2018年6月1日金曜日

タマムシの物語

 タマムシと言えば、私が最初に思いつくのは、小学生のとき国語の教科書に載っていた「たまむしのずしのものがたり」。漢字がどうだったかは覚えてないが、音として覚えている。その物語の私の印象は、情景として薄暗い場所、湿気を感じるような空気感。そしてその物語の趣旨は、苦労に苦労を重ねて、その厨子が出来上がったということだったように思うが、どうだったろうか。私は、それを読んで、無数のタマムシの死骸を思い浮かべたという、趣旨とは違うひねくれた思いを持った記憶がある。

また、大人になって、おとぎ話のように記憶していた「たまむしのずしのものがたり」の玉虫厨子が実在のものだったことを改めて知って、不思議に思った記憶もある。さらに、その後、「たまむしのずしのものがたり」は、後付けで創作されたものなんだろうとも思った。

それにしても、多くの物語を教科書で読んでいながら、「たまむしのずしのものがたり」を覚えているのは例外的だ。どういう訳なのだろう?

「あっ、タマムシだ」

冒頭のタマムシの写真は、つい一週間ほど前に、うちの庭で撮ったもの。私は、東京の下町の生まれ育ちなので、その物語を読んだ子供の頃、本物のタマムシを見たことがなかった。クラスの仲間も皆そうだったと思う。それだけに、「タマムシって、どんなに美しいんだろう」と想像だけが膨らんだ。見たことのないものの想像というものは活発なものだ。特に文字からだけの想像は。日光の「想像の象」を思い浮かべる。それが例外的に「たまむしのずしのものがたり」を覚えている理由なのかも知れない。

友人の陶芸家、小野哲平の父親(すでに故人)の個展に行った際、小さな猿の置物の作品が気に入って買った。そのとき、親父さんは「私は、猿を作るとき、猿を(図鑑などで)見ないようにしています。これはそうして作りました」と言ってたのを思い出す。

さてさて、私なりに思い出深いタマムシ。庭で発見して驚いた私は、子供たちやカミさんにその興奮を伝えようとするも、全くにして、つれない。だいたいそういうものだと思いつつも、やっぱりやるせない。

すると、庭のタマムシ発見時は「たまむしのずしのものがたり」だった連想が、紙芝居のようにスルッと変わって、中学時代、親に買ってもらった学ランの裏地がタマムシ色だった連想にすり替わった。当時、学ランの裏地をタマムシ色にすることは、先進的な(平たく言えば、不良な)生徒たちの間で流行っていた。そんな風でない至って平凡だった私は、学校でそれが周りに知られないようにとビクビクしていた。その青く弱い心持ちを思い出したのだった。

タマムシに視線を移すと、風に揺れる新緑の萩の葉の裏に隠れようとしていた。

2018年5月29日火曜日

コーヒー塗装の色

『失敗は成功の元』。
だいたい、成功より失敗からの得るものの方が、大きいものだ。そうに決まってる。

我が家の古いダイニングテーブルの天板が反り返り、傷や汚れもずいぶん目立つようになったので、表面を削った。元々この1m×2.3mぐらいのテーブルは頂き物。材質は杉で、オイル仕上げなので、変形・傷つきやすいが、加工もしやすい。

現在持っている電動工具は、インパクトドライバー、ベビーサンダー、丸ノコ、ジグソー。(←買った順) 「次に入手する電動工具があるとすれば、それはオービタルサンダーだな」と、数年にわたり思っていたのだが、3ヶ月前、ホームセンターへ行ったら、昔よりずいぶん安くなってなーと思い、思い切って買った。(春先だったので、ちょっと気分も緩くなってたかな)

