2019年8月30日金曜日

新素材の前に


前回のエントリで、プラスチックに替わる新素材が開発されることを想像した。夢見がちで書いたが、それには結構な時間がかかりそうだ。となると、その前に、今あるプラスチックを減らすということがある。順序として、こっちが先だ。

冒頭の写真は、栃木県が、「プラごみ『ゼロ宣言』」をしたという新聞記事。(2019年8月28日夕刊、東京新聞)画像をクリックすると拡大します。

「取り組みとして、レジ袋やプラスチック製スプーンなどが不要な場合は断り、分別して捨てることを県民に呼びかける。小売店などには、客への声かけやマイバッグ持参などを要請したり、企業や農業者には、紙など再生可能な資源への代替を求めたりする」

いいことだが、内容に特に目新しいことはないので、この記事を読む限りでは、この道のりはなかなか険しそうに感じる。だが、海のない栃木県が宣言したという点は、見過ごせない。記事にも県の発言として「海洋へのプラごみの流出を削減するため・・・」と載っている。プラスチックの海洋汚染は、人間が住む陸地で始まる。

左は、今年6月に東京新聞に載った、「マイクロプラスチック」と題された特集記事の一部分。(クリックすると拡大します) 右側の水色の囲み記事「今こそ循環経済へ転換を(東京農工大教授の高田秀重氏)」を読んでもらいたい。この特集記事のタイトルはこの画像外の左端に大きく「マイクロプラスチック」なのだが、マイクロプラスチックの問題というよりは、今のプラスチック社会に対する問題提起だ。日本では、プラごみの約4分の3が焼却処分されていて、温暖化を進めている。(日本も欧州のように)バイオマスプラスチックへの転換やプラスチックを使わない生産・流通の仕組みをつくらないと、産業自体が成り立たなくなる、という内容。「海洋に漂うマイクロプラスチックで、魚が・・・・」とはまた別の視点だ。


この高田氏の指摘は、「プラごみは(自治体の規則通りに)しっかり分別して捨てれば、海に流れ込むことはない」では極めて不十分で、それでは温室効果ガスの放出を促してますよ、ということ。地球温暖化問題については、諸説あるのかも知れないが、プラごみの焼却処分は、地下から掘り出した石油を燃やし続けているようなものだと。その意味では、車の排気ガスの問題と並列の関係にある。

一言でプラスチックと言っても、かなりの種類があるため、プラごみのリサイクルはとても難しく、焼却するか土に埋めるかのどちらからしい。比較的プラスチックの種類を特定しやすいPET(ペットボトル)も、リサイクルするにはそれ以上のエネルギーがかかるとも聞いたことがある。一時期、ペットボトルのリサイクルでフリースという冬物の生地が流行ったことがあるが、あれはかなり細かなプラスチックの繊維のため、洗濯時に下水に大量の細かなプラスチックが流れ出て、その細かさ故に、水道局のフィルターを通り抜ける(海に放出される)、とも聞いた。

人間は、目先の楽な方、便利な方に手が出る。日々忙しいからとコンビニで弁当を買って、ガサばるほどのプラ容器を捨てる。ほんの50年ほど前、私の子供の頃はペットボトルはなく、ガラス瓶だった。そのガラス瓶は当たり前に、洗浄後再利用されていた(リユース)。また、惣菜屋さんで佃煮を買うときは、量り売り。三角にした経木(きょうぎ)の容器に入れて、それを紙で包んで輪ゴムでとめてくれた。ときどき、その三角の隅から汁がちょっと漏れたりしてたが、当時はそれを不都合とは全く感じなかった。今、ガラス瓶に戻すと、重いとか、割れると危ないとかになるんだろう。経木に包んでは、不衛生とか、いちいち量ってられないということになるんだろう。そうなると、結局は、先の栃木県の「プラごみ『ゼロ宣言』」のように、ありきたりなことを地道に進めるしかない、となるのか。

目先の便利や楽には、回り回ってそれなりに負荷がかかっている。その便利や楽を皆で続けたら、大変な負荷になり、それを取り戻すのは至難の業となる。土に埋めるは論外としても、燃やせば温室効果ガス。海に漂うマイクロプラスチックは、もはや回収出来ない。そう思うと、すこぶる重〜い気分になってきた。これら目先の便利や楽を、危ないぐらいに負荷がかかっているからという理由で、人間は超えることが出来るのだろうか。

