2011年5月31日火曜日

ソメイヨシノのサクランボ


今朝は珍しく早くに目が覚めた。4時過ぎで、うっすらと朝が始まりかけていた。毛布と夏掛けにしてたせいか、布団の中でもやや肌寒く、トイレにも行きたくなって、思い切って起きた。昨日のラジオで、毎朝4時に起きて、趣味の手芸をしてから出勤する女性の話を聞いていた影響もあったかも知れない。こんなことは滅多にない。

最初にポストをチェックするが、新聞はまだ届いていない。コーヒーを入れようとしたが、こーゆーときに限って豆を切らしてる。仕方がないから、普段の朝と同じインスタント・コーヒーをすすりながら、「何しようかなー」としばしボォーっとした。久しぶりにボォーっとした気がした。

音楽CDの整理を始めたら、最近の雨続きでやれてなかった棚板のペンキ塗りを思い出し、そっちに移った。ペンキを塗り終えた5時半頃、6歳の娘が起きてきたので、散歩に誘った。眠そうな顔つきが笑顔に変わり、散歩に出た。子供と朝の散歩は去年の秋以来だ。春になって、「そろそろ朝の散歩に行こうね」と言いながら、「春眠暁をおぼえず」だったり、雨だったり。歩き出してすぐ、去年の秋の散歩の話題から始まった。「前(去年の秋)は、木の上に蛇がいたね」。「じゃぁ、まずはその木に行ってみようか」。

しばらくすると、「ねぇ、ひらがなとかカタカナより簡単な漢字って知ってる?」との質問。「ん〜、なんだろうなー」。「じゃ、教えてあげる。一(イチ)っていう字だよ。私も書ける」。「そーだなー、そんな簡単な漢字、ひらがなとかカタカナではないぐらいだな」と、親ばかながら、結構感心して言ったら、「ううん、カタカナのノは同じぐらい簡単だよ。斜めになってるだけで」と教えてくれた。

しばらくして、彼女が生まれて初めて滑った滑り台のある神社の境内に着いた。そのときの彼女の嬉しそうな顔を今でも思い出す。「大きくなったなー」としみじみ思った。

その滑り台の下の地面を見たら、ソメイヨシノのサクランボが無数に散らばっていた。彼女はそのサクランボを拾い集めた後、緑が濃くなったでっかいイチョウの葉っぱを添えて私にくれた。「もう春は終わったね」と言われた気がした。暁をおぼえられるようにもなったし。さて、神社にお賽銭をと思って財布を見たら、小銭が100円玉と5円玉が1個ずつ。100円に消費税だな。

子供にはいろんなことを教わる。
何となく、自分がリセットされた気がした。
そしてこの朝の散歩は記憶に残る気がした。

2011年5月25日水曜日

日本の水の豊かさ


1週間ほど前、子どもの保育園のイベントがあったので、東京・立川市にある、国営昭和記念公園に行った。我が家から自転車で10分のところ。ここは元の米軍立川基地の跡地。その前は日本軍の飛行場。ゼロ戦もこの地から飛んだ・・・・と語り始めるといろいろあるが、今回はそういうことを書きたいのではない。まっ、何しろ広大な敷地で、現在は国営の公園になっている。

それで、その公園のトイレに入ったら、上の写真の張り紙がしてあった。下記に書き起こします。

●トイレの洗浄水について●

トイレの洗浄水には、公園内の再処理水を利用しています。洗浄水に若干の色がついていますが、使用上は問題ありません。国営昭和記念公園では、地球にやさしい資源の有効利用に取り組んでいます。


いいことだと思う。
でも、同時に、「あ〜、日本では、飲み水をトイレでバンバン使ってんだなー」と思った。それは日本では当たり前のことで、もちろん我が家だって、私の仕事場も、飲み水をトイレや庭の撒き水に使っている。

でもどうだろう。飲める水をそうした雑事にも使っている地域は、世界中だと、1割にも満たないのではないだろうか。トイレの水に再処理水を使うのはいいことだと思うけど、それがわざわざ張り紙になっているというのは、何とも贅沢な主張と思ってしまう。

それだけ日本は水が豊かですばらしいとも言えるけど、キッチンに蛇口が2つあって、コッチが飲み水でコッチが皿洗い用の水ってところも、世界ではよくあること。そう考えると、この張り紙を見て、「そんなに偉そうなこと言うなよ」という皮肉のひとつも言いたくなる。カネのことを言えば、飲めるほどにする水の浄化にだってコストがかかってるハズ。言ってみれば、トイレで使う水まで飲める程に浄化しなくてもいいんじゃないの? と思ってしまうのだ。

