もう一ヶ月以上も前のことになってしまったが、11月の初め頃、愛媛の知人から、ミカンが1箱送られて来た。それが冒頭の写真。無農薬・無肥料・ノーワックス。お礼の電話をした際、そのミカンの事情をいろいろ聞かせてもらった。
まず、日本のミカンの消費量は年々減ってきているらしい。(私見ながら、日本の居間にコタツが減ってきているのが原因ではないか。半分冗談だけど、半分マジ。ちなみに我が家はホットカーペットのコタツ) また、その愛媛の知人が言うには、「何年か前まで、愛媛はミカンの出荷量日本一だったが、今は第二位(・・・残念)」とのことだった。農業関係の仕事の人なので、そのへんが気になってるらしい。
しかし、そんなことより、ミカンの需要が減ってると同時に、愛媛でも生産者の高齢化が進み、後継者不足が問題になっている。で、送ったこのミカンは、愛媛でも離島にある畑のもので、そこの生産者は高齢になって、十数年前に松山の老人施設に入ってしまい、その後ずうっと「放ったらかし」状態にあったらしい。
その知人は、「それではもったいない」と、そのミカン収穫し、無農薬・無肥料・ノーワックスの付加価値のある商品として販売しようとした。しかし、十数年前から「放ったらかし」(農薬をやってない)ながらも、検査をすると極微量ながら、農薬の成分が検出されるらしい。その知人曰く、「農薬の成分には、元々土壌に含まれている成分と同じものもあって、おそらくそれが検出されているんだと思う」とのこと。いくら無農薬・無肥料・ノーワックスでも、こうなると「無農薬」とは謳えないらしい。また、写真でお分かりだろうか。やや外皮にキズがある。「無農薬」でもないのに、キズありとなると、商品価値がずいぶん下がるらしい。しっかり農薬使ってワックスかけたミカンよりもよっぽどいいのだが・・・・。
で、問題の味だ。
11月初め頃ということもあってか、イマイチ味がのってない。薄い味という印象。頂いておきながら失礼とは知りつつも、お礼の電話の際、私なりにやんわりとそのことも伝えた。
すると、その3週間後、再びその知人からミカンが1箱着いた。今度のは、すこぶるおいしい。私の好みのミカンは、「甘味7:酸味3」ぐらいのバランスの濃い味。多くは皮が薄くて小ぶりのもの。早生の緑がかったミカンから徐々に黄色くなり、オレンジ色になったばかりのタイミングにこの味のミカンが出回る。ほんの一ヶ月ぐらいの間だと思う。この2度目に送ってくれたミカンがまさにこれだった。それが下の写真。冒頭写真のミカンより小ぶりで外皮も中の皮も薄いのだが、写真じゃ分からないね。
で、再びお礼の電話をすると、知人は第一声、「今度のはおいしいでしょ」と誇らしげ。「これが一番味がのってるミカンだからね。愛媛の人は、クリスマス過ぎてのミカンを、『味の抜けたミカン』と言って、食べなくなるのよ。甘いばっかりになるからね。これも十年無農薬・無肥料でノーワックスなんだけど、先に送ったミカンと違って、土壌から農薬の成分が検出されないから、某著名百貨店(M)の食品売り場に並んでいるのよ」と言う。
「それって、いわゆるブランド・ミカンってやつ?」と私がきくと、
「そういうことになるわ」と答えた。
知人の「そういうことになるわ」という言葉には、同じミカン、しかもどっちも無農薬・無肥料・ノーワックスながら、扱いが全く別物になることへの不満が感じられた。でも、こっちの方がおいしいからね。先のミカンの収穫時期を3週間遅らせるとどうなるのか? そこまでは突っ込まなかった。
そして、知人は続けて言った。
「ミカンは、他の果物と同じように、隔年で収穫量が変わるもの。ブランド・ミカンになれば、扱いが変わるけど、先に送った無農薬・無肥料・ノーワックスのミカンだと、一般の扱いになって、販売するにも『何キロ』と毎年の決まった納入量が確定しないとスーパーは買ってくれないのよ」
「じゃあ、(欠品しないように)少ない年の量を基準に『何キロ』が決まるわけ?」と私はきく。
「そのとおり」
「じゃあ、多い年に余るミカンはどうなるのよ?」
「・・・・それは廃棄してるのよ」
「えー」
とんでもない話しだけど、あるのかも知れない。私は、ポンジュースを思い出した。単に私の想像だけど、ポンジュースは、そういった廃棄されそうなミカンを原料に作られているのかも知れないと思った。グッド・アイデア。
曲がったキュウリが、箱に入りにくいからとの理由で選別されるという有名な話しがあるが、どうも日本の多くの農産物は、かなりとんでもないことになっていると想像できる。隔年の収穫量の差も、地域でまとまればある程度緩和できないものか? など、私なりの想像はあるが、それが難しい想像も出来なくもない。
欠品のないお店、期待する商品がいつもあるお店にはこうした背景もきっとあるのだ。一般の消費者はそれを知らな過ぎるんじゃないか。または麻痺しているのか、させられているのか。いくら廃棄したって、農家は食っていかなくちゃならない。つまり、廃棄も生産コストの中に入ってることも考えられる。そうだとすると、結局そのしわ寄せは消費者に及んでいることになる。
ある種の効率や便利さを求めるあまり、同時にその裏側にも変化が生じる。考えれば当たり前のことながら、現実的に消費者はそこまで思いを馳せないことが多い。全体にとって、一番いいことはどういうことなんだろう。あくまで現実的に。唐突ながら、鈴木大拙の「総合的に考える」という言葉を、思い出した。それにしても、「総合的に考える」は難しい。現実的には、「総合的なことを感じる」なんではなかろうか・・・・などと、ホットカーペットのコタツで頂き物のミカンを頬張りながら、思った。
2014年11月21日金曜日
「祈る」ということ
1989年頃のこと。ガンジス川沿いの町、バラナシという町に滞在していた。2ヶ月ぐらいだったと思う。バラナシはインドで指折りのヒンズー教の聖地。例えば、死を悟ったヒンズー教徒は、生きながらこの町に運ばれた後、逝き、火葬され、遺骨をガンジス川に流されることが至高の幸せとされる。また、ヒンズー教徒が沐浴する写真を見たことのある人もいるかも知れないが、たいがいはこの町のガート(沐浴場)だ。だから、ここは外国人の旅行者も多いが、ヒンズー教徒の巡礼者もたくさんいるエネルギッシュな町だ。
その旧市街の中心であるゴードリア周辺の雑踏を歩いてた私は、道端にいた白髪の初老の男性に手招きされた。お互い面識はない。だが、喧噪と雑踏の中でさえ、その男性の視線はしっかりと私をとらえていたので、私は彼が「私を」呼んでいることを確信した。そして、不思議な気持ちながらも、私は、その男性の方へと歩いていった。
私は、「ナマステ(こんにちは)。どうしました?」と軽く尋ねると、彼は「まー、ここへ座れ」と、その道端にある3人ぐらいが座れる横長の木製の腰掛けに座るよう促された。周りにはその初老の男性の仲間が2〜3人いた。変な話しと思うかも知れない。だが何せ、その初老の男性には、「何か大事なことがある」というような真剣な雰囲気があった。私はその雰囲気に引きつけられるようにその長椅子の端に腰掛けた。そして、同じ椅子の少し離れたところに腰掛けたその男性は、横に座っている私の目を見ながら、英語でこう語りかけた。
“You are very good. Because you are 90% good. But your 10% not good. So if the 10% become good, you will be 100% very good.”(お前はとてもいい。なぜなら90%いいからだ。でも、10%がよくない。だからその10%がよくなれば、お前は100%よくなる)
彼は微笑みながらも私を真剣に見つめている。
少したじろぎながらも、私はその10%が知りたくなった。
“Ummm, I see. So what is the 10%? Would you tell me what it is?”
(そうですか。では、その10%とは何か教えてくれますか?)
“Yes, of course. It's to pray. You don't pray, don't you? So if you pray, you will become 100% very good, you understand?”(もちろんだとも。それは、祈ることだ。お前は祈ることをしないだろ? だから、お前は祈ることで、100%よくなるんだ。分かったか?)
“Umm, yes. I understand.”(は、はい、分かりました)
と、私はインド流に小首をかしげ、合意した。
“OK, good. You can go.”
(よし、分かったら、行っていい)
やや、狐につままれたような感覚になったものの、私は穏やかな笑顔のその男性に合掌した後、その場を去った。この町の滞在中、私はこの会話のことが気になって、この後、何度かこの場所を訪れたが、その初老の男性には会えなかった。それはまるで夢の記憶を辿ったようにも感じたが、ぽつんとある木製の長椅子だけが、夢ではなかったことを私に教えていた。
27年も前のことだけど、私にとってこれは一生忘れられない会話になっている。どうしても答えが見つからないとき、私は答えを見つけることをいったん諦め、「祈る」ことにしている。そして、私はその白髪の初老男性に感謝している。
その旧市街の中心であるゴードリア周辺の雑踏を歩いてた私は、道端にいた白髪の初老の男性に手招きされた。お互い面識はない。だが、喧噪と雑踏の中でさえ、その男性の視線はしっかりと私をとらえていたので、私は彼が「私を」呼んでいることを確信した。そして、不思議な気持ちながらも、私は、その男性の方へと歩いていった。
私は、「ナマステ(こんにちは)。どうしました?」と軽く尋ねると、彼は「まー、ここへ座れ」と、その道端にある3人ぐらいが座れる横長の木製の腰掛けに座るよう促された。周りにはその初老の男性の仲間が2〜3人いた。変な話しと思うかも知れない。だが何せ、その初老の男性には、「何か大事なことがある」というような真剣な雰囲気があった。私はその雰囲気に引きつけられるようにその長椅子の端に腰掛けた。そして、同じ椅子の少し離れたところに腰掛けたその男性は、横に座っている私の目を見ながら、英語でこう語りかけた。
“You are very good. Because you are 90% good. But your 10% not good. So if the 10% become good, you will be 100% very good.”(お前はとてもいい。なぜなら90%いいからだ。でも、10%がよくない。だからその10%がよくなれば、お前は100%よくなる)
彼は微笑みながらも私を真剣に見つめている。
少したじろぎながらも、私はその10%が知りたくなった。
“Ummm, I see. So what is the 10%? Would you tell me what it is?”
(そうですか。では、その10%とは何か教えてくれますか?)
“Yes, of course. It's to pray. You don't pray, don't you? So if you pray, you will become 100% very good, you understand?”(もちろんだとも。それは、祈ることだ。お前は祈ることをしないだろ? だから、お前は祈ることで、100%よくなるんだ。分かったか?)
“Umm, yes. I understand.”(は、はい、分かりました)
と、私はインド流に小首をかしげ、合意した。
“OK, good. You can go.”
