2020年2月19日水曜日

ベトナムの田舎の普通のカフェ


ベトナムにはカフェがたくさんある。今や大きな町には、スターバックスもあるし、スターバックスのような店も、日本のようにたくさんある。数年前には、ホーチミンに、スペシャルティコーヒーを出すカフェも登場した。しかし、ベトナム独特の文化とも言える、ベトナムのカフェは、そういうものじゃない。

私がベトナムに通い始めた22年前は、大きな町でも、道端に小さな椅子とテーブルが並んだ屋台のカフェがたくさんあったし、露天でなくても、こじんまりした小さなカフェがたくさんあった。ベトナムは暑いから、町中の(路上でない)お店のカフェでも、入口にはドアも壁もなく、とても開放的。だから、カフェの前を通り過ぎる人々を眺めながらコーヒーをすするなんてこともよくあった。仕事の途中のちょっとした時間に一人でも、カフェでぼおーっとして、気分転換をはかる。そんな気軽な存在のカフェが、ベトナムのカフェ文化だと私は思っている。そんなカフェは、町中の数え切れない数のオートバイが走りまくるの喧噪の中でも、不思議と「静けさ」があって、落ち着く。

そして今から10〜15年ぐらい前になると、ちょっとした町には、エアコンが効いたカフェがどんどん増えていった。エアコンとなると、入口にドアも壁もないという訳にはいかず、椅子がよくなったものの、大音量のBGMもかかるようになった。

そして現在、町中の路上のカフェはほとんど見なくなった。入口のドアや壁のないカフェもちらほら。ただ、田舎へ行くと違う。私が作る「カンホアの塩」の生産地は田舎なので、まだまだ開放的なカフェがあったりする。

冒頭の写真は、「カンホアの塩」の塩田と宿泊したホテルの途中にあったカフェの看板。これまで何度もこの道は通ったが初めて見た。何とも味わい深くて、二度三度オートバイで行き来している間、この看板が気になって仕方なかった。時間が出来たところで、入ってみると、雰囲気が何とものどか。コーヒーもおいしい。入店後しばらくしてきいたら、何と30歳前の若くて真面目そうな男性がやっている新しいカフェだった。たどたどしいながらも英語も話してビックリ。「この看板が気に入って、入ったんだよ」と言うと、照れくさそうに、「それはとりあえず描いただけで、今度もっといいのにしようと思っているんだ」と応えてくれた。私からすると、コレが味わいがあっていいのだけど・・・・。

これは去年2019年の12月のこと。今頃、新しくなってるかも知れない。こういう味わいあるものって、寿命というか、時間制限があるんだと思う。だから、次々と生まれても、運がいいと出会えるし、そうでないと知らない間になくなっている。

この田舎には、エアコンが効いたカフェはほとんどないが、もっと人通りのあるところにある大音量が鳴ってるカフェは、賑やかだけど、私は落ち着かない。そんな中、こんなのどかで落ち着くカフェでコーヒーが飲めて、私はかなりラッキーだった。ご参考まで店内のパノラマ画像を下に(クリックすると拡大します)。入口どころか、四方に壁がないから風通しがとてもよく、しっかり日陰が作られていて、気持ちいい。12月とは言え、このときの気温は30℃ぐらい。左にいるお客さんたちは将棋を指している。


最後に、9年も前のことだが、ベトナムのカフェでコーヒーを注文する際の流儀をこのブログに書いたことがあったのを思い出した。以下に引用する。初めてベトナムへ行くコーヒー好きな方は、知っておくと役に立つ。

ベトナム・コーヒーの流儀【基本編】(2011年6月16日)

ベトナム・コーヒーの流儀【応用編】(2011年6月21日)

ベトナム・コーヒーの流儀【上級編】(2011年6月30日)

2020年1月31日金曜日

ベトナムのプラスチックごみ対策


上の写真は、去年12月に入ったホーチミンのカフェでのもの。ストローがステンレス製。続けて、下の写真、これは白い紙製。


もひとつ。下のは、同じ紙でもちょっとポップなストライプ柄。


今や、ベトナムの都市部のカフェでは、プラスチック製のストローが消えている。私は、去年6月にもベトナムに行ってるのだが、そのときには全くなかった現象だったので、たった半年のうちに、こうも変わっているに、もービックリ仰天。