プラスチックに替わる新素材。生分解する新素材は、白馬にまたがった王子様か。仮にだが、今のプラスチックが全て新素材に替わったとしても、その絶対量の多さからして、それで解決とはならない気がしてきた。

出口を探したい。

先のエントリ「新素材への道のり」の冒頭で、「(食べ終わった)コンビニの弁当や麺類のプラスチック容器のガサを見ると、げんなりする」と書いた。私は、自分が感じたその「げんなり」を尊重したい。その「げんなり」を、一時的に通り過ぎる感情としてではなく、ひとつの「嫌なこと」として。きっとこの「嫌なこと」が積み重なって、「すこぶる重〜い気分」になるからだ。例えて言えば、添加物いっぱいの食品を出来るだけ避けるようなこと。この点、うちのカミさんもうるさいのだが、私や家族の食事、子供に作る弁当も含め、多少不便でも(手間がかかっても)、食品添加物を出来るだけ避けるのは、それを「嫌なこと」と感じているところが出発点になっている。

バラ色の人生なんかありゃしない。今感じる「げんなり」を流さず、「嫌なこと」の感覚を抱えていこうと思う。小さいながらも、それが今の私の出口だ。

2019年8月20日火曜日

新素材への道のり


ときどき、昼食に、仕事場近くのセブンイレブンで弁当や麺類を買う。レジで「レジ袋と箸は要りません」と言う。しかし、弁当や麺類自体のプラスチック容器のガサを見ると、げんなりする。廃棄は自治体のルールどおりに出しはするものの、この巷に溢れるプラスチック容器、スゴイ量だ。以前、このブログでも、触れたことがあるが、この量だとリユースも難しい。

ダンボールはリサイクル?(2010年3月26日)

マイクロプラスチックの問題がマスコミなどで取り沙汰されると、「○○社は、プラスチックのストローを○○年までに廃止すると発表」とも報道される。実際にどこまで実用化の見込みがあってそう宣言しているのかが気になると同時に、意地悪に人気取りのように感じたりもする。しかし、ストローだけでも現実的に廃止となると、プラスチックの代替品、つまり自然界で生分解する新素材の開発と実用化がされるということだから、「人気取り」で片付けては甚だ失礼だ。ただ、そこへ辿り着くまでの道のりはどんなものだろうか。それは、気になる。

ということで、プラスチックからそれに替わる新素材への転換の道のりを、ちょっと想像してみた。

当然のことながら、現在、各素材メーカーは、その開発に躍起だろう。で、今の段階だと、開発されても、枕詞のように、「コスト高が問題だ」となる。実用化には大量生産が必須条件だ。私の想像だが、現在のプラスチックのメインストリームの流通イメージは、大ざっぱには以下。

素材メーカー
  ↓
容器加工メーカー
  ↓
容器ユーザー(各メーカーや大手小売店)
  ↓
消費者

新素材もこれと似たような流通だとする。新素材の容器を作る側(素材メーカー・容器加工メーカー)としては、生分解の速度や機能性など過去にデータ・実績のないものを作るので手間も時間もかかる。そして「これならイケる」素材を開発しても、定期的に一定量以上の受注の目算がないと投資もしにくい。一方、その後ろの買って使う側(容器ユーザー)としては、定期的な大量発注は大きな変化になるので、慎重にならざるを得ない。新素材での機能的な問題は当然気になるところだし、定期的な大量発注の契約を容器加工メーカーと結んだものの、半年後に、より優れた安価な別の新素材が開発されては、困る。

規模の小さな会社にはなかなか出来ないが、こういうときこそ、おっきいところ、例えば、私が昼食をときどき買うセブンイレブンさんなんかどうでしょう? 手始めに、全国のセブンイレブンのレジ袋だけでも新素材の袋にする。これだけでも、素材・容器加工メーカーにとって、低価格化出来る受注量に満たないものか。アイスコーヒーのストローもいいが、ストローは口で直接吸うものなので、レジ袋の方がリスクが低い気がする。消費量はレジ袋の方が断然多いだろうし。多種多様な用途と形があるプラスチックは、素材自体、何種類もある。しかし、まずはひとつ。象徴的にレジ袋用の新素材だけでも、船出することが出来たら、気運が高まりはしないか。