(よし、分かったら、行っていい)
やや、狐につままれたような感覚になったものの、私は穏やかな笑顔のその男性に合掌した後、その場を去った。この町の滞在中、私はこの会話のことが気になって、この後、何度かこの場所を訪れたが、その初老の男性には会えなかった。それはまるで夢の記憶を辿ったようにも感じたが、ぽつんとある木製の長椅子だけが、夢ではなかったことを私に教えていた。
27年も前のことだけど、私にとってこれは一生忘れられない会話になっている。どうしても答えが見つからないとき、私は答えを見つけることをいったん諦め、「祈る」ことにしている。そして、私はその白髪の初老男性に感謝している。
2014年11月19日水曜日
銀杏の処理、「拾いながらトロトロ落とし法」
今朝、近所の公園へ行って銀杏を拾った。今年は上の写真にあるだけだったが、拾う時間と処理する時間を合わせて30分ぐらいで済ませたので、出勤前の慌ただしい時間でも出来た。
銀杏拾いは何年かしているので、私なりのノウハウがある。それをここでお披露目しようと思う。
「銀杏拾いは楽しいけれど、後の処理が大変」
というのが、大方の見方ではないだろうか。それと、「臭い」かな。私は、二十歳ぐらいまでは、銀杏独特の臭いをクサイと思っていたが、30〜40歳ぐらいからは拾うときにクサイとは全く思わなくなった。銀杏は昔から好物だったが、「自分で臭いを感じながら拾い、それを食べる」を何年かしているうち、おそらく無意識的に、「この臭い」と「この味」が繋がってきたからのような気がする。ついでに言うと、初夏のドクダミも一緒。子供の頃は、クサイと思っていたドクダミだが、大人になって、「自分でその臭いを感じながらドクダミを刈って、乾かして、煎じて飲む」を何年かしているうちに、すっかり変わり、今では、ドクダミは爽やかな香りと感じるようになり、鼻がスースーするし、とても心地よい。刈り終わるといい気分になる。
さて、話しが脱線した。銀杏の処理方法だ。
一般的だが、まず、銀杏拾いで用意するものは、ゴム手袋(安いのでも銀杏専用にすれば、何年も使える)とスーパーなどのレジ袋。これでオッケー。靴に臭いがつくのが気になる人は、洗える靴を履いたらいいが、私の場合は、普段履いてる靴で十分。帰宅したら、靴の両底をパーンパーンと叩けばいいだけだから。
銀杏を拾うにはもちろんゴム手袋をはめるのだが、私の場合、拾った銀杏をすぐにレジ袋に入れない。一粒右手で拾ったら、その手の平を上に向け、粒を人差し指と中指の間もしくは中指と薬指の谷間に置く。そして、その粒を親指で注射器を押すように押す。すると、銀杏の種だけが下に落ち、手の平には銀杏の外側のトロトロしたところが残る。このとき、種が落ちるのを、左手で持っているレジ袋で受けるのだ。手の平に残ったトロトロは、その場の地面に落とす。これを拾いながら繰り返す。私的には、地面に落ちたトロトロは土に還り、イチョウの栄養になる。そして、大まかにトロトロを取り除かれた種だけがレジ袋にたまっていく、という寸法だ。
以前、銀杏拾いを始めた頃は、拾った外側のトロトロ付きのまま、レジ袋に入れて家へ持って帰って処理していた。が、その処理の最初の工程を拾いながら終わらせてしまうのが、この「拾いながらトロトロ落とし法」だ。拾うときにクサイとは思わなくても、ずぅーと家が銀杏の臭いなのは嫌なので、その心配はなくなるし、家に帰ってからの処理は楽になるし、トロトロをイチョウの栄養として還元できるしと、いいことずくめのように思っている。
大まかにドロドロがとれた種は、家に持ち帰った後、ぬるま湯を張ったバケツに投入する。ゴム手袋をはめた両手で擦るように種をガラガラ洗って、一度ぬるま湯を替えてザルに上げたのが、冒頭の写真だ。この量で、だいたい拾うの5分、洗うの5分ぐらいだ。
この「拾いながらトロトロ落とし法」のコツは、トロトロがやや乾いた頃の銀杏だと、やりやすいということ。銀杏の落ち始めはトロトロの水分が多い。その後、地面に落ちたものはもちろん、イチョウの枝に付いたままでもトロトロは乾いていく。このやや乾き気味の銀杏だと、トロトロ落としの際、ツルッと種だけが落ちやすく、種の周りに残るトロトロの繊維が少なくなる。よって、その後バケツで洗う工程も楽になるのだ。上記の説明で、バケツのぬるま湯は一度しか替えてないが、落ち始めの銀杏だと、一度では無理かも知れない。
あと、別件だけど、銀杏拾いの名所には行かないことですね。実は、ウチの近所には、昭和記念公園という立派な国営の公園があり、そこのイチョウ並木が有名で、銀杏もたくさん落ちる。でも、拾う人が落ちる銀杏以上にたくさん来るから、ちょっとタイミングを誤ると、落ちてても拾い残りの小さいのがほんのちょっとだ。
また、名所でなくても、町中など競争が激し目の場所では、強風が吹いた直後を狙う。実は、ウチの辺りは昨夜強風が吹いてたので、私は今朝行ったのだった。銀杏シーズンに必ず2〜3度は強風が吹くので、それに合わせられる人は、合わせた方が断然効率的です。
それから、「散歩がてらに銀杏拾い 」ぐらいゆる〜い気分だったらいいのだけど、効率よく拾うには、あらかじめ、イチョウの木を決めておくことですね。私が今朝10分で拾い終えたのも、決めているイチョウの木があるから。だいたい、銀杏の粒のサイズや、実が落ちるタイミングは、各イチョウの木によってだいたい決まっている。
私の今年の銀杏拾いは、やや遅れ気味の今朝だったけど、これで私の秋が終わった感じです。以前、銀杏拾いに燃えてたときもあったけど、いくら「拾いながらトロトロ落とし法」でも、山ほど拾うと大変。人にあげてもいいのだけど、無理のない程度拾って、大事に食べるのも悪くない。そんなこと思う、今年の秋最後の日でした。
銀杏拾いは何年かしているので、私なりのノウハウがある。それをここでお披露目しようと思う。
「銀杏拾いは楽しいけれど、後の処理が大変」
というのが、大方の見方ではないだろうか。それと、「臭い」かな。私は、二十歳ぐらいまでは、銀杏独特の臭いをクサイと思っていたが、30〜40歳ぐらいからは拾うときにクサイとは全く思わなくなった。銀杏は昔から好物だったが、「自分で臭いを感じながら拾い、それを食べる」を何年かしているうち、おそらく無意識的に、「この臭い」と「この味」が繋がってきたからのような気がする。ついでに言うと、初夏のドクダミも一緒。子供の頃は、クサイと思っていたドクダミだが、大人になって、「自分でその臭いを感じながらドクダミを刈って、乾かして、煎じて飲む」を何年かしているうちに、すっかり変わり、今では、ドクダミは爽やかな香りと感じるようになり、鼻がスースーするし、とても心地よい。刈り終わるといい気分になる。
さて、話しが脱線した。銀杏の処理方法だ。
一般的だが、まず、銀杏拾いで用意するものは、ゴム手袋(安いのでも銀杏専用にすれば、何年も使える)とスーパーなどのレジ袋。これでオッケー。靴に臭いがつくのが気になる人は、洗える靴を履いたらいいが、私の場合は、普段履いてる靴で十分。帰宅したら、靴の両底をパーンパーンと叩けばいいだけだから。
銀杏を拾うにはもちろんゴム手袋をはめるのだが、私の場合、拾った銀杏をすぐにレジ袋に入れない。一粒右手で拾ったら、その手の平を上に向け、粒を人差し指と中指の間もしくは中指と薬指の谷間に置く。そして、その粒を親指で注射器を押すように押す。すると、銀杏の種だけが下に落ち、手の平には銀杏の外側のトロトロしたところが残る。このとき、種が落ちるのを、左手で持っているレジ袋で受けるのだ。手の平に残ったトロトロは、その場の地面に落とす。これを拾いながら繰り返す。私的には、地面に落ちたトロトロは土に還り、イチョウの栄養になる。そして、大まかにトロトロを取り除かれた種だけがレジ袋にたまっていく、という寸法だ。
以前、銀杏拾いを始めた頃は、拾った外側のトロトロ付きのまま、レジ袋に入れて家へ持って帰って処理していた。が、その処理の最初の工程を拾いながら終わらせてしまうのが、この「拾いながらトロトロ落とし法」だ。拾うときにクサイとは思わなくても、ずぅーと家が銀杏の臭いなのは嫌なので、その心配はなくなるし、家に帰ってからの処理は楽になるし、トロトロをイチョウの栄養として還元できるしと、いいことずくめのように思っている。
大まかにドロドロがとれた種は、家に持ち帰った後、ぬるま湯を張ったバケツに投入する。ゴム手袋をはめた両手で擦るように種をガラガラ洗って、一度ぬるま湯を替えてザルに上げたのが、冒頭の写真だ。この量で、だいたい拾うの5分、洗うの5分ぐらいだ。
この「拾いながらトロトロ落とし法」のコツは、トロトロがやや乾いた頃の銀杏だと、やりやすいということ。銀杏の落ち始めはトロトロの水分が多い。その後、地面に落ちたものはもちろん、イチョウの枝に付いたままでもトロトロは乾いていく。このやや乾き気味の銀杏だと、トロトロ落としの際、ツルッと種だけが落ちやすく、種の周りに残るトロトロの繊維が少なくなる。よって、その後バケツで洗う工程も楽になるのだ。上記の説明で、バケツのぬるま湯は一度しか替えてないが、落ち始めの銀杏だと、一度では無理かも知れない。
あと、別件だけど、銀杏拾いの名所には行かないことですね。実は、ウチの近所には、昭和記念公園という立派な国営の公園があり、そこのイチョウ並木が有名で、銀杏もたくさん落ちる。でも、拾う人が落ちる銀杏以上にたくさん来るから、ちょっとタイミングを誤ると、落ちてても拾い残りの小さいのがほんのちょっとだ。
また、名所でなくても、町中など競争が激し目の場所では、強風が吹いた直後を狙う。実は、ウチの辺りは昨夜強風が吹いてたので、私は今朝行ったのだった。銀杏シーズンに必ず2〜3度は強風が吹くので、それに合わせられる人は、合わせた方が断然効率的です。
それから、「散歩がてらに銀杏拾い 」ぐらいゆる〜い気分だったらいいのだけど、効率よく拾うには、あらかじめ、イチョウの木を決めておくことですね。私が今朝10分で拾い終えたのも、決めているイチョウの木があるから。だいたい、銀杏の粒のサイズや、実が落ちるタイミングは、各イチョウの木によってだいたい決まっている。
私の今年の銀杏拾いは、やや遅れ気味の今朝だったけど、これで私の秋が終わった感じです。以前、銀杏拾いに燃えてたときもあったけど、いくら「拾いながらトロトロ落とし法」でも、山ほど拾うと大変。人にあげてもいいのだけど、無理のない程度拾って、大事に食べるのも悪くない。そんなこと思う、今年の秋最後の日でした。
2014年11月14日金曜日
「魂を純粋にする」ということ
先のエントリに続き、インドのお話。きょうは、神様ではなく、私がインドを旅していたときの思い出。30年近く経った今でも忘れられない思い出のうちの一つを書きたいと思う。
1987年の11月、私は初めてインドの地に立った。その町はカルカッタ(今はコルカタと呼ばれている)。あてのない旅だったので、カルカッタから海岸線を南下し、インド半島の先っちょまで行こうと思った。「カルカッタから海岸線を南下」というと、ほとんどの旅行者は、プーリー(Puri)という町を目指す。しかし、アマノジャクの私は、
「そんな(インド人を含む)旅行者がみんな行くようなところじゃなくて、普通の暮らしのある、普通の町に行ってみよう。何せ、私はインドのことは全く分かってないのだから」
と、ちょうどカルカッタとプーリーの中間にある、海辺にある普通の(特に有名な寺院や観光地のない)小さな町、バラソール(Balasore)という駅に降り立った。
いざ着いてみると、さすがに人気(ひとけ)のない駅で、どうしようかと思ったが、まずは泊まるところを見つけないといけない。とりあえず海の方向へ歩き出した。後から思えば、偶然に近いことだったが、看板に“Hotel”という言葉はなかったものの、“tourism”のような英語の言葉があったので、泊まれなくとも、泊まるところを教えてくれそうな雰囲気の家を見つけた。そして、その門を叩いた。
すると、30代ぐらいの女性と子供が数人やってきた。が、言葉の問題があった。この辺りはオリッサ州で、言葉はオリッサ語(ウーリア)。おそらくベンガル語とヒンズー語の間ぐらいの言葉か。何しろ英語は通じない。インドに来る前、「かつてインドはイギリスの植民地だったから、英語は結構通じる」と聞いていたが、時と場合によった。でも、私はいかにも旅行者に見えるし、身振り手振りで泊まるところを探していることは分かってもらえた。そして、どうもここに泊まらせてくれそうな雰囲気になり、門の中に入れてくれた。
やや不安も残っていたので、次には、宿代を確認することで、泊まれることを確かめねばと思った。最初、アラビア数字は分かるだろうと高をくくっていたが、紙に123と書いても伝わらなかった。このあたりはデバーナガリー文字を使うので、その文字の数字でないと通じなかった。そこでまず思いついたのは、財布の中からお金を出して、金額を教えてもらう方法だったが、何となくそれでは失礼な気がして躊躇してたら、私は別の方法を思いついた。
庭に転がっている小石を集め、まず地面に1個置き、その隣に2個の列、そのまた隣に3個の列、4個の列、・・・・と、10までの列を並べた。
そしたら、子供たちは喜んだ。「あ、それはエーク(1)」、「それはドー(2)」と、次々と数字が分かり、ついには宿代まで判明した。子供たちは、私が言葉を知りたがっているのが分かると、私がジェスチャーする行為(食べる・トイレするなど)や、指さした物の名前なども次々と教えてくえた。見知らぬ土地で、言葉も通じなかったが、それ故に、それはとても楽しい時間だった。
その夜の寝床が確保出来、心に余裕を持てた私は、海辺まで散歩に行き、日没前にその家に帰ってきた。日が暮れると、食事を持ってきてくれた。周りにレストランはないし、「腹が減ること」は当然だと思ってくれていた。私にとっては、何とも言えぬ、快適さがあった。
そして、さぁ今夜はもう寝ようとしていた、夜9時頃。私のいた部屋のドアがノックされた。誰かと思うと、その家のご主人(男性)だった。40歳ぐらいだったか。驚いたことに、何と、とても丁寧な英語で語りかけてくれた。
「いや〜、いろいろと不自由をおかけして申し訳ない。私が家主です。私は外に仕事に出ていて、きょうは遅くなってしまい、さっき帰宅したところなんです。あなたはどちらの方ですか? こうして私の家に泊まりに来たのも何かの縁。私は、あなたと話をしないとなりません」
と、彼が話し始めたのがキッカケで、おそらく1時間ぐらい、私たちは会話をしたと思う。その詳細は憶えていないが、とても強烈に憶えていて忘れられないことがある。
それは私が会話の中で質問をすると、どんな質問にも彼は必ず、
“It's to purify the (or your) soul.”
