2016年10月27日木曜日

アルモン・デ・ブラザース

 1リットル紙パック入りの豆乳。使い切って紙パックをハサミで切って洗おうとすると、へばりついた豆乳のカス(固形物)が気になった。しかし、使い切る前によ〜くシェイクすると、豆乳カスが激減。アワアワの豆乳ラテも飲める。その喜びを書いたのが前のエントリだった。

そのエントリ書いてて、最後に思いついた「シェイクする前に折り目を伸ばすこと」(上の写真)。やってみたら、見事に大成功。下の写真のように、すっかりカスはなくなった。あー、気分がいい。あんまり気をよくしたのでまた書きたくなった。

昨今、どんどんいろんなものが便利になってるように見えるけど、その分、「工夫しなくなっちゃったな」とつくづく思う。例えば、出掛ける際、ネットの乗り換え案内なんてなかった昔はちっとも不便を感じてなかったのに、今じゃチェックしないと心配になる。携帯電話なんかなくても何とかなった。車のナビも同じだ。

この「なんちゃってクリーマー」は大したことないが、○○器がなくたって、他の「あるモン」でちょっと工夫すればいいじゃないか。と、しばしば思う。これを称して、

「アルモン・デ・ブラザース(またはシスターズ)」

というのは、どおだろう?
これは昔、友人が言ってた言葉。
最近、よく思い出す。

「アルモン・デ・ブラザース」だと、モノが売れなくなるのかも知れない。
「アルモン・デ・ブラザース」だと、経済は沈滞するかも知れない。
でも、いいじゃないか。それよりこっちの方が面白いぜ。

2016年10月13日木曜日

豆乳カスと、なんちゃってクリーマー

 3年ぐらい前までは、冷蔵庫の中にいつも牛乳があったのだが、ここんところはすっかり豆乳に替わってしまった。私の場合、かつての牛乳や今の豆乳は、主に朝のコーヒーに注ぐためのものだ。かつては低温殺菌の牛乳じゃないとおいしくないと思っていたにもかかわらず、豆乳にしてからは、不思議と牛乳だとやや抵抗感を覚えるようになってしまった。

思えば、牛乳から豆乳に切り替えたキッカケは、「想いやり生乳」だった。

★関連エントリ:
「想いやり生乳」と母乳(2013年10月8日)

「想いやり生乳」を飲んで、普段飲んでいた牛乳との違いを思い知った私は、とてもすんなりと普通の牛乳には戻れなくなってしまった。とは言え、「想いやり生乳」は我が家にとってはなかなか高価だし(送料もかかるし)、たまに飲むにしても身近に購入出来るものではないので、「想いやり生乳」には切り替わらなかった。そこで豆乳を常備して使っているうちに、「これでいい」となった。

最初は、小出しに使える200ml入り紙パックの豆乳を常備していたのだが、最近はもっぱら写真の1リットル入りにしている。無論大きい方がコスパがいいという理由もあるが、別の理由もある。

それは豆乳を使い始めて、ずぅっと気になっていたことがあったからだった。容量が小さくても大きくても、使い切った後、ハサミで紙パックを切って内側を水ですすぐとき、必ず固形化した豆乳がカスのようにへばりついていることだった。「んー、なんかもったいないなー。これもおいしいだろうにな」と思いつつも、その都度スプーンでこそいで食べるのも面倒だし、毎回ただただ水に流して洗っていた。

しかし1ヶ月ほど前、たまたま半分ぐらい使い終わった1リットル入り豆乳の紙パックを手にしていたとき、パックの内側の固形物(豆乳のカス)のことが気になり意識した。そして、「あ、そうだ」と、これをしっかりシェイクしてみた。その直後に、コーヒーに加えたところが下の写真。
泡立った豆乳ラテだぁ〜。ただしこれは出来損ないのクリーマーを使ったよう。そう、ちゃんときめ細かな泡が立っているわけではないので、ちゃんとしたクリーマーとは言えず、「出来損ない」のなんちゃってクリーマーだ。でも、これで、豆乳カスは激減した。