あと、新素材の開発と平行して、普及初期の段階では、容器の規格数を少なくすべきと思う。一升瓶やワイン瓶のように、商品容器を数少ない規格に絞り込む。プラスチックは、成形するのが簡単なためだと思うが、今や商品の数だけ、容器の規格がある。特にPETボトル。同じ500mlでも商品によってみんな形が違うんだもの。それではなかなか前に進まない。新素材もいずれはプラスチックのように成形が簡単なものも出てくるだろうが、一般普及するまでの間は、規格数を絞ることによって、ひとつひとつの規格の生産数量を稼ぎ、普及に勢いをつける。それは全世界で、大手企業だけでなく、小さな企業も、おこぼれとして低価格で購入出来るようにして、普及を後押しする。

言うまでもなく、素材メーカーにとって、これは大きなビジネスチャンス。だけど、プラスチック→新素材の問題は、大企業・小企業・一般消費者というだけでなく、全世界的な問題なのだから、特定の企業や地域というものではなく、ボーダレスで早急な普及を目指してもらいたいところだが、それはキレイ事か。

まずは、素材メーカーさん、よろしくお願いします。

2019年7月30日火曜日

小梅の土用干しをしながら、赤ジソの処理法を考える


梅雨が明けた。暑い。うだるように暑い。でも、こんな日にこそ、梅干しの土用干しだ。ということで、待ちに待ったこの強烈な真夏の陽差し。去年の梅雨明けが、6月末だったように、ここ数年、梅雨明けが滅法早かったので、このブログでも、「早めに準備を」と呼びかけていたが、今年は全然早くない7月末。お陰で、赤梅酢に浸かってる時間が長くなってしまったため、かく言う私も、少しだが、カビが生えてしまった。私の呼びかけで、カビを生やしてしまった方がいらしたら、ごめんなさい。

さて、今年は小梅(甲州小梅)の梅干しを初めて仕込んだ。それにこの甲州小梅という品種は、カリカリ梅タイプで、これも初めて。一個一個の梅が小さいから、収穫が大変だの、ヘタ取りが大変だのと書いたが、干すのもやや大変と最初は思った。

関連エントリ:
初めての、小梅の梅干し(2019年5月31日)

普通サイズの梅の場合は、土用干しの際、ザルにへばりつくことがあるので、一個一個裏返していたが、今朝干し始めた小梅は、数・サイズからして、とてもそんな気にならない。冒頭の写真は、今朝、その小梅を干し始めたところ。車の屋根の上で干している。これで、4キロ。一個ずつ裏返す気にならないことが分かると思う。なので、篩(ふるい)に掛けるようにザルを水平に揺すったり、手の平で転がしたりして、何となく陽に当たるところをずらしたぐらい。特にこのカリカリタイプだと、全くザルにへばりつくことがないので、これで十分だ。だから、やってみれば、あ〜りゃま。かえって、より楽だった。

20年梅干し仕込んでいても、毎年、細かいことを含め「これはこうした方がいい」というアイデアが浮かぶものだ。今年は、「赤梅干しの赤ジソをどうするか?」ということだった。早速、「カンホアの塩」のサイト上の梅干しレシピにも簡素に書き込んだが(作り方3:土用干しと保存)、それは、最終的に、梅干しをどう仕上げたいかによると思う。ここにそれを詳しく書いてみたい。

土用干しが終わると、梅干しを瓶に戻して一年ほど寝かす工程(保存・熟成)に入るが、赤ジソはそのときの添え物になる。その添え物の水分量で、最終的な梅干しの水分量の調整が出来るということだ。その水分量の調整で一番影響が大きいのは、土用干しが終わった梅干しを、赤梅酢にくぐらせてから寝かせるか、くぐらせないで寝かせるかになるが、添え物の赤ジソでも、微調整が出来る。

