2018年5月15日火曜日

アサガオや、伸びたいように、伸びなさい

先週末、去年育てたアサガオの種がポットで二葉になったところで、本植えした。(上の写真) 今、ヒルガオもポットで育てているのだが、アサガオより少し遅めなので、もう少し先になると、ここにヒルガオが加わる予定だ。

さて、上の写真の上の方はどうなっているかと言うと、下の写真のようになっている。
高さ6mぐらい。南東向きの陽当たりのいいところ。
去年も同じ場所で4mぐらいの支柱を立てたのだが、軽〜く一番上まで伸びたところに台風が来て、古い竹竿の支柱が半分に折れた。そこで、今年は、6mの青竹を入手して、負担のかかる支柱の支点にクッションを挟んだ。

アサガオを育てている家は多いが、どんどん伸びて、夏には蔓の絡み先が見あたらなくて先端がブラブラしていることが多い。しかし、一度だけ、いつだったか、古い二階建ての横壁一杯に茂っていたアサガオを見たことがあって、「こんなに伸びるんだ」と感心したことがあった。

アサガオに、つるべ取られて、もらい水

この名句のアサガオも井戸のつるべ程度の高さだし(おそらく2mぐらいか)、朝顔市のアサガオは蔓を回した鉢植えだ。人間の都合はいろいろあれど、アサガオ自身は、もっと高く伸びたがっている。そして、それはアサガオの天性であり、それ自体、何も悪いことではない。

話は飛んで、中世のヨーロッパ。貴族など裕福な女性の間で、長い爪が「おしゃれ」または「裕福さの象徴」のように思われていた時代があったらしい。湾曲しながら長く伸びた爪を、誇らしげに見せる女性の絵を見たことがある。絵に残っているぐらいだし、服装もゴージャス。無論こんな爪で皿洗いは出来ないし、一般的には生活全般に支障を来すが、それでも暮らしていけるのだから、裕福な訳だ。異様に見えるものの、単に「金持ちの道楽」というだけでなく、私なりに、「どうしてこんなタシナミがあったのだろうか」と考えたことがある。それは「伸びたがっているものは伸ばす」ということではなかったか。

私は、二十歳代の頃、生活上及び衛生上の理由から無理だったので爪こそ伸ばさなかったものの、髪の毛と髭を5年ぐらい切らなかったことがある。それは、「伸びたがってるものは、それなりに意味があるはずだから、切ることはない。伸ばしたれ」と思っていたからだった。ある種のナチュラル派。今になって思えばだが、その頃私は、何となく世の中を窮屈に感じていたので、その反動でそうしていたような気もする。

髪の毛は腰まであったし、髭は薄いながら、一番長いので20cmぐらいあったと思う。伸ばしてみて気づいたが、髪の毛も髭も、ある程度伸びると、それ以上伸びないものだ。もっと太い髪の毛や髭だともっと伸びただろうが、あるところまで来るまでに自然と摩耗していたり、そのうち抜けたのもあったりで、髪の毛は腰までが限界だった。

さて、アサガオに話を戻す。

今は人並みの髪の毛ので、髭も2〜3日に一度は剃っているが、我が家のアサガオには、「伸びたがっているアサガオよ。伸びたいだけ伸びろ」という想いがある。それが今年は6mの支柱になっている。(6mでも足りないかも知れないが) 先述のように、家の壁に沿わせる方が、グリーンカーテンも兼ねていいのだが、我が家にはあいにくその場所がなく、こんな目立った出で立ちになってしまった。

また、この「伸びたがっているアサガオよ。伸びたいだけ伸びろ」は、私にとって、子育てにも重なっている。「我が子らよ、伸びたいだけ伸びろ」といった風に。つい自分の都合や、いわゆる「常識」、「危険性」というのが邪魔になって、必要以上に子供の考えや行動を制御しがちになるときが、私にはある。そんなときこそ、懐を深くしなければいけない。その戒めとしても、このアサガオがどんどん蔓を伸ばしていく姿を眺めていたいと思っている。