「それは、魂を純粋にすることです」
と答えたことだ。
若かりし私は、その意味が全く分からなかった。例えば、「魂を純粋にすることって、どういうことですか?」ときいても、「それは、魂を純粋にすることです」と、彼は答えた。そして私は当惑した。誤解しないでもらいたい。彼は決して悪ふざけてしているのではなく、非常に誠実で真剣な答えと、私は感じていたことを。
翌朝、私はその家を発ち、駅へ向かった。
“to purify the soul”
「魂を純粋にすること」
それから私の5年に及ぶ旅は始まった。最初から5年と思っていた訳ではない。漠然と「1年ぐらい」と思って出発した旅だった。そして、あれから27年経った今、私は、「魂を純粋にすること」の意味を理解しかけているように感じている。
例えば、このブログの左側のプロフィール欄に、下記のコメントがある。
「好きなこと、とことんやりましょ。ただし、無理をしてはいけません。無理と思ったら待ちましょ。無理でなくなるまで待ち続けられるぐらい好きなこと、とことんやりましょ」
このコメントは、「魂を純粋にすること」から説明すると、「自分(の純粋な魂)の声に従いましょう」だ。純粋な魂とは究極的に自分が望んでいること、というのが私の理解。しかし、そのためには雑音のない純粋な魂の声を聞くことが必要になるが、とても難しい。難しいからこそ、例えば、「無理でなくなるまで待ち続けられるぐらい」をフィルターにすることで、より純粋な魂の声に近づくことが出来るのではないかと言いたいのだ。純粋な魂はいくら待っても変わるようなことはないと思っている。
また、いったん「自分の魂の声は、これだ」と思っても、誤解していることだってしばしばある。しかし、それが誤解と分かることによって、魂の声(自分の好きなこと)に一歩近づくことにもなるのだから、続けていけば少しずつ近づくことになるのだ。
「魂を純粋にすること」
インドの片田舎、Balasoreでその言葉を聞いたときは、皆目その意味を感じ取れなかった。しかし、何年もの時を経ていくうち、徐々に徐々に私の心に浸透し、今では、それを旨とすることが、私の心の支えになっている。あの日、ドアをノックしてくれたあの家のご主人始めご家族の方々には、どうやって感謝したらいいのだろう? 全く途方に暮れる。
1987年の11月、私は初めてインドの地に立った。その町はカルカッタ(今はコルカタと呼ばれている)。あてのない旅だったので、カルカッタから海岸線を南下し、インド半島の先っちょまで行こうと思った。「カルカッタから海岸線を南下」というと、ほとんどの旅行者は、プーリー(Puri)という町を目指す。しかし、アマノジャクの私は、
「そんな(インド人を含む)旅行者がみんな行くようなところじゃなくて、普通の暮らしのある、普通の町に行ってみよう。何せ、私はインドのことは全く分かってないのだから」
と、ちょうどカルカッタとプーリーの中間にある、海辺にある普通の(特に有名な寺院や観光地のない)小さな町、バラソール(Balasore)という駅に降り立った。
いざ着いてみると、さすがに人気(ひとけ)のない駅で、どうしようかと思ったが、まずは泊まるところを見つけないといけない。とりあえず海の方向へ歩き出した。後から思えば、偶然に近いことだったが、看板に“Hotel”という言葉はなかったものの、“tourism”のような英語の言葉があったので、泊まれなくとも、泊まるところを教えてくれそうな雰囲気の家を見つけた。そして、その門を叩いた。
すると、30代ぐらいの女性と子供が数人やってきた。が、言葉の問題があった。この辺りはオリッサ州で、言葉はオリッサ語(ウーリア)。おそらくベンガル語とヒンズー語の間ぐらいの言葉か。何しろ英語は通じない。インドに来る前、「かつてインドはイギリスの植民地だったから、英語は結構通じる」と聞いていたが、時と場合によった。でも、私はいかにも旅行者に見えるし、身振り手振りで泊まるところを探していることは分かってもらえた。そして、どうもここに泊まらせてくれそうな雰囲気になり、門の中に入れてくれた。
やや不安も残っていたので、次には、宿代を確認することで、泊まれることを確かめねばと思った。最初、アラビア数字は分かるだろうと高をくくっていたが、紙に123と書いても伝わらなかった。このあたりはデバーナガリー文字を使うので、その文字の数字でないと通じなかった。そこでまず思いついたのは、財布の中からお金を出して、金額を教えてもらう方法だったが、何となくそれでは失礼な気がして躊躇してたら、私は別の方法を思いついた。
庭に転がっている小石を集め、まず地面に1個置き、その隣に2個の列、そのまた隣に3個の列、4個の列、・・・・と、10までの列を並べた。
そしたら、子供たちは喜んだ。「あ、それはエーク(1)」、「それはドー(2)」と、次々と数字が分かり、ついには宿代まで判明した。子供たちは、私が言葉を知りたがっているのが分かると、私がジェスチャーする行為(食べる・トイレするなど)や、指さした物の名前なども次々と教えてくえた。見知らぬ土地で、言葉も通じなかったが、それ故に、それはとても楽しい時間だった。
その夜の寝床が確保出来、心に余裕を持てた私は、海辺まで散歩に行き、日没前にその家に帰ってきた。日が暮れると、食事を持ってきてくれた。周りにレストランはないし、「腹が減ること」は当然だと思ってくれていた。私にとっては、何とも言えぬ、快適さがあった。
そして、さぁ今夜はもう寝ようとしていた、夜9時頃。私のいた部屋のドアがノックされた。誰かと思うと、その家のご主人(男性)だった。40歳ぐらいだったか。驚いたことに、何と、とても丁寧な英語で語りかけてくれた。
「いや〜、いろいろと不自由をおかけして申し訳ない。私が家主です。私は外に仕事に出ていて、きょうは遅くなってしまい、さっき帰宅したところなんです。あなたはどちらの方ですか? こうして私の家に泊まりに来たのも何かの縁。私は、あなたと話をしないとなりません」
と、彼が話し始めたのがキッカケで、おそらく1時間ぐらい、私たちは会話をしたと思う。その詳細は憶えていないが、とても強烈に憶えていて忘れられないことがある。
それは私が会話の中で質問をすると、どんな質問にも彼は必ず、
“It's to purify the (or your) soul.”
「それは、魂を純粋にすることです」
と答えたことだ。
若かりし私は、その意味が全く分からなかった。例えば、「魂を純粋にすることって、どういうことですか?」ときいても、「それは、魂を純粋にすることです」と、彼は答えた。そして私は当惑した。誤解しないでもらいたい。彼は決して悪ふざけてしているのではなく、非常に誠実で真剣な答えと、私は感じていたことを。
翌朝、私はその家を発ち、駅へ向かった。
“to purify the soul”
「魂を純粋にすること」
それから私の5年に及ぶ旅は始まった。最初から5年と思っていた訳ではない。漠然と「1年ぐらい」と思って出発した旅だった。そして、あれから27年経った今、私は、「魂を純粋にすること」の意味を理解しかけているように感じている。
例えば、このブログの左側のプロフィール欄に、下記のコメントがある。
「好きなこと、とことんやりましょ。ただし、無理をしてはいけません。無理と思ったら待ちましょ。無理でなくなるまで待ち続けられるぐらい好きなこと、とことんやりましょ」
このコメントは、「魂を純粋にすること」から説明すると、「自分(の純粋な魂)の声に従いましょう」だ。純粋な魂とは究極的に自分が望んでいること、というのが私の理解。しかし、そのためには雑音のない純粋な魂の声を聞くことが必要になるが、とても難しい。難しいからこそ、例えば、「無理でなくなるまで待ち続けられるぐらい」をフィルターにすることで、より純粋な魂の声に近づくことが出来るのではないかと言いたいのだ。純粋な魂はいくら待っても変わるようなことはないと思っている。
また、いったん「自分の魂の声は、これだ」と思っても、誤解していることだってしばしばある。しかし、それが誤解と分かることによって、魂の声(自分の好きなこと)に一歩近づくことにもなるのだから、続けていけば少しずつ近づくことになるのだ。
「魂を純粋にすること」
インドの片田舎、Balasoreでその言葉を聞いたときは、皆目その意味を感じ取れなかった。しかし、何年もの時を経ていくうち、徐々に徐々に私の心に浸透し、今では、それを旨とすることが、私の心の支えになっている。あの日、ドアをノックしてくれたあの家のご主人始めご家族の方々には、どうやって感謝したらいいのだろう? 全く途方に暮れる。
2014年10月23日木曜日
ヒンズー教の神様
上の写真は、東京の自宅近所にあるインド料理レストランの片隅にあった神棚。メモ書きや配線などでゴチャゴチャしてる雰囲気が気に入って、つい写真を撮った。
私はインドに1年ほどいたので、この手の神棚には馴染みがある。ヒンズー教は多神教だ。神様がたくさんいる。その点、日本とも通ずるところがある。まずは金色の額縁に入った絵にあるヒンズー教の神々の説明を少し。
青い顔をしたのはシバ神。破壊の神様である。インドで一番人気の神様は、間違いなくこのシバ神だ。たくさんいる神様は大きく3つのグループに分けられる。創造の神様(ブラフマ)のグループ、維持の神様(ヴィシュヌ)のグループ、そして破壊の神様であるこのシバのグループと。世の中は、「創造→維持→破壊→創造・・・」と繰り返されていると考えられている。この3つの中で、破壊は一番物騒な感じもするが、一番ドラマチックなのも破壊であり、破壊は創造を産むとも考えられているから、シバ神が一番人気なのも、そのへんが理由だと思う。
さて、額縁の絵に戻ろう。
絵の中央にシバの妻であるパールヴァティ。彼女の膝にのっているのが象の頭をした息子のガネーシャ。右下にはもう一人の息子のムルガン。そして、小さいけど右上の白い牛。これはシバ神の聖なる乗り物であり、ナンディと呼ばれる立派な神様だ。この店の人は、シバ神系がお好きらしい。
私のインド滞在中、こういう絵はしょっちゅうお目にかかっていた。そして、ヒンズー教徒の人たちは自分が信仰している神様のことを私に喜々として説明してくれた。ちなみに私は、ヴィシュヌの何番目かの化身であるクリシュナが好きだ。クリシュナは、シバのような力強さはないが、いつものんびりと川辺で笛を吹いていたりして、キレイな女性に囲まれていたりする。いいでしょ。当時、私はよく笛を吹いていたせいで、「お前は、クリシュナを信仰すればいい」と言われたこともあった。
彼らヒンズー教徒にとって、神様はもちろん神聖なものなのだが、その神様の絵を、まるで、日本の若い人たちがアイドル歌手の写真を自分の部屋に貼って楽しんでいるような面もあるところが面白い。それだけ神様は実に身近な存在とも言える。
ヒンズー教の神様は、おそらく数十いる。ただ、それらだけではない。例えばインドのヒンズー教徒の家や店の神棚には、キリストの絵やお釈迦様の絵までもが飾られていることさえある。あるとき、「お前の宗教は何か?」と質問され、私が「仏教だ」と答えると、「仏教か。あー、仏陀もなかなかいいことを言ってるよな」などと言われたこともあった。それはキリストもしかりだ。