日本では、去年、「○○社は、プラスチックのストローを○○年までに廃止すると発表」などの報道があったが、ベトナムは、「○○年」とかじゃない。「すぐ」だ。無論、ストローだけじゃない。下は、去年12月にベトナム人宅にあったポリ袋。


私からすると、なんか急に「ECO FRIENDLY」とか書き出しちゃって・・・・と思えなくもなかったが、いいことだ。「100% biodegradeable」。100%生分解するってんだから、スゴい。日本では、こんな袋がどのくらい出回っているんだろう。そして、上の写真のオレンジ色の袋の右下をよく見ると、日本の「プラ」マークがついる。その下に「PE」とも。「プラ(PE)」で本当に100%生分解するんだろうかとの疑問も湧く。そして、その「プラ」マークの右には、なんと日本語。よく見ると、かなり怪しい日本語だ。アップでみると、下の写真。(クリックすると拡大します)


せっかく印刷するんなら、「ちゃんと書けばいいのに」と思ってしまうが、たぶんこれはただの『飾り』。ほとんどのベトナムの人たちはこの日本語を読めない。「HONDA」のニセモノで「HANDA」みたいのがあったが、何となく、「日本っぽい」のがベトナムではいい印象なんだということ。とすると、先述の「プラ(PE)」は無意味で、本当に100%生分解するようにも思える。

さてさて、ベトナム進出の日本企業も例外ではない。下のイオンさんの袋。「USE less plastic bag. Make more Green Environment」と書いてある。やる気満々。ちなみにイオンのロゴの下にあるベトナム語は、「日本の大手小売業者です」ぐらいの意味。


私は、22年前、「カンホアの塩」を作り始めてから、ベトナムに通っているが、これまでベトナムの人たちのプラスチックへの感覚は、ほとんど空気や水のようなものだった。そこいらへんに、プラスチックの袋が落ちていても、誰も拾わない。それは私の仕事上もそうで、「カンホアの塩」の塩田の周りにプラスチックごみが落ちていると、私一人が拾っていたこともあった。しかし私は、ここにずっといる訳ではないので、「少しでも落ちてたら、拾ってね」と言い続けていたものの、なかなか真剣に聞いてもらえなかった。

それがだ。去年12月、「カンホアの塩」の生産者の代表と話をしている際、「プラスチックの問題は深刻だ」と私の方に語りかけてきたので、ビックリ。どんな風の吹き回しかと思ったら、どうも去年、ベトナム政府が、国を上げて、プラスチック削減に取りかかったらしい。ベトナムは共産党の一党独裁国家。いったんこうなったら、話は早い早い。それで、カフェのストローも、ポリ袋も、たった半年の間にすっかり変わったのだ。生産現場でも、私がプラスチックごみを指摘すると、正面を向いて聞いてくれた。

ご存じの方もいると思うが、日本はプラスチックごみをベトナムへ輸出していた。12月に、あるベトナム人に言われた。「もう、日本からプラスチックごみは輸入しないよ」と。どう考えたって、自国で処理できないプラスチックごみを輸出しちゃいけない。この件は、明らかに日本がよくない。

プラスチックの問題は、地球温暖化の問題と密接と言われているのは、去年、下記のエントリでも書いたとおり。

新素材の前に(2019年8月30日)

それを思うと、ベトナムの足、オートバイはどうなるか? 車も年々増えているが、ホーチミン市では、地下鉄工事が始まっている。ベトナムのプラごみに対する意識がは確かに急に変わったが、物理的な変化は、まだまだこれからだと思う。しかし、日本は、このプラごみの問題もそうだけど、原発の問題、桜の問題と、動きがあまりに鈍すぎやしないか。そんな日本を尻目に、これからもベトナムは、どんどん変わっていく。

