2019年11月19日火曜日

親子煮のネジ


ひとつ前のエントリ、「釜玉うどん」の反省で、捨てられたうどんの悲話と私の反省を書いたが、その翌日、上の写真のメールが、愛しい私のガラ系携帯に届いた。娘が通う中学校からだ。内容は、

給食の調理中に手鍋のネジが「親子煮」に入ってしまい、(全校生徒分の大量の「親子煮」の中から)見つけられなかった。したがって、きょうの給食の「親子煮」は、急遽無しになりました。生徒さんにご迷惑をお掛けしましたことを、給食室を管理する学校として、お詫び申し上げます。

というものだ。「ネジが発見できなかったため」ということは、もしかしたら「床に落ちた」など、混入していなかった可能性もあったかも知れない。後から、娘にそのときの給食のことをきくと、ネジのことを聞いたのは、各教室にその親子煮が運ばれた後だったらしい。だから、その親子煮を目の前にして、「『食べちゃえば』という先生もいたけど、結局は『食べてはいけない』となって、誰もその親子煮を食べなかった。親子煮は、その日の主菜だったので、それ無しはきついとみんな言ってたよ」とのことだった。「その親子煮は、どうなったと思う?」ときくと、「捨てられちゃったと思う」と残念そうに言った。

彼女から話を聞くに及ばす、急遽無しの「無し」とはこの場合、現実的には「廃棄」ということだろう。想像をたくましくしても、養豚場の餌か。いずれにしても、私は、冒頭のメールを読んで、何となくの違和感を覚え、しばらく考えた。

まず、ご存じない方もいると思うので、軽く前置きを。今どきの学校給食は、給食センターと呼ばれる、学校から独立した施設で数校分の給食が集中調理され、昼前に各校に配達されるパターンが多い。そんな中、娘が通う中学校には自前の給食室があって、全てそこで調理された給食が生徒に提供されている。娘は「だから、うちの中学の給食はおいしいのよ。栄養士さんもよく考えてくれてて、いいのだけど」と言う。

言わずもがな、学校としては、「もしも、誤ってそのネジを飲み込んだり、かじって歯が欠けるようなことがあっては絶対ならない」ということで、このようになったのだろう。

この件を知って、最初に私が思ったのは、外れたネジに気がつかなかった調理師さんのことだ。手鍋の、たぶんカシメが、調理中の熱の経年劣化で徐々に緩くなることはよくあること。毎日大量の調理をする大鍋は、かなり激しい使われ方をしていることは想像に易い。調理師はそれが外れる前に鍋を修理するなり買い替えるなりしなくてはならない・・・・のだが、限られた時間の中、ついそれを怠って調理し続けてしまう。それもよくあることではないか。こんなことになってしまい、落ち込んでいるかも知れない調理師さんに、「よくあることですよ。いつもおいしい給食をありがとう」と伝えたい。こんなことがあれば、父兄としては「今後は気をつけてよ」とわざわざ指摘するまでもない。そして、忘れちゃいけないのは、必ず誰かが「廃棄」していることだ。もしもその人が、その調理師さんだったとしたら、あまりにも悲しい話ではないか。

そして、学校に対して思うこと。

これがもしも、一般家庭や飲食店で起こったならば、それは各々の自由だと思うが、公立の中学校で起こったことだ。教育の場である学校で起こったことだ。先述の「言わずもがな」の理由は、「生徒の安全を思って」とも取れるが、私からすると、無難な策を取った感もなくはない。「無し」にしたことで、学校の運営責任を問われることは、確実になくなった。

それはそれとして、今や、日本の食品ロスの問題は、大きな社会問題だ。賞味期限の新しいルールなどが敷かれたりしているが、まだまだなのは言うまでもない。擦り切れた言葉かも知れないが、世界には食うに困っている人が、子供が本当にたくさんいる。中学校を生徒たちの教育の場と捉えた場合(そうなんだけど)、せめて、「こういうことも、ひとつの食品ロスです。しかし、社会的責任を負う立場の本校としては、今回、残念ながら無しにする(廃棄する)しかありませんでした。親子煮おいしいのに、もったいなかったね」などと言って欲しかった。