購入時、イメージしていた目的は、3点。屋上に置きっぱなしの木製テーブル(三六判、ペンキ塗装)、月見台のような小さなウッドデッキ(1坪弱)、そしてこのテーブル天板(三六判よりやや大きい)。屋上のテーブルは買ってすぐ。ボロボロになった表面を新品オービタルサンダーで磨いてペンキの塗り直しをして終了。残る2点は、どちらも無垢の上に、柿渋の塗装、「エゴマ油+ビーワックス」のオイル仕上げ。ウッドデッキの方は雨ざらしなので、傷みが早い。これまで、一年に一度ぐらい、手でヤスリをかけて、塗装と仕上げをしてきたが、このオービタルサンダーで、楽チンだ〜。こいつは梅雨入りまでにと後回しにして、先週末、「手でやるには、ちょっとなー」と、これまでやる気が出なかったやや大きめのこのテーブルの補修を、やることとなった。

まずは土曜日。反り返りの最大差が1cmぐらいあったので、オービタルサンダー君を擁してでも半日仕事になった。(一瞬、電気カンナがが欲しくなった。でも買わない) 削り終了後は塗装なのだが、それはつい一週間ほど前、思いついたことがあった。

コーヒー染め(木の塗装)。

これまで一体何度、コーヒーのシミをシャツにつけて来たことだろう。じゃあ、そのコーヒーで塗装したら落ちにくいんじゃないか。と思いついた。すると、ちょうど先週のタモリ倶楽部で、「コーヒーで染めた紙」をみて、「もう、やってみよう」と、思いつきが本気になった。(そのタモリ倶楽部、ネタは「ZINE」。コーヒー染めの紙で作ったZINEがあったのだが、番組全体がとても面白かった。別の話になるけど)

そして日曜日。近所の食料品店で一番安いインスタントコーヒーを買ってきて、飽和に近い水溶液をこしらえた。色落ちはすると思ったので、一番濃くしてみたということだ。前日に綺麗に削った面に、それを半分塗ったのが、実は冒頭の写真。

いや〜、なかなかいい色ではないか。このウォルナットな感じ〜。

塗り立て時はそう思った。全面塗り終えて、しばらく乾燥を待っていると、どんどんベトベトし始めて、少し不安になってきた。上にニスやラッカーを塗るならこれでもいいのかも知れないが、この後の仕上げは「油+ビーワックス」だからね。

その後、ある程度乾いたところで、試しにやや湿気った雑巾で拭いてみた。すると、落ちる、落ちる、どんどん落ちるインスタントコーヒー。ということは、このテーブルの濡れたところにシャツが触ると、染まるっていうこと〜?。あれ〜。こんなハズじゃあ・・・・。たまりかねて、「やっぱ、それじゃまずいよね?」と一応カミさんにきいてみるも、答えは聞くまでもない。拭いても拭いてもコーヒーは落ち続けるので止めるに止められず、結局、ほとんどコーヒー色を拭き取ってしまい、元の木阿弥。

どなたか、いい方法をご存じないですか? ベッタリ塗った後、2〜3日放置しておけばよかったのかな〜? 草木染めでは、定着液(みょうばんなど)を使うよな〜、この材木の場合はどうなんだろう? と余裕のない思いが巡りつつも、答えは見つからず。

仕方なく、柿渋を塗った。

一瓶ものインスタントコーヒー、もったいなかったし、コーヒー塗装は徒労に終わった。そして、きょうも、柿渋の上に「エゴマオイル+ビーワックス」を塗った平らなテーブルで、何事もなかったように、家族はご飯を食べている。

2018年5月15日火曜日

アサガオや、伸びたいように、伸びなさい

先週末、去年育てたアサガオの種がポットで二葉になったところで、本植えした。(上の写真) 今、ヒルガオもポットで育てているのだが、アサガオより少し遅めなので、もう少し先になると、ここにヒルガオが加わる予定だ。

さて、上の写真の上の方はどうなっているかと言うと、下の写真のようになっている。
高さ6mぐらい。南東向きの陽当たりのいいところ。
去年も同じ場所で4mぐらいの支柱を立てたのだが、軽〜く一番上まで伸びたところに台風が来て、古い竹竿の支柱が半分に折れた。そこで、今年は、6mの青竹を入手して、負担のかかる支柱の支点にクッションを挟んだ。