2018年5月7日月曜日

ニセアカシアを想う人間の気持ち

♪アカシアの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい〜

ちょうど今、東京の多摩川河川敷では、ニセアカシアの花が、甘い香りを放ちながら咲き乱れている。あっちでもこっちでも。「あっ、アカシアだ」と呟いた後、「本当はニセアカシアだったっけ」と呟き直す。もう何度、同じ呟き直しをしたことだろうか。ニセでない、本家のアカシアを、私は見たことがない。

少し気になったので、その違いについて。
wikipediaによると、

明治期に日本に輸入された当初は、このニセアカシアをアカシアと呼んでいた。後に本来のアカシア(ネムノキ亜科アカシア属)の仲間が日本に輸入されるようになり、区別するためにニセアカシアと呼ぶようになった。しかし、今でも混同されることが多い。本来のアカシアの花は放射相称の形状で黄色く、ニセアカシアの白い蝶形花とは全く異なる。

どうも、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」の「アカシア」も、「ニセアカシア」らしい。人間にとって、言葉の影響は大きい。ニセと付くだけで、どこか悪者の雰囲気が漂う。また、この外来種は、繁殖力が強いため(在来種の繁殖を妨げるため)、しばしば駆除の対象になる。刺さると痛いトゲもある。バラは「美しいものにはトゲがある」と例えられるのだが。

さて、一週間前、そんなニセアカシアが咲き乱れた多摩川の河川敷で、たまたま待ちぼうけをくらった私は、その花を集めてみようと思い立った。最初は「天ぷらかお浸しか」などと思ったのだが、待ちぼうけの勢いで、ひと抱えの花の付いた枝を車に積んだ。車の中はスゴイ香り。あまりの香りなので、帰路、家の隅に置いておくだけで、アロマな感じになりはしないかと思った。トイレなんかもいいんじゃないか、とかね。

帰宅後、枝から花の房だけを取った後、カミさんに相談したら、「それだけあるとアカシア酒がオススメ」とのこと。また、少しだけ、水で溶いた小麦粉を絡ませたものを、油をひいたフライパンで焼いてくれた。天ぷらにすると、「デレッとなっちゃうから」。なるほど。これまで何度か天ぷらを食べたことがあったが、たしかにデレッとなってた。何しろ、甘い香りが強烈なので、食べると、半分お菓子のような感じ。ひとかけ食べた中二の娘は「ポン酢がうまいと思う」と提案。甘さが中和される感じで、たしかにうまい。
それで。本命のアカシア酒。カミさんは35度の玄米焼酎がいいと言うのだが、そんな準備はないので、近くの酒屋さんで、25度の麦焼酎を買ってきた。彼女が持ってる果実酒の本によると、漬けるのは一週間がいいらしい。その後は、苦味が出てくるとのこと。
 一升の麦焼酎に浸り切れないほどのニセアカシアの花。その浸かり切れてない部分が気になって、一日2〜3度、天地をひっくり返して、一週間経ったのが、昨日。
花のガクの緑色がしみ出たのか、やや黄色を帯びた。ここから花を取り出す。
これで完成と思いきや、ここから3ヶ月寝かせて、完成らしい。とは言え、ちょっと飲んで見たが、ほのかに甘い香りがついている程度。

在来種の繁殖を妨げる外来種のニセアカシア。どうやって駆除しようか日々腐心されてる人たちもいる。ただ、その繁殖力の強さゆえに、我が家で「アカシア酒」になってもいる。3ヶ月後、この酒はどんな味を醸し出していることだろうか。

2018年3月16日金曜日

コンビニのコーヒー・失態談の考察

前のエントリで書いた通り、続けて二度の失態をやらかした私だが、その後考えたことがあるので、書き出してみる。

1.「カネを払う」ということに、私は固執していなかったか?

一度目の失態後、私は改めて「コーヒー代」を払おうとした。そして二度目は、「L」に足りない50円を払おうとした。どちらもコンビニ店の好意に押され、払わなかった。まぁ、そこは仕方がなかったかな。朝の忙しい時間という状況もあったし。しかし、その「朝の忙しい時間」ということも手伝い、ついつい手っ取り早くカネに固執した私がいたことは否めない。「カネを払えば」というつもりはなかったものの、即カネにからむ言動をとったことは反省すべきことだったようにも思える。ここに現在のカネ社会の問題の一面もある気もする。

2.その店の対応は、マニュアルどおりだったのか、個人的なものだったのか?