「せめて」ではなく、ここでは私が望ましく思う学校の判断と想像を言いたい。「無し」にして、生徒に学校の運営責任や、「大人って大変なんだよ」ということを学ばせるよりも、こっちの方がより大事なことを学べるんじゃないかという意味だ。

配膳後、「いただきます」の前に、担任の先生は、これこれこういう訳で、その「親子煮」にはネジが入っている(または可能性がある)ことを生徒に告げる。したがって、「ネジに注意して食べること」と「食べないこと(=廃棄すること)」を、各生徒に選択してもらう。この2つの選択肢は、現実的には一枚のコインの裏表だということを分かってもらうことが大事だ。そして、食品ロスの社会問題の説明をし(中学生なら難なく理解すると思う)、「君たちが、廃棄しないで、この親子煮を注意しながら食べることは、食品ロスを減らすことになる」と付け加えると同時に、「かといって、飲み込んだり囓ったりする危険はともなうので、食べない(=廃棄する)のも全然アリです」とも言う。もう、中学生にもなれば、責任を持って、このぐらいの状況判断は出来るだろうと、私は思う。

ここからは私の想像だが、ここまで先生が生徒たちに伝えると、「ネジに注意して食べること」を選んだ(おそらく多くの)生徒たちは、一斉に目の前の「親子煮」の中のネジを、スプーンで探し始めるだろう。おそらくそのネジは一本だろう。誰かがその一本を見つけたら、すぐに校内放送で全校生徒に知らせる。その後は、「食べないこと(=廃棄すること)」を選んだ生徒を含め、みんなで普通においしい親子煮を食べればいい。(余談だが、その後しばらくは、「あのネジ見つけたの誰だ?」の話題が校内で持ちきりになりそうだ)

ただし例外もある。
生徒の中に、障害者など、ネジに十分に注意を払おうにも払えない生徒がいたら、その人たちは別だ。当たり前だが。

食品ロスの問題は、今回のネジ事件と根は同じだと思う。人間は効率を求めると、必ず行き過ぎる。だからそれをコントロールするために絶対安全なルールを設け、それに基準(責任)が貼り付けられる。絶対安全とは、万人に対してだから、極力例外がないようにする。これは一見ユニバーサル(万能)のようにも思えるが、その分、曖昧さは排除されているから、融通はきかず、工夫しないことが前提とも言える。世の中が複雑になった分、こうした画一化が必要になるのだろうが、その画一化のシワ寄せこそが食品ロスの問題の根ではないのか。本来は、複雑になったその分、工夫も必要になると思うのは私だけか。そこは校長先生の腕の見せ所と思いたいのだが。

「ネジが給食に入っちゃったけど、生徒みんなで探したら、見つかったんだって」
「へぇ〜、今どきそりゃあスゴいな。先生たち、考えたねー」

なんてブログを書いてみたい。

2019年11月12日火曜日

「釜玉うどん」の反省


東京も最近、グッと冷える日があって、そんな日のランチに、仕事場近くの丸亀製麺へ、うどんを食べに行った。

冷えるのだからと汁物を目指して入店したものの、注文したのは、「釜玉うどん」。列に並んでいる間、室温が暖かいせいか、まだまだ冬ではないのだからと、汁無しの暖かいうどんに気変わりした。

で、私は「釜玉うどん」と注文したつもりだったのだが、出てきたのは、それに(単純に)明太子がのってる「明太釜玉うどん」だった。メニューの写真で見た「明太釜玉うどん」は、明太子の赤色が毒々しいと感じたので「明太子ない方がいいな」と判断した経緯が私の中にあったので、出てきた「明太釜玉うどん」を見て、私は自信を持って「明太子がのってないのを注文したんですけど」と言った。

それを言った瞬間、私は「しまった」と思った、が遅かった。

お兄さんは、何事も無かったかのように、「明太釜玉うどん」の中身を全部ゴミ箱にボンと捨てた。無論、昼時は忙しく、数人が私の後ろに列を作っていた。でも私は、余計な明太子を取り除いてくれるだけでよかった。うどんの上に、ちょっと明太子が残っていようが、そのぐらいどうでもよかった。でも、捨ててしまった後から、何を言っても始まらない。

