2011年9月26日月曜日

蛇のはなし〜その2:マムシを食うこと

今回のエントリは、前回「蛇のはなし〜その1:蛇の根回し」の続きです。まだ前回のを読んでない方は、後からでもそっちもお読みになることをオススメします。

さて、20年ほど前の滋賀県は朽木村での話。

田んぼの草取り中に、蛇にからまれたんだが、そのときの記憶で一番私の感覚に残っているものは、「シャー、シャー」の声でもなく、私に向かって思いきりのばされた先割れの舌でもない。それはスネにスリスリされたときの皮膚の触感だ。それは体温がありそうで冷たく、独特の少しのザラザラ感をともなっていた。

蛇が水面でも地面でもはうとき、おそらく頭が通ったところと同じ場所を首、腹、尻尾と全身が通っていく。私のスネに絡まってきたとき、頭から尻尾の先まで、その蛇の全長を感じたのはそのためだったと思う。

当時私が住み込んでいた山小屋へは、車が通る道から山道を10分ほど歩いたところにあった。そこでは24時間車の音が聞こえない。その山道の前半の半分はゆるやかな登りで、両側に草が茂っていた。天気のいい日は、黒く細長い蛇がよく甲羅干しをするかのように横たわっていた。田んぼにいたのと同じ種類の蛇。それが多いときは片道で10匹ほど横たわっていた。最初のうちは木の枝などで追い払いながら通っていたが、だんだん面倒になって、またぐことにした。そうこうするうちに、またぐこともだんだん日常になっていった。

ある夏の日の深夜、その山小屋で、私が熟睡していたときのこと。

布団の上に仰向けに寝ていたが、暑かったので掛け布団から両足が出ていた。出していたその右足のスネに触るものがいた。先の田んぼの草取りのときの感覚が一瞬のうちによみがえり、蛇と分かった。熟睡中だったが、最初のそのタッチで頭だけはスッキリと目覚めた。でも、田んぼのときと同じように、「ここで動いちゃマズイだろうな」という感覚になると同時に、全身の力が抜けた。蛇は私の右側から右足のスネの上を通り、足の間を直進し、左足のスネの上を通って私の左側へとゆっくりと抜けていった。

このときは田んぼのときと違い、真っ暗だったせいか嫌な感じだった。その触覚は田んぼのよりやや太かったので「冷たさ」があり、重みも感じた。そしてザラザラ感がよりあった。長さは同じぐらいだったが、田んぼのと違う蛇ということもすぐに分かった。私は指一本、全身のどこも動かさずにそれが去っていくことを待った。間違えなく、全身のどこも動かさないためには、どこにも力が入ってはいけないような感覚になったため、全身の力が抜けたのだと思う。

右足から左足へ。その蛇の全身が抜けるまで長く感じた。おそらく10〜20秒ぐらいのことだったと思うが、とても長く感じた。

私の左足から離れた後、まだそのあたりにいることも考えられたし、すぐにまた身体のどこかの上をはうことだって考えられた。だから、真っ暗闇の中、私は全身の力を抜き続けた。力を抜き続けていたら、いつのまにか再び眠りに落ちていた。

翌朝、その山小屋の主である友人にそのことを話した。

「へぇ〜、するとまだ部屋の中にいるかも知れないね」

ということで、二人でまずは私が寝ていた枕元のタンスを持ち上げてみた。すると、そこには、トグロを巻いた、マムシ様が鎮座されていた。

「タケシ、分かる? 身体がずんぐりむっくりしていて、頭が三角だろ。これがマムシだよ」

私は、じっとして動かないマムシを凝視した。二人はお互い「どうしよう?」と顔を見合わせるが、結論が出ない。そこでとりあえず、タンスを元の位置に戻すことにした。

しばらくすると、その山小屋のすぐ下に住む別の友人が訪れてきた。私が草取りした田んぼの主でもある。

「いや〜、今そのタンスの下に結構でかいマムシがいるんだよね。どうしたものかと思っているところなんだよ」と私たち二人。

しかし、来訪した友人の決断は早かった。

「ここには、ウチの娘たち(当時4歳と10歳ぐらいだったか)も遊びに来る。薄暗い中なんかで踏んづけたりでもしたら大変だ。今すぐ殺すぞ」

それまでのところ、私たち二人は全く危害は加えられていなかったし、何となく「蛇は家の守り神」のような迷信もあるような気がしたので、思いあぐねていたが、彼の「娘たち」の話には説得力があった。もしものとき、私たちには責任がとれない。

