2009年3月30日月曜日

サイゴンの靴屋


1998年2月、私は初めてベトナムを訪れた。そのとき、強烈に印象に残っていることがある。それは今でも私の心に刻まれていて、私にとって、ひとつの「ベトナム人観」にもなっている。

日本からの直行便でサイゴン(今は正式には「ホーチミン」というが、私には「サイゴン」の方が町の名前らしくて親しみがある)に着き、宿に荷物を置いて、まずは町をぶらついた。何の気なしに歩いていると、路上に古着ならぬ古靴が並べられた革靴屋があった。路上とは言え、その数は200足ぐらいはあり、壮観でさえあった。程度のいいものはそのままだが、ざっと半分は靴底を張り替えられたり縫われたりと修繕してあった。また古靴だから、商品はすべて「一点物」。だからいくら「いいな」と思ってもサイズが合わないとダメ。服に比べ、靴はサイズが多様な分、やや難しい。

普段、私が買い物のとき(特に服や靴)一番大切にしているのは第一印象だ。最初にパッと目に飛び込んできたモノを大事にしている。「パッと目に飛び込んでくる」ことに、まだ自分が意識さえしていない「何かしらの理由」があるはずだと思ってしまうのだ。しかしそんなことはそう滅多にない。

で、そのサイゴンの路上ではそうだった。上の写真の靴だけが、光っているというか、私に何かを訴えているように感じた。でも、サイズの問題があるので、並んだ靴の間を注意深く進み、その靴を店の最前列まで持ってきて、履いてみた。ん〜文句なしにちょうどいい。「こりゃ欲しいな〜、でも困ったな〜」。2週間のベトナム旅行に来て初日に革靴なんか買うのは荷物になるし、私はまだベトナムの多くを知らない。つまり、もっといいものがたくさんあるかもという欲もあった。

サイズのピッタリさは店員さんも気づいたらしく、「いいじゃないか〜」という視線で私を見つめ、すすめる。気に入っているだけに、ここで値段を聞いてしまっては「買う方向」に進んでしまうし、「いや〜、きょう着いたばっかりなんで・・・・。また来るから」なんてベトナム語はとても話せやしない。英語は全く通じなかったが、それが観光客相手に商売をしていない証だし、何しろとても誠実そうな男だった。仕方なく、冷やかし客のようにその場を立ち去った。店員さんは他の客の相手を始めた。

2週間後、帰国のためサイゴンに戻った私は、同じ靴屋に向かった。路上だったし、「きょうも出してるかなぁ」と一抹の不安を抱えていたから、遠目に見えたときは嬉しかった。店に着いて「まだあるかな?」と見回し始めたそのとき、2週間前と同じ店員さんが、スッと私の足下に「その靴」を丁寧に揃えて置いた。私は感動した。全身の力が抜けた。彼と目が合ったが、笑顔はない。強い日差しが彼の額の汗を光らせる。呆然として無言のままの私を見て、彼はすぐに他の客の相手を始めた。私はその客の相手を終えるのを待ち、買った。いくらだったか忘れた。ただ、2週間ベトナムで過ごした私には、妥当に感じられた値段だった。しかし、それ以上にもう完全に心を奪われていた私は、値切る気持ちも奪われていた。なかなかこんなに気持ちのいい買い物はない。「彼はこの2週間、一体何人の客と接しただろう?」そして「何足の靴を並べ仕舞い、何足の靴を売っただろう?」、「客へのサービス、商売って、何なんだろう?」 その店を後にして、いろいろ思った。

もちろん、ベトナムの人たちがみんな彼のようではない。
しかし、今もこの靴を履く度に、その思い出が頭をかすめ、「彼は今どんな仕事をしてるだろうなぁ」と考えたりもする。