改めて出してくれた、「釜玉うどん」をテーブルについて食べてるときに撮った写真が冒頭のもの(by ガラ系のカメラ)。この「釜玉うどん」は何かを私に語っているように感じた。あのゴミ箱の中の「明太釜玉うどん」に、私はとても悪いことをしたと思い、悲しくなった。そしてこの「釜玉うどん」を食べながら、反省した。

それをサッと捨てるのは、店のマニュアル通りだと思う。私にとって、それは簡単に想定出来た範囲だったじゃないか。だから、「しまった」と思ったのだ。にも関わらず、きっとそのときの私の中では、「おれは間違っていない」といった、持つ必要のない意地があったからこそ、自信を持って「明太子がのってないのを注文したんですけど」と言葉に出たのだと思った。その余計な意地がなければ、きっと「明太子のってないのを注文したので、その明太子をとってくれたら、それでいいよ」と言ってたハズだった。

こういうことは、その一瞬に試されるものだ。
「私にはきっと成長の余地がある」。
きょうは、そうポジティブに思うようにしよう。

2019年10月29日火曜日

映画「ジョーカー」を、15歳の娘と観に行った

1〜2週間前に、新聞のコラムで、この映画のことが書かれていたのを読んで、観てみたいなと思った。そしたら、先週末の朝、中3の娘が、「私、ジョーカーって映画、観てみたい〜」と言い出したので、ちょっと驚いた。

「重い内容の映画で、暴力シーンも結構あると思うよ。決して楽しい映画じゃないけど、それでも観てみたい?」

「だって、今、話題の映画なんだもん。観てみたーい」

「今話題の映画だから」という理由は、理由になるのだろうかと思いつつも、その日の午後、二人で観に行った。ちなみにR15指定。彼女はちょうど15歳。

で、映画を見終わって、彼女に感想をきいてみた。

「こういうことって、世の中にあるんだなーって思った。日本は平和だね」

この映画をまだ観てない人に、ここで私がとやかく言うのは野暮ながら、私の感想は、あまり肯定的ではない。主人公アーサー自身が殺人を犯すようになっていく描写はされてるものの、多数の暴徒になった人たちの「暴徒になった」理由の描写がほとんどない。何となく金持ち層に対しての不満を持っているぐらいか。

今の時代背景として、ポピュリズム、アラブの春のようなことがある中なので、大衆の力・多数の暴徒の描写は特に描かなくても、何となく「今の時代、こういうことってあるでしょ」と、制作側が観る側に前提として委ねているような気がして、そこが乱暴というか無責任に感じた。どんな暴動にも、個々の理由が必ずあると私は思っているから、そこを描かないで、直接「暴徒と化した大衆」に繋げるのには抵抗を感じてしまう。それは特別な理由はなくても「暴動はアリ」と、暗に表現しているようにも思えてしまうのは、私の偏見か。

私の感想は別にして、全体的にこの映画では、「大衆が(特に若者が)不満を募らせると、暴動が起こりうるものだ」というメッセージはある。そして、主役の男優(テニスのロジャー・フェデラーにそっくり)の演技はよかった。

そして、この映画は、映画「バットマン」の敵役のジョーカーが生まれた経緯を示すものらしいので、主人公アーサーは、最後は「ジョーカー」と呼ばれるようになり、生き延びる。ラストシーンは、その生き延びる様子を、少しコミカルに描いてもいる。

さて、話を日本の中学生に戻す。

どうも、この映画、うちの娘という狭い話ではなく、「観てみたい」という、日本の中学生(たぶん高校生も)が少なくないらしい。その理由は、おそらくうちの娘のように「今話題の映画だから」という、内容とは関係ないところなんだと思うのだが。(それにしても、この映画を見終わった今でも、十代の人たちの間で、なぜ「今話題の映画」なのか、私には分からない)

逆に、内容として、「観てみたい」となったとすると、ちょっと怖い。私を含む多くの大人がそうだったように、若い頃、特に十代は、エネルギーが満ち満ちていても、そのやり場がないということがよくあるものだ。少ない人数でも、そのエネルギーのやり場として、「ジョーカー」の「暴動はアリ」と繋がったら・・・・。これもオッサンの私の考え過ぎと思いたい。