仏陀やキリストなどはやや例外的にはなるが、ヒンズーの神様だけを奉らなくてはならないという訳でもない「多神教」なのだ。上の写真の額縁の右側にある「伏見稲荷」のお札はお気づきだろうか。シバ神の隣にお稲荷さんのお札が掲げられていても、ヒンズー教的に、不信心さを示している訳ではないのである。ただ、ヒンズーの神がいなくて、伏見稲荷だけだと、ヒンズー教徒としてはおかしい、とはなりますが。言うまでもないか。
何しろこのへんがヒンズー教の面白いところであり、懐の深さだと思う。
そして、この多神教の根底には「異教同根」という考え方・教えがある。
「宗教(または人生)というのは、ひとつの山を登るようなものである」
と、しばしば例えられる。この場合の山は、富士山のような独立峰の山のイメージが分かりやすい。中心の頂上へは、(上から見れば放射線状に)360度の登るルートがあることになる。
「登り口は異なれど、目指す頂上は皆同じ。宗教(または人生)とはそういうものだ」
という考えがあるのだ。だから、キリストでもお稲荷さんでも、神様は神様ということになる。「異教同根」とは、今どきの言葉で言えば、「多様性」を認めるまたはそれが当たり前な考え方なのだ。
もう27年も前のこと、インドを旅していた私は、そんなインドに心惹かれていった。インドでは面白いことがたくさんあった。そのいくつかを、次のエントリに書けたらと思う。冒頭の写真の絵を見てたら、いろいろ思い出すことがある。これも写真のシバ神のお導きか・・・・。
私はインドに1年ほどいたので、この手の神棚には馴染みがある。ヒンズー教は多神教だ。神様がたくさんいる。その点、日本とも通ずるところがある。まずは金色の額縁に入った絵にあるヒンズー教の神々の説明を少し。
青い顔をしたのはシバ神。破壊の神様である。インドで一番人気の神様は、間違いなくこのシバ神だ。たくさんいる神様は大きく3つのグループに分けられる。創造の神様(ブラフマ)のグループ、維持の神様(ヴィシュヌ)のグループ、そして破壊の神様であるこのシバのグループと。世の中は、「創造→維持→破壊→創造・・・」と繰り返されていると考えられている。この3つの中で、破壊は一番物騒な感じもするが、一番ドラマチックなのも破壊であり、破壊は創造を産むとも考えられているから、シバ神が一番人気なのも、そのへんが理由だと思う。
さて、額縁の絵に戻ろう。
絵の中央にシバの妻であるパールヴァティ。彼女の膝にのっているのが象の頭をした息子のガネーシャ。右下にはもう一人の息子のムルガン。そして、小さいけど右上の白い牛。これはシバ神の聖なる乗り物であり、ナンディと呼ばれる立派な神様だ。この店の人は、シバ神系がお好きらしい。
私のインド滞在中、こういう絵はしょっちゅうお目にかかっていた。そして、ヒンズー教徒の人たちは自分が信仰している神様のことを私に喜々として説明してくれた。ちなみに私は、ヴィシュヌの何番目かの化身であるクリシュナが好きだ。クリシュナは、シバのような力強さはないが、いつものんびりと川辺で笛を吹いていたりして、キレイな女性に囲まれていたりする。いいでしょ。当時、私はよく笛を吹いていたせいで、「お前は、クリシュナを信仰すればいい」と言われたこともあった。
彼らヒンズー教徒にとって、神様はもちろん神聖なものなのだが、その神様の絵を、まるで、日本の若い人たちがアイドル歌手の写真を自分の部屋に貼って楽しんでいるような面もあるところが面白い。それだけ神様は実に身近な存在とも言える。
ヒンズー教の神様は、おそらく数十いる。ただ、それらだけではない。例えばインドのヒンズー教徒の家や店の神棚には、キリストの絵やお釈迦様の絵までもが飾られていることさえある。あるとき、「お前の宗教は何か?」と質問され、私が「仏教だ」と答えると、「仏教か。あー、仏陀もなかなかいいことを言ってるよな」などと言われたこともあった。それはキリストもしかりだ。
仏陀やキリストなどはやや例外的にはなるが、ヒンズーの神様だけを奉らなくてはならないという訳でもない「多神教」なのだ。上の写真の額縁の右側にある「伏見稲荷」のお札はお気づきだろうか。シバ神の隣にお稲荷さんのお札が掲げられていても、ヒンズー教的に、不信心さを示している訳ではないのである。ただ、ヒンズーの神がいなくて、伏見稲荷だけだと、ヒンズー教徒としてはおかしい、とはなりますが。言うまでもないか。
何しろこのへんがヒンズー教の面白いところであり、懐の深さだと思う。
そして、この多神教の根底には「異教同根」という考え方・教えがある。
「宗教(または人生)というのは、ひとつの山を登るようなものである」
と、しばしば例えられる。この場合の山は、富士山のような独立峰の山のイメージが分かりやすい。中心の頂上へは、(上から見れば放射線状に)360度の登るルートがあることになる。
「登り口は異なれど、目指す頂上は皆同じ。宗教(または人生)とはそういうものだ」
という考えがあるのだ。だから、キリストでもお稲荷さんでも、神様は神様ということになる。「異教同根」とは、今どきの言葉で言えば、「多様性」を認めるまたはそれが当たり前な考え方なのだ。
もう27年も前のこと、インドを旅していた私は、そんなインドに心惹かれていった。インドでは面白いことがたくさんあった。そのいくつかを、次のエントリに書けたらと思う。冒頭の写真の絵を見てたら、いろいろ思い出すことがある。これも写真のシバ神のお導きか・・・・。
2014年10月15日水曜日
エスカレータの片側
上の写真は、東京を走るオレンジ色の中央線のホームへと上るエスカレーター。東京なので、左側に立って、急ぐ人のために右側を空けている。これが大阪では左右が逆。では名古屋では? というクイズがきょうの内容ではない。
私が21歳の頃(32年前)は、日本にはこんなエスカレーターの習慣はなかった。その頃、知人を訪ねがてら滞在した、ロンドンの地下鉄(tube)のエスカレーターでは、(右だか左だか忘れたが)今の日本のように、片側に寄って立ち、急ぐ人に他方を空けていた。最初気がつかなかった私は、空けるべき側にのんびり立っていた。すると、後ろからド突きながら走り抜け、イヤーな顔で一瞥して上っていった男がいた。私は、「おいおい、やけに荒っぽいなぁ」と思ったものの、それによって鈍かった私もさすがにその習慣を学習した。当時21歳だった。普段しょっちゅう駅の階段を2段飛ばしで上っていた私は、「あ、これはいい習慣だ。さすが(地下鉄の歴史が古い)ロンドンだ」と感心した。
その3年後ぐらいから、私は2年間、エスカレータがほとんどないアジアの国々を旅行した。ロンドンの頃から数えると5年後。2年たって日本に戻ってきて驚いたことが2つあった。ひとつは、レコード盤がなくなって全てCDになっていたこと。そしてもう一つは、東京のエスカレーターでは、立つ人はみんな左側で、右側を急ぐ人たちが上っていたことだった。
そして20年ほどの月日が流れたこの頃、私は思うのです。
「エスカレーターの右側、何も空けなくてもいいんじゃないかぁ」
と。無論、急いでいる人がほとんどいない場合だ。
そりゃー、若い頃は特に急いでなくても階段を2段飛ばしで上ることもあったが、この歳になってくると、多少急いでいても、階段を駆け上がることはない。エスカレーターもしかり。
そして、時代もあると思う。
東京で、急ぐ人用にエスカレーターの片側を空ける習慣が始まった1988年か89年頃は、若い人ばかりでなく右側を使う人(急いでいる人)が多かった。今はスマホを見たいのかも知れないが、エスカレーターでは若い人でも立っている人が多い。そして、立ってる側の乗り口に長い列が出来ることがしばしばなのだ。長い列の横には、誰も上らない不思議なスペースが細長く空いている。そんなとき、その長い列に並ぶのがかったるい。だから仕方がないと、私は渋々空いたスペースを上ったりする。後ろから誰も上ってこないか振り返りながら、いないと上るの止めて立ってたりして。
要するに、例えば、通勤ラッシュの時間帯など、急いでいる人が一定以上多いときは、エスカレータの片側を空ける意味がある。急ぐ人と急がない人、各々が各々の事情に合わせられる。たとえ99%の人が急いでいる場合でも、1%の急がない人の安全が保たれるという面も見逃せない。しかし、昔に比べ最近は、特別な時間帯を除き、急いでいる人が減った。たった一人二人のために、片側を空けて長い列を作ることはないのではないか、ということだ。
日本の活気も、20〜30年前と比べたら、ない。でも、ここで重要なことは無理して活気あるようにすることではなく、ないならないなりの活気(=落ち着き)に合わせて、決まり事を変えることだと思う。景気も同様。政治家が「景気をよくする」という目標をしばしば掲げるが、そもそも景気なんていう全体的なものは、人間がコントロール出来るものではない。政治家が出来ることは、景気のコントロールなんかではなく、減った税収に対して借金(国債)を膨らませたり、せいぜいアッチの予算をコッチに移動するぐらいだ。「景気をよくする」なんていう幻想に囚われず、現状に合わせて、決まり事をどう変えていくかが重要だ。
エスカレーターの片側がすっぽり空いていて、反対側に長い列が出来ていると、ついそう思ってしまう。
私が21歳の頃(32年前)は、日本にはこんなエスカレーターの習慣はなかった。その頃、知人を訪ねがてら滞在した、ロンドンの地下鉄(tube)のエスカレーターでは、(右だか左だか忘れたが)今の日本のように、片側に寄って立ち、急ぐ人に他方を空けていた。最初気がつかなかった私は、空けるべき側にのんびり立っていた。すると、後ろからド突きながら走り抜け、イヤーな顔で一瞥して上っていった男がいた。私は、「おいおい、やけに荒っぽいなぁ」と思ったものの、それによって鈍かった私もさすがにその習慣を学習した。当時21歳だった。普段しょっちゅう駅の階段を2段飛ばしで上っていた私は、「あ、これはいい習慣だ。さすが(地下鉄の歴史が古い)ロンドンだ」と感心した。
その3年後ぐらいから、私は2年間、エスカレータがほとんどないアジアの国々を旅行した。ロンドンの頃から数えると5年後。2年たって日本に戻ってきて驚いたことが2つあった。ひとつは、レコード盤がなくなって全てCDになっていたこと。そしてもう一つは、東京のエスカレーターでは、立つ人はみんな左側で、右側を急ぐ人たちが上っていたことだった。
そして20年ほどの月日が流れたこの頃、私は思うのです。
「エスカレーターの右側、何も空けなくてもいいんじゃないかぁ」
と。無論、急いでいる人がほとんどいない場合だ。
そりゃー、若い頃は特に急いでなくても階段を2段飛ばしで上ることもあったが、この歳になってくると、多少急いでいても、階段を駆け上がることはない。エスカレーターもしかり。
そして、時代もあると思う。