私と山小屋の主は、再びタンスをそぉっ〜と動かした。さっきと全く同じようにトグロを巻いていて、寝ているかのようだった。娘さんのいる友人は、太めの枝を拾ってきて、マムシの頭を一撃した。マムシは、少し動いた後、動かなくなった。

「ん、これでいい。これで安心だ。そうだろー」

太めの枝をポンと草むらへ投げて、その友人は帰っていった。

残された私たち二人は、再び新たな問題に直面した。

「これ、どうする?」と私。
「村の人から、網で焼いて食べるとおいしいって聞いたことがあるけど」と友人。

たしかにまたとない機会かも知れない。思案している私の中には、夕べ私の両足の上をはっていったその「触感」がよみがえっていた。

「おーれ、やめとくわ」

私は辞退した。
が、友人は早速七輪に炭をおこし、マムシを包丁で開き、一口サイズに切った。

結構念入りに火を通していた記憶がある。「どお(味は)?」と聞くと、彼は「よく分からない」と言った。

ところで、その後の何年か後に、私は自分の子供の胎盤を食べた。(詳しくは、「胎盤の味」)そのときも説明しようのない味だったが、今思うと、そのときの友人の「よく分からない」はそれと似ていたかも知れないとふと思う。

私には苦手な食べ物はない。強いて言えば、甘い物がやや苦手なぐらい。しかしこのマムシの場合、味がどうのこうのじゃない。この朽木村に滞在して、いろいろ蛇にまつわる経験をさせてもらい、ほんの数時間前には私の足の上をはって、枕元のタンスの下でぐっすり寝ていたマムシ。訳あって、殺すことにはなったものの、それを食う気にはとてもなれなかっただけなのだ。ちょっとした気持ちの問題って言えばそれまでだが、その気持ちの問題っていうのが大きい。

昔、浅草の仁丹塔の下にたしか屋号が「よっちゃん」だったかな?、いわゆるゲテモノ(メインは蛇だったと思う)を食べさせてくれるお店があった。その店の前を通るたびに、不思議な特別なものを感じはしたが、暖簾をくぐる気にはならなかった。今でもその思いは変わらない。

2011年9月21日水曜日

蛇のはなし〜その1:蛇の根回し


上の写真は、10日ほど前、東京・昭島にある自宅の近所の道ばたの蛇。おそらく車にひかれたんだと思うが、死んでしまっている。動かなかった。つまんで草むらに投げた。そんなことのあった1週間後、友人から電話があった。

「友だちからマムシが送られて来たんだよ。一緒に食べないか?」

他の用件もあったので、主にそっちの話をして、マムシのお誘い話にはお茶を濁して電話を切った。

もう20年ぐらい前のこと。マムシを含め、蛇を「特別な生き物」と思わされた出来事が2〜3あった。場所は、滋賀県の朽木村。その村の谷の一番奥から少し上ったところにある友人の山小屋に、私は春から半年ほど住み込んでいた。

その近くにも別の友人が住んでいて、ある日、彼の田んぼの草取りを私ひとりですることがあった。無農薬、除草剤を使わない田んぼなので、クレソンなどがどんどん生えてくる。裸足で田んぼに入り、膝下ぐらいが水面になる。前かがみになって、軍手をした手で田んぼの床に根ざした草を鷲づかみにし、根こそぎ取っていく。

やや汗ばむぐらいの初夏の陽差しの下、ひとりで話し相手もいなかったせいか、草取りに集中した。前かがみの姿勢なので、ときどき身体を起こして腰を真っ直ぐにするぐらいが、ちょっとした息抜きだった。