2019年9月24日火曜日

小梅の赤梅酢とクエン酸


涼しくなりそうで、なかなか涼しくなってくれないのが、少しもどかしいきょうこの頃。この夏の日のことで、書いておきたいことをひとつ思い出した。

今年6月、小梅の梅干しを仕込んだら、梅酢が足りなくて塩水を足したことを、このブログで書いた。

小梅の赤梅酢が足りな〜い(2019年6月14日)

この6月14日のエントリの最後の方に、この小梅の生産者でもある、群馬・農cafeの岩田さんにいろいろ聞いてみよう、と書いた。で、実際に、聞いてみた。「小梅の梅酢が少ないこと」を、まず話し、「700ccもの塩水を足したけど、どうでしょう?」と聞いてみた。すると、「それはいい」と100%賛成なご意見だった。

小梅の梅干しの仕込みについてはそれでいいとして、その後の問題は、その「梅酢+塩水」自体だ。きょうは、そうして出来た赤梅酢について。冒頭の写真がそれ。色は普通の赤梅酢のように写っているが、普通サイズの梅で同じような赤ジソの量で仕込んだものより、赤色がやや薄い。(塩水で薄めてるからね) そして、私の赤梅酢の使い途のメインは、何と言っても梅酢ドリンク。2年前のエントリでも書いた。

梅酢ドリンク(2017年8月21日)

当然のことながら、700ccもの塩水を足した「梅酢+塩水」は、普通サイズの梅から出来た純粋な赤梅酢と味がずいぶん異なり、塩っぱさばかりで、酸っぱさが足りず、物足りない味。つまり、梅の成分(クエン酸)が足りない。

したがって、この夏の我が家の梅酢ドリンクは、「(小梅の)赤梅酢+塩水+クエン酸」ということになった。小梅の梅干しを仕込みの際、塩水を足し、同じように梅酢の味にご不満をお持ちの、世間で極々少数の方々。クエン酸を足せば普通の梅酢に近づきます。ただし、市販のクエン酸は、少量でかなり酸っぱいので、最初はちょっとずつ足して、味見をしながら、調整してください。私は最初、クエン酸を適当に加えたら多過ぎて、ちょっと困りました、はい。

2019年8月30日金曜日

新素材の前に


前回のエントリで、プラスチックに替わる新素材が開発されることを想像した。夢見がちで書いたが、それには結構な時間がかかりそうだ。となると、その前に、今あるプラスチックを減らすということがある。順序として、こっちが先だ。

冒頭の写真は、栃木県が、「プラごみ『ゼロ宣言』」をしたという新聞記事。(2019年8月28日夕刊、東京新聞)画像をクリックすると拡大します。

「取り組みとして、レジ袋やプラスチック製スプーンなどが不要な場合は断り、分別して捨てることを県民に呼びかける。小売店などには、客への声かけやマイバッグ持参などを要請したり、企業や農業者には、紙など再生可能な資源への代替を求めたりする」

いいことだが、内容に特に目新しいことはないので、この記事を読む限りでは、この道のりはなかなか険しそうに感じる。だが、海のない栃木県が宣言したという点は、見過ごせない。記事にも県の発言として「海洋へのプラごみの流出を削減するため・・・」と載っている。プラスチックの海洋汚染は、人間が住む陸地で始まる。

左は、今年6月に東京新聞に載った、「マイクロプラスチック」と題された特集記事の一部分。(クリックすると拡大します) 右側の水色の囲み記事「今こそ循環経済へ転換を(東京農工大教授の高田秀重氏)」を読んでもらいたい。この特集記事のタイトルはこの画像外の左端に大きく「マイクロプラスチック」なのだが、マイクロプラスチックの問題というよりは、今のプラスチック社会に対する問題提起だ。日本では、プラごみの約4分の3が焼却処分されていて、温暖化を進めている。(日本も欧州のように)バイオマスプラスチックへの転換やプラスチックを使わない生産・流通の仕組みをつくらないと、産業自体が成り立たなくなる、という内容。「海洋に漂うマイクロプラスチックで、魚が・・・・」とはまた別の視点だ。