店員さんの反応には迷いがなかったので、マニュアルどおりだったかも知れないが、何とも日本独特な対応だったようにも思った。もしもこれが他の国だったらどうだったか? マニュアルどおりでも個人的な判断であっても、客に対して親切なことに変わりはないのだけど、強いて「それが100%いいことか?」と考えると、言い切れない何かが残る。何故だろう?

3.私のような失態をする客はどのくらいいるのだろうか?

ちなみに、この失態談を5人の前で話した。すると、最初は笑って聞いていたものの、少し時間が経った後、2人から似たような失敗談を聞いた。「何だ、最初から言えよ」って感じ。一般的には、わざわざ人に聞かせる話でもないから、あまり明るみに出てこないが、実は結構ありそうだ。

4.「R」のカップに「L」の量のコーヒーを入れてもこぼれないのは、「R」カップの設計時点で計算済みなのだろうか?

あのこぼれないギリギリな様を見て、私は計算済みだと思った。それを見届けた店員さんも、すでに知っていることといった振る舞いだった。上の「3」とも関係するが、何度か経験済みなんだと思う。さて、深読みしてみる。レジで「R」の注文をして「R」のカップを受取り、犯罪的に「L」のボタンを押しても同じようになる。たくさんこぼれるカップのサイズまたはコヒーの量だと、コーヒーマシンに捨てたコーヒーがたくさん溜まることになるが、このようにギリギリだと、多くは溜まらない。(排水機能は簡素でいい) 「L」サイズを飲みたがっている犯罪者は、あの店員さんのように、最小限こぼしてフタをして立ち去ることだろう。その場合、お店側は、その挙動不審さに気がつかなければならない。(スリルを味わって楽しむ人たち。決してそのような行為はしないでください。それは明らかに犯罪です)

5.レジ裏のバックヤードに消えたコーヒーは、その後どうなったんだろうか?

バックヤードで休憩している店員さんなどが「ラッキー」とばかりに飲んでくれてたらいいのだが、忙しい中では難しそうだ。また、日本独特の「衛生上悪い」という理由で、捨てられていたら、ちょっと悲しい。悪いのは私なのだが、捨てられることに抵抗感があるのも確か。操作を誤った人の場合は、全部捨てなくても、「R」のカップに入ったなみなみのコーヒーを「R」ぐらいの量まで捨てて、どうぞと渡されるぐらいが、私には一番納得がいくのだが・・・・。薄々、捨てられていそうな気がしているので、やや気にかかる。

さて、冒頭の写真だが、中途半端にコーヒーが入っているが、飲みかけのコーヒーなのではない。「R」サイズの「ホットコーヒー」のカップに、「R」サイズの熱い「アイスコーヒー」が入っている。だいたいカップに半分ぐらいだ。意識的に「R」のところを「L」を入れたら犯罪だ。しかし、値段が同じ「ホット」と「アイス」の「R」を押し違えることは、厳密には詐称ながら、「アリ」なんではないかと思って、イタズラ心(好奇心)も手伝って、やってみちゃった。わざわざ忙しい店員さんの許可を得るのも憚れたので。

何せ私は、濃いコーヒーが好きだ。エスプレッソがあるとよく飲む。ベトナムでもコーヒーはドロドロ濃い。ご存じと思うが、コンビニの「アイスコーヒー」の場合、たっぷりの氷が入ったのカップに、熱い「アイスコーヒー」を注いで、氷入りの冷たい「アイスコーヒー」が出来上がる。つまり熱い「アイスコーヒー」を薄めたものだ。だから、アイスコーヒーのカップに注がれる熱い「アイスコーヒー」自体を、一度熱いまま飲んでみたい、と思っていた。

さて、問題の味だが、エスプレッソとは異なる。どうも、その熱い「アイスコーヒー」は、苦味が剥き出しな感じで荒っぽい味。手軽に、「きょうは苦味が濃いコーヒーを飲みたいな」と思って、コンビニの前を通りかかったら、いつもでなくても、オプションとしてはいいかも知れない。というのが私の感想です。ただし、何度もするのなら、事前に店員さんに許可を取るべきだろう。

