2018年2月26日月曜日

不便の恩恵

今から30年ほど前、自炊しながらインドを旅行していたときのこと。今はどうだか分からないが、当時、普通にインドの市場で売られていたお米には、(米粒より若干小さな)小石が混ざっていた。このまま炊くと、食事中、無防備に小石をガリッと噛んでしまうことになり、それは結構辛い。したがって、ご飯を炊く前には、必ず小石を取り除く選別作業が必要だった。売ってる米に小石が混じっているなんてことは考えもしない地域出身の私は、「毎回選別が必要だ」と最初に思ったときは、面倒だ厄介だと憂鬱な気分になった。しかし、必要なことなので、毎日の習慣として行うことになった。

いざ日々行ってみると、これが思いの外、面倒に感じない。ほんの2〜3日目ぐらいからだったと思うが、不思議と全く面倒と感じなかったのだ。それはまるで、「料理を始める前に手を洗う」ぐらいのことになっていた。その全く面倒と感じない感覚は、面倒と思った当初の自分と同一人物の感覚なのかと、疑いたくなる程だった。

自分の直感を信じることは大事なことと、常日頃思ってはいるが、こういうように、アテにならない自分の直感もあるのだ、ということを思い知った経験だった。そのキッカケになったのは、選別の必要性だったと思う。その必要性が、憂鬱に思った私の背中を押したからこそ、面倒と感じなかった不思議を味わえた。もうひとつ思い知ったのは、「(まだやってないことを想像して)思うこと」と、「(実際にやってみて)感じること」の違いだ。この場合、面倒と「思ったこと」は幻想で、面倒でないと「感じたこと」が、現実だったということだ。

さて、時は流れて、今の東京の我が家。

カミさんの実家は専業農家で、お米も作っている。そのため、東京の我が家で食すお米は、有り難くも定期的に送ってもらっている。ただし、去年収穫のお米は粒が小さかったという理由で、籾摺りがちゃんと出来ていない米粒が混じっている。

玄米で送ってもらって、我が家の家庭用精米器で五分づき程度に精米するのだが、精米後、玄米のときよりも、それら小さな籾付きの米粒が目立つようになる。
上の写真のように、ついでに、茶色や白色になった粒も選り分ける。昔、ビックコミック・スピリッツの「美味しんぼ」の白飯対決で、海原雄山が、炊く前の米の選別を一粒ずつ行っている飯炊き職人で士郎を唸らせたが、それを思い出してしまい、つい変色した粒をはじいてしまった。「美味しんぼ」では、少しでも欠けた米粒もはじいていたが、私はそこまではやらない。(ちなみに、ベトナムでは、あえて割れた米だけで作られた料理がある。だから、割れた米だけのお米も売っている。この話は別の機会に) 私がはじいた籾殻付きや変色した米粒は、庭を訪れる鳥の餌になった。

話が脱線気味だ。戻そう。何しろ、選別せずに炊くと、食べたとき、籾殻が口の中に残り、あまり気持ちのいいものではない。30年前のインドの小石ほどではないにしても。そこで、精米後、籾殻付きのお米の選別作業を行う。それが冒頭の写真。

当然、30年前のインドでの経験がよみがえる。

有り難くもカミさんの実家から届いているお米。その有り難さは、選別作業の必要性に直結する。時間にして、5合で10分ぐらいだろうか。それは単純な時間の長さなのではないのだが、もう、幻想として面倒と「思うこと」はない。選別している間の短い時間、30年前インドで同じようなことをやっていた感覚がよみがえってくる。それはまるでタイムマシーンに乗ったような感覚だ。

言うまでもなく、小石や籾殻付きの米を選別するよりしない方が便利だ。だが、その不便から得ているものは、大きいかも知れない。

2018年2月15日木曜日

にぎり寿司と醤油

この冬は記録的な寒波が来た。私の住む東京・昭島も、最低マイナス8℃にもなったらしいのだからすごかった。この激しい寒波が東京を襲う直前に私は、南国ベトナムへ出張した。連日30℃は越えるのだが、一週間の出張なので、その暑さにちょうど慣れた頃、日本に戻らなくてはならなかった。で、帰ってくると寒さが身にこたえたこともあって、カミさんに「今朝はマイナス4℃かよ。東京にしちゃぁ、えらい寒よね」と言ったら、「何言ってんのよ。先週は、最低マイナス8℃で、あまりに寒くて夜中に起きちゃったぐらいなんだから。このマイナス4℃は寒くないの。暖かいのよ」と怒られた。続いて娘も「そーだ、そーだ」とカミさんの援護射撃をする。何しろ本当に寒かった。

さて、にぎり寿司。古くは、江戸時代、華屋与兵衛という人が考案したと言われている、と思った。そういうウンチクはさておき、回転寿司でも、ネタのウラにワサビをちょいと塗って、シャリと合わせて、にぎり寿司だ。多くの人は、そのにぎりの端っこに、小皿にとった醤油をつけて食す。

私は常々、その食べ方はよくないと思っている。小皿にとった醤油ににぎりの端っこをつけると、毛細管現象で、醤油が米粒と米粒の間にぐんぐん染み込んで、醤油過多になるからだ。だいたいシャリにはしっかり味がついているから、そこにさらに醤油が染み込むことになる。一方、ネタの方は、多くはツルツルしたソリッド状なので、醤油はにぎりの端っこの極部分的表面にうっすらとつく程度。

江戸前寿司と称した高級な寿司屋さんへ行くと、ネタ自体に仕事がしてある、つまり味もついていることが多いから、醤油の小皿自体ない。ネタの寝かし方・時間もしっかり考えられているから、おいしいです。とは言え、そういう高価な寿司屋さんにはそうそう行けないから、私にとっては回転寿司でも、少しでもおいしく食すことが現実的に重要だ。

この醤油のつけ方が気になり始めた頃、まず私は、にぎりを裏返してネタ側を下にして、小皿の醤油に浸して食していた。こうすると、たしかにシャリには醤油が染み込まずに済むのだが、ネタは平べったい場合が多いため、ネタ全体にベタッと醤油がついてしまい、ついつける醤油が多過ぎてしまう。また、何となくが裏返しになったにぎりが小皿の醤油に浸かった姿が私の美意識に反した。

そこで思案した私は、回転寿司の皿にのったにぎりの上に好みの量の醤油をサッと好きな位置にかけることにした。こうすれば、裏返えった姿を目にすることもなく、そのまま口へ持っていける。また、醤油がかかったところとかかっていないところが適度なムラになって(味に変化が出て)おいしい。お気づきと思うが、こうすると、皿の枚数分、醤油をかけることになるのだが、そのぐらいの手間は、おいしく食す事が出来ることを思えば、惜しむに値しない。

ここで冒頭の写真を見て頂きたい。にぎりの上にワサビ、そしてそこに醤油がかかっている。これは子供たちに連れて行けとせがまれて行った、ビュッフェスタイルのしゃぶしゃぶファミレスでのもの。ここは客に子供たちが多いから、ワサビは後のせなのだった。

回転寿司とは勝手が違う。
考えることがひとつ増えた。

「ワサビのせる→醤油かける」の順か「醤油かける→ワサビのせる」の順かが問題だ。写真は、前者。よく言えば、程よくワサビが醤油に溶けている。私はこのムラが好きなんだな。でも、本ワサビじゃなくたって、もしかしたら、「醤油かける→ワサビのせる」の順の方が、ワサビの香りが高まって、よかったかも知れない。ただ、この店は一応しゃぶしゃぶ屋さんなので、二皿は食べていない。今度、試してみよっと。