2019年8月30日金曜日

新素材の前に


前回のエントリで、プラスチックに替わる新素材が開発されることを想像した。夢見がちで書いたが、それには結構な時間がかかりそうだ。となると、その前に、今あるプラスチックを減らすということがある。順序として、こっちが先だ。

冒頭の写真は、栃木県が、「プラごみ『ゼロ宣言』」をしたという新聞記事。(2019年8月28日夕刊、東京新聞)画像をクリックすると拡大します。

「取り組みとして、レジ袋やプラスチック製スプーンなどが不要な場合は断り、分別して捨てることを県民に呼びかける。小売店などには、客への声かけやマイバッグ持参などを要請したり、企業や農業者には、紙など再生可能な資源への代替を求めたりする」

いいことだが、内容に特に目新しいことはないので、この記事を読む限りでは、この道のりはなかなか険しそうに感じる。だが、海のない栃木県が宣言したという点は、見過ごせない。記事にも県の発言として「海洋へのプラごみの流出を削減するため・・・」と載っている。プラスチックの海洋汚染は、人間が住む陸地で始まる。

左は、今年6月に東京新聞に載った、「マイクロプラスチック」と題された特集記事の一部分。(クリックすると拡大します) 右側の水色の囲み記事「今こそ循環経済へ転換を(東京農工大教授の高田秀重氏)」を読んでもらいたい。この特集記事のタイトルはこの画像外の左端に大きく「マイクロプラスチック」なのだが、マイクロプラスチックの問題というよりは、今のプラスチック社会に対する問題提起だ。日本では、プラごみの約4分の3が焼却処分されていて、温暖化を進めている。(日本も欧州のように)バイオマスプラスチックへの転換やプラスチックを使わない生産・流通の仕組みをつくらないと、産業自体が成り立たなくなる、という内容。「海洋に漂うマイクロプラスチックで、魚が・・・・」とはまた別の視点だ。


この高田氏の指摘は、「プラごみは(自治体の規則通りに)しっかり分別して捨てれば、海に流れ込むことはない」では極めて不十分で、それでは温室効果ガスの放出を促してますよ、ということ。地球温暖化問題については、諸説あるのかも知れないが、プラごみの焼却処分は、地下から掘り出した石油を燃やし続けているようなものだと。その意味では、車の排気ガスの問題と並列の関係にある。

一言でプラスチックと言っても、かなりの種類があるため、プラごみのリサイクルはとても難しく、焼却するか土に埋めるかのどちらからしい。比較的プラスチックの種類を特定しやすいPET(ペットボトル)も、リサイクルするにはそれ以上のエネルギーがかかるとも聞いたことがある。一時期、ペットボトルのリサイクルでフリースという冬物の生地が流行ったことがあるが、あれはかなり細かなプラスチックの繊維のため、洗濯時に下水に大量の細かなプラスチックが流れ出て、その細かさ故に、水道局のフィルターを通り抜ける(海に放出される)、とも聞いた。

人間は、目先の楽な方、便利な方に手が出る。日々忙しいからとコンビニで弁当を買って、ガサばるほどのプラ容器を捨てる。ほんの50年ほど前、私の子供の頃はペットボトルはなく、ガラス瓶だった。そのガラス瓶は当たり前に、洗浄後再利用されていた(リユース)。また、惣菜屋さんで佃煮を買うときは、量り売り。三角にした経木(きょうぎ)の容器に入れて、それを紙で包んで輪ゴムでとめてくれた。ときどき、その三角の隅から汁がちょっと漏れたりしてたが、当時はそれを不都合とは全く感じなかった。今、ガラス瓶に戻すと、重いとか、割れると危ないとかになるんだろう。経木に包んでは、不衛生とか、いちいち量ってられないということになるんだろう。そうなると、結局は、先の栃木県の「プラごみ『ゼロ宣言』」のように、ありきたりなことを地道に進めるしかない、となるのか。

目先の便利や楽には、回り回ってそれなりに負荷がかかっている。その便利や楽を皆で続けたら、大変な負荷になり、それを取り戻すのは至難の業となる。土に埋めるは論外としても、燃やせば温室効果ガス。海に漂うマイクロプラスチックは、もはや回収出来ない。そう思うと、すこぶる重〜い気分になってきた。これら目先の便利や楽を、危ないぐらいに負荷がかかっているからという理由で、人間は超えることが出来るのだろうか。

プラスチックに替わる新素材。生分解する新素材は、白馬にまたがった王子様か。仮にだが、今のプラスチックが全て新素材に替わったとしても、その絶対量の多さからして、それで解決とはならない気がしてきた。

出口を探したい。

先のエントリ「新素材への道のり」の冒頭で、「(食べ終わった)コンビニの弁当や麺類のプラスチック容器のガサを見ると、げんなりする」と書いた。私は、自分が感じたその「げんなり」を尊重したい。その「げんなり」を、一時的に通り過ぎる感情としてではなく、ひとつの「嫌なこと」として。きっとこの「嫌なこと」が積み重なって、「すこぶる重〜い気分」になるからだ。例えて言えば、添加物いっぱいの食品を出来るだけ避けるようなこと。この点、うちのカミさんもうるさいのだが、私や家族の食事、子供に作る弁当も含め、多少不便でも(手間がかかっても)、食品添加物を出来るだけ避けるのは、それを「嫌なこと」と感じているところが出発点になっている。

バラ色の人生なんかありゃしない。今感じる「げんなり」を流さず、「嫌なこと」の感覚を抱えていこうと思う。小さいながらも、それが今の私の出口だ。

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