アサガオを育てている家は多いが、どんどん伸びて、夏には蔓の絡み先が見あたらなくて先端がブラブラしていることが多い。しかし、一度だけ、いつだったか、古い二階建ての横壁一杯に茂っていたアサガオを見たことがあって、「こんなに伸びるんだ」と感心したことがあった。

アサガオに、つるべ取られて、もらい水

この名句のアサガオも井戸のつるべ程度の高さだし(おそらく2mぐらいか)、朝顔市のアサガオは蔓を回した鉢植えだ。人間の都合はいろいろあれど、アサガオ自身は、もっと高く伸びたがっている。そして、それはアサガオの天性であり、それ自体、何も悪いことではない。

話は飛んで、中世のヨーロッパ。貴族など裕福な女性の間で、長い爪が「おしゃれ」または「裕福さの象徴」のように思われていた時代があったらしい。湾曲しながら長く伸びた爪を、誇らしげに見せる女性の絵を見たことがある。絵に残っているぐらいだし、服装もゴージャス。無論こんな爪で皿洗いは出来ないし、一般的には生活全般に支障を来すが、それでも暮らしていけるのだから、裕福な訳だ。異様に見えるものの、単に「金持ちの道楽」というだけでなく、私なりに、「どうしてこんなタシナミがあったのだろうか」と考えたことがある。それは「伸びたがっているものは伸ばす」ということではなかったか。

私は、二十歳代の頃、生活上及び衛生上の理由から無理だったので爪こそ伸ばさなかったものの、髪の毛と髭を5年ぐらい切らなかったことがある。それは、「伸びたがってるものは、それなりに意味があるはずだから、切ることはない。伸ばしたれ」と思っていたからだった。ある種のナチュラル派。今になって思えばだが、その頃私は、何となく世の中を窮屈に感じていたので、その反動でそうしていたような気もする。

髪の毛は腰まであったし、髭は薄いながら、一番長いので20cmぐらいあったと思う。伸ばしてみて気づいたが、髪の毛も髭も、ある程度伸びると、それ以上伸びないものだ。もっと太い髪の毛や髭だともっと伸びただろうが、あるところまで来るまでに自然と摩耗していたり、そのうち抜けたのもあったりで、髪の毛は腰までが限界だった。

さて、アサガオに話を戻す。

今は人並みの髪の毛ので、髭も2〜3日に一度は剃っているが、我が家のアサガオには、「伸びたがっているアサガオよ。伸びたいだけ伸びろ」という想いがある。それが今年は6mの支柱になっている。(6mでも足りないかも知れないが) 先述のように、家の壁に沿わせる方が、グリーンカーテンも兼ねていいのだが、我が家にはあいにくその場所がなく、こんな目立った出で立ちになってしまった。

また、この「伸びたがっているアサガオよ。伸びたいだけ伸びろ」は、私にとって、子育てにも重なっている。「我が子らよ、伸びたいだけ伸びろ」といった風に。つい自分の都合や、いわゆる「常識」、「危険性」というのが邪魔になって、必要以上に子供の考えや行動を制御しがちになるときが、私にはある。そんなときこそ、懐を深くして子供の話をしっかり聞かねばならない。その戒めとしても、このアサガオがどんどん蔓を伸ばしていく姿を眺めていたいと思っている。

2018年5月7日月曜日

ニセアカシアを想う人間の気持ち

♪アカシアの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい〜

ちょうど今、東京の多摩川河川敷では、ニセアカシアの花が、甘い香りを放ちながら咲き乱れている。あっちでもこっちでも。「あっ、アカシアだ」と呟いた後、「本当はニセアカシアだったっけ」と呟き直す。もう何度、同じ呟き直しをしたことだろうか。ニセでない、本家のアカシアを、私は見たことがない。

少し気になったので、その違いについて。
wikipediaによると、

明治期に日本に輸入された当初は、このニセアカシアをアカシアと呼んでいた。後に本来のアカシア(ネムノキ亜科アカシア属)の仲間が日本に輸入されるようになり、区別するためにニセアカシアと呼ぶようになった。しかし、今でも混同されることが多い。本来のアカシアの花は放射相称の形状で黄色く、ニセアカシアの白い蝶形花とは全く異なる。