2019年11月19日火曜日

親子煮のネジ


ひとつ前のエントリ、「釜玉うどん」の反省で、捨てられたうどんの悲話と私の反省を書いたが、その翌日、上の写真のメールが、愛しい私のガラ系携帯に届いた。娘が通う中学校からだ。内容は、

給食の調理中に手鍋のネジが「親子煮」に入ってしまい、(全校生徒分の大量の「親子煮」の中から)見つけられなかった。したがって、きょうの給食の「親子煮」は、急遽無しになりました。生徒さんにご迷惑をお掛けしましたことを、給食室を管理する学校として、お詫び申し上げます。

というものだ。「ネジが発見できなかったため」ということは、もしかしたら「床に落ちた」など、混入していなかった可能性もあったかも知れない。後から、娘にそのときの給食のことをきくと、ネジのことを聞いたのは、各教室にその親子煮が運ばれた後だったらしい。だから、その親子煮を目の前にして、「『食べちゃえば』という先生もいたけど、結局は『食べてはいけない』となって、誰もその親子煮を食べなかった。親子煮は、その日の主菜だったので、それ無しはきついとみんな言ってたよ」とのことだった。「その親子煮は、どうなったと思う?」ときくと、「捨てられちゃったと思う」と残念そうに言った。

彼女から話を聞くに及ばす、急遽無しの「無し」とはこの場合、現実的には「廃棄」ということだろう。想像をたくましくしても、養豚場の餌か。いずれにしても、私は、冒頭のメールを読んで、何となくの違和感を覚え、しばらく考えた。

まず、ご存じない方もいると思うので、軽く前置きを。今どきの学校給食は、給食センターと呼ばれる、学校から独立した施設で数校分の給食が集中調理され、昼前に各校に配達されるパターンが多い。そんな中、娘が通う中学校には自前の給食室があって、全てそこで調理された給食が生徒に提供されている。娘は「だから、うちの中学の給食はおいしいのよ。栄養士さんもよく考えてくれてて、いいのだけど」と言う。

言わずもがな、学校としては、「もしも、誤ってそのネジを飲み込んだり、かじって歯が欠けるようなことがあっては絶対ならない」ということで、このようになったのだろう。

この件を知って、最初に私が思ったのは、外れたネジに気がつかなかった調理師さんのことだ。手鍋の、たぶんカシメが、調理中の熱の経年劣化で徐々に緩くなることはよくあること。毎日大量の調理をする大鍋は、かなり激しい使われ方をしていることは想像に易い。調理師はそれが外れる前に鍋を修理するなり買い替えるなりしなくてはならない・・・・のだが、限られた時間の中、ついそれを怠って調理し続けてしまう。それもよくあることではないか。こんなことになってしまい、落ち込んでいるかも知れない調理師さんに、「よくあることですよ。いつもおいしい給食をありがとう」と伝えたい。こんなことがあれば、父兄としては「今後は気をつけてよ」とわざわざ指摘するまでもない。そして、忘れちゃいけないのは、必ず誰かが「廃棄」していることだ。もしもその人が、その調理師さんだったとしたら、あまりにも悲しい話ではないか。

そして、学校に対して思うこと。

これがもしも、一般家庭や飲食店で起こったならば、それは各々の自由だと思うが、公立の中学校で起こったことだ。教育の場である学校で起こったことだ。先述の「言わずもがな」の理由は、「生徒の安全を思って」とも取れるが、私からすると、無難な策を取った感もなくはない。「無し」にしたことで、学校の運営責任を問われることは、確実になくなった。

それはそれとして、今や、日本の食品ロスの問題は、大きな社会問題だ。賞味期限の新しいルールなどが敷かれたりしているが、まだまだなのは言うまでもない。擦り切れた言葉かも知れないが、世界には食うに困っている人が、子供が本当にたくさんいる。中学校を生徒たちの教育の場と捉えた場合(そうなんだけど)、せめて、「こういうことも、ひとつの食品ロスです。しかし、社会的責任を負う立場の本校としては、今回、残念ながら無しにする(廃棄する)しかありませんでした。親子煮おいしいのに、もったいなかったね」などと言って欲しかった。