この高田氏の指摘は、「プラごみは(自治体の規則通りに)しっかり分別して捨てれば、海に流れ込むことはない」では極めて不十分で、それでは温室効果ガスの放出を促してますよ、ということ。地球温暖化問題については、諸説あるのかも知れないが、プラごみの焼却処分は、地下から掘り出した石油を燃やし続けているようなものだと。その意味では、車の排気ガスの問題と並列の関係にある。

一言でプラスチックと言っても、かなりの種類があるため、プラごみのリサイクルはとても難しく、焼却するか土に埋めるかのどちらからしい。比較的プラスチックの種類を特定しやすいPET(ペットボトル)も、リサイクルするにはそれ以上のエネルギーがかかるとも聞いたことがある。一時期、ペットボトルのリサイクルでフリースという冬物の生地が流行ったことがあるが、あれはかなり細かなプラスチックの繊維のため、洗濯時に下水に大量の細かなプラスチックが流れ出て、その細かさ故に、水道局のフィルターを通り抜ける(海に放出される)、とも聞いた。

人間は、目先の楽な方、便利な方に手が出る。日々忙しいからとコンビニで弁当を買って、ガサばるほどのプラ容器を捨てる。ほんの50年ほど前、私の子供の頃はペットボトルはなく、ガラス瓶だった。そのガラス瓶は当たり前に、洗浄後再利用されていた(リユース)。また、惣菜屋さんで佃煮を買うときは、量り売り。三角にした経木(きょうぎ)の容器に入れて、それを紙で包んで輪ゴムでとめてくれた。ときどき、その三角の隅から汁がちょっと漏れたりしてたが、当時はそれを不都合とは全く感じなかった。今、ガラス瓶に戻すと、重いとか、割れると危ないとかになるんだろう。経木に包んでは、不衛生とか、いちいち量ってられないということになるんだろう。そうなると、結局は、先の栃木県の「プラごみ『ゼロ宣言』」のように、ありきたりなことを地道に進めるしかない、となるのか。

目先の便利や楽には、回り回ってそれなりに負荷がかかっている。その便利や楽を皆で続けたら、大変な負荷になり、それを取り戻すのは至難の業となる。土に埋めるは論外としても、燃やせば温室効果ガス。海に漂うマイクロプラスチックは、もはや回収出来ない。そう思うと、すこぶる重〜い気分になってきた。これら目先の便利や楽を、危ないぐらいに負荷がかかっているからという理由で、人間は超えることが出来るのだろうか。

プラスチックに替わる新素材。生分解する新素材は、白馬にまたがった王子様か。仮にだが、今のプラスチックが全て新素材に替わったとしても、その絶対量の多さからして、それで解決とはならない気がしてきた。

出口を探したい。

先のエントリ「新素材への道のり」の冒頭で、「(食べ終わった)コンビニの弁当や麺類のプラスチック容器のガサを見ると、げんなりする」と書いた。私は、自分が感じたその「げんなり」を尊重したい。その「げんなり」を、一時的に通り過ぎる感情としてではなく、ひとつの「嫌なこと」として。きっとこの「嫌なこと」が積み重なって、「すこぶる重〜い気分」になるからだ。例えて言えば、添加物いっぱいの食品を出来るだけ避けるようなこと。この点、うちのカミさんもうるさいのだが、私や家族の食事、子供に作る弁当も含め、多少不便でも(手間がかかっても)、食品添加物を出来るだけ避けるのは、それを「嫌なこと」と感じているところが出発点になっている。

バラ色の人生なんかありゃしない。今感じる「げんなり」を流さず、「嫌なこと」の感覚を抱えていこうと思う。小さいながらも、それが今の私の出口だ。

2019年8月20日火曜日

新素材への道のり


ときどき、昼食に、仕事場近くのセブンイレブンで弁当や麺類を買う。レジで「レジ袋と箸は要りません」と言う。しかし、弁当や麺類自体のプラスチック容器のガサを見ると、げんなりする。廃棄は自治体のルールどおりに出しはするものの、この巷に溢れるプラスチック容器、スゴイ量だ。以前、このブログでも、触れたことがあるが、この量だとリユースも難しい。

ダンボールはリサイクル?(2010年3月26日)