どうも、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」の「アカシア」も、「ニセアカシア」らしい。人間にとって、言葉の影響は大きい。ニセと付くだけで、どこか悪者の雰囲気が漂う。また、この外来種は、繁殖力が強いため(在来種の繁殖を妨げるため)、しばしば駆除の対象になる。刺さると痛いトゲもある。バラは「美しいものにはトゲがある」と例えられるのだが。

さて、一週間前、そんなニセアカシアが咲き乱れた多摩川の河川敷で、たまたま待ちぼうけをくらった私は、その花を集めてみようと思い立った。最初は「天ぷらかお浸しか」などと思ったのだが、待ちぼうけの勢いで、ひと抱えの花の付いた枝を車に積んだ。車の中はスゴイ香り。あまりの香りなので、帰路、家の隅に置いておくだけで、アロマな感じになりはしないかと思った。トイレなんかもいいんじゃないか、とかね。

帰宅後、枝から花の房だけを取った後、カミさんに相談したら、「それだけあるとアカシア酒がオススメ」とのこと。また、少しだけ、水で溶いた小麦粉を絡ませたものを、油をひいたフライパンで焼いてくれた。天ぷらにすると、「デレッとなっちゃうから」。なるほど。これまで何度か天ぷらを食べたことがあったが、たしかにデレッとなってた。何しろ、甘い香りが強烈なので、食べると、半分お菓子のような感じ。ひとかけ食べた中二の娘は「ポン酢がうまいと思う」と提案。甘さが中和される感じで、たしかにうまい。
それで。本命のアカシア酒。カミさんは35度の玄米焼酎がいいと言うのだが、そんな準備はないので、近くの酒屋さんで、25度の麦焼酎を買ってきた。彼女が持ってる果実酒の本によると、漬けるのは一週間がいいらしい。その後は、苦味が出てくるとのこと。
 一升の麦焼酎に浸り切れないほどのニセアカシアの花。その浸かり切れてない部分が気になって、一日2〜3度、天地をひっくり返して、一週間経ったのが、昨日。
花のガクの緑色がしみ出たのか、やや黄色を帯びた。ここから花を取り出す。
これで完成と思いきや、ここから3ヶ月寝かせて、完成らしい。とは言え、ちょっと飲んで見たが、ほのかに甘い香りがついている程度。

在来種の繁殖を妨げる外来種のニセアカシア。どうやって駆除しようか日々腐心されてる人たちもいる。ただ、その繁殖力の強さゆえに、我が家で「アカシア酒」になってもいる。3ヶ月後、この酒はどんな味を醸し出していることだろうか。

2018年3月16日金曜日

コンビニのコーヒー・失態談の考察

前のエントリで書いた通り、続けて二度の失態をやらかした私だが、その後考えたことがあるので、書き出してみる。

1.「カネを払う」ということに、私は固執していなかったか?

一度目の失態後、私は改めて「コーヒー代」を払おうとした。そして二度目は、「L」に足りない50円を払おうとした。どちらもコンビニ店の好意に押され、払わなかった。まぁ、そこは仕方がなかったかな。朝の忙しい時間という状況もあったし。しかし、その「朝の忙しい時間」ということも手伝い、ついつい手っ取り早くカネに固執した私がいたことは否めない。「カネを払えば」というつもりはなかったものの、即カネにからむ言動をとったことは反省すべきことだったようにも思える。ここに現在のカネ社会の問題の一面もある気もする。

2.その店の対応は、マニュアルどおりだったのか、個人的なものだったのか?

店員さんの反応には迷いがなかったので、マニュアルどおりだったかも知れないが、何とも日本独特な対応だったようにも思った。もしもこれが他の国だったらどうだったか? マニュアルどおりでも個人的な判断であっても、客に対して親切なことに変わりはないのだけど、強いて「それが100%いいことか?」と考えると、言い切れない何かが残る。何故だろう?

3.私のような失態をする客はどのくらいいるのだろうか?