「せめて」ではなく、ここでは私が望ましく思う学校の判断と想像を言いたい。「無し」にして、生徒に学校の運営責任や、「大人って大変なんだよ」ということを学ばせるよりも、こっちの方がより大事なことを学べるんじゃないかという意味だ。

配膳後、「いただきます」の前に、担任の先生は、これこれこういう訳で、その「親子煮」にはネジが入っている(または可能性がある)ことを生徒に告げる。したがって、「ネジに注意して食べること」と「食べないこと(=廃棄すること)」を、各生徒に選択してもらう。この2つの選択肢は、現実的には一枚のコインの裏表だということを分かってもらうことが大事だ。そして、食品ロスの社会問題の説明をし(中学生なら難なく理解すると思う)、「君たちが、廃棄しないで、この親子煮を注意しながら食べることは、食品ロスを減らすことになる」と付け加えると同時に、「かといって、飲み込んだり囓ったりする危険はともなうので、食べない(=廃棄する)のも全然アリです」とも言う。もう、中学生にもなれば、責任を持って、このぐらいの状況判断は出来るだろうと、私は思う。

ここからは私の想像だが、ここまで先生が生徒たちに伝えると、「ネジに注意して食べること」を選んだ(おそらく多くの)生徒たちは、一斉に目の前の「親子煮」の中のネジを、スプーンで探し始めるだろう。おそらくそのネジは一本だろう。誰かがその一本を見つけたら、すぐに校内放送で全校生徒に知らせる。その後は、「食べないこと(=廃棄すること)」を選んだ生徒を含め、みんなで普通においしい親子煮を食べればいい。(余談だが、その後しばらくは、「あのネジ見つけたの誰だ?」の話題が校内で持ちきりになりそうだ)

ただし例外もある。
生徒の中に、障害者など、ネジに十分に注意を払おうにも払えない生徒がいたら、その人たちは別だ。当たり前だが。

食品ロスの問題は、今回のネジ事件と根は同じだと思う。人間は効率を求めると、必ず行き過ぎる。だからそれをコントロールするために絶対安全なルールを設け、それに基準(責任)が貼り付けられる。絶対安全とは、万人に対してだから、極力例外がないようにする。これは一見ユニバーサル(万能)のようにも思えるが、その分、曖昧さは排除されているから、融通はきかず、工夫しないことが前提とも言える。世の中が複雑になった分、こうした画一化が必要になるのだろうが、その画一化のシワ寄せこそが食品ロスの問題の根ではないのか。本来は、複雑になったその分、工夫も必要になると思うのは私だけか。そこは校長先生の腕の見せ所と思いたいのだが。

「ネジが給食に入っちゃったけど、生徒みんなで探したら、見つかったんだって」
「へぇ〜、今どきそりゃあスゴいな。先生たち、考えたねー」

なんてブログを書いてみたい。

2019年11月12日火曜日

「釜玉うどん」の反省


東京も最近、グッと冷える日があって、そんな日のランチに、仕事場近くの丸亀製麺へ、うどんを食べに行った。

冷えるのだからと汁物を目指して入店したものの、注文したのは、「釜玉うどん」。列に並んでいる間、室温が暖かいせいか、まだまだ冬ではないのだからと、汁無しの暖かいうどんに気変わりした。

で、私は「釜玉うどん」と注文したつもりだったのだが、出てきたのは、それに(単純に)明太子がのってる「明太釜玉うどん」だった。メニューの写真で見た「明太釜玉うどん」は、明太子の赤色が毒々しいと感じたので「明太子ない方がいいな」と判断した経緯が私の中にあったので、出てきた「明太釜玉うどん」を見て、私は自信を持って「明太子がのってないのを注文したんですけど」と言った。

それを言った瞬間、私は「しまった」と思った、が遅かった。

お兄さんは、何事も無かったかのように、「明太釜玉うどん」の中身を全部ゴミ箱にボンと捨てた。無論、昼時は忙しく、数人が私の後ろに列を作っていた。でも私は、余計な明太子を取り除いてくれるだけでよかった。うどんの上に、ちょっと明太子が残っていようが、そのぐらいどうでもよかった。でも、捨ててしまった後から、何を言っても始まらない。