例えば、私の場合。乾燥タイプの梅干しが好みだ。したがって、土用干し後、赤梅酢にはくぐらせない。そして、悩むのは、添え物の赤ジソの水分量だ。若干のシットリが欲しければ、赤梅酢から上げたばかりの赤ジソをギュッと絞って、保存・熟成の添え物とする。出来るだけ、梅干しを乾燥した状態に保ちたければ、赤ジソは、梅と一緒にザルで土用干しして、カラカラになったものを、保存・熟成の添え物とする。この二通りで悩んだが、今年はカリカリ小梅なので、そのカリカリさを長持ちさせるためにはよさそうな「できるだけ乾燥の梅干し」の方に決めた。カリカリ梅でなければ、「若干のシットリ」を選んだ。

先ほど、「最終的な梅干しの水分量の調整で一番影響が大きいのは、土用干しが終わった梅干しを、赤梅酢にくぐらせるか否か」と書いたが、その調整はそう単純ではない。なぜなら、「土用干し後に赤梅酢にくぐらす」ときに足される赤梅酢の量の調整はとても難しいからだ。しっかり調整したければ、決まった赤梅酢の量を計ってスプレーするなどの手もあるが、一年ほどの保存・熟成期間を経ると、たとえ最初は乾燥してシワくちゃな梅干しでも、空気中の水分の影響で、ややシットリの方向に傾く。しっかりと水分を吸収した思いっきりネットリした梅干しを目指すなら、微妙な赤ジソの水分量はどうでもよく、ただたっぷりと赤梅酢にくぐらせればいいのだが、「適度にシットリ」を理想とする私としては、赤梅酢にはくぐらせないで、ギュッと絞った赤ジソの若干の水分量を足すぐらいがちょうどいい。だから、私にとって、この赤ジソの処理法はどうでもいいことにはならず、赤梅酢からあげた赤ジソを絞るときの絞り加減にも気を使う・・・・。

いや〜、このエントリも、ずいぶんマニアックになってしまった。参考になった方が一人でもいれば嬉しいし、また別の見方もある思うので、そういう方からは、是非とも意見を聞かせてもらいたいものだ。

2019年7月29日月曜日

楠(クスノキ)と「だしパック」


去年の春、担任の先生との面談で、息子が通う小学校に行ったら、校門入ってすぐのところにあるでっかい楠の枝打ちをしていた。私にとって、楠=樟脳(しょうのう)。目の前にある枝打ちされたこれらの枝は、その生木と生葉ではないかと思った私は「これは使える」と思い、その植木屋さんから、ひと枝もらって帰ってきた。

その当初は、葉っぱをそのままタンスや衣装ケースに入れようと思ったのだが、考えてみると、乾燥した葉っぱがボロボロになって厄介だなと、思いとどまってしまった。そして結局何にも使わずに1年以上、乾燥した葉っぱがいっぱいついた楠の枝が我が家に置かれたままになっていた。(冒頭の写真)

先週、部屋の隅に立てかけられたその枝を見て、「そろそろ処分しようかな」と思いながら、乾燥した葉っぱを一枚クシャクシャに揉んでみたら、まだまだ樟脳の香りがするではないか。と思った矢先に、「お茶パック」を思いついた。緑茶はもちろん、いろんなハーブを煎じる前にまとめておく「お茶パック」だ。あれなら、目が細かいので、乾燥した葉っぱの粉が出ないかもと思った。

早速、百均に行ったら、「お茶パック」と、それより一回り大きな「だしパック」があった。(45枚入り100円) 葉っぱが大量にあったので、大きめの「だしパック」の方を選択。ビール飲みながら、プロ野球を見ている間に、10個の「だしパック」入りの防虫剤が出来た。下の写真は、その「だしパック」と楠の葉っぱを詰めたパック。最近は、コーヒーの紙フィルターのように、漂白していない「だしパック」、「お茶パック」があるが、防虫剤用なら、百均の漂白したもので十分だ。