東京で、急ぐ人用にエスカレーターの片側を空ける習慣が始まった1988年か89年頃は、若い人ばかりでなく右側を使う人(急いでいる人)が多かった。今はスマホを見たいのかも知れないが、エスカレーターでは若い人でも立っている人が多い。そして、立ってる側の乗り口に長い列が出来ることがしばしばなのだ。長い列の横には、誰も上らない不思議なスペースが細長く空いている。そんなとき、その長い列に並ぶのがかったるい。だから仕方がないと、私は渋々空いたスペースを上ったりする。後ろから誰も上ってこないか振り返りながら、いないと上るの止めて立ってたりして。
要するに、例えば、通勤ラッシュの時間帯など、急いでいる人が一定以上多いときは、エスカレータの片側を空ける意味がある。急ぐ人と急がない人、各々が各々の事情に合わせられる。たとえ99%の人が急いでいる場合でも、1%の急がない人の安全が保たれるという面も見逃せない。しかし、昔に比べ最近は、特別な時間帯を除き、急いでいる人が減った。たった一人二人のために、片側を空けて長い列を作ることはないのではないか、ということだ。
日本の活気も、20〜30年前と比べたら、ない。でも、ここで重要なことは無理して活気あるようにすることではなく、ないならないなりの活気(=落ち着き)に合わせて、決まり事を変えることだと思う。景気も同様。政治家が「景気をよくする」という目標をしばしば掲げるが、そもそも景気なんていう全体的なものは、人間がコントロール出来るものではない。政治家が出来ることは、景気のコントロールなんかではなく、減った税収に対して借金(国債)を膨らませたり、せいぜいアッチの予算をコッチに移動するぐらいだ。「景気をよくする」なんていう幻想に囚われず、現状に合わせて、決まり事をどう変えていくかが重要だ。
エスカレーターの片側がすっぽり空いていて、反対側に長い列が出来ていると、ついそう思ってしまう。
2014年10月2日木曜日
ロシア旅行no.7・ロシア、イルクーツクの人
8月の半ばに、3日間の滞在で、ロシア・イルクーツクへ行ってきた。そのときのことを続けてエントリしてきたが、これが最後の7つ目。人のことについて。
冒頭の写真は、イルクーツクの中心街の広場。何気ない風景だ。ベンチの右側の白人男性は手にポリ袋を持っていて、買い物が済んで一休み、また左側のモンゴル系男性は孫らしき子供を抱えて一休みといったところか。3人とも地元の人という感じだった。写真の背景はヨーロッパな感じだが、イルクーツクからモンゴルとの国境は200キロぐらいしかない。先住民はモンゴル系のブリアート人だから、スラブ系のロシア人がこっちに移住してきた格好だ。
今回の旅行中、ロシア人の日本語ガイドさんが案内してくれた。一日ぐらい一緒にいると、
「何で日本はロシアともっと仲良くしないの?」
ときかれた。
「日本はアメリカに向いてるからね」
と私。
「最近、中国や韓国とも仲が悪くなってるって話しじゃない?(よく知っててちょっとビックリ) アメリカの言うことばっかり聞いてたらダメよ。あんな遠くの国と仲良くするより、もっと近くの国と仲良くしないと。それにアメリカの(発信する)情報は、間違えだらけだから、気をつけてよ」
と、忠告までしてくれた。
面白く感じた私は、
「ところで、ウクライナのことはどう思うの?」
ときいてみた。
「ウクライナは、ロシアの兄弟の国よ。その国が危ないときに助けるのは当然でしょう」
日本のマスコミの目線とはずいぶん違う。とても新鮮。日本の新聞は、ウクライナ国内のロシア寄りのグループのことを「親ロシア系過激派集団」と称す。どんなことでも、マスコミ(=私の知らない人)が言うことは鵜呑みに出来ないが、ロシアでロシア人の話を直に聞くと、その目線・感覚が、“具体的に”私の中にインプットされる。どっちが正しいかという問題ではない。ただ、こうして私の感覚が形成されていくことは確かだ。だから、常にいろいろな目線や感覚を感じながらいろんなことを考えることは大切になる。
さてさて、近いけど遠く感じていたロシア。そもそも、だから「行ってみよう」という気になったのだけど、行ってみて一番思うことは、私はこれまで、ロシアの目線・感覚をあまりインプットしてこなかったなぁということだった。それが「遠く」感じていた理由なのだ。
イルクーツクを去る夜、私はホテルのロビーで空港への送迎の車を待っていた。そこには似たような境遇の人が10〜20人ほどいた。何しろこういう時間は退屈なものだ。私は、煙草を吸いに、ホテルの玄関を出てすぐ横にある喫煙所の椅子に座った。私の煙草は、刻みに煙管ということもあってだと思うが、私が一服すると、隣のロシア人男性が英語で話しかけてきた。
「中国人か?」
「いや、日本人だ。中国の煙管はもっとデカイ。これは日本のものだよ」
「おーそうか、日本といえば、私は日本のコインが好きなんだ。特に500円玉はいいなー」
「へぇー、コインが好き? カネじゃなくて?」
なんて談笑してたら、スラッと背が高く、スタイルのいい美人なロシア人女性が、煙草を吹かしながら、話しに加わって来た。彼女は、いきなり、私たち二人に、
「私の旦那は、駅のお偉いさんでねー」
と、変な話しを始めた。私はもちろん、隣のコイン好きのおじさんも彼女とは初対面。彼女は奇妙な人ではあったが、人の良さそうな人だった。そして、「へぇー、どんなお偉いさんなの?」などと、隣のおじさんと二人で、やんわりと彼女をからかいながら、3人でしばらくくだらない話しをした。やがて、私が最初に送迎の時間になって、その場を去ったが、やや後ろ髪を引かれる思いも湧いたぐらい、(退屈な時間に)和やかな時間を過ごせた。そして、「なんだ、結構ロシア人って人なつっこいんだなー」と思った。
たった3日の滞在だったし、「人なつっこいんだなー」だって、たった何人かと接しただけだ。でも、ロシアへ行く前まで、「ロシア人って、いつも眉間にシワ寄せて堅そう」という私のイメージは変わった。
そう言えば、私が持ってたそのイメージのことを、先述のロシア人女性のガイドさんにきいてみた。
「ロシアの人たちって、笑顔がなくて、いつも堅い表情してるってイメージだけど、どう思う?」
「そりゃ、知らない人の前でニコニコする人の方がおかしいんじゃないの?」
と笑顔で返された。たしかに。
私の知らないことが、この世にはたくさんある。知らないことは、気がつきもしていないことがほとんどだ。だから、何かの縁または偶然で、知らないことを知ったとき、初めてそれを知らなかったことに気づく。そんなことを思った3日間のロシア・イルクーツク旅行でした。おしまい。
冒頭の写真は、イルクーツクの中心街の広場。何気ない風景だ。ベンチの右側の白人男性は手にポリ袋を持っていて、買い物が済んで一休み、また左側のモンゴル系男性は孫らしき子供を抱えて一休みといったところか。3人とも地元の人という感じだった。写真の背景はヨーロッパな感じだが、イルクーツクからモンゴルとの国境は200キロぐらいしかない。先住民はモンゴル系のブリアート人だから、スラブ系のロシア人がこっちに移住してきた格好だ。
今回の旅行中、ロシア人の日本語ガイドさんが案内してくれた。一日ぐらい一緒にいると、
「何で日本はロシアともっと仲良くしないの?」
ときかれた。
「日本はアメリカに向いてるからね」
と私。
「最近、中国や韓国とも仲が悪くなってるって話しじゃない?(よく知っててちょっとビックリ) アメリカの言うことばっかり聞いてたらダメよ。あんな遠くの国と仲良くするより、もっと近くの国と仲良くしないと。それにアメリカの(発信する)情報は、間違えだらけだから、気をつけてよ」
と、忠告までしてくれた。
面白く感じた私は、
「ところで、ウクライナのことはどう思うの?」
ときいてみた。
「ウクライナは、ロシアの兄弟の国よ。その国が危ないときに助けるのは当然でしょう」
日本のマスコミの目線とはずいぶん違う。とても新鮮。日本の新聞は、ウクライナ国内のロシア寄りのグループのことを「親ロシア系過激派集団」と称す。どんなことでも、マスコミ(=私の知らない人)が言うことは鵜呑みに出来ないが、ロシアでロシア人の話を直に聞くと、その目線・感覚が、“具体的に”私の中にインプットされる。どっちが正しいかという問題ではない。ただ、こうして私の感覚が形成されていくことは確かだ。だから、常にいろいろな目線や感覚を感じながらいろんなことを考えることは大切になる。
さてさて、近いけど遠く感じていたロシア。そもそも、だから「行ってみよう」という気になったのだけど、行ってみて一番思うことは、私はこれまで、ロシアの目線・感覚をあまりインプットしてこなかったなぁということだった。それが「遠く」感じていた理由なのだ。
イルクーツクを去る夜、私はホテルのロビーで空港への送迎の車を待っていた。そこには似たような境遇の人が10〜20人ほどいた。何しろこういう時間は退屈なものだ。私は、煙草を吸いに、ホテルの玄関を出てすぐ横にある喫煙所の椅子に座った。私の煙草は、刻みに煙管ということもあってだと思うが、私が一服すると、隣のロシア人男性が英語で話しかけてきた。
「中国人か?」
「いや、日本人だ。中国の煙管はもっとデカイ。これは日本のものだよ」
「おーそうか、日本といえば、私は日本のコインが好きなんだ。特に500円玉はいいなー」
「へぇー、コインが好き? カネじゃなくて?」
なんて談笑してたら、スラッと背が高く、スタイルのいい美人なロシア人女性が、煙草を吹かしながら、話しに加わって来た。彼女は、いきなり、私たち二人に、
「私の旦那は、駅のお偉いさんでねー」
と、変な話しを始めた。私はもちろん、隣のコイン好きのおじさんも彼女とは初対面。彼女は奇妙な人ではあったが、人の良さそうな人だった。そして、「へぇー、どんなお偉いさんなの?」などと、隣のおじさんと二人で、やんわりと彼女をからかいながら、3人でしばらくくだらない話しをした。やがて、私が最初に送迎の時間になって、その場を去ったが、やや後ろ髪を引かれる思いも湧いたぐらい、(退屈な時間に)和やかな時間を過ごせた。そして、「なんだ、結構ロシア人って人なつっこいんだなー」と思った。
たった3日の滞在だったし、「人なつっこいんだなー」だって、たった何人かと接しただけだ。でも、ロシアへ行く前まで、「ロシア人って、いつも眉間にシワ寄せて堅そう」という私のイメージは変わった。
そう言えば、私が持ってたそのイメージのことを、先述のロシア人女性のガイドさんにきいてみた。
「ロシアの人たちって、笑顔がなくて、いつも堅い表情してるってイメージだけど、どう思う?」
「そりゃ、知らない人の前でニコニコする人の方がおかしいんじゃないの?」
と笑顔で返された。たしかに。
私の知らないことが、この世にはたくさんある。知らないことは、気がつきもしていないことがほとんどだ。だから、何かの縁または偶然で、知らないことを知ったとき、初めてそれを知らなかったことに気づく。そんなことを思った3日間のロシア・イルクーツク旅行でした。おしまい。
2014年9月26日金曜日
ロシア旅行no.6・イルクーツクの車とゴミ箱
先のエントリ「イルクーツクの家」に続き、イルクーツクのモノ・シリーズ。今回は車とゴミ箱。「かなりマニアックになってきた」との自意識はあるものの、臆することなく書いてみる。去年、生の蓮の実の剥き方を書いたとき、「こんなの何の役に立つのか」と思っていたが、その後お礼のコメントを頂いた。そんなこともあるのでね。