前かがみになって、目の前の草取りに没頭していた、そのとき。

私の右足のスネに何か触るものがあって、ハッとした。黒く細長い蛇だった。体長は50センチぐらい。その蛇は、自分の頭から尻尾の先まで、つまりは身体全体を丁寧にこすりながら、私の右足のスネを1周し、次に左足のスネも全く同様に身体全体をスネにこすりながら律儀に1周した。こすりながらとはいえ、水面を動いているのだから、とても正確に泳いでいたということだ。私は、身体を起こしてその蛇の行動をただ見てるのが精一杯で、田んぼに肩幅に突っ込まれた両足は動かせない。

「この後はどうなるんだろう?」

と思った瞬間。その蛇は私の両足のちょうど間で鎌首を上げ、頭を私の顔に向けてきた。しばし私とにらめっこ状態になり、「えっ、それで?」と思ったら、今度は口を180度に大きく開いて、先が2つに割れた細長い舌を思いきり私の顔に向かって伸ばしながら、「シャー、シャー」と5秒ほど威嚇するような声をあげた。私はただそれを見ているだけだが、不思議とそれが怖くない。私は、この蛇が右足に触ってからは、全身の力が抜けたOFFの状態で、完全に観念していたからだ。だから、私が何かをするというよりは、この蛇様に畏敬の念を抱いていて、「何かお気に召されぬことでもありましたか?」という心境だった。「シャー、シャー」が終わると、何事もなかったかのように、スイスイと田んぼの水面を泳ぎ去っていった。

少しの間、ボォーっとした後、私は草取りを再開した。再開して30分ぐらいした頃だろうか、そのときの私は前よりは周りが見えてた。私の先10メートルぐらいのところにその蛇がいた。ジィーッとしてるので、どうしたのかと思ったら、その蛇の4〜5メートル先にカエルがいた。

カエルも動かない。が、たまにピョンと動く。その1度のピョンと動いた短い時間の間だけ、蛇も素早く動き、カエルとの距離を縮める。そしてまた静寂の時間に入る。しばらくしてまた、カエルはピョンと動く。蛇も動き、徐々にカエルに近づいていく。もー完全に私は(観客として)蛇の虜になった。その決定的瞬間を思うとワクワクし、その狩猟に見入った。しかし蛇は私が思った以上にずっと慎重だった。「さー次だな(食いつくな)」と私が思ってから食いつくまで5度はあったと思う。最初の1〜2度の「さー次だな」にはかなりの興奮があったが、5度目ぐらいになるとその興奮もやや冷めていて、「(そこまで近づいたら)そりゃ成功するよな。石橋たたき過ぎなんじゃないの」なんて気分にもなった。でも、それが自然の厳しさなのだ。

その蛇が最初わざわざ私の両足に絡まり、鎌首上げて大きな口の中から舌出して「シャー、シャー」やったのも、「これからカエル捕まえるんだから、お前ちゃんと周りを見ながら草取りしろよ。それでオレが狩猟モードになったら、くれぐれも邪魔してくれるなよ」という、カエルを捕まえるための根回しのようなものだったのか。だとしたら、それは大成功だし、決して石橋をたたくようなことではなく、至って正攻法だ。

そう思うと、ますます蛇への畏敬の念は深まるばかりだった。

この20年前の、朽木村での蛇の話にはまだ続きがある。次はマムシ編だ。改めてこの次に書きたい。

2011年9月9日金曜日

果実の中ではマンゴスチン


井上陽水の昔の曲に「カーネーション」というのがある。

カーネーション
お花の中ではカーネーション
一番好きな花

私は鼻歌で、この曲の節に合わせて、こう歌う。

マンゴスチン
果実の中ではマンゴスチン
一番好きなもの

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

私には持病がある。膀胱炎及び尿道結石。普段は何でもないが、極端に身体が疲れたりすると、下っ腹の膀胱あたりがとても不快なムズムズ感をおぼえる。そしてそれがさらに悪化すると尿道結石に発展する。これまで尿道結石までいってしまったことが二度あった。