こいつはなかなかいい。この袋をクシュクシュ揉むと、香りが強くなる。しかも、揉み揉みしても粉が出ない。香りが弱くなったら、その都度揉み揉みすれば復活しそうだ。市販の防虫剤って、だいたい「半年たったらお取り替え」とか書いてあって、取り替える度に「こんなに頻繁に取り替えなきゃならないのか」と常々感じていた。特にナチュラル系の防虫剤は安くない。それに比べたら、この「だしパック防虫剤」は、「半年たったらお取り替え」ならぬ、「半年たったら“揉み揉み”」で長持ちするかも知れない。あー何故、生枝をもらってきたときにこれを思いつかなかったか。(乾燥前の)生葉なら、もっと効果的な防虫剤だったはずだ。やや情けない気持ちになりながらも、本格的に夏を迎えたこの時期に間に合ったことを少しだけ喜んだ。そして全ての「だしパック防虫剤」を冬物が入った衣装ケースとクローゼットに入れた。そこにはナチュラル系の防虫剤がすでに入っていたが、ケチって少なめに入れてたので、これで一安心。秋になって冬物を出す際、再び揉み揉みするのがとっても楽しみだ。

楠の枝打ち現場に遭遇したら、「だしパック」や「お茶パック」を連想しましょう。そうそうあることじゃないけどね。

2019年7月16日火曜日

ドクダミ・ヨモギ風呂〜煎じ汁編


 前のエントリで、ドクダミ風呂について書いたが、それは採りたての生のドクダミを風呂に入れたもの。で、今回はその生ドクダミを煎じて風呂に入れて見た。

生ドクダミのときと同様に、採りたての生ドクダミをざっと洗った後、ハサミで5センチぐらいにバサバサ切る。今度はそれを大きな鍋に詰めて、ひたひたの水を加えて、最初強火、沸騰しそうになったら弱火。これで計約30分。ときどき、木べらでかき混ぜたが、そのとき、ふと妙な気分になった。「これってなんか、子供の頃見た絵本に出てきた魔法使いのおばあさんみたいだ。鷲鼻で顔には深いシワがあって、黒い服着てたよな〜」。薄暗い洞窟のようなところで、「ヒッ、ヒッ、ヒッ」とか呟きながら大きな木べらで得体の知れない薬草茶を煎じる魔法使いのおばあさん。そう思うと、なんだか効きそうな気がしてきた。

さて、あらかた冷ました後、今度は、細かい目の洗濯ネットを用意する。生のままだと粗めの洗濯ネットでもいいが、煎じると、葉っぱはトロトロになるので、細かい目の方が、下水管が詰まりにくいだろうなと思ったということ。

この段階が、冒頭の写真。この鍋ごと風呂場へ持っていき、風呂の栓をした後、風呂桶内で洗濯ネットの口を広げて、鍋の煎じ汁をザーっと注ぐ。濃ーい、煎じ汁が風呂桶の底に溜まる。我が家の風呂は、熱い湯が注がれる式なので、この後、スイッチオンして、湯船にぬるめの湯を溜める。(循環式の風呂の場合は、風呂に湯を張った後、煎じ汁を入れた方が、風呂釜のためにいいでしょう)それが下の写真。


冒頭の写真だと、結構透明感があるが、ご覧のとおり、風呂に入れると、生のときよりもかなり濃い深緑色。ただしこの色が、風呂桶に若干付着する。この色、通常のスポンジでは落ちないが、我が家の風呂桶の場合、激オチ君で落ちる。ちなみに、生ドクダミの場合は、下の写真のようだった。


さーて、こうして自分の足先も見えないぐらい色の付いたぬるい風呂にゆっくりと浸かる。生ドクダミのときと同様に、この風呂に入る前に、草取りしたり、切ったり煎じたりしているから、入浴時には香りを強くは感じない。じいーっと10分ほど浸かっている間、ときどき、洗濯ネットを湯船の中で絞って、薬草成分をより出したりして。

また、我が家の庭には、この時期に草取りしたいのはドクダミだけでなく、ヨモギもある。3日目からは、ドクダミだけでなくヨモギを半分にして煎じている。もちろんどっちも生のまま。ヨモギを入れようが入れまいが、色に変わりはないものの、ヨモギが入ると香りがちょっと草餅っぽくなる。煎じる場合、お茶なんかは、草を乾かすが、それも面倒(待ってられない)。上の2点の写真で分かるとおり、これだけ色が違うので、薬草成分の量としては、煎じた方が多いだろう。ただ、生は生なりのフレッシュさというものも感じた。

