ガマガエル様
一昨日の日曜日、庭の草刈りしていたカミさんが急に「わぁー」と声を張り上げた。「こんなとこにいたー」。鎌を片手に目を丸くして仁王立ち。上の写真の、草むらに鎮座されているガマガエル様を見つけたのだ。カメラのフラッシュをたいても微動だにしない。すごい存在感だ。決して広くない東京・昭島の我が家の庭でのこと。
私は、たぶん異常と思えるほど、このガマガエルを特別な存在としている。それはたぶん、緑と言えば公園の植え込みか軒先の植木鉢しかない東京の下町に生まれ育ったためだと思っている。その反動として、妙にまたは変に自然に対する畏敬の念が強いのだ。だからこの場合のように、少しのキッカケがあるだけで、ガマガエルに「様」をつけずにはいられなくなる。
最初のご対面は7〜8年前のこと。やはり庭の草刈りをしていた私が、草むらで見つけて驚いた。この庭に池はない。一番近い(決してきれいとは言えない)疎水で500メートルぐらいの距離。また、この借家に入居したとき(10年ほど前)、この庭は一面除草剤が撒かれていて、真っ平らだった。つまり、どっかからやってきたということ。それって一体どこから? 塀で囲まれたこの場所へたどり着くには、車も走るアスファルトの道路を通ってこなければならない。
時は流れ、その初対面から2〜3年後、ミョウガの草むらで干からびたガマガエル様を見つけた。とってもガッカリしたが、仕方ない。「そう居心地のいい場所じゃないよな、ここは。水場もないし。なんでこんなところに来なきゃいけななかったのかなぁ・・・・」なんて思いながらそのご遺体を裏庭の山椒の木の下に埋めた。
そして更にその2〜3年後。つまり今から2〜3年前の天気のいい冬の日のこと。木の苗を植えようと、鍬で乾ききった土を掘ってたら、直径10cmぐらいの土がいきなりモコモコっと盛り上がった。このときは本当にビックリした。まるでオカルト映画の特殊映像のようだった。一生忘れない。盛り上がった土は、土まみれになったガマガエル様だった。冬眠中に起こされて、ガマガエル様も驚いただろうが、私だって驚いた。粘性のある全身の皮膚は冬の乾いた土にまみれ、とんかつ状態。それが鍬を入れた瞬間、地中から這い上がってきたのだ。起こしちゃったことは仕方ない。また穴に入ってもらって、土をかぶせた。
このとき私は「おー、こんなところで生きてたかー」と、土まみれのガマガエル様を、干からびた遺体の生まれ変わりのように感じていた。
その後は、年に1〜2度お目にかかる機会があり、その度ごとにとても有り難い気持ちになった。夜中にごそごそと動き回るのを見つけたときは、5歳の娘といっしょに、懐中電灯で照らしていつまでも眺めていた。
そして更に時は流れ、今年の6月の朝、家を出て保育園へ向かった娘が、すぐに走って帰ってきた。「カエルさんが、カエルさんが・・・・」。あとの言葉が出ない。すぐ近くのアスファルトの上で、ガマガエル様が車に踏まれていたのを見つけたのだった。私も早速見に行った。「あ〜、ついに・・・・。でもやはり仕方ないよな」と思いながら、山椒の木の下に埋めた。
そして昨日。ご覧のとおり、鎮座されているんですねぇ〜。でぇーんと、微動だにせず。もう嬉しいの一言だ。ご遺体を含め、どれがどのガマガエル様かは分からない。だけど、私にはどうも一連のガマガエル様が一匹のガマガエル様に思えてならない。
昔どっかの田舎の田んぼ脇の道で、夜中にガマガエルが集団で大移動しているところを見たことがある。あれが我が家の辺りでもあったのか。そう考えるとワクワクするが、ただ近所の誰かが飼ってたのが逃げ出しただけなのかも知れない。そんなことはもうどうでもいい。ただただ私は、この威風堂々としたお姿にお目にかかれるだけで、心を打たれるのだ。その度になぜか手を合わせたくなる。
さて、この写真を撮ってから数分後、再び同じ草むらをのぞき見ると、もういない。辺りを見てもみつからない。この神出鬼没さがまたたまらない。「またどこかお好きな場所へ移っだけだ」と深く探してはいけない気持ちになる。そのぐらい、私にはおそれ多い存在で、我が家の守り神のように思っている。
ラベル: 食に非ずこと