この熱い「アイスコーヒー」の、お店側の不都合を考えると、レジで集計されるであろう「ホット」と「アイス」の数量と、コーヒーマシンでの実際の販売数量が合わなくなることが考えられる。コーヒー豆は、各々異なるから、コーヒー豆や(氷入り含めた)カップなどの在庫管理にズレが生じるかも知れない。

世の中には、厳密にすべきことと、緩くしておいた方がいいことがあると思う。それは当然個人差もあるのだが、決まり事になれば、社会的にもなる。厳密さと緩さのサジ加減を誤ると、必要以上に不都合が生じたり、不自由になったりしてしまう。そして、現実は常に移ろうものだから、そこに絶対はないものだ。だから、私は、いつも厳密さと緩さを持ち合わせながら、身の回りの様々な判断をしたいと思っている。コンビニのコーヒーも含めて。

2018年3月13日火曜日

コンビニのコーヒー・失態談

ときどき、コンビニでコーヒーを買う。だいたい小さいカップ(R)で100円、大きいカップ(L)で150円。1ヶ月ぐらい前から、週に3日ぐらい、朝、仕事場への途中で、このコーヒーを求めるのがややクセになっていた。

このクセが始まってから1〜2週間が過ぎて慣れた頃、コーヒーが入った置いたカップにフタをする際、手元が狂って、カップを倒してしまった。コヒーマシンの周りから床にコーヒーがぶち撒かれた。慌てて店員さんに、「すみません。コーヒーこぼしちゃった」と告げると、彼は、いったん現場の状況を確認して、「大丈夫ですよ」と言って、雑巾とモップを取りに行った。

私は、別の店員さんに改めてコーヒー代を払おうとすると、「いいですよ、いいですよ、どうぞ」と言って、彼女は新しいカップを差し出した。朝の忙しい時間だ。ここで押し問答するのもどうかと思い、私は「すみませんでした。ありがとうございます」と言って、そのカップを受け取り、モップで床を拭いている店員さんの横のコーヒーマシンで改めてコーヒーを注ぎ、慎重にフタをした。床を拭いているその店員さんに再三謝るも、彼はニコニコして「大丈夫ですから」。私はその店を後にした。

そんなことがあってから一週間後。それまで、大きいカップ(L)を注文していた私だったが、その朝は忙しくゆっくり飲んでる時間がなかったこともあって、小さいカップ(R)を注文した。が、ついついその前日までの「L」の惰性と、「L」のボタンが右側にあったせいか(私は右利き)、誤って「L」を押してしまった。慌てて左側の「R」を数回押直し、さらにカップが入っている透明なプラスチックの扉を開こうとしたが、ロックがかかって開かない。コーヒーマシンは、豆をガリガリ挽いていて、もうすぐコーヒーが小さいカップに注がれる。

「あー、またやっちゃった」
(一週間前と同じコンビニ)

「すみません。小さいのに大きいLを押しちゃいました。どうしましょう?」と、やや動揺した私。会計途中のレジにいた、一週間前とは別の店員さん(店長)は、その客を待たせて、「扉は開かないんですよ。大丈夫ですよ」と笑顔で、コーヒーマシンの方へ歩み寄り、私の隣でコーヒーが注がれるのを見ていた。「R」の小さいカップに、なみなみのコーヒーが注がれたが、何と、寸止めでこぼれない。ロックが解除された扉を開けて、店長さんは、(床にこぼれないよう)そのなみなみのコーヒーを少しだけこぼしてから、

「今、新しいカップを持って来ますから」
「えー、これでいいですよ。あと50円払いますし」
「いえいえ、いいんですよ」
と言い残して、レジ裏のバックヤードへ消えてしまったかと思うと、すぐに引き返し、新しい「R」のカップを私に手渡すと、待っている客がいるレジへと戻った。

やはり朝の忙しい時間だ。ここで押し問答は出来ない。私は言われるままに、そのカップをコーヒーマシンに設置し、冷静に「R」を押す。コーヒーにフタをしているとき、待たされていた客は、何事もなかったように、私の横をすり抜ける。私は店長さんに、「すみませんでした。ごめんなさい」と深く頭を下げ、店を後にした。

このような、二度の失態の後、私はいろいろ考えた。

1.「カネを払う」ということに、私は固執していなかったか?
2.その店の対応は、マニュアルどおりだったのか、個人的なものだったのか?
3.私のような失態をする客はどのくらいいるのだろうか?
4.「R」のカップに「L」の量のコーヒーを入れてもこぼれないのは、「R」カップの設計時点で計算済みなのだろうか?
5.レジ裏のバックヤードに消えたコーヒーは、その後どうなったんだろうか?