さてさて、煎じようが煎じまいが、カミさんの全身湿疹ために思いついたドクダミ・ヨモギの薬草風呂。肝心のその当人の症状はというと、現在、生そして煎じ汁と4〜5日続けて入りつつ、回復の方向に向かっている。強力なステロイド剤との併用なので、ただそのステロイド剤が効いただけかも知れない。この手のことは、簡単に結論を出せないが、薬草風呂も悪くはなさそうだ。それと同時進行で、ドクダミとヨモギに覆われた我が家の庭は、どんどんスッキリな方向に向かっている。草取りが嫌になるほど、ドクダミとヨモギの生命力は物凄い。その生命力を拝借するように、薬草風呂にする。あと1〜2回、草取り&薬草風呂すると、庭はすっかりスッキリになる。これも悪くない。今まドクダミは、草取りの後、少量をドクダミ茶にするだけだったし、ヨモギは春先の柔らかい葉を少量、団子にするだけだった。そのため、あまり草取りに積極的になれなかった。でも今回、風呂に入れるという一度にたくさん使う方法を思いついた。今後は(来年以降は)この時期、風呂に使う方法も、生のまま、煎じ汁、(余裕があれば)乾燥ものと、いろいろやってみることを念頭に置くと、気が重かったドクダミとヨモギの草取りに積極的になれそうだ。梅雨時に、薬草風呂の健康管理と庭の草取りの一石二鳥。悪くない。

出来るものなら、何事も一気に好転させたいと思うのが人情だが、こうして少しずつの「悪くない」を積み重ねることに感じる幸福感というものもある。

2019年7月12日金曜日

ドクダミ風呂


一昨日、一週間の出張から帰ってきたカミさんが、全身を湿疹に覆われていた。ハッキリとした原因は分からないが、その湿疹がとても痒く、夜寝るのもままならないというから大変だ。

皮膚科へ行くと、飲み薬と塗り薬ともに強力なステロイド剤を処方された。飲み薬はあまりにも強力なので、胃薬も一緒にのむというぐらい。ちょっと怖いけど、このステロイド剤っていうのは、短時間で効くんだよな。全身が痒くて眠れないというんだから仕方ないか。数年前、私もこの時期に体調を崩して、ステロイド剤のお世話になったことがあった。テロイド剤のいいところも悪いところも経験している。

natural salt cafe:長い夏風邪(2010年6月25日)

そんな私は、このステロイド剤治療をしながらでも、何か他に出来ることはないかと、昨日仕事をしながら考えていた。そして、思いついたのが、ドクダミだった。今、我が家の裏庭にたくさん生えてるドクダミだ。早速ネットで調べてみると、抗菌、皮膚炎などとあったので、悪くなさそうだ。おそらくベストなのは、採りたてのドクダミをフードプロセッサーでペースト状にして全身に塗りたくることかと思いはしたが、それも大変だ。なので、ハサミで5センチほどに切ったドクダミを洗濯ネットに入れて風呂に入れることにした。それが(冒頭の写真の)ドクダミたっぷりのハーブ風呂だ。難しいことじゃない。

ところで、私は、ドクダミが好きだ。夕暮れ時、暗さが深まるにつれ、浮かび上がってくる純白の花。あれは大変美しい。私は、腎臓・膀胱が弱かったのだが、30年ぐらい前、京都にいた頃、天神さんの市の薬草茶屋さんからドクダミ(十薬)を薦められ、しばらく飲んでいたが、とてもよかった。味も好き。また、私がよく行くベトナムでは、ハーブとしてよく食べる。ただし、ベトナムのドクダミは、日本のよりも、茎がか細くて柔らかく、香りも穏やか。大概、数種類のハーブと一緒に皿に盛られているので、日本人観光客はドクダミと気付かずに食べていたりする。

また、十数年前のこと。当時住んでいた築50年ほどの家の庭が結構広かった。ある夏、「あれっ、この庭にドクダミが一本もないのは寂しいな」と思って、2〜3株のドクダミを植えたことがあった。その2年後、広い庭の半分がドクダミに覆われた。慌てた私は、その群生したドクダミを抜きまくった。地下茎で広がるので、鍬で草刈りではなく根っこごと抜き続けた。時間にして2時間ぐらいかかっただろうか。最初は気がつかなかったが、30分ほど経つと、少しスースーする感じの香りに包まれた爽快感に気がついた。そして草取りが終わった頃には、鼻の呼吸の通りがスムーズになり、全身と脳が軽くなった感覚を味わった。その気持ちよさは今でも忘れられない。ドクダミのアロマテラピーを体験したと思った。今で言うところのデトックス?