それまで多用していた200ml入りのパックはハサミで開封して使うのだが、1リットル入りのパックは、スクリュー式フタ付きなので、しっかりフタを閉めて心置きなくシェイク出来ることを付け加えておく。まっ、少し使った後でないと空間がないので、シェイク出来ないけど、それは後からしっかりシェイクすればいいだけさ。

また、その紙パックには上下に折り目がついていて、シェイクしてもその折り目の中には豆乳カスがたまってしまうのだが、そこ以外にはたまらなくなった。しかも、少しだけど泡立った豆乳ラテになる。めでたし、めでたし。

・・・・ん、いや、今思いついたのだけど、もしかしたら、使い切る前に、折り目を伸ばしてからシェイクすればいいだけかな。帰宅したら試してみよう。

2016年10月7日金曜日

山栗とメガソーラーの関係

この間、山梨の友人宅を訪れた際、お土産に山栗をもらった。「さっき近くで落ちてたから拾ってきたやつよ。全部は食べられないと思うけど」と言葉を添えられたとおり、10個に1〜2個は、虫が食ってたりでたべられなかったが、とてもおいしく頂いた。最初の1個食べたら、もう止まらない。写真はいつのまにか残り僅かになって、慌てて撮ったものだ。

栗ひとつずつに、包丁で切り込みを入れて、ルクルーゼやストウブのようなフタ付きの厚手の鍋で、水を加えず、栗自身の水分だけで加熱する。これがうウチのカミさん流なのだが、そのへんで売ってる大粒の栗と、一回り二回り小さなこの山栗とでは全然違う。

売ってる栗が虫食いだとクレームになっちゃうんだろうし。「幸せはカネじゃ買えない」とは言い過ぎか。

さて、私はその山梨は八ヶ岳南麓に住む友人を訪れる前に、蓼科山北麓の別の友人宅を訪れていた。その界隈を車で走っていたら、「メガソーラー 絶対反対」というでっかい看板があった。その後、その八ヶ岳の友人宅を久々に訪れたら、彼の家の隣の敷地には広々とメガソーラーが広がっていてビックリ。八ヶ岳の友人は、「震災以来、このへんこれがバンバン出来てね。すごいんだよ。森を更地にしてコレ(メガソーラー)ってのも珍しくないんだぜ」と言う。メガソーラーには、このおいしい山栗が食べられなくなるという関係もあるのか・・・・。

そう言えば、電力会社は電気の買取りを行っているが、震災直後はある程度の価格で買っていたものの、その後は買取り価格を下げてしまって、メガソーラーを設置した業者は「作ったはいいが採算が取れなくなってきてる」という話しを聞いたことがある。さらに、ソーラーパネルには、有毒物質が使われていて、廃棄するときそれが問題になる。ドイツなどでは、廃棄時、その有毒物質を分別出来ないソーラーパネルの規制がすでにあるのだが、安価が売りの中国製などのソーラーパネルは分別出来ない構造だから、生半可な投資で出来たメガソーラーは、今後耐用年数を迎えるときに深刻な問題になる。といった話しも思い出した。これらの話しを思い出しながら、友人宅隣に威圧感たっぷりに広がるソーラーパネルを見てたら、正直ちょっと恐ろしくもなった。

町中の住宅の屋根に貼り付いているソーラーパネルは、珍しくなくなったし、原発や火力発電よりは、次世代のエネルギーとして、戸別に設置可能なソーラー発電は有望なのかも知れないと、かつては思っていた。

私はベトナムで「カンホアの塩」という天日塩を作っているのだが、かつてはその生産現場で使う電動石臼や室内作業の照明の電気を、「オフグリッドのソーラーシステムで賄えないものか。天日で塩作ってるんだから、電気だって・・・・」と考えていたことがあったが、なーんかその考えはどんどんしぼんできてしまった。

★関連エントリ:
ソーラーシステムの現実(2014年8月11日)

頂いたおいしい山栗を食べながら、メガソーラーの将来を考えてしまった。