2020年3月26日木曜日

「歯に衣着せぬ」と「オブラートに包んで」


新型コロナウィルス一色で、どうも落ち着かない日々が続いている。しかし、そればかりで現実的な暮らしは出来ない。少し前に、心にとまった新聞のコラムがあったので、きょうは一時(いっとき)、パソコンの画面に集中して、それについて書いてみたい。

まずは、冒頭の新聞のコラムを読んでもらいたい。(クリックすると大きくなります)

3月7日付け東京新聞(朝刊)に載ってた、師岡カリーマさんによる「本音のコラム」。このコラムの中で、「アサド大統領という正真正銘の悪党」という下りがあるが、そこは「正真正銘」とまで言い切れるものかどうか、私には定かでない。その点だけ、ひっかかるのだけど、全体として、ここで彼女が訴える・・・「無力化(Neutralize)」と言わず、「殺す」と言え・・・は本当に私もそうだと、常々思っている。

日本語に「歯に衣着せぬ」という言い回しがある。反対に「オブラートに包んで」というのもある。それは親切心が本来の意味だから、悪いことを誤魔化すためにオブラートに包んでは、逆に悪意となろう。日本は和の文化として、争い事を嫌い和やかに事を進めるという風習があるように思うが、「オブラートに包んで」は、それを反映しているように思う。しかし、「歯に衣着せぬ」という言葉もあるのだから、こっちもときには必要ってことかと思う。

カリーマさんは、「歯に衣着せぬ」言い方で、痛快だ。ずいぶん前に、彼女の著書「イスラームから考える」を読んだことがある。彼女は、エジプト人と日本人のハーフで、イスラム教徒でもある。日本を外から見る目を持っていながら、日本の「オブラートに包んで」の文化も知っている人だ。しかし、「オブラートに包んで」の文化は、日本だけのものじゃない。

「Neutralize」という言葉。自動車のギアの「N」でもある「neutral(中立な)」という形容詞の状態にする、つまり「中立的にする」という意味だ。それ自体に危険な香りはないが、場合によっては「殺す」を意味する。国を挙げての武力行使または戦争の場合、相手兵士を殺しても罪にならないどころか、むしろ目的を達成するのだから成功となる。それを「Neutralize」という言葉で表す。

どんな武力行使や戦争にも大義名分がある。つまり、それは正しいという理由だ。でも、武力行使や戦争には必ず相手がいるのだから、それは必ず一方的な理由であることは確かだ。国連を含め、誰が一体、「○○側の理由が正しい」と決めるのか?

一般市民はもちろん、政治家・企業家を含めて、戦争の是非を問うと、誰にきいても、「No」と答える。しかし現実として、今までたくさんの戦争があったし、今でも地球上で戦争がある。これはどういうことか? 「戦争No」と言う人も、その後には戦争をしてきたということだ。戦争に至るまでは必ずプロセスがあるとも言える。

例えば、「必要悪」という言葉。これは「必要>悪」で、「必要」が「悪」を上回った場合に使われる。最初は「必要悪」と始まり、それがあるプロセスを経て、なし崩し的にやがて「必要な戦争」ということになりはしないか。これまで起こってきた戦争とは、そういう歴史の繰り返しではなかったか。本来、必要な戦争なんかありゃしない。その矛盾を断ち切るために、「戦争の放棄」を謳った第9条がある。

さて、どこかの国の首相は、その憲法改正に躍起になっている。「戦後レジームからの脱却」という詰合せセットの中の一つのピースとして、憲法第9条に「『自衛軍保持』を明記すべき」と言う。「『わたし達は断固として国民の生命、財産、領土を守る』という決意が明記されるのが当然」であり、それが「普通の国家」であると言う。(この「普通」が意味不明だが)『国民の生命、財産、領土を守る』ために『自衛軍保持』が必要だという主張だ。

『自衛軍』と言ったって、具体的には、(世界最大の軍事国家である)米国に従う武力行使が行えるようになることを示すのは、明らかだ。「米国は誤らない」が前提になっている。そして『守る』ために、自衛隊をわざわざ『自衛軍』にする。では、この『守る』とは現実的に何を意味するのか?

これって、「人殺し」を「無力化(Nueutralize)」と表現することと同類だと思いませんか?