またまた話はそれるが、やはり20年前ぐらいにインドのケララへ行って、アーユルヴェーダのセラピーを受けたことがある。その人の体質に合わせて配合された油を額にタラタラ垂らすシロダーラというのが有名だが、ハーブの蒸し風呂もある。1メートル四方の箱の中に入って首から上だけ上面の穴から出す。箱の中では、ハーブが蒸されている。それを1時間ぐらいだったか。文字通り、ハーブの香りに包まれる。ここで話を戻すが、先の2時間のドクダミの草取りで、私は、そのハーブの蒸し風呂を連想したのだった。

さてさて、くどいが、私はドクダミが好きだ。好きだが、ドクダミだけが好きな訳ではない。先述のとおり、あまり自由奔放にさせると大変なことになる。だから、今住んでいる家の裏庭のドクダミも、抜いていかねば、好きなドクダミとうまく付き合っていけない。毎年ドクダミの草取りが終わると、大量の採りたて生ドクダミが目の前にドーン盛られるのだが、これまでは、そのほんの一部を干して、ドクダミ茶(十薬)にするだけだった。

しかし、今回、カミさんが全身の湿疹に罹って、このドクダミの風呂を思いついた。何も、湿疹に罹らなくたって、体調を崩しやすいこの時期、ちょうど純白の花が咲き誇っているドクダミで、五月の菖蒲湯のように、六月〜七月にドクダミ湯をたしなむ。この時期の風物詩としても趣がありませんか? それにこれでうっとうしい梅雨時のドクダミ草取りにも、自然とやる気が起こる。採りたて生ドクダミを、少量のドクダミ茶だけでなく、ただ堆肥にするだけでなく(風呂に使った後、堆肥にすればいい)、フル活用出来るなんて何とすばらしいことか。

いいことばかり書いたが、ちょっと気になることをひとつ。ドクダミの草取りをしていると、ドクダミの香りに包まれる。そして、その生ドクダミをハサミで切っていても部屋中が香りいっぱいになる。だから、その後ドクダミ風呂に浸かる時点では、鼻が慣れてしまっていて、ドクダミの香りに包まれてる感があまりしないのがちょっと残念なことだ。

あと、冒頭の写真は、ドクダミ風呂に入る前の状態。下の写真は、この風呂に浸かりながら洗濯ネットに入ったドクダミの細切れを手でゴシゴシ揉んだ後の状態。深緑色が濃くなっているのが分かると思う。


wikipediaによると、ドクダミという名前の由来は、

どくだみの名称は「毒矯み(どくたみ)」(毒を抑える)から来ている。

とある。「矯(た)める」という言葉を初めて知った。広辞苑(第七版)で、「矯める」の最初に出てくる意味は、「まがっているのをまっすぐにする」とある。歯の矯正の「矯」だ。「毒」は悪いイメージだが、それを矯(た)めるドクダミ。庭にドクダミがはびこって困ったな〜と思ったら、ドクダミ風呂で矯めてみてはいかが?

追記:この後、生ドクダミを煎じて風呂に入れて見た。
natural salt cafe
ドクダミ・ヨモギ風呂〜煎じ汁編

2019年7月4日木曜日

ベトナムのベッドの角


2週間ほど前、ベトナムに行った。この20年余り、数十回ベトナムを訪れてきたが、ほぼ定期的に見舞われた、ちょとした災難を、今回改めて経験した。そしてその痛みに耐えながら「これまでに何度もあったよなー」とつくづく思った。それは心がけ次第で防げる災難でもあるので、備忘録、または御守りのようにこのエントリを書きたいと思う。

それは、ベッドだ。

まずは冒頭の写真を見て頂きたい。これは今回、ベトナム・ニャチャンで泊まった一泊30ドルぐらいのホテルの部屋のベッド。知り合いが経営するこのホテルを、私は常宿にしているので、ここにはもう何度も泊まっている。一見、小ぎれいで何の変哲もないように見えると思う。この「何でもないように見える」という、この時点で、この災難はすでに始まっている。おー恐っ。想像だけど、一泊100ドル以上するような高級ホテルのベッドにはこの災難はないような気がする。反対に、10ドルとかのドミトリーのベッドもこうじゃない気がする。この30ドルという宿泊料で、安易に高級感を出そうとしている中途半端なランクのホテルに多く見られることのように思う。