そんな私が昔アジアを旅していた頃、洪水のバングラディッシュで無理をして、膀胱炎が発症してしまった。ダッカから何とかバンコクまで飛んで、1ヶ月ほど病院通いした。1988年のこと。通院は週に一度ほどだったので、ほとんどの日は、慣れないバンコクの町をひたすら散歩していた。その散歩コースにチャイナタウンがあった。他でもない。そこには目当ての屋台の果物屋があったからだった。

手押しの大八車の上にはマンゴスチンとランブータンの大きな山が2つ。商品はこの2つだけ。どっちもキロ15バーツだったことを今でも憶えている。当時のレートで、75円ぐらいか。それが初めて食べたマンゴスチンとランブータンだった。何とうまいフルーツがあるのかと3週間の間、この2つの果物を毎日むさぼり食った。マンゴスチンとランブータン、合わせて2キロ買って、寝泊まりしていたゲストハウスの冷蔵庫に入れた。そして入れた直後、前日に買って冷やしておいたマンゴスチンとランブータンを食すのだ。この2つの果物は冷えてた方が断然うまい。2キロはペロッと食べてしまった。これぞ至福の時だった。体調が悪いことで、フラストレーションがたまってたこともあったろう。また無意識にも膀胱炎の身にいいものだったのかも知れない。3週間の間、勤め仕事のように毎日チャイナタウンまで散歩をし、この2種類の果物を買い続け、食べ続けた。一日散歩を怠ると、次の日は冷えたのが食えないことになる。それが耐えられなかった。今思えば、もっと近くでも売ってたろうにと思うけど・・・・。

最初の1週間ぐらいは、マンゴスチンとランブータンを半々買っていたが、日が進むにつれ、徐々にマンゴスチンの割合が高くなっていった。マンゴスチンの上品な甘味とその甘味をやさしく包むような酸味の虜になったのだ。そしてその3週間の後半は、マンゴスチンが1.5キロ、ランブータンが0.5キロぐらいになっていた。食べ方もメインはマンゴスチンで、箸休め的にときどきランブータンを間にはさむようになっていた。

こうして「果物の虜」になる話は、ドリアンでしばしばあるが、私の場合、マンゴスチンだった。ドリアン様も好きだけど、マンゴスチン様の比ではない。

ところで、先月ベトナムへ行った際、木になってるマンゴスチン様に初めてお目にかかれた。よくマンゴスチンを知らない日本の人へのその外見の説明で、「柿みたいだけど、色が濃い紫色」というのがあるが、その葉っぱもやや柿の葉にも似ていた。

また、今年のベトナムは、マンゴスチンの当たり年だったらしい。例年より安く、小さめのマンゴスチンをたくさん食すことが出来た。小さいヤツは、中の種がないのが多いので食べやすく、味もいい。

もう今は、さすがにキロ単位で食べることはなくなったが、今でも「一番好きな果物は?」と聞かれると、迷わず「マンゴスチン」と答える。「一番好きな食べ物は?」と聞かれても答えられないんだけど・・・・。

2011年9月2日金曜日

想定内の「想定外」


これは、8月29日付け東京新聞の朝刊から。5ページ目の紙面の端っこの小さな囲み記事。

この記事読んで、「へ〜、ウソだったんだー」なんて思う人はいない。だからこんなに小さい記事であり、今は誰も目にもとめないものかも知れない。

しかし事の重大さと、ささやく声のようなこの小さな記事。そのコントラストには何かスゴイものがあると思いませんか? メチャクチャだ。あまりにメチャクチャすぎて、憤る以前に、私は唖然としゾッとした。

大手新聞の中で最も「脱原発」を明言しているとされる東京新聞(発行元は中日新聞)なのだけど、この「ウソだった!」のビックリ・マークはかなりその空虚さと怖さを引き立てている。

原発事故で苦しんでいる人たちのことを思うと言葉がない。