政治家、通信社・マスコミが、「人殺し」を「無力化(Neutralize)」と表現し続けるとなると、私たちは、「無力化(Neutralize)」を「人殺し」と読み替えなくてはならない。『自衛軍』を、武力行使も出来る「軍隊」と読み替える。その度に気持ちの悪い「歪み」を感じる。彼女は冒頭のコラム記事の最後に、

相手の人間性に敬意を払い、はっきり「私たちは兵士を○人殺した」というのが、人としての最低限の礼儀だ。

と書いているが、それは、殺された側の人たちだけでなく、殺す側の主権者である市民に対しても、最低限の礼儀だと思う。なぜなら、殺す側だって、いずれは殺される側になるからだ。仇討ちのように個人対個人の場合と違って、多数対多数の場合、全員を殺し殺されることまでは通常ない。だから全ての人が殺されるとはならないが、部分的には必ずある。その「部分」が具体的に誰かは「分からない」というだけで、それは貴方の孫かもしれないし、私自身かも知れない。何しろ、世の中、一方的で終わることなどない。

最後に改めて、第9条を以下に。

第9条
    日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
    前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2020年3月16日月曜日

「You've got a friend」と「昭和枯れすゝき」


この春から、息子が小学生から中学生へ、娘が中学校生から高校生になる。この機会に二人が個室を持てるようにと、家中の配置を再編成した。それにともない、私は持ってた本・音楽CD・服類などを半分処分した。それは、眠っていた本や音楽CDを整理し、見直す機会にもなった。

それで、たまたまキャロル・キングのカーネギーホールのライブ録音(1971年録音)のCDを久しぶりに聴いた。後半に、ジェームス・テイラーがサプライズ登場して、「You've got a friend」を一緒に歌う。

それ聴いてて私は、「あっ、これ、さくらと一郎だ」と思った。「昭和枯れすゝき」だ。

久しぶりに「昭和枯れすゝき」を聴きたいと思って、Youtubeで検索したら、二代目さくらさんの映像がほとんどだった。少なかった初代さくらさんのをやっと見つけたが、全然違う。二代目さくらさんは、とっても頑張っているんだが、残念ながら特別な感じがしない。初代さくらさんは特別だった。

さてさて、「You've got a friend」は、いろいろな事情があるアメリカ社会の中で、アメリカの良心を歌っていると感じる。それは至って穏やか。一方、「昭和枯れすゝき」は、いろいろな事情ある日本社会の中で、日本の情愛を歌っていると感じる。それは至って強烈。

この2曲、男女のデュエットという点が共通。男女のデュエットというのは、何となく、女性と男性の代表者が歌っているようにも感じる。片方の独りよがりでは成り立たないというか。それが説得力にも繋がっているように思う。

とは言うものの。この2曲は、歌詞の内容も曲調も全く違う。むしろ対照的だ。しかし、何かが同じと感じてしまうのはなぜだろう。至って私の感覚的なことなので、客観的なタイミングを調べてみた。

キャロル・キングの録音は前述のとおり、1971年。
そして、「昭和枯れすゝき」は、1974年のリリース。
3年の違い。同時代ということか。

太平洋の東と西ということはあっても、どちらもポップミュージック、大衆に好まれた曲だ。最近は、ポップという言葉も死語だろうか。代わってポピュリズムが使われる。大衆迎合主義と訳されるポピュリズム。大衆に迎合したっていいはずなのに、どこか危険さを孕むように感じる。

しかし、「You've got a friend」も「昭和枯れすゝき」も危険さを全く感じない。「昭和枯れすゝき」には、「死」という言葉さえ歌詞に含まれるが、危険な感じがしない。

切取り方だ。

ふとそう思った。いろいろある社会の中で、「アメリカの穏やかな良心」を、そして「日本の強烈な情愛」を切り取って曲が出来ている。その切取り方が、この2曲は実に見事で、「いろいろある事情」など思い浮かべる余地なく、しっかりとその世界観だけに浸らせてくれる。そういう力を持っていることがこの2曲の共通点なような気がしてきた。切取り方、それはいい役者がそうであるように、切り取った世界観の人物への成り切り方とも言える。

切取り方、成り切り方。それは純粋さでもある。ネット社会になって、情報が溢れている環境では、物事を純粋に捉えることが難しくなっているんじゃないか。たまには昔のように、雑音(情報)をオフにして、静かに自分の中にある純粋な感情に光を当てることがあった方がいいように、または今の自分にはそれが不足しているように、思った。