さてまず最初に、冒頭の写真の道路標識。もちろんイルクーツクの町中。下から、「制限速度40キロ」は分かる。そして「直進方向の一方通行」、これも分かる。しかし、一番上の「人間が二人走っているような図」、これが想像できなかった。もしかしたら、「急いで渡れ」などと思ってみたものの、まさかそんな標識あるものか。ちなみに、3日間のイルクーツク滞在中、交差点や横断歩道でもないところで私が道を渡ろうとしたとき、止まってくれた車が何台もあった。そんな町で、「急いで渡れ」はあり得ないだろうと思った。で、帰国後調べてみた。
●ロシアの主な道路標識
正解は、「子供飛び出し注意」だった。
なるほど。この道の右側は、遊歩道のある公園だった。
・・・・と、のっけから余談のようだが、冒頭の写真をもう一度見て欲しい。縦に3つ並んだ道路標識の左下前方にある赤い車が見えますか? 「これはタダ者(車)ではない」とビビッと感じて近づいて撮った写真が下。本当は、車内も撮りたかったのだけど、一緒にいた娘に止められた。「人の車の中見たり、ましてや写真まで撮ったら絶対に怪しい人になるから、やめてくれ」と。たしかに。
イルクーツクの町で走っているのは、10〜20年前の日本の中古車ばかりだったから、下の写真の車の古さレベルさえ、簡単には見つからなかった。
私は車には詳しくないながら、古い車の形や色が好きだ。下の車は、日本では50年前頃走っていた型か。屋根の上にのっかってるのは広告だと思う。
そして、このワンボックス。塗装のせいもあってか、フォルックスワーゲンよりカッコいいと思いませんか? この丸っこさが愛らしい。屋根にブルーに光りそうなものがついてるから、救急車の類なのか。分からない。中を覗こうとすると、娘が私の腕を引く。
さぁ、こっからは、私が好きなゴミ箱編でーす。
4年ほど前に、南イタリアのゴミ箱のことを書いたが、私は、外国へいってその土地のゴミ箱をいろいろ見るのが好きだ。室内にあるゴミ箱ではなく、公園や道路など屋外にある公共のゴミ箱だ。昔の東京には、カゴタイプが普及する前、モスグリーン色で一本足の頑丈そうなゴミ箱が公園や歩道などにあった記憶がある。なぜか、あれが忘れられない。
さてさて、イルクーツクの町中のゴミ箱は、南イタリアのに比べ、戦車のようなズッシリとした重厚感があった。こういうゴミ箱はお国柄・地域柄を表しているように思えてならない。ロシアは鉄が豊富なのだろうか。
これはアールデコな装飾。
これは至って機能的。
これは公園の中。ぶどうの葉っぱのような装飾が目を引くが、やはり造りはしっかりしている。
これは何ともオシャレなガードレールと融和している感があり、すばらしい。
以上の4点は、長らく使われてきた感じのもの。そして、お気づきだろうか。これらは皆、くるっと180度回して下向きにして、中のゴミを取り出す構造になっている。南イタリアではひとつもなかったタイプだ。そして、次の5点目だけは、二重構造になっていて、中の部分を取り出してゴミを出すタイプ。これはイルクーツクの中でも新しく作られた区域にあったもので、他の4点とは違い、新しいものだった。
その他、写真を撮り損ねたが、イルクーツクで気になったモノとして、路面電車とトロリーバスがあった。まずはバイカル湖(ロシア旅行no.1)のエントリで書きそびれたが、世界一の水量を誇るバイカル湖のおかげで、イルクーツク周辺には水力発電所が4つあるという。そして、電気代はモスクワの4分の1という。耳を疑う数字だ。日本語ガイドさん曰く、「路面電車とトロリーバスが走っているのは、電気代が安いからなのよ」とのこと。地下資源が豊富と言われているロシアだが、バイカル湖の水はそうそう減ることのないスゴイ資源なのだと改めて思った。
あと、もう一回、ロシア旅行のこと。
次はロシア・イルクーツクの人の話を書こうと思う。
さてまず最初に、冒頭の写真の道路標識。もちろんイルクーツクの町中。下から、「制限速度40キロ」は分かる。そして「直進方向の一方通行」、これも分かる。しかし、一番上の「人間が二人走っているような図」、これが想像できなかった。もしかしたら、「急いで渡れ」などと思ってみたものの、まさかそんな標識あるものか。ちなみに、3日間のイルクーツク滞在中、交差点や横断歩道でもないところで私が道を渡ろうとしたとき、止まってくれた車が何台もあった。そんな町で、「急いで渡れ」はあり得ないだろうと思った。で、帰国後調べてみた。
●ロシアの主な道路標識
正解は、「子供飛び出し注意」だった。
なるほど。この道の右側は、遊歩道のある公園だった。
・・・・と、のっけから余談のようだが、冒頭の写真をもう一度見て欲しい。縦に3つ並んだ道路標識の左下前方にある赤い車が見えますか? 「これはタダ者(車)ではない」とビビッと感じて近づいて撮った写真が下。本当は、車内も撮りたかったのだけど、一緒にいた娘に止められた。「人の車の中見たり、ましてや写真まで撮ったら絶対に怪しい人になるから、やめてくれ」と。たしかに。
イルクーツクの町で走っているのは、10〜20年前の日本の中古車ばかりだったから、下の写真の車の古さレベルさえ、簡単には見つからなかった。
私は車には詳しくないながら、古い車の形や色が好きだ。下の車は、日本では50年前頃走っていた型か。屋根の上にのっかってるのは広告だと思う。
そして、このワンボックス。塗装のせいもあってか、フォルックスワーゲンよりカッコいいと思いませんか? この丸っこさが愛らしい。屋根にブルーに光りそうなものがついてるから、救急車の類なのか。分からない。中を覗こうとすると、娘が私の腕を引く。
さぁ、こっからは、私が好きなゴミ箱編でーす。
4年ほど前に、南イタリアのゴミ箱のことを書いたが、私は、外国へいってその土地のゴミ箱をいろいろ見るのが好きだ。室内にあるゴミ箱ではなく、公園や道路など屋外にある公共のゴミ箱だ。昔の東京には、カゴタイプが普及する前、モスグリーン色で一本足の頑丈そうなゴミ箱が公園や歩道などにあった記憶がある。なぜか、あれが忘れられない。
さてさて、イルクーツクの町中のゴミ箱は、南イタリアのに比べ、戦車のようなズッシリとした重厚感があった。こういうゴミ箱はお国柄・地域柄を表しているように思えてならない。ロシアは鉄が豊富なのだろうか。
これはアールデコな装飾。
これは至って機能的。
これは公園の中。ぶどうの葉っぱのような装飾が目を引くが、やはり造りはしっかりしている。
これは何ともオシャレなガードレールと融和している感があり、すばらしい。
以上の4点は、長らく使われてきた感じのもの。そして、お気づきだろうか。これらは皆、くるっと180度回して下向きにして、中のゴミを取り出す構造になっている。南イタリアではひとつもなかったタイプだ。そして、次の5点目だけは、二重構造になっていて、中の部分を取り出してゴミを出すタイプ。これはイルクーツクの中でも新しく作られた区域にあったもので、他の4点とは違い、新しいものだった。
その他、写真を撮り損ねたが、イルクーツクで気になったモノとして、路面電車とトロリーバスがあった。まずはバイカル湖(ロシア旅行no.1)のエントリで書きそびれたが、世界一の水量を誇るバイカル湖のおかげで、イルクーツク周辺には水力発電所が4つあるという。そして、電気代はモスクワの4分の1という。耳を疑う数字だ。日本語ガイドさん曰く、「路面電車とトロリーバスが走っているのは、電気代が安いからなのよ」とのこと。地下資源が豊富と言われているロシアだが、バイカル湖の水はそうそう減ることのないスゴイ資源なのだと改めて思った。
あと、もう一回、ロシア旅行のこと。
次はロシア・イルクーツクの人の話を書こうと思う。
2014年9月24日水曜日
ロシア旅行no.5・イルクーツクの家
きょうは、イルクーツクで撮った、家の写真。車で1時間ぐらいのところに、木造建築の博物館があるのだけど、その展示物より、町中の古い木造建築の方が面白かった。博物館のメリットは中に入れること。町中の古い家は人んちだからねー。
イルクーツクの町を歩いていて、最初に目についたのが上の写真のような木造の家だった。窓枠と壁のコントラストがチャーミングなこの家は、丸太の家だ。これは比較的新しい方の木造家屋。シベリアは、無尽蔵に思えるほどの針葉樹林なのだということを思い起こさせてくれる。(ロシア旅行その2)でも触れたが、この地の先住民、ブリアート人の家は、可動式の家。そして、この写真の家は、移住してきたロシア人の家だ。窓枠に西洋の香りを感じるのはそのため。
ロシア流イルクーツクの古い家の写真を何枚か。
上の写真の窓枠アップ。このように、古い家では2階の窓枠は塗装なしが多かった。(昔はあったのかな?)
冒頭の薄緑の窓枠の家は、丸太が剥き出しだが、上の家の外壁は、おそらく丸太の上に化粧の板が張ってある。それは、下の写真の家を見ると分かる。これは別の比較的新しい家だが、その裏側。表から見えるところに化粧の板が張ってある。
お次は外壁が漆喰のようなものが塗られていた。何とも言えぬ色と質感。
上の写真の家もそうだが下の家も、なぜか窓枠の下端が道路と同じ高さになっている。また、下の写真の家の入口は50センチほど降りて入るようになっている。窓から覗いて見てみたら、一階の床は地面より50センチほど低くなっていた。なぜだか分からない。大雨が降ると中に流れそうで心配だけど。
そして、冒頭で少し触れた木造博物館でのロシア人の家は下。町中に現存するものと差ほど変わらないように感じる。少し前にオープンした博物館なので、町中の古い家より断然新しい。
町中の古い家との違いを強いて言えば、屋根のふき方が違った。町中のは木造ではあるものの屋根は金属やモルタルなどの波板。そして、博物館のは下の写真のように、貫板が重ねてあった。分かるかな。昔はみんなこれだったのか? 貫板には縦に2本ずつの溝が彫られていて、貫板の継ぎ目にその溝が合わせてある。何で溝を貫板の中央に彫らないんだろう? 上段は2本の方が雨水が流れやすいか。それにしてもこんなんで、雨がしのげるものかと、素朴な疑問を持ったけど、やはり大雨はないのかな。
そして、博物館にあった先住民のブリアート人の住居はコレ。円形の可動式。
中に入ると、中央にはこうして囲炉裏が切られている。
これが展示してあったブリアート人の民族衣装。
尖った屋根中央には、囲炉裏の煙突兼明かり取りの開口があった。ロシア人とは、大きく文化が異なる。
この次のエントリでも、イルクーツクの「モノの写真」の続編。車とゴミ箱を載せようと思う。
イルクーツクの町を歩いていて、最初に目についたのが上の写真のような木造の家だった。窓枠と壁のコントラストがチャーミングなこの家は、丸太の家だ。これは比較的新しい方の木造家屋。シベリアは、無尽蔵に思えるほどの針葉樹林なのだということを思い起こさせてくれる。(ロシア旅行その2)でも触れたが、この地の先住民、ブリアート人の家は、可動式の家。そして、この写真の家は、移住してきたロシア人の家だ。窓枠に西洋の香りを感じるのはそのため。
ロシア流イルクーツクの古い家の写真を何枚か。
上の写真の窓枠アップ。このように、古い家では2階の窓枠は塗装なしが多かった。(昔はあったのかな?)