ちなみに、この失態談を5人の前で話した。すると、最初は笑って聞いていたものの、少し時間が経った後、2人から似たような失敗談を聞いた。「何だ、最初から言えよ」って感じ。一般的には、わざわざ人に聞かせる話でもないから、あまり明るみに出てこないが、実は結構ありそうだ。

4.「R」のカップに「L」の量のコーヒーを入れてもこぼれないのは、「R」カップの設計時点で計算済みなのだろうか?

あのこぼれないギリギリな様を見て、私は計算済みだと思った。それを見届けた店員さんも、すでに知っていることといった振る舞いだった。上の「3」とも関係するが、何度か経験済みなんだと思う。さて、深読みしてみる。レジで「R」の注文をして「R」のカップを受取り、犯罪的に「L」のボタンを押しても同じようになる。たくさんこぼれるカップのサイズまたはコヒーの量だと、コーヒーマシンに捨てたコーヒーがたくさん溜まることになるが、このようにギリギリだと、多くは溜まらない。(排水機能は簡素でいい) 「L」サイズを飲みたがっている犯罪者は、あの店員さんのように、最小限こぼしてフタをして立ち去ることだろう。その場合、お店側は、その挙動不審さに気がつかなければならない。(スリルを味わって楽しむ人たち。決してそのような行為はしないでください。それは明らかに犯罪です)

5.レジ裏のバックヤードに消えたコーヒーは、その後どうなったんだろうか?

バックヤードで休憩している店員さんなどが「ラッキー」とばかりに飲んでくれてたらいいのだが、忙しい中では難しそうだ。また、日本独特の「衛生上悪い」という理由で、捨てられていたら、ちょっと悲しい。悪いのは私なのだが、捨てられることに抵抗感があるのも確か。操作を誤った人の場合は、全部捨てなくても、「R」のカップに入ったなみなみのコーヒーを「R」ぐらいの量まで捨てて、どうぞと渡されるぐらいが、私には一番納得がいくのだが・・・・。薄々、捨てられていそうな気がしているので、やや気にかかる。

さて、冒頭の写真だが、中途半端にコーヒーが入っているが、飲みかけのコーヒーなのではない。「R」サイズの「ホットコーヒー」のカップに、「R」サイズの熱い「アイスコーヒー」が入っている。だいたいカップに半分ぐらいだ。意識的に「R」のところを「L」を入れたら犯罪だ。しかし、値段が同じ「ホット」と「アイス」の「R」を押し違えることは、厳密には詐称ながら、「アリ」なんではないかと思って、イタズラ心(好奇心)も手伝って、やってみちゃった。わざわざ忙しい店員さんの許可を得るのも憚れたので。

何せ私は、濃いコーヒーが好きだ。エスプレッソがあるとよく飲む。ベトナムでもコーヒーはドロドロ濃い。ご存じと思うが、コンビニの「アイスコーヒー」の場合、たっぷりの氷が入ったのカップに、熱い「アイスコーヒー」を注いで、氷入りの冷たい「アイスコーヒー」が出来上がる。つまり熱い「アイスコーヒー」を薄めたものだ。だから、アイスコーヒーのカップに注がれる熱い「アイスコーヒー」自体を、一度熱いまま飲んでみたい、と思っていた。

さて、問題の味だが、エスプレッソとは異なる。どうも、その熱い「アイスコーヒー」は、苦味が剥き出しな感じで荒っぽい味。手軽に、「きょうは苦味が濃いコーヒーを飲みたいな」と思って、コンビニの前を通りかかったら、いつもでなくても、オプションとしてはいいかも知れない。というのが私の感想です。ただし、何度もするのなら、事前に店員さんに許可を取るべきだろう。

この熱い「アイスコーヒー」の、お店側の不都合を考えると、レジで集計されるであろう「ホット」と「アイス」の数量と、コーヒーマシンでの実際の販売数量が合わなくなることが考えられる。コーヒー豆は、各々異なるから、コーヒー豆や(氷入り含めた)カップなどの在庫管理にズレが生じるかも知れない。