もう一歩突っ込むと、人間はあまりに普通または日常的になってることに価値を感じなくなってしまうことがしばしばある。水や空気はその代表例。広くは身の回りの自然も当たり前のことになりがちだ。この張り紙を見て、「地球にやさしい資源の有効利用に取り組んでいる」ことより、普段トイレに飲める水を使っていることの方が気になった。こんな些細なことをぼやくのは、それだけ私が歳取っただけのことなのかも知れないけど。

震災後の3月、東京の水道水も基準値以上の放射性物質が検出され、ペットボトル入りのミネラルウォーターが店から消えた。買い占めは、当たり前のことに麻痺していたからこそ起こるように思える。

こうした張り紙をせずに、さりげなーく再処理水を使う世の中にならないものか。それこそ贅沢というものか。

2011年5月16日月曜日

家電の幸せ

最近自宅を引っ越しをした。そしたらそれを機に、7年前購入した洗濯機の調子が悪くなった。それでメーカーの人に来てもらい、修理してもらった。12,000円かかった。そしたら、その後FAX電話も調子悪くなり、どうしようか考えている。どうしようか・・・・それは、この機会に思い切って買い換えるか、そのままごまかしながら使い続けるか。

私はいわゆる高度経済成長期に生まれ育った。東京オリンピックが3歳のときで、私の住んでた家の前を通ったパレードを、母親に抱きかかえられながら見た記憶がうっすらとある。

当時は狭い家にテレビや洗濯機、冷蔵庫、掃除機・・・・その後には電子レンジと、次々と入って来た時代でもあった。買い替えたんじゃない。それまで知らなかったもの、全てが初物だった。

パソコン含め、家電製品はあって当たり前の時代に生まれ育っている方々にも想像してもらいたい。当時、例えば冷蔵庫を買って、「10年もてばいいよね」なんて感覚はまったくなかった。また「(修理より)買った方が安い」なんてセオリーもなかった。買い替えることなどこれっぽっちも考えてないのだ。それはそれは大変な文明の利器が我が家にお見えになったのだから、たとえ壊れたとしても修理が当たり前。再度壊れてもまた修理。もう一生使うぐらいの気持ちで、それはそれは大事に使ったし、尊い存在でさえあった。だからたとえ10年使っても、修理不能になって新しく買わなきゃならなくなると、かなりのショックだった。その感覚は今とだいぶ違う。

並行して、親からは「モノは大事に使いなさい」と何度言われたことか。それは、家電製品もそうだから、とても説得力のある重い言葉だった。今は「買った方が安い」の道を選ぶこともあるので、自分の子どもに「モノは大事に使いなさい」と言うには正直言ってやや抵抗を感じてしまう。

昔は商品を買うのは近所の電器屋さん(個人商店)から。だから故障してもその電器屋さんに頼めばすぐに修理に来てくれ、直ったものだ。しかし、それから10年ほどすると、東京では「家電は秋葉原が品揃え豊富で、しかも安い」という時代になった。その頃になるとその近所の電器屋さんは、新商品が出ると「払いはいつでもいいから」と言い残し、新しい家電製品を我が家に置いていった。そしてそのまた10年後、今度は秋葉原の時代から巷に量販店が出現し始めた。その頃になると、その近所の電器屋さんは廃業した。

こうした時代を経てきて、とても不思議というか腑に落ちない思いが私の心の壁にへばりついている。

戦後、高度経済成長をしてきた日本は今経済が低迷していると言われている。家電メーカーから見ると、家に家電製品がなかった当時は、こぞって売れたのだから、そりゃ景気がいい。でも、みんな一通りの家電製品を持つと、あとは修理か買い替え。当然、メーカーの売上げは落ちるはずだ。iPodやデジカメ(もー古いかー)など最近だって新たな商品もないわけじゃないが、私の幼少時代とは、比較にならない。

こうして考えてみると、モノが豊かになれば、景気が低迷する(消費が冷える)のは必然だ。なのに、今、「景気が悪い」と、それが諸悪の根源のように言われる。何かがおかしい。

きっと景気が「悪い」んじゃなくて、言い方を変えれば、モノが豊かな時代になると景気は低迷するが、それはモノが豊かになった証なのだ、と思う。経済はサービスもあるが、初めてテレビが家に来た時代のモノのボリュームほどの新しいサービスが最近あるだろうか。

高度成長期によかったのは、「景気」だったんじゃなく、たぶん白黒テレビが初めて家に来たときの「幸せ感」だったように、今になって思う。そしてその「幸せ感」があったから、それらのモノを大事に使った。しかし、当時のような「幸せ感」を今持つことは現実的に難しい。幸せって何だっけ?