冒頭の薄緑の窓枠の家は、丸太が剥き出しだが、上の家の外壁は、おそらく丸太の上に化粧の板が張ってある。それは、下の写真の家を見ると分かる。これは別の比較的新しい家だが、その裏側。表から見えるところに化粧の板が張ってある。
お次は外壁が漆喰のようなものが塗られていた。何とも言えぬ色と質感。
上の写真の家もそうだが下の家も、なぜか窓枠の下端が道路と同じ高さになっている。また、下の写真の家の入口は50センチほど降りて入るようになっている。窓から覗いて見てみたら、一階の床は地面より50センチほど低くなっていた。なぜだか分からない。大雨が降ると中に流れそうで心配だけど。
そして、冒頭で少し触れた木造博物館でのロシア人の家は下。町中に現存するものと差ほど変わらないように感じる。少し前にオープンした博物館なので、町中の古い家より断然新しい。
町中の古い家との違いを強いて言えば、屋根のふき方が違った。町中のは木造ではあるものの屋根は金属やモルタルなどの波板。そして、博物館のは下の写真のように、貫板が重ねてあった。分かるかな。昔はみんなこれだったのか? 貫板には縦に2本ずつの溝が彫られていて、貫板の継ぎ目にその溝が合わせてある。何で溝を貫板の中央に彫らないんだろう? 上段は2本の方が雨水が流れやすいか。それにしてもこんなんで、雨がしのげるものかと、素朴な疑問を持ったけど、やはり大雨はないのかな。
そして、博物館にあった先住民のブリアート人の住居はコレ。円形の可動式。
中に入ると、中央にはこうして囲炉裏が切られている。
これが展示してあったブリアート人の民族衣装。
尖った屋根中央には、囲炉裏の煙突兼明かり取りの開口があった。ロシア人とは、大きく文化が異なる。
最後に、イルクーツクの町中で見つけた、やけにポップな家。商店か事務所だろう。あまりに魅力的だったので、しばらく眺めていたら、このクリーム色のドアを開けて入っていった人を見た。ちゃんと現役の建物だ。
念のため、上の写真で建物がやや歪んで見えるのは、カメラのせいじゃなく、この家自体が歪んでいるため。この町の古い家の多くは基礎がほとんどない。地面の上にそのまま材木をのせているように見える。だから地面が歪むと家も歪む。これもやはり雨が少ないことを示しているようだし、たぶん地震もないんだろうな。ただ、これらの町中の古い木造家屋は、何とも魅力的だった。この次のエントリでも、イルクーツクの「モノの写真」の続編。車とゴミ箱を載せようと思う。
2014年9月12日金曜日
ロシア旅行no.4・ロシアのおいしさ(2)
きょうもロシアの食い物の話し。ベスト3を書こうと思って書き始めた先のエントリ。結局、ひとつしか書けなかったので、ここに残りのふたつを書こうと思う。
上の写真。何の変哲もないただのフライドポテト。だけど、これが旨かったのねー。ジャガイモが旨かったんだと思う。これが堂々としたふたつ目だ。
実は、先のエントリで、オームリの(卵じゃなく)魚本体の料理の写真があった。その料理は、(ロシア旅行no.2)でも書いた、訪問したダーチャで頂いたものだったのだが、その写真の右手にちょろっとジャガイモ君(メークイン系)が見えてるの、分かりますか。そのジャガイモ料理がやけに旨かったので、その翌日、レストランに入ったとき、メニューの「フライドポテト」をわざわざ注文してみた。
案の定、とってもおいしいフライドポテトだった。イルクーツクではちょっといいレストランだったせいか、揚げ油も新鮮ということもあったろう。それにしても、この控えめな旨みと鼻に抜ける香り。比較的後から出てきたせいで、結構お腹いっぱいになってる腹具合にも関わらず、後引くおいしさ。飽きが来ない。さも「これがジャガイモの味なのよ」と微笑みかけているようだった。
考えてみれば、日本だとジャガイモと言えば北海道。このシベリアの中央に位置するイルクーツク周辺は、土壌や気候からして、ジャガイモの名産地なのかも知れない。そう思わせてくれるフライドポテトだった。真夏のトルコで食べたトマトを思い出した。こういうありきたりの食材がおいしいのはとても嬉しいことだ。
そして、3つ目。
それはキノコのスープ。(ロシア旅行no.2)で書いたダーチャでは、ランチを頂いたのだけど、その際、最初にサーブされたキノコのスープ。そのときのメインは、先にも書いたオームリだったのだけど、その前に出されたキノコのスープがうまかった。どんなキノコかは分からない。キノコと一緒に入ってたのは、キャベツだったような。おいしい場合、それに気を取られてしまうので、写真が残らない。ただ、一枚、テーブルの上にズラッと並んだ料理を撮った写真の一部に辛うじて、サーブされる前のこのスープが写っていた。下の写真がその切り抜きだ。これじゃ何だか分からないけど、一応。
私たちが訪れたイルクーツクの8月半ばは、ちょうどキノコのシーズン。ややピークを越えたところだったらしいが、町を散歩していても、ちょっとした草むらに下のようなキノコがゴロゴロ生えていた。この白いキノコはでかい。子供の握り拳ぐらいある。
残念ながら、料理する前のキノコにはお目にかかることは出来なかったが、何とも滋味深いスープだった。突出した旨い食材はなくとも、お袋の味的なおいしさなのだ。こういうおいしさを表現するのは難しい。
これまで、二度、このブログで、ロシア料理について書いたことがある。
● 写真教室とボルシチ (2012年3月6日)
● ベトナム・ニャチャンのロシア料理レストラン(2012年4月9日)
そして、今回初めてロシアの地を踏んでのロシア料理。どれも共通している私の感想がある。「やさしい味」、「ホッとする(安心するような)味」、「家庭的な味」、「心温まるような」などだ。それがこのキノコのスープに集結してたように思う。
ロシアは広大だが、どこも極寒地だ。この国では暖かいスープの意味は、夏場でさえ特別なのかも知れない。そして、氷に閉ざされる長い冬の間の食事は、貯蔵された根菜類や保存食が中心になろう。(肉・魚の類は、屋外で冷凍らしい) それはフライドポテトや、先のエントリでのオームリの卵の塩漬けもそれにあたる。私がよく行くベトナムとは至って対照的だが、こういう食文化の洗練のされかたもあってしかるべきだ。
また、主食のパンについて。下の写真が、ロシアで一番ポピュラーな黒パン。
例えば、ズッシリと重いドイツのライ麦パンのようではない。なにしろ軽い。中はややモッチリ、スポンジのような弾力。日本でも、私は重ーいライ麦パンをときどき食べたくなるが、毎日はしんどい。その点、ロシアの黒パンは、お気軽で普通においしい。こんな黒パンもロシア料理のやさしさを表しているように思える。
和食、中華、イタリアン、フレンチ、トルコ料理にタイ料理。名の通った料理は数あれど、この3日間で食したロシア料理は、地味ながら、「心温まる」料理。「これ以上望むものはない」と妙に納得させられる料理の数々だった。
もしも、「ロシア料理ってどんなの?」ときかれたら、「ホッとする料理」と答えることにしようと思う。
上の写真。何の変哲もないただのフライドポテト。だけど、これが旨かったのねー。ジャガイモが旨かったんだと思う。これが堂々としたふたつ目だ。
実は、先のエントリで、オームリの(卵じゃなく)魚本体の料理の写真があった。その料理は、(ロシア旅行no.2)でも書いた、訪問したダーチャで頂いたものだったのだが、その写真の右手にちょろっとジャガイモ君(メークイン系)が見えてるの、分かりますか。そのジャガイモ料理がやけに旨かったので、その翌日、レストランに入ったとき、メニューの「フライドポテト」をわざわざ注文してみた。
案の定、とってもおいしいフライドポテトだった。イルクーツクではちょっといいレストランだったせいか、揚げ油も新鮮ということもあったろう。それにしても、この控えめな旨みと鼻に抜ける香り。比較的後から出てきたせいで、結構お腹いっぱいになってる腹具合にも関わらず、後引くおいしさ。飽きが来ない。さも「これがジャガイモの味なのよ」と微笑みかけているようだった。
考えてみれば、日本だとジャガイモと言えば北海道。このシベリアの中央に位置するイルクーツク周辺は、土壌や気候からして、ジャガイモの名産地なのかも知れない。そう思わせてくれるフライドポテトだった。真夏のトルコで食べたトマトを思い出した。こういうありきたりの食材がおいしいのはとても嬉しいことだ。
そして、3つ目。
それはキノコのスープ。(ロシア旅行no.2)で書いたダーチャでは、ランチを頂いたのだけど、その際、最初にサーブされたキノコのスープ。そのときのメインは、先にも書いたオームリだったのだけど、その前に出されたキノコのスープがうまかった。どんなキノコかは分からない。キノコと一緒に入ってたのは、キャベツだったような。おいしい場合、それに気を取られてしまうので、写真が残らない。ただ、一枚、テーブルの上にズラッと並んだ料理を撮った写真の一部に辛うじて、サーブされる前のこのスープが写っていた。下の写真がその切り抜きだ。これじゃ何だか分からないけど、一応。
私たちが訪れたイルクーツクの8月半ばは、ちょうどキノコのシーズン。ややピークを越えたところだったらしいが、町を散歩していても、ちょっとした草むらに下のようなキノコがゴロゴロ生えていた。この白いキノコはでかい。子供の握り拳ぐらいある。
残念ながら、料理する前のキノコにはお目にかかることは出来なかったが、何とも滋味深いスープだった。突出した旨い食材はなくとも、お袋の味的なおいしさなのだ。こういうおいしさを表現するのは難しい。
これまで、二度、このブログで、ロシア料理について書いたことがある。
● 写真教室とボルシチ (2012年3月6日)
● ベトナム・ニャチャンのロシア料理レストラン(2012年4月9日)
そして、今回初めてロシアの地を踏んでのロシア料理。どれも共通している私の感想がある。「やさしい味」、「ホッとする(安心するような)味」、「家庭的な味」、「心温まるような」などだ。それがこのキノコのスープに集結してたように思う。
ロシアは広大だが、どこも極寒地だ。この国では暖かいスープの意味は、夏場でさえ特別なのかも知れない。そして、氷に閉ざされる長い冬の間の食事は、貯蔵された根菜類や保存食が中心になろう。(肉・魚の類は、屋外で冷凍らしい) それはフライドポテトや、先のエントリでのオームリの卵の塩漬けもそれにあたる。私がよく行くベトナムとは至って対照的だが、こういう食文化の洗練のされかたもあってしかるべきだ。
また、主食のパンについて。下の写真が、ロシアで一番ポピュラーな黒パン。
例えば、ズッシリと重いドイツのライ麦パンのようではない。なにしろ軽い。中はややモッチリ、スポンジのような弾力。日本でも、私は重ーいライ麦パンをときどき食べたくなるが、毎日はしんどい。その点、ロシアの黒パンは、お気軽で普通においしい。こんな黒パンもロシア料理のやさしさを表しているように思える。
和食、中華、イタリアン、フレンチ、トルコ料理にタイ料理。名の通った料理は数あれど、この3日間で食したロシア料理は、地味ながら、「心温まる」料理。「これ以上望むものはない」と妙に納得させられる料理の数々だった。
もしも、「ロシア料理ってどんなの?」ときかれたら、「ホッとする料理」と答えることにしようと思う。
2014年9月10日水曜日
ロシア旅行no.3・ロシアのおいしさ(1)
ロシア旅行のことを続けて書いてきたが、その3回目。食い物のことは書かなきゃならんだろう。ということで、印象に残った食べもの、ベスト3を書こうと思う。まず最初が、上の写真。オームリの卵だ。黄金色が美しい。
オームリとは、バイカル湖に生息する淡水魚。ロシア料理というより、バイカル湖に近いこのイルクーツクの名物。この町では、とてもポピュラーな食材だ。そして卵じゃなく、魚自体は下の写真。
淡水魚らしくやや淡泊な味の白身魚だ。で、「印象に残った」のはこの魚自体ではなく、あくまで冒頭の写真のその卵。正確には、塩漬けで、食感はややネットリしている。辛めの塩味とともにタラコよりもやや淡い旨みの卵な味、そして後味に独特な少しのクセがある。それがいい。
そして、この食べ方は、ロシア流だと思うが、それが新鮮なおいしさだった。写真では一番奥のトーストに、オームリの卵、サワークリーム、紫タマネギのみじん切りをのせて、パクッと食す。やってみると分かるが、このトッピングの食べ合わせが実にいい。
オームリの卵はイルクーツクまで行かねばならぬが、イクラやタラコなんかでも十分においしい。実は、このレストランで、このオームリの卵を注文した際、一緒にイクラも注文した。それは冒頭の写真のオームリの卵がイクラにすり替わってサーブされたもの。ロシアのイクラは、無論塩漬け。醤油漬けのイクラよりネットリ感が強く、塩辛味も強い。日本でも、スズコと呼ばれる塩漬けがありますね。スズコは鮭の腹から出してそのまま塩漬けだが、ロシアのイクラは、日本のイクラのように卵をばらしてから塩漬けになっている。出来たら、塩漬けの方がこの食べ方に合うように思う。塩漬けイクラは、日本でもたまに見かける。そして、日本に帰国後、タラコで試みてもみた。全くもっておいしい。
何しろ、この「魚卵の塩漬け+サワークリーム+紫タマネギ」の組み合わせがいいので、是非お試しを。材料さえ揃えば、簡単なので、来客時にちょっと出すオードブルにはちょうどいい料理だ。
ところで、このサワークリーム。ロシアではディルとともに頻繁に登場する。例えば、下の写真が、日本で有名なビーフ・ストロガノフとボルシチ(どちらも食べかけ)。決まり事のように、サワークリームとディルが使われる。ビーフ・ストロガノフにはサワークリームがからまってるし、ボルシチにはディルとともに浮かばせてサーブされる。