改めて出してくれた、「釜玉うどん」をテーブルについて食べてるときに撮った写真が冒頭のもの(by ガラ系のカメラ)。この「釜玉うどん」は何かを私に語っているように感じた。あのゴミ箱の中の「明太釜玉うどん」に、私はとても悪いことをしたと思い、悲しくなった。そしてこの「釜玉うどん」を食べながら、反省した。

それをサッと捨てるのは、店のマニュアル通りだと思う。私にとって、それは簡単に想定出来た範囲だったじゃないか。だから、「しまった」と思ったのだ。にも関わらず、きっとそのときの私の中では、「おれは間違っていない」といった、持つ必要のない意地があったからこそ、自信を持って「明太子がのってないのを注文したんですけど」と言葉に出たのだと思った。その余計な意地がなければ、きっと「明太子のってないのを注文したので、その明太子をとってくれたら、それでいいよ」と言ってたハズだった。

こういうことは、その一瞬に試されるものだ。
「私にはきっと成長の余地がある」。
きょうは、そうポジティブに思うようにしよう。

2019年10月29日火曜日

映画「ジョーカー」を、15歳の娘と観に行った

1〜2週間前に、新聞のコラムで、この映画のことが書かれていたのを読んで、観てみたいなと思った。そしたら、先週末の朝、中3の娘が、「私、ジョーカーって映画、観てみたい〜」と言い出したので、ちょっと驚いた。

「重い内容の映画で、暴力シーンも結構あると思うよ。決して楽しい映画じゃないけど、それでも観てみたい?」

「だって、今、話題の映画なんだもん。観てみたーい」

「今話題の映画だから」という理由は、理由になるのだろうかと思いつつも、その日の午後、二人で観に行った。ちなみにR15指定。彼女はちょうど15歳。

で、映画を見終わって、彼女に感想をきいてみた。

「こういうことって、世の中にあるんだなーって思った。日本は平和だね」

この映画をまだ観てない人に、ここで私がとやかく言うのは野暮ながら、私の感想は、あまり肯定的ではない。主人公アーサー自身が殺人を犯すようになっていく描写はされてるものの、多数の暴徒になった人たちの「暴徒になった」理由の描写がほとんどない。何となく金持ち層に対しての不満を持っているぐらいか。

今の時代背景として、ポピュリズム、アラブの春のようなことがある中なので、大衆の力・多数の暴徒の描写は特に描かなくても、何となく「今の時代、こういうことってあるでしょ」と、制作側が観る側に前提として委ねているような気がして、そこが乱暴というか無責任に感じた。どんな暴動にも、個々の理由が必ずあると私は思っているから、そこを描かないで、直接「暴徒と化した大衆」に繋げるのには抵抗を感じてしまう。それは特別な理由はなくても「暴動はアリ」と、暗に表現しているようにも思えてしまうのは、私の偏見か。

私の感想は別にして、全体的にこの映画では、「大衆が(特に若者が)不満を募らせると、暴動が起こりうるものだ」というメッセージはある。そして、主役の男優(テニスのロジャー・フェデラーにそっくり)の演技はよかった。

そして、この映画は、映画「バットマン」の敵役のジョーカーが生まれた経緯を示すものらしいので、主人公アーサーは、最後は「ジョーカー」と呼ばれるようになり、生き延びる。ラストシーンは、その生き延びる様子を、少しコミカルに描いてもいる。

さて、話を日本の中学生に戻す。

どうも、この映画、うちの娘という狭い話ではなく、「観てみたい」という、日本の中学生(たぶん高校生も)が少なくないらしい。その理由は、おそらくうちの娘のように「今話題の映画だから」という、内容とは関係ないところなんだと思うのだが。(それにしても、この映画を見終わった今でも、十代の人たちの間で、なぜ「今話題の映画」なのか、私には分からない)

