウジ戦から半分スタメンが変わると、攻撃の起点は誰になるだろう? 試合の流れが攻撃的になると、柴崎あたりが少し前気味になりながら絡んでくるか。

まずは立上り、絶対に先取点を与えたくないベトナムが、どのくらい守備的に入るかが最初の見どころだ。ヨルダン戦では、そんなに守備的ではなかったので、きょうもそんなに守備的にはならない思うのだが。日本に対しての戦術もあろうが、ベトナムには、いつもの自分たちのプレーを思い切ってしてもらいたい。その上で、前半0-0で終わると、若くて勢いのあるベトナムは、試合の中で、益々自信を深めながらプレー出来るだろう。そして、後半勝負。結果として、PK戦になったら、精神的にはベトナム有利と思う。そんなベトナムに対して、果たして日本は、先取点を取れるか?

日本時間きょう22時キックオフ。この夢の対決が待ち遠しい。