このふたつとピロシキは、ロシア料理といったときに私が最初に思いつく料理だったので、レストランで狙い撃ちでオーダーした。ついでにピロシキの写真も載せちゃおう。
ピロシキは、ロシアのファストフードみたいだった。レストランで食べるというより、屋台や店先でテイクアウトして食べる感じだ。上の写真のピロシキがポリ袋に入っているのもそのため。買ってきてホテルの部屋で食べた。ちなみに中の具は様々なので、日本のおにぎりに存在が似てるかも知れない。写真のはチキンだった。
ずいぶん脱線した。
そろそろ話しを戻さないといけない。
書こうとしているのは、印象に残った食べものベスト3だった。
ここまで書いてきたが、それは、ビーフ・ストロガノフでもボルシチでもないし、ピロシキでもない。
「オームリの卵の塩漬け+サワークリーム+紫タマネギ」をトーストにのせて食う。きょうのエントリでは、これだけになっちゃった。残りのふたつはまた次回。何しろ、ロシア風・魚卵の食べ方。是非、お試しを。
オームリとは、バイカル湖に生息する淡水魚。ロシア料理というより、バイカル湖に近いこのイルクーツクの名物。この町では、とてもポピュラーな食材だ。そして卵じゃなく、魚自体は下の写真。
淡水魚らしくやや淡泊な味の白身魚だ。で、「印象に残った」のはこの魚自体ではなく、あくまで冒頭の写真のその卵。正確には、塩漬けで、食感はややネットリしている。辛めの塩味とともにタラコよりもやや淡い旨みの卵な味、そして後味に独特な少しのクセがある。それがいい。
そして、この食べ方は、ロシア流だと思うが、それが新鮮なおいしさだった。写真では一番奥のトーストに、オームリの卵、サワークリーム、紫タマネギのみじん切りをのせて、パクッと食す。やってみると分かるが、このトッピングの食べ合わせが実にいい。
オームリの卵はイルクーツクまで行かねばならぬが、イクラやタラコなんかでも十分においしい。実は、このレストランで、このオームリの卵を注文した際、一緒にイクラも注文した。それは冒頭の写真のオームリの卵がイクラにすり替わってサーブされたもの。ロシアのイクラは、無論塩漬け。醤油漬けのイクラよりネットリ感が強く、塩辛味も強い。日本でも、スズコと呼ばれる塩漬けがありますね。スズコは鮭の腹から出してそのまま塩漬けだが、ロシアのイクラは、日本のイクラのように卵をばらしてから塩漬けになっている。出来たら、塩漬けの方がこの食べ方に合うように思う。塩漬けイクラは、日本でもたまに見かける。そして、日本に帰国後、タラコで試みてもみた。全くもっておいしい。
何しろ、この「魚卵の塩漬け+サワークリーム+紫タマネギ」の組み合わせがいいので、是非お試しを。材料さえ揃えば、簡単なので、来客時にちょっと出すオードブルにはちょうどいい料理だ。
ところで、このサワークリーム。ロシアではディルとともに頻繁に登場する。例えば、下の写真が、日本で有名なビーフ・ストロガノフとボルシチ(どちらも食べかけ)。決まり事のように、サワークリームとディルが使われる。ビーフ・ストロガノフにはサワークリームがからまってるし、ボルシチにはディルとともに浮かばせてサーブされる。
このふたつとピロシキは、ロシア料理といったときに私が最初に思いつく料理だったので、レストランで狙い撃ちでオーダーした。ついでにピロシキの写真も載せちゃおう。
ピロシキは、ロシアのファストフードみたいだった。レストランで食べるというより、屋台や店先でテイクアウトして食べる感じだ。上の写真のピロシキがポリ袋に入っているのもそのため。買ってきてホテルの部屋で食べた。ちなみに中の具は様々なので、日本のおにぎりに存在が似てるかも知れない。写真のはチキンだった。
ずいぶん脱線した。
そろそろ話しを戻さないといけない。
書こうとしているのは、印象に残った食べものベスト3だった。
ここまで書いてきたが、それは、ビーフ・ストロガノフでもボルシチでもないし、ピロシキでもない。
「オームリの卵の塩漬け+サワークリーム+紫タマネギ」をトーストにのせて食う。きょうのエントリでは、これだけになっちゃった。残りのふたつはまた次回。何しろ、ロシア風・魚卵の食べ方。是非、お試しを。
2014年8月29日金曜日
ロシア旅行no.2・ダーチャとバーニャ、そしてブリアート人
今回のロシア旅行中に、ダーチャを訪問した。日本の旅行代理店を通じてイルクーツクの旅行代理店に訪問させてもらえるダーチャを探してもらった。平たく言えば、オプショナルツアーだ。
訪問させてもらったダーチャの場所は、イルクーツクとバイカル湖の間ぐらいのところ。冒頭の写真は、その道すがら、イルクーツクからバイカル湖へ続く国道。ご覧のとおり、道の両側は深ーい森。数種類の松と白樺が主らしい。シベリア鉄道の車窓は、きっとこんな風かななどと思いながら、時速100キロで走る車から森を眺めていた。タイガと呼ばれるこの針葉樹林が、広大なシベリアを覆い尽くしていることを、想像してみた。
さてさて、ダーチャだ。この森に囲まれた国道だが、たまーに、横道がある。そのひとつを左に曲がって少し行ったところに、区画整理されたダーチャ地域があった。もう国道の車の音は聞こえない。30〜50世帯ぐらいあったろうか。それぞれのダーチャは塀で覆われている。下の写真が、訪問したダーチャの外塀。
このダーチャは、この地域では一番ぐらいに広く立派だった。長い塀の一箇所に、小さめとも思えるドアがある。これがこのダーチャの入口だ。この前日に、バイカル湖への途中にあった昔の木造家屋の博物館に行っていて、そのときも感じたが、ロシア人は、ダーチャに限らず自分の敷地を塀で囲み、入口は小さく作る。
博物館では、「野生動物から守るため」とのガイドさんの説明があったが、ここで忘れてはならないのが、この地域の先住民である(モンゴル系の)ブリヤート人だ。彼らは元々定住しない遊牧民で、モンゴルのパオのような可動式住居に住んでいた。だから自分の敷地もないので、無論塀もない。その博物館の次の日にこのダーチャを訪問したので、ついそれが気になった。
ちょ〜おっ〜と〜脱線気味になっちゃうが、昔ロシアは、この地域に国を広げ、定住しないブリヤート人を強制的に定住させた。ガイドさんの話では、「ロシア人は畑を持つ農耕民族で、ブリヤート人は畑を持たない狩猟民族でした。そこでロシアはブリヤート人にも畑を持ってもらい定住してもらった」とのこと。今回の旅行中には、ブリヤート人に会ってないが、十数年前、日本のNHKで「日本人のルーツはブリヤート人」という内容の番組があり、その直後の数年間は、イルクーツクを拠点にして、バイカル湖東側にあるブリヤート共和国を訪れる日本人旅行者がたくさんいたらしい。
さて、話しを戻して、ダーチャです。
上の写真のドアを入るとこんな感じ。
この小径を進んで右を見るとこんな感じで手入れが行き届いている花壇。奥にビニールハウスが見えるけど、その左には家庭菜園としては広めの畑があり、そのまた奥には、3種のニワトリ、ガチョウ、鴨、ウサギなんかが柵の中で放し飼いになっていた。まー、豊かぁ〜な感じです。このダーチャの家族は、見ず知らずの私たちがリクエストした見学を受け入れてくれた。ある意味、自信もあるだろうから、このダーチャは特に立派なように思う。しかし、そんな私たちをとても暖かく迎えてくれたことは断言しておきたい。
そんなわけで、まずはこの庭を管理している女将さんと記念撮影。
ダーチャは別荘ながら、この女将さんは町の本宅には住まず、このダーチャに一年中お住まいとのことでした。お家の中に入れてもらうと、中央に鎮座しているのは、これ。
「燃えろよ、ペチカー♪」のペチカです。漆喰のようなのが塗られていて、形が主張していてキレイです。ペチカを含め何となく家の造りは、ヨーロッパの寒いところな感じ。ただ、このシベリアは、森また森なので、石造りではなく木造となる。30年ぐらい前だけど、スイスの山の方に行ったときも、似たようなものが家の中央にあったのを思い出す。スイスのは、外側が花柄などのタイル貼りのが多かったな。
さて、ペチカの次は、バーニャ。ロシア風サウナだ。大概のダーチャには広い庭があり、その庭にバーニャがある。訪問したこのダーチャにもあった。そこで、バーニャにも入らせてもらった。そのサウナ部屋内は段々になっていて、日本にもよくあるフィンランド風のサウナにもよく似た造りだった。そしてこの地方のバーニャの特徴は、葉のついた白樺の枝をバケツの水に浸して濡らし、それをうつ伏せに横たわった人の背中にヒタヒタ当てること。ウッディな香りとともに何か身体にいい感じ。サウナ状態の部屋だから、葉についた水は瞬時に蒸気になり、少し蒸し風呂な感じも。このヒタヒタは、このダーチャの息子さん(25歳ぐらい)にやってもらったが、何となく、神社で神主さんに榊の葉をパッパっと振ってもらった感覚になった。そして、彼曰く、「冬の時期、このバーニャで身体が十分熱くなったら、外の積もった雪に飛び込むんだ。それを5回繰り返す」とのこと。冬はマイナス30℃とのことだけど、「やってみたーい」とは言えなかった。
彼と話していて、興味を引いた話しがある。
「シベリアの開拓時代、ロシア人は、家を建てる前にバーニャを建てるんだ。まずバーニャを建てて、そのバーニャに住みながら、家を作る」
補足すると、バーニャは、サウナ部屋だけでなく、着替え部屋などもある。住居としては狭いが仮住まいとしては十分だ。何しろこの極寒地では、寒さ対策が最優先なのだ。開拓しながらこの土地に住み始めることの苦労と智恵といったところだろうか。しかし、その頃、先住民のブリアート人はどのようにして住んでいたのだろう、とも心の中で思った。先述の昔の木造家屋の博物館にあった、ブリアート人の住居には囲炉裏が切られていた。
開拓時代と聞くと、アメリカのことを連想するが、西部劇のように、ロシア人は先住民と闘った、ということは聞かなかった。ロシア人としか話しをしていないし、詳しい歴史は分からない。
シベリアは、第二次世界大戦後、日本人捕虜が多く抑留させられ強制労働を強いられた土地でもある。イルクーツクやこのバイカル湖周辺にもたくさんいた。それだけでなく、過去の歴史はいろいろある。ただ、こうして今、バーニャでロシアの若者と裸で話しをしていると、だんだんと親近感が湧いてくることも事実だ。
さて、次のエントリでは、ロシアの何を書こうか。
2014年8月25日月曜日
ロシア旅行no.1・まずはバイカル湖
世界で一番深い湖、バイカル湖。子供の頃、何となく眺めていた世界地図で、この湖を見つけ、「あ〜、こんな人の住んでなさそうなシベリアの真ん中に、こんなにでっかい湖があるんだなー」と思った記憶がある。バイカルという名の響きも、どこか神秘的に感じていた。
先週の土曜日、私はたしかにそのバイカル湖畔の町、リストヴィアンカにいたのだが、今は幻のような気がしてならない。上の写真はその水平線。ややモヤってたものの、向こう岸は見えない。この湖は南北に細長い。比較的距離の短い東西で、視界のいいとき対岸は山々だけが見えるらしい。何しろでかい。途方もなくでかい。
一週間ほど前、滞在は3日間だけだったが、ロシアはイルクーツクとバイカル湖を含むその周辺へ行ってきた。
まずはバイカル湖ということで、聞いて驚いてください。バイカル湖の水量。下の写真は、その湖畔にある、バイカル湖博物館でのものである。
水量23,000立方キロメートルと言われてもちっともピンとこないが、
“EQUAL TO 20% OF WORLD'S FRESH WATER”
マジか。「“FRESH WATER”って、もしかして淡水のことかぁ〜?」と我が目を疑った。地球上には、バイカル湖よりも広い湖、何千キロもの長さの河川などあるにもかかわらず、本当にここに20%もあるのか?
帰国後、wikiってみたら、「世界中の淡水の17-20%がここにあるとされる」とあるので、まんざらハッタリでもないらしい。そして世界一のその深さは、最大水深約1,700mという。まー、この深さでもって、その水量となる訳だ。地図で見ると分かるが、地殻変動で出来た高い山地のクラックのようなところにこの湖がある。
そして、下の写真が、バイカル湖の名物のピョン吉岩。本名は、シャーマンロック(なぜか英語)。ちょっと分かり にくいが、湖面に三角に突き出た岩がある。おそらくこれで高さ2メートルぐらい。ボートが2艘近寄っている。名物の岩なので、いつも何艘かのボートが近くにいて、岩だけを撮れなかった。
バイカル湖に注ぐ川は数あれど、バイカル湖から流れ出る川はアンガラ川という川のみ。で、バイカル湖とアンガラ川の境はどこなのか? その答えが、この岩らしい。広ーい川幅の中央あたりにある。上の写真での川の流れは左から右。湖畔のこの町リストヴィアンカから見て、岩の左側がバイカル湖で、右側がアンガラ川となる。そもそもこうしてポツンと出ている岩があることが妙だ。水面下はどうなっているんだろう? と、ピョン吉岩のように想像してしまう。
次は、ちょっとだけ観光地っぽい写真。リストヴィアンカの岸。岸で水を触った感じでは、水温は20℃なかったと思う。この写真にはいないが、夏の時期は、水浴びする人もいるらしい。
私の中では、お堅いイメージのロシア人だったが、この岸辺では、こんなお茶目な風景も。
まー、そんな訳で、一週間前、たった3日間ながら、シベリアの中心の町、イルクーツクとバイカル湖に行ってきた。いろいろおもしろかったので、マニアックなことを含め、いろいろ書いてみようと思う。きょうは、その序編として、バイカル湖。何しろ、桁外れにでかい。
登録:
投稿 (Atom)