マイクロプラスチックの問題がマスコミなどで取り沙汰されると、「○○社は、プラスチックのストローを○○年までに廃止すると発表」とも報道される。実際にどこまで実用化の見込みがあってそう宣言しているのかが気になると同時に、意地悪に人気取りのように感じたりもする。しかし、ストローだけでも現実的に廃止となると、プラスチックの代替品、つまり自然界で生分解する新素材の開発と実用化がされるということだから、「人気取り」で片付けては甚だ失礼だ。ただ、そこへ辿り着くまでの道のりはどんなものだろうか。それは、気になる。

ということで、プラスチックからそれに替わる新素材への転換の道のりを、ちょっと想像してみた。

当然のことながら、現在、各素材メーカーは、その開発に躍起だろう。で、今の段階だと、開発されても、枕詞のように、「コスト高が問題だ」となる。実用化には大量生産が必須条件だ。私の想像だが、現在のプラスチックのメインストリームの流通イメージは、大ざっぱには以下。

素材メーカー
  ↓
容器加工メーカー
  ↓
容器ユーザー(各メーカーや大手小売店)
  ↓
消費者

新素材もこれと似たような流通だとする。新素材の容器を作る側(素材メーカー・容器加工メーカー)としては、生分解の速度や機能性など過去にデータ・実績のないものを作るので手間も時間もかかる。そして「これならイケる」素材を開発しても、定期的に一定量以上の受注の目算がないと投資もしにくい。一方、その後ろの買って使う側(容器ユーザー)としては、定期的な大量発注は大きな変化になるので、慎重にならざるを得ない。新素材での機能的な問題は当然気になるところだし、定期的な大量発注の契約を容器加工メーカーと結んだものの、半年後に、より優れた安価な別の新素材が開発されては、困る。

規模の小さな会社にはなかなか出来ないが、こういうときこそ、おっきいところ、例えば、私が昼食をときどき買うセブンイレブンさんなんかどうでしょう? 手始めに、全国のセブンイレブンのレジ袋だけでも新素材の袋にする。これだけでも、素材・容器加工メーカーにとって、低価格化出来る受注量に満たないものか。アイスコーヒーのストローもいいが、ストローは口で直接吸うものなので、レジ袋の方がリスクが低い気がする。消費量はレジ袋の方が断然多いだろうし。多種多様な用途と形があるプラスチックは、素材自体、何種類もある。しかし、まずはひとつ。象徴的にレジ袋用の新素材だけでも、船出することが出来たら、気運が高まりはしないか。

あと、新素材の開発と平行して、普及初期の段階では、容器の規格数を少なくすべきと思う。一升瓶やワイン瓶のように、商品容器を数少ない規格に絞り込む。プラスチックは、成形するのが簡単なためだと思うが、今や商品の数だけ、容器の規格がある。特にPETボトル。同じ500mlでも商品によってみんな形が違うんだもの。それではなかなか前に進まない。新素材もいずれはプラスチックのように成形が簡単なものも出てくるだろうが、一般普及するまでの間は、規格数を絞ることによって、ひとつひとつの規格の生産数量を稼ぎ、普及に勢いをつける。それは全世界で、大手企業だけでなく、小さな企業も、おこぼれとして低価格で購入出来るようにして、普及を後押しする。

言うまでもなく、素材メーカーにとって、これは大きなビジネスチャンス。だけど、プラスチック→新素材の問題は、大企業・小企業・一般消費者というだけでなく、全世界的な問題なのだから、特定の企業や地域というものではなく、ボーダレスで早急な普及を目指してもらいたいところだが、それはキレイ事か。

まずは、素材メーカーさん、よろしくお願いします。

2019年7月30日火曜日

小梅の土用干しをしながら、赤ジソの処理法を考える


梅雨が明けた。暑い。うだるように暑い。でも、こんな日にこそ、梅干しの土用干しだ。ということで、待ちに待ったこの強烈な真夏の陽差し。去年の梅雨明けが、6月末だったように、ここ数年、梅雨明けが滅法早かったので、このブログでも、「早めに準備を」と呼びかけていたが、今年は全然早くない7月末。お陰で、赤梅酢に浸かってる時間が長くなってしまったため、かく言う私も、少しだが、カビが生えてしまった。私の呼びかけで、カビを生やしてしまった方がいらしたら、ごめんなさい。

