2014年1月30日木曜日

ドブロクのススメ

今年もドブロクの季節がやってきたぁ〜。
上の写真は、今朝の仕込みが終わった状態。三段仕込みの初添えが終わったところ。

何せ素人だから、一番雑菌が繁殖しにくい、一番寒いときが造りやすい。今ですね。プロの酒蔵でもこの時期が中心だが、素人に空調はない。すでに十数年続いていて、それなりの進歩もあるから、「素人じゃない」とおだてる知人もいるが、酒造りはそんなに甘くはない。いくら十数年進化をとげたドブロクも、市販の旨い酒にはとてもかなわない。でも、市販のおいしくない酒よりはおいしい。自分で造ると愛着も湧くから、そのせいもあろうが、やっぱりおいしくない酒よりはずっとおいしいと思う。

そして、ドブロクを造り始めてから何より思うことは、売ってる酒を飲むときの意識が変わることだ。

十数年前に、私はドブロクを造り始めたが、好みの酒を懸命に探し始めたのもちょうど同じ頃だった。自分でドブロクを造ると、酒を造っている人たちへ思いを馳せる。玄人さんが使う酒の原材料と素人が使うドブロクの原材料はどれひとつ同じものはないが、「米のデンプンを麹が糖化し酵母菌がアルコールと炭酸ガスを発生させる」という基本原理は一緒だから、ドブロク仕込んでるときも、「こういうとき、玄人さんはどうしてるんだろうなー」など、素人なりにいろいろ想像もする。そうすることで、酒やドブロクをよりじっくり味わうことになり、酒を飲むときの意識が変わる。そう思っている。

現代は、何でも「買う」ことが当たり前になってますね。便利って言えば便利だけれど、本当は、「自分で作る」がまずありきで、「自分で作れないもの」を「買う」ということだと思う。

何でも「買う」が当たり前の世界では、「自分で作る」イメージは存在しない。もし、少しでも「自分で作る」イメージが残っていれば、自分では作れないからこそ「買う」という気持ちになれる。それがあれば、同じものを買うんでも、謙虚になれるし、その商品の「ありがたみ」とともに自然と感謝の気持ちも湧くものだ。つまり私がドブロク造るのは、市販のお酒に敬意を表するためでもある。

ドブロクのススメ。

それは造る楽しみとともに、自分流のおいしいドブロクが飲める幸せだけじゃない。市販のお酒を飲んで、「あー、旨いな〜。このお酒(そして造り手)と同じ時を生きてて幸せだなー」としみじみ思えること。これら両方の幸せが故の、ススメなのです。

関連エントリ:
●natural salt cafe: 冬はドブロク(2010年1月29日)

2014年1月24日金曜日

「いいわねぇ〜、東京の木は」

久しぶりのブログの更新。毎月3回の更新を目指していたが、この2ヶ月はバタバタで、心の余裕がなかった。気がついたら大寒も過ぎ、そろそろドブロク仕込まなきゃ、とあせってきたが、そんな心境の中、いつもは車通勤のところ、久しぶりに電車に乗って仕事場へ向かった。

上の写真は、今朝、その出勤途中に撮った公園のケヤキ。場所は、東京の福生(ふっさ)。高さは、30メートルぐらいありそうな大木だ。今は葉が落ちていて、その枝振りがよく分かる。

これ見て思い出したことがある。私が二十歳の頃、つきあっていたガールフレンドの言葉だ。「いいわねぇ〜、東京の木は」。彼女は、東京の大学へ通うために愛媛から東京へ出てきていた。私は東京生まれの東京育ちで、お互い大学生。その冬、私たちは東京の新宿御苑をデートしていた。二人は大木が何本も立ち並ぶ広場のベンチに座った。

「いいわねぇ〜、東京の木は」と彼女。

「なんで? 東京の木より田舎の木の方が自然じゃない?」と不思議がる私。

「こういう公園は東京みたいな大きな町だからあるのよ。田舎は、少し行けば森や林があるから、こういう公園は要らないの」

「それで何で東京の木はいいわけ?」

「だって、こんなにノビノビ大きくなってるじゃない。森の木は、必ずいろんな木と隣り合ってるから、いつもせめぎ合い。こんなに自分の好きなように枝を張って大きくなりはしないのよ。だから田舎の木は、こういう東京の木を羨ましく思ってると思うわよ」

「なるほど・・・・」

私は、東京の下町で生まれ育ち、当時もそこに住んでいた。そして、ずぅーっと、狭いところに人がたくさん住んでいて、常々窮屈だと思っていた。彼女の話を聞いて、都会の自分と田舎の木が同じような境遇のような気がして、不思議な気持ちになった記憶がある。

私の両親は二人とも、田舎で生まれ、東京に出てきた。でも今は「もう、とても田舎には住めない」と言う。一方、都会に生まれ育った私にとって、田舎暮らしは憧れだった。そして20代の頃、私は一日中車の音が聞こえないほどの田舎に暮らしもした。でも、それも馴染めず、結局は東京に住んでいる。東京と言っても、今度は都会ではなく西のはずれ、都会でもなく田舎でもないところだ。

冒頭の写真のような東京の公園の木の自由さ、そしてその不自然さと寂しさ。田舎の木の窮屈さ、そしてその自然さと賑わい。自由の中には常に窮屈さがあり、窮屈さの中にこそ自由さがある。このケヤキのように、公園でノビノビ枝を張っている大木を見ると、いつもそれを想う。