長くなったので、改めてのエントリで書きたいと思う。

2018年2月26日月曜日

不便の恩恵

今から30年ほど前、自炊しながらインドを旅行していたときのこと。今はどうだか分からないが、当時、普通にインドの市場で売られていたお米には、(米粒より若干小さな)小石が混ざっていた。このまま炊くと、食事中、無防備に小石をガリッと噛んでしまうことになり、それは結構辛い。したがって、ご飯を炊く前には、必ず小石を取り除く選別作業が必要だった。売ってる米に小石が混じっているなんてことは考えもしない地域出身の私は、「毎回選別が必要だ」と最初に思ったときは、面倒だ厄介だと憂鬱な気分になった。しかし、必要なことなので、毎日の習慣として行うことになった。

いざ日々行ってみると、これが思いの外、面倒に感じない。ほんの2〜3日目ぐらいからだったと思うが、不思議と全く面倒と感じなかったのだ。それはまるで、「料理を始める前に手を洗う」ぐらいのことになっていた。その全く面倒と感じない感覚は、面倒と思った当初の自分と同一人物の感覚なのかと、疑いたくなる程だった。

自分の直感を信じることは大事なことと、常日頃思ってはいるが、こういうように、アテにならない自分の直感もあるのだ、ということを思い知った経験だった。そのキッカケになったのは、選別の必要性だったと思う。その必要性が、憂鬱に思った私の背中を押したからこそ、面倒と感じなかった不思議を味わえた。もうひとつ思い知ったのは、「(まだやってないことを想像して)思うこと」と、「(実際にやってみて)感じること」の違いだ。この場合、面倒と「思ったこと」は幻想で、面倒でないと「感じたこと」が、現実だったということだ。

さて、時は流れて、今の東京の我が家。

カミさんの実家は専業農家で、お米も作っている。そのため、東京の我が家で食すお米は、有り難くも定期的に送ってもらっている。ただし、去年収穫のお米は粒が小さかったという理由で、籾摺りがちゃんと出来ていない米粒が混じっている。

玄米で送ってもらって、我が家の家庭用精米器で五分づき程度に精米するのだが、精米後、玄米のときよりも、それら小さな籾付きの米粒が目立つようになる。
上の写真のように、ついでに、茶色や白色になった粒も選り分ける。昔、ビックコミック・スピリッツの「美味しんぼ」の白飯対決で、海原雄山が、炊く前の米の選別を一粒ずつ行っている飯炊き職人で士郎を唸らせたが、それを思い出してしまい、つい変色した粒をはじいてしまった。「美味しんぼ」では、少しでも欠けた米粒もはじいていたが、私はそこまではやらない。(ちなみに、ベトナムでは、あえて割れた米だけで作られた料理がある。だから、割れた米だけのお米も売っている。この話は別の機会に) 私がはじいた籾殻付きや変色した米粒は、庭を訪れる鳥の餌になった。

話が脱線気味だ。戻そう。何しろ、選別せずに炊くと、食べたとき、籾殻が口の中に残り、あまり気持ちのいいものではない。30年前のインドの小石ほどではないにしても。そこで、精米後、籾殻付きのお米の選別作業を行う。それが冒頭の写真。

当然、30年前のインドでの経験がよみがえる。

有り難くもカミさんの実家から届いているお米。その有り難さは、選別作業の必要性に直結する。時間にして、5合で10分ぐらいだろうか。それは単純な時間の長さなのではないのだが、もう、幻想として面倒と「思うこと」はない。選別している間の短い時間、30年前インドで同じようなことをやっていた感覚がよみがえってくる。それはまるでタイムマシーンに乗ったような感覚だ。