さて、今年は小梅(甲州小梅)の梅干しを初めて仕込んだ。それにこの甲州小梅という品種は、カリカリ梅タイプで、これも初めて。一個一個の梅が小さいから、収穫が大変だの、ヘタ取りが大変だのと書いたが、干すのもやや大変と最初は思った。

関連エントリ:
初めての、小梅の梅干し(2019年5月31日)

普通サイズの梅の場合は、土用干しの際、ザルにへばりつくことがあるので、一個一個裏返していたが、今朝干し始めた小梅は、数・サイズからして、とてもそんな気にならない。冒頭の写真は、今朝、その小梅を干し始めたところ。車の屋根の上で干している。これで、4キロ。一個ずつ裏返す気にならないことが分かると思う。なので、篩(ふるい)に掛けるようにザルを水平に揺すったり、手の平で転がしたりして、何となく陽に当たるところをずらしたぐらい。特にこのカリカリタイプだと、全くザルにへばりつくことがないので、これで十分だ。だから、やってみれば、あ〜りゃま。かえって、より楽だった。

20年梅干し仕込んでいても、毎年、細かいことを含め「これはこうした方がいい」というアイデアが浮かぶものだ。今年は、「赤梅干しの赤ジソをどうするか?」ということだった。早速、「カンホアの塩」のサイト上の梅干しレシピにも簡素に書き込んだが(作り方3:土用干しと保存)、それは、最終的に、梅干しをどう仕上げたいかによると思う。ここにそれを詳しく書いてみたい。

土用干しが終わると、梅干しを瓶に戻して一年ほど寝かす工程(保存・熟成)に入るが、赤ジソはそのときの添え物になる。その添え物の水分量で、最終的な梅干しの水分量の調整が出来るということだ。その水分量の調整で一番影響が大きいのは、土用干しが終わった梅干しを、赤梅酢にくぐらせてから寝かせるか、くぐらせないで寝かせるかになるが、添え物の赤ジソでも、微調整が出来る。

例えば、私の場合。乾燥タイプの梅干しが好みだ。したがって、土用干し後、赤梅酢にはくぐらせない。そして、悩むのは、添え物の赤ジソの水分量だ。若干のシットリが欲しければ、赤梅酢から上げたばかりの赤ジソをギュッと絞って、保存・熟成の添え物とする。出来るだけ、梅干しを乾燥した状態に保ちたければ、赤ジソは、梅と一緒にザルで土用干しして、カラカラになったものを、保存・熟成の添え物とする。この二通りで悩んだが、今年はカリカリ小梅なので、そのカリカリさを長持ちさせるためにはよさそうな「できるだけ乾燥の梅干し」の方に決めた。カリカリ梅でなければ、「若干のシットリ」を選んだ。

先ほど、「最終的な梅干しの水分量の調整で一番影響が大きいのは、土用干しが終わった梅干しを、赤梅酢にくぐらせるか否か」と書いたが、その調整はそう単純ではない。なぜなら、「土用干し後に赤梅酢にくぐらす」ときに足される赤梅酢の量の調整はとても難しいからだ。しっかり調整したければ、決まった赤梅酢の量を計ってスプレーするなどの手もあるが、一年ほどの保存・熟成期間を経ると、たとえ最初は乾燥してシワくちゃな梅干しでも、空気中の水分の影響で、ややシットリの方向に傾く。しっかりと水分を吸収した思いっきりネットリした梅干しを目指すなら、微妙な赤ジソの水分量はどうでもよく、ただたっぷりと赤梅酢にくぐらせればいいのだが、「適度にシットリ」を理想とする私としては、赤梅酢にはくぐらせないで、ギュッと絞った赤ジソの若干の水分量を足すぐらいがちょうどいい。だから、私にとって、この赤ジソの処理法はどうでもいいことにはならず、赤梅酢からあげた赤ジソを絞るときの絞り加減にも気を使う・・・・。

いや〜、このエントリも、ずいぶんマニアックになってしまった。参考になった方が一人でもいれば嬉しいし、また別の見方もある思うので、そういう方からは、是非とも意見を聞かせてもらいたいものだ。