逆に、内容として、「観てみたい」となったとすると、ちょっと怖い。私を含む多くの大人がそうだったように、若い頃、特に十代は、エネルギーが満ち満ちていても、そのやり場がないということがよくあるものだ。少ない人数でも、そのエネルギーのやり場として、「ジョーカー」の「暴動はアリ」と繋がったら・・・・。これもオッサンの私の考え過ぎと思いたい。

2019年9月24日火曜日

小梅の赤梅酢とクエン酸


涼しくなりそうで、なかなか涼しくなってくれないのが、少しもどかしいきょうこの頃。この夏の日のことで、書いておきたいことをひとつ思い出した。

今年6月、小梅の梅干しを仕込んだら、梅酢が足りなくて塩水を足したことを、このブログで書いた。

小梅の赤梅酢が足りな〜い(2019年6月14日)

この6月14日のエントリの最後の方に、この小梅の生産者でもある、群馬・農cafeの岩田さんにいろいろ聞いてみよう、と書いた。で、実際に、聞いてみた。「小梅の梅酢が少ないこと」を、まず話し、「700ccもの塩水を足したけど、どうでしょう?」と聞いてみた。すると、「それはいい」と100%賛成なご意見だった。

小梅の梅干しの仕込みについてはそれでいいとして、その後の問題は、その「梅酢+塩水」自体だ。きょうは、そうして出来た赤梅酢について。冒頭の写真がそれ。色は普通の赤梅酢のように写っているが、普通サイズの梅で同じような赤ジソの量で仕込んだものより、赤色がやや薄い。(塩水で薄めてるからね) そして、私の赤梅酢の使い途のメインは、何と言っても梅酢ドリンク。2年前のエントリでも書いた。

梅酢ドリンク(2017年8月21日)

当然のことながら、700ccもの塩水を足した「梅酢+塩水」は、普通サイズの梅から出来た純粋な赤梅酢と味がずいぶん異なり、塩っぱさばかりで、酸っぱさが足りず、物足りない味。つまり、梅の成分(クエン酸)が足りない。

したがって、この夏の我が家の梅酢ドリンクは、「(小梅の)赤梅酢+塩水+クエン酸」ということになった。小梅の梅干しを仕込みの際、塩水を足し、同じように梅酢の味にご不満をお持ちの、世間で極々少数の方々。クエン酸を足せば普通の梅酢に近づきます。ただし、市販のクエン酸は、少量でかなり酸っぱいので、最初はちょっとずつ足して、味見をしながら、調整してください。私は最初、クエン酸を適当に加えたら多過ぎて、ちょっと困りました、はい。

2019年8月30日金曜日

新素材の前に


前回のエントリで、プラスチックに替わる新素材が開発されることを想像した。夢見がちで書いたが、それには結構な時間がかかりそうだ。となると、その前に、今あるプラスチックを減らすということがある。順序として、こっちが先だ。

冒頭の写真は、栃木県が、「プラごみ『ゼロ宣言』」をしたという新聞記事。(2019年8月28日夕刊、東京新聞)画像をクリックすると拡大します。

「取り組みとして、レジ袋やプラスチック製スプーンなどが不要な場合は断り、分別して捨てることを県民に呼びかける。小売店などには、客への声かけやマイバッグ持参などを要請したり、企業や農業者には、紙など再生可能な資源への代替を求めたりする」

いいことだが、内容に特に目新しいことはないので、この記事を読む限りでは、この道のりはなかなか険しそうに感じる。だが、海のない栃木県が宣言したという点は、見過ごせない。記事にも県の発言として「海洋へのプラごみの流出を削減するため・・・」と載っている。プラスチックの海洋汚染は、人間が住む陸地で始まる。

左は、今年6月に東京新聞に載った、「マイクロプラスチック」と題された特集記事の一部分。(クリックすると拡大します) 右側の水色の囲み記事「今こそ循環経済へ転換を(東京農工大教授の高田秀重氏)」を読んでもらいたい。この特集記事のタイトルはこの画像外の左端に大きく「マイクロプラスチック」なのだが、マイクロプラスチックの問題というよりは、今のプラスチック社会に対する問題提起だ。日本では、プラごみの約4分の3が焼却処分されていて、温暖化を進めている。(日本も欧州のように)バイオマスプラスチックへの転換やプラスチックを使わない生産・流通の仕組みをつくらないと、産業自体が成り立たなくなる、という内容。「海洋に漂うマイクロプラスチックで、魚が・・・・」とはまた別の視点だ。