言うまでもなく、小石や籾殻付きの米を選別するよりしない方が便利だ。だが、その不便から得ているものは、大きいかも知れない。

2018年2月15日木曜日

にぎり寿司と醤油

この冬は記録的な寒波が来た。私の住む東京・昭島も、最低マイナス8℃にもなったらしいのだからすごかった。この激しい寒波が東京を襲う直前に私は、南国ベトナムへ出張した。連日30℃は越えるのだが、一週間の出張なので、その暑さにちょうど慣れた頃、日本に戻らなくてはならなかった。で、帰ってくると寒さが身にこたえたこともあって、カミさんに「今朝はマイナス4℃かよ。東京にしちゃぁ、えらい寒よね」と言ったら、「何言ってんのよ。先週は、最低マイナス8℃で、あまりに寒くて夜中に起きちゃったぐらいなんだから。このマイナス4℃は寒くないの。暖かいのよ」と怒られた。続いて娘も「そーだ、そーだ」とカミさんの援護射撃をする。何しろ本当に寒かった。

さて、にぎり寿司。古くは、江戸時代、華屋与兵衛という人が考案したと言われている、と思った。そういうウンチクはさておき、回転寿司でも、ネタのウラにワサビをちょいと塗って、シャリと合わせて、にぎり寿司だ。多くの人は、そのにぎりの端っこに、小皿にとった醤油をつけて食す。

私は常々、その食べ方はよくないと思っている。小皿にとった醤油ににぎりの端っこをつけると、毛細管現象で、醤油が米粒と米粒の間にぐんぐん染み込んで、醤油過多になるからだ。だいたいシャリにはしっかり味がついているから、そこにさらに醤油が染み込むことになる。一方、ネタの方は、多くはツルツルしたソリッド状なので、醤油はにぎりの端っこの極部分的表面にうっすらとつく程度。

江戸前寿司と称した高級な寿司屋さんへ行くと、ネタ自体に仕事がしてある、つまり味もついていることが多いから、醤油の小皿自体ない。ネタの寝かし方・時間もしっかり考えられているから、おいしいです。とは言え、そういう高価な寿司屋さんにはそうそう行けないから、私にとっては回転寿司でも、少しでもおいしく食すことが現実的に重要だ。

この醤油のつけ方が気になり始めた頃、まず私は、にぎりを裏返してネタ側を下にして、小皿の醤油に浸して食していた。こうすると、たしかにシャリには醤油が染み込まずに済むのだが、ネタは平べったい場合が多いため、ネタ全体にベタッと醤油がついてしまい、ついつける醤油が多過ぎてしまう。また、何となくが裏返しになったにぎりが小皿の醤油に浸かった姿が私の美意識に反した。

そこで思案した私は、回転寿司の皿にのったにぎりの上に好みの量の醤油をサッと好きな位置にかけることにした。こうすれば、裏返えった姿を目にすることもなく、そのまま口へ持っていける。また、醤油がかかったところとかかっていないところが適度なムラになって(味に変化が出て)おいしい。お気づきと思うが、こうすると、皿の枚数分、醤油をかけることになるのだが、そのぐらいの手間は、おいしく食す事が出来ることを思えば、惜しむに値しない。

ここで冒頭の写真を見て頂きたい。にぎりの上にワサビ、そしてそこに醤油がかかっている。これは子供たちに連れて行けとせがまれて行った、ビュッフェスタイルのしゃぶしゃぶファミレスでのもの。ここは客に子供たちが多いから、ワサビは後のせなのだった。

回転寿司とは勝手が違う。
考えることがひとつ増えた。

「ワサビのせる→醤油かける」の順か「醤油かける→ワサビのせる」の順かが問題だ。写真は、前者。よく言えば、程よくワサビが醤油に溶けている。私はこのムラが好きなんだな。でも、本ワサビじゃなくたって、もしかしたら、「醤油かける→ワサビのせる」の順の方が、ワサビの香りが高まって、よかったかも知れない。ただ、この店は一応しゃぶしゃぶ屋さんなので、二皿は食べていない。今度、試してみよっと。