世の中には、厳密にすべきことと、緩くしておいた方がいいことがあると思う。それは当然個人差もあるのだが、決まり事になれば、社会的にもなる。厳密さと緩さのサジ加減を誤ると、必要以上に不都合が生じたり、不自由になったりしてしまう。そして、現実は常に移ろうものだから、そこに絶対はないものだ。だから、私は、いつも厳密さと緩さを持ち合わせながら、身の回りの様々な判断をしたいと思っている。コンビニのコーヒーも含めて。

2018年3月13日火曜日

コンビニのコーヒー・失態談

ときどき、コンビニでコーヒーを買う。だいたい小さいカップ(R)で100円、大きいカップ(L)で150円。1ヶ月ぐらい前から、週に3日ぐらい、朝、仕事場への途中で、このコーヒーを求めるのがややクセになっていた。

このクセが始まってから1〜2週間が過ぎて慣れた頃、コーヒーが入った置いたカップにフタをする際、手元が狂って、カップを倒してしまった。コヒーマシンの周りから床にコーヒーがぶち撒かれた。慌てて店員さんに、「すみません。コーヒーこぼしちゃった」と告げると、彼は、いったん現場の状況を確認して、「大丈夫ですよ」と言って、雑巾とモップを取りに行った。

私は、別の店員さんに改めてコーヒー代を払おうとすると、「いいですよ、いいですよ、どうぞ」と言って、彼女は新しいカップを差し出した。朝の忙しい時間だ。ここで押し問答するのもどうかと思い、私は「すみませんでした。ありがとうございます」と言って、そのカップを受け取り、モップで床を拭いている店員さんの横のコーヒーマシンで改めてコーヒーを注ぎ、慎重にフタをした。床を拭いているその店員さんに再三謝るも、彼はニコニコして「大丈夫ですから」。私はその店を後にした。

そんなことがあってから一週間後。それまで、大きいカップ(L)を注文していた私だったが、その朝は忙しくゆっくり飲んでる時間がなかったこともあって、小さいカップ(R)を注文した。が、ついついその前日までの「L」の惰性と、「L」のボタンが右側にあったせいか(私は右利き)、誤って「L」を押してしまった。慌てて左側の「R」を数回押直し、さらにカップが入っている透明なプラスチックの扉を開こうとしたが、ロックがかかって開かない。コーヒーマシンは、豆をガリガリ挽いていて、もうすぐコーヒーが小さいカップに注がれる。

「あー、またやっちゃった」
(一週間前と同じコンビニ)

「すみません。小さいのに大きいLを押しちゃいました。どうしましょう?」と、やや動揺した私。会計途中のレジにいた、一週間前とは別の店員さん(店長)は、その客を待たせて、「扉は開かないんですよ。大丈夫ですよ」と笑顔で、コーヒーマシンの方へ歩み寄り、私の隣でコーヒーが注がれるのを見ていた。「R」の小さいカップに、なみなみのコーヒーが注がれたが、何と、寸止めでこぼれない。ロックが解除された扉を開けて、店長さんは、(床にこぼれないよう)そのなみなみのコーヒーを少しだけこぼしてから、

「今、新しいカップを持って来ますから」
「えー、これでいいですよ。あと50円払いますし」
「いえいえ、いいんですよ」
と言い残して、レジ裏のバックヤードへ消えてしまったかと思うと、すぐに引き返し、新しい「R」のカップを私に手渡すと、待っている客がいるレジへと戻った。

やはり朝の忙しい時間だ。ここで押し問答は出来ない。私は言われるままに、そのカップをコーヒーマシンに設置し、冷静に「R」を押す。コーヒーにフタをしているとき、待たされていた客は、何事もなかったように、私の横をすり抜ける。私は店長さんに、「すみませんでした。ごめんなさい」と深く頭を下げ、店を後にした。

このような、二度の失態の後、私はいろいろ考えた。

1.「カネを払う」ということに、私は固執していなかったか?
2.その店の対応は、マニュアルどおりだったのか、個人的なものだったのか?
3.私のような失態をする客はどのくらいいるのだろうか?
4.「R」のカップに「L」の量のコーヒーを入れてもこぼれないのは、「R」カップの設計時点で計算済みなのだろうか?
5.レジ裏のバックヤードに消えたコーヒーは、その後どうなったんだろうか?

