2019年11月12日火曜日

「釜玉うどん」の反省


東京も最近、グッと冷える日があって、そんな日のランチに、仕事場近くの丸亀製麺へ、うどんを食べに行った。

冷えるのだからと汁物を目指して入店したものの、注文したのは、「釜玉うどん」。列に並んでいる間、室温が暖かいせいか、まだまだ冬ではないのだからと、汁無しの暖かいうどんに気変わりした。

で、私は「釜玉うどん」と注文したつもりだったのだが、出てきたのは、それに(単純に)明太子がのってる「明太釜玉うどん」だった。メニューの写真で見た「明太釜玉うどん」は、明太子の赤色が毒々しいと感じたので「明太子ない方がいいな」と判断した経緯が私の中にあったので、出てきた「明太釜玉うどん」を見て、私は自信を持って「明太子がのってないのを注文したんですけど」と言った。

それを言った瞬間、私は「しまった」と思った、が遅かった。

お兄さんは、何事も無かったかのように、「明太釜玉うどん」の中身を全部ゴミ箱にボンと捨てた。無論、昼時は忙しく、数人が私の後ろに列を作っていた。でも私は、余計な明太子を取り除いてくれるだけでよかった。うどんの上に、ちょっと明太子が残っていようが、そのぐらいどうでもよかった。でも、捨ててしまった後から、何を言っても始まらない。

改めて出してくれた、「釜玉うどん」をテーブルについて食べてるときに撮った写真が冒頭のもの(by ガラ系のカメラ)。この「釜玉うどん」は何かを私に語っているように感じた。あのゴミ箱の中の「明太釜玉うどん」に、私はとても悪いことをしたと思い、悲しくなった。そしてこの「釜玉うどん」を食べながら、反省した。

それをサッと捨てるのは、店のマニュアル通りだと思う。私にとって、それは簡単に想定出来た範囲だったじゃないか。だから、「しまった」と思ったのだ。にも関わらず、きっとそのときの私の中では、「おれは間違っていない」といった、持つ必要のない意地があったからこそ、自信を持って「明太子がのってないのを注文したんですけど」と言葉に出たのだと思った。その余計な意地がなければ、きっと「明太子のってないのを注文したので、その明太子をとってくれたら、それでいいよ」と言ってたハズだった。

こういうことは、その一瞬に試されるものだ。
「私にはきっと成長の余地がある」。
きょうは、そうポジティブに思うようにしよう。

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