2017年12月25日月曜日

歯磨き粉の旅

以前、私が使ってきた歯磨き粉の変遷を、幼少期のデンターライオンから、インドのニームの枝、そして最近の手作り歯磨き粉までを下記エントリに書いた。きょうはその続編。新たな更新データがある。

●手作り歯磨き粉と私(2012年1月30日)

上記エントリ最後の手作り歯磨き粉のレシピは、下記。

ねんどの粉・・・・3
天然重曹・・・・1
カンホアの塩【石窯 焼き塩】・・・・1
「ソラダニーム粉はみがき」・・・・1

この「ソラダニーム粉はみがき」、その名のとおり、ニーム粉が主成分と思い込んでいたのだが、実はそうでもないことに気がついた。ちなみにその原材料は下記。

サルバドラペルシカ根,炭酸Ca、塩化Na、硫酸(Al/K)、カンゾウ根、グアバ果実エキス、スペアミント油、パチョリ油、メリアアザジラクタ葉、チョウジ

筆頭の「サルバドラペルシカ根」がニームの「木の根っこ」かと思い込んでいた。しかしそれはどうも「俗称:歯ブラシの木」らしく、ニームは最後から二番目の「メリアアザジラクタ葉」だった。ソラダさん、その歯磨き粉は、「ニーム粉はみがき」ではなく、「歯ブラシの木粉はみがき」なんじゃない? と言いたくなる感じに囚われる。

無論、上記のいろいろな原材料はそれなりに意味があることと思って疑わないのだが、先のエントリに書いた通り、インド人が長年歯ブラシに使っているのはニームの枝だけだから、ニームだけでもいいのではないかという思いが私にはあった。

そして半年ほど前、ネットでニーム粉だけの商品を見つけてしまった。これは、試さなくてはならない。それが下の写真。「Neem powder(ニームパウダー)」
この裏書き(成分表示など)は下。
この表示を見ると、「●抽出部位:葉」とあるように、この「ニームパウダー」も「ソラダニーム粉はみがき」と同様に「葉」だ。「ソラダニーム粉はみがき」の色は茶色だが、この「ニームパウダー」はくすんだ緑色。「ソラダニーム粉はみがき」が茶色なのは、「サルバドラペルシカ根(歯ブラシの木の根)」など根のパウダーのためだと思う。

さて、最初にこの「ニームパウダー」をちょっと舐めてみた。

苦ーーーい。

この強烈な苦さは、インドでニームの枝をかじったときの苦さを思い起こさせてくれた。それはもう30年ほど前の遠い記憶だから正確性を欠くが、感覚的に耳かき一杯の「ニームパウダー」は、枝をかじるより苦いのではないか。

ということで、今回私はあえてこの「ニームパウダー」をたっぷりと、「ソラダニーム粉はみがき」に替えて試作してみた。レシピは下記。写真とともに。

ニームパウダー(葉100%)・・・・2
ねんどの粉・・・・2
天然重曹・・・・2
カンホアの塩【石窯 焼き塩】・・・・1
このぐらいなら、その苦さは薄まるかと思いきや、甘かった。いや、苦かった。まだまだ余りに苦かったので、「ニームパウダー」以外の同じ割合の材料を足して、つまり「ニームパウダー」を約2倍に薄めた。これでも先の「ソラダニーム粉はみがき」を使ったレシピよりもずっと苦かったが、2〜3度使ったら慣れてきた。「ソラダニーム粉はみがき」の中の「ニームの葉パウダー」の割合がグッと少ない理由はこの苦味を抑えたせいなんだと思う。

それにしても、「俗称:歯ブラシの木(サルバドラペルシカ)」とは一体どんなものか。ただ私が直接経験したのはニームだったので、今回は純粋なニームの葉パウダーを使ったが、次はこの歯ブラシの木とやらを探したくなった。

昔から私は歯磨きを、朝食後と寝る前の二回する。毎日のことだ。ゆえに、歯磨き粉の効用も大事だが、その味も重要なことと昔から思っている。

例えばニームの枝は、30年ほど前、数年間の旅行中に出会ったもの。そして、今はそんな旅行は出来ないが、こうして私の歯磨き粉の旅は続くのだ。