ちょうど一年ぐらい前に、当時92歳の母親(2024年11月逝去)の介護や家事をしながら、話しをしていたときのこと。「こんなになっちゃって。でもこれが自然だから」と彼女は言った。「こんなにって、こんなもんじゃないの〜」と私。
かかりつけの医者からは、「痴呆も少しずつ進んでますね」と言われていたが、彼女が言った「こんなに」の意味は、「身体が思うように動かない」ということだ。戦後の高度経済成長期を、どっぷり行動的に生きた彼女には、頭はまだしっかりしているという自負も感じられた。手すりや壁に頼りながら、ゆっくりとゆっくりと何とかひとりで歩いていたが、ちょうどこの頃から車椅子を使うようになっていた。普段一緒に住んでない私にとって、ひとりで過ごす時間が長い彼女の状態を知りたいという思いがあって、あえて少しは、ひとりで歩いてもらっていた。
「こんなになっちゃって。でもこれが自然だから」
この「自然」という言葉がとても気になった。歳をとって、身体が思うように動かなくなっていく。それは自然なんだということだが、そこには、「どうしても、自分そして(医療を含む)自分の周りの努力があってもなお・・・・」という「どうにもならない感」があった。またそれには、どこかで何かを諦めているような脱力感も感じた。自分が生まれ育って体力も増し、経験が増えていくことも「自然」だが、老いて身体が思うように動かなくなっていくことも「自然」だ。若い頃は、諦めないことが様々な経験を積むことになるが、老いてくると、諦めた方がいいと判断することが増えてくる。だから、いわば「自然な意識」の中で、自分主導的に「諦める」。
現在63歳の私は、一年前の母親のように諦める意識はまだ薄いものの、日常生活の中に、こまごまとした「諦めるべきこと」があるような気がしてならない。30代ぐらいまでのうちは、自分が意図したことは出来るだけ諦めないことを目指してきたが、今は諦めた方が、結局は自分にとって「いいこと」に繋がることもあると思えるようになった。そして、むしろ適格な諦めが必要だと感じることが多くなった。例えば、子育てだって、ある程度大きくなった子らには、親の干渉は最小限がいいし、仕事だって、やり過ぎてもいいことはない。何か私はその「分水嶺」の周辺にいるような気がしている。
分水嶺を越えると、「霧が晴れるように、新しい景色が見えてくる」なんてことをついつい望む私がいる。しかし、それは欲張りだ。母親が、そこまで言い及んでなかったのは、全くもってその欲がなく自然だったのだ。彼女のその心境にまだ追いつけていない。ただただ生き続ける。それがいい。
2025年7月24日木曜日
母親の自然
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