参考まで、下の写真は、日本にある我が家の子供たちのベッド。さて何が違うか。散らかったベットの上の衣類は関係ない。


もう一度、冒頭の写真を見て頂きたい。それは木枠だ。頭の方の木枠は、概ねどちらも共通だが、足下の方にも木枠がついているのは、多くのベトナムのベッドの特徴なのである。何で、こんなのが付いてるのか? おそらく装飾だろう。装飾は別にして、これがあるのとないのとで、現実的に何が違うか想像がつきますか? 無論、ベッドは寝るための物だが、実際には、腰掛けたり、多くの書類を広げて整理するのに使ったりと、この部屋の中心は間違いなくこのベッドである。だから、ベッドの周りをうろつくことは当たり前のことだ。で、下の写真。


この足下の木枠の出っ張り。こうして見ると特別に見えるかも知れないが、例えば数ヶ月ぶりにこのベッドの部屋に入った私の感覚では、この「角」は部屋の風景に溶け込んでいる。そして何の気なしにベッドの近くを歩いているとき、突然、無防備に、強烈に足をぶつける。高さからして、私の場合、だいたい太ももの真ん中ぐらいのところにこの「角」がぶつかる。ぶつけたときは毎回、10分ほどそのままベッドに倒れ込んで痛みが引くのを待たなくてはならない。5センチほどのアザが出来る。そばにノコギリがあったら、衝動的にこの「角」をギコギコ切り取ってしまいたくなる。

今回は、素面(しらふ)でぶつけたが、酔って部屋に帰ってきて太ももぶつけたことが、何度あったことか。晩飯がてらに酒を飲み、気持ちよ〜くホテルの部屋に帰って、フラフラしながらベッド周りを歩いてて、突然、ぶつける。嗚咽とともにベッドの上で痛みに耐えながら「あっ、そーだったー」とそのときは思う。しかし、このベトナムのベッドにお世話になるのは、一年に数日なものだから、次回は忘れていて、またぶつけるの繰り返し。私はこれを、少なく見積もっても10回以上は続けている。

私は、学習能力のない、ただの馬鹿かも知れぬ。しかし、馬鹿なのは私だけではない。ベトナムの人にこの「角」についてきいたことがあるが、「あー、あれね。私も年に2〜3回はぶつけるね。痛いよねー」と言っていた。

この足下の木枠は、明らかに不要と思う。毎日、ベトナムのどこかで、きっと100人ぐらいは、この「角」に足をぶつけて、悲鳴を上げている人がいるんじゃなかろうか。この問題を解決するのに、難しい技術は要らない。ベッドのメーカーは、ただ、ベッドの足下に木枠を付けなきゃいい。また、既存の木枠は取り外してしまえばいい。しかし、なかなかそうはならないこの現実・・・・。

少し、考えてみる。

「明らかにそうした方がいいと思うことが、なぜか現実的にそうはならない」

こういうことって、私たちの身の回りに少なからずあるんじゃなかろうか。ベトナムと日本では、その種類が異なるかも知れないけれど・・・・。酒・煙草は身体によくないと分かっていながら止められない。甘いものを食べ過ぎちゃいけないと知りつつ、そうはならない。化学調味料なんて使わない方がいいのに、ほとんどの食品に使われている。原発なんてない方がいいのに、なくならない。プラスチック容器は止めた方がいいのに、山ほど使われている。その昔、植木等は「分かっちゃいるけど、止められない♪」と唄った。

ベトナムのベッドの「角」がなくならないのは、ポジティブに捉えれば、ベトナムの人たちの包容力や寛容さの現れか。「あれにぶつけると痛いけど、そんなの些細なことじゃない?」ってな感じでね。ベッドの「角」ぐらい、たしかにガタガタ言う程のことではないのかも知れない。それでもやはり私には、簡単になくせるものならば、早いとこなくしちゃえばいのにと思えてならないのだけど・・・・。