長くなったので、改めてのエントリで書きたいと思う。

2018年2月26日月曜日

不便の恩恵

今から30年ほど前、自炊しながらインドを旅行していたときのこと。今はどうだか分からないが、当時、普通にインドの市場で売られていたお米には、(米粒より若干小さな)小石が混ざっていた。このまま炊くと、食事中、無防備に小石をガリッと噛んでしまうことになり、それは結構辛い。したがって、ご飯を炊く前には、必ず小石を取り除く選別作業が必要だった。売ってる米に小石が混じっているなんてことは考えもしない地域出身の私は、「毎回選別が必要だ」と最初に思ったときは、面倒だ厄介だと憂鬱な気分になった。しかし、必要なことなので、毎日の習慣として行うことになった。

いざ日々行ってみると、これが思いの外、面倒に感じない。ほんの2〜3日目ぐらいからだったと思うが、不思議と全く面倒と感じなかったのだ。それはまるで、「料理を始める前に手を洗う」ぐらいのことになっていた。その全く面倒と感じない感覚は、面倒と思った当初の自分と同一人物の感覚なのかと、疑いたくなる程だった。

自分の直感を信じることは大事なことと、常日頃思ってはいるが、こういうように、アテにならない自分の直感もあるのだ、ということを思い知った経験だった。そのキッカケになったのは、選別の必要性だったと思う。その必要性が、憂鬱に思った私の背中を押したからこそ、面倒と感じなかった不思議を味わえた。もうひとつ思い知ったのは、「(まだやってないことを想像して)思うこと」と、「(実際にやってみて)感じること」の違いだ。この場合、面倒と「思ったこと」は幻想で、面倒でないと「感じたこと」が、現実だったということだ。

さて、時は流れて、今の東京の我が家。

カミさんの実家は専業農家で、お米も作っている。そのため、東京の我が家で食すお米は、有り難くも定期的に送ってもらっている。ただし、去年収穫のお米は粒が小さかったという理由で、籾摺りがちゃんと出来ていない米粒が混じっている。

玄米で送ってもらって、我が家の家庭用精米器で五分づき程度に精米するのだが、精米後、玄米のときよりも、それら小さな籾付きの米粒が目立つようになる。
上の写真のように、ついでに、茶色や白色になった粒も選り分ける。昔、ビックコミック・スピリッツの「美味しんぼ」の白飯対決で、海原雄山が、炊く前の米の選別を一粒ずつ行っている飯炊き職人で士郎を唸らせたが、それを思い出してしまい、つい変色した粒をはじいてしまった。「美味しんぼ」では、少しでも欠けた米粒もはじいていたが、私はそこまではやらない。(ちなみに、ベトナムでは、あえて割れた米だけで作られた料理がある。だから、割れた米だけのお米も売っている。この話は別の機会に) 私がはじいた籾殻付きや変色した米粒は、庭を訪れる鳥の餌になった。

話が脱線気味だ。戻そう。何しろ、選別せずに炊くと、食べたとき、籾殻が口の中に残り、あまり気持ちのいいものではない。30年前のインドの小石ほどではないにしても。そこで、精米後、籾殻付きのお米の選別作業を行う。それが冒頭の写真。

当然、30年前のインドでの経験がよみがえる。

有り難くもカミさんの実家から届いているお米。その有り難さは、選別作業の必要性に直結する。時間にして、5合で10分ぐらいだろうか。それは単純な時間の長さなのではないのだが、もう、幻想として面倒と「思うこと」はない。選別している間の短い時間、30年前インドで同じようなことをやっていた感覚がよみがえってくる。それはまるでタイムマシーンに乗ったような感覚だ。

言うまでもなく、小石や籾殻付きの米を選別するよりしない方が便利だ。だが、その不便から得ているものは、大きいかも知れない。