この高田氏の指摘は、「プラごみは(自治体の規則通りに)しっかり分別して捨てれば、海に流れ込むことはない」では極めて不十分で、それでは温室効果ガスの放出を促してますよ、ということ。地球温暖化問題については、諸説あるのかも知れないが、プラごみの焼却処分は、地下から掘り出した石油を燃やし続けているようなものだと。その意味では、車の排気ガスの問題と並列の関係にある。

一言でプラスチックと言っても、かなりの種類があるため、プラごみのリサイクルはとても難しく、焼却するか土に埋めるかのどちらからしい。比較的プラスチックの種類を特定しやすいPET(ペットボトル)も、リサイクルするにはそれ以上のエネルギーがかかるとも聞いたことがある。一時期、ペットボトルのリサイクルでフリースという冬物の生地が流行ったことがあるが、あれはかなり細かなプラスチックの繊維のため、洗濯時に下水に大量の細かなプラスチックが流れ出て、その細かさ故に、水道局のフィルターを通り抜ける(海に放出される)、とも聞いた。

人間は、目先の楽な方、便利な方に手が出る。日々忙しいからとコンビニで弁当を買って、ガサばるほどのプラ容器を捨てる。ほんの50年ほど前、私の子供の頃はペットボトルはなく、ガラス瓶だった。そのガラス瓶は当たり前に、洗浄後再利用されていた(リユース)。また、惣菜屋さんで佃煮を買うときは、量り売り。三角にした経木(きょうぎ)の容器に入れて、それを紙で包んで輪ゴムでとめてくれた。ときどき、その三角の隅から汁がちょっと漏れたりしてたが、当時はそれを不都合とは全く感じなかった。今、ガラス瓶に戻すと、重いとか、割れると危ないとかになるんだろう。経木に包んでは、不衛生とか、いちいち量ってられないということになるんだろう。そうなると、結局は、先の栃木県の「プラごみ『ゼロ宣言』」のように、ありきたりなことを地道に進めるしかない、となるのか。

目先の便利や楽には、回り回ってそれなりに負荷がかかっている。その便利や楽を皆で続けたら、大変な負荷になり、それを取り戻すのは至難の業となる。土に埋めるは論外としても、燃やせば温室効果ガス。海に漂うマイクロプラスチックは、もはや回収出来ない。そう思うと、すこぶる重〜い気分になってきた。これら目先の便利や楽を、危ないぐらいに負荷がかかっているからという理由で、人間は超えることが出来るのだろうか。

プラスチックに替わる新素材。生分解する新素材は、白馬にまたがった王子様か。仮にだが、今のプラスチックが全て新素材に替わったとしても、その絶対量の多さからして、それで解決とはならない気がしてきた。

出口を探したい。

先のエントリ「新素材への道のり」の冒頭で、「(食べ終わった)コンビニの弁当や麺類のプラスチック容器のガサを見ると、げんなりする」と書いた。私は、自分が感じたその「げんなり」を尊重したい。その「げんなり」を、一時的に通り過ぎる感情としてではなく、ひとつの「嫌なこと」として。きっとこの「嫌なこと」が積み重なって、「すこぶる重〜い気分」になるからだ。例えて言えば、添加物いっぱいの食品を出来るだけ避けるようなこと。この点、うちのカミさんもうるさいのだが、私や家族の食事、子供に作る弁当も含め、多少不便でも(手間がかかっても)、食品添加物を出来るだけ避けるのは、それを「嫌なこと」と感じているところが出発点になっている。

バラ色の人生なんかありゃしない。今感じる「げんなり」を流さず、「嫌なこと」の感覚を抱えていこうと思う。小さいながらも、それが今の私の出口だ。