2020年2月19日水曜日

ベトナムの田舎の普通のカフェ


ベトナムにはカフェがたくさんある。今や大きな町には、スターバックスもあるし、スターバックスのような店も、日本のようにたくさんある。数年前には、ホーチミンに、スペシャルティコーヒーを出すカフェも登場した。しかし、ベトナム独特の文化とも言える、「ベトナムのカフェ」は、そういうものじゃない。

私がベトナムに通い始めた22年前は、大きな町でも、道端に小さな椅子とテーブルが並んだ屋台のカフェがたくさんあったし、露天でなくても、こじんまりした小さなカフェがたくさんあった。ベトナムは暑いから、町中の(路上でない)お店のカフェでも、入口にはドアも壁もなく、とても開放的。だから、カフェの前を通り過ぎる人々を眺めながらコーヒーをすするなんてこともよくあった。仕事の途中のちょっとした時間に一人で、カフェでぼおーっとして、気分転換をはかる。そんな気軽な存在のカフェが、ベトナムのカフェ文化だと私は思っている。そんなカフェは、店先を無数のオートバイが走りまくるの喧噪の中でも、不思議と「静けさ」があって、落ち着く。

そして今から10〜15年ぐらい前になると、ちょっとした町には、エアコンが効いたカフェがどんどん増えていった。エアコンとなると、入口にドアも壁もないという訳にはいかないから、閉鎖的にならざるを得ない。椅子はよくなったものの、大音量のBGMもかかるようになった。

そして現在、町中の路上のカフェはほとんど見なくなった。入口のドアや壁のないカフェもちらほら。ただ、田舎へ行くと違う。私が作る「カンホアの塩」の生産地は田舎なので、まだまだ開放的なカフェが普通にある。

冒頭の写真は、「カンホアの塩」の塩田と宿泊したホテルの途中にあったカフェの看板。これまで何度もこの道は通ったが初めて見た。何とも味わい深くて、二度三度オートバイで行き来している間、この看板が気になって仕方なかった。時間が出来たところで、入ってみると、雰囲気が何とものどか。コーヒーもおいしい。入店後しばらくしてきいたら、何と30歳前の若くて真面目そうな男性がやり始めた新しいカフェだった。たどたどしいながらも英語も話してビックリ。「この看板が気に入って、入ったんだよ」と言うと、照れくさそうに、「それはとりあえず描いただけで、今度もっといいのにしようと思っているんだ」と応えてくれた。私からすると、コレが味わいがあっていいのだけど・・・・。

これは去年2019年の12月のこと。今頃、新しくなってるかも知れない。こういう味わいあるものって、寿命というか、時間制限があるんだと思う。だから、次々と生まれても、運がいいと出会えるし、そうでないと知らない間になくなっている。

この田舎には、エアコンが効いたカフェはほとんどないが、もっと人通りのあるところにある大音量が鳴り響いているカフェは、賑やかだけど、私は落ち着かない。そんな中、こんなのどかで落ち着くカフェでコーヒーが飲めて、私はとてもラッキーだった。ご参考まで店内のパノラマ画像を下に(クリックすると拡大します)。入口どころか、四方に壁がないから風通しがとてもよく、しっかり日陰が作られていて、気持ちいい。12月とは言え、このときの気温は30℃ぐらい。左にいるお客さんたちは将棋を指している。


最後に、9年も前のことだが、ベトナムのカフェでコーヒーを注文する際の流儀をこのブログに書いたことがあったのを思い出した。以下に引用する。初めてベトナムへ行くコーヒー好きな方は、知っておくと役に立ちます。

ベトナム・コーヒーの流儀【基本編】(2011年6月16日)

ベトナム・コーヒーの流儀【応用編】(2011年6月21日)

ベトナム・コーヒーの流儀【上級編】(2011年6月30日)

2020年1月31日金曜日

ベトナムのプラスチックごみ対策


上の写真は、去年12月に入ったホーチミンのカフェでのもの。ストローがステンレス製。続けて、下の写真、これは白い紙製。


もひとつ。下のは、同じ紙でもちょっとポップなストライプ柄。


今や、ベトナムの都市部のカフェでは、プラスチック製のストローが消えている。私は、去年6月にもベトナムに行ってるのだが、そのときには全くなかった現象だったので、たった半年のうちに、こうも変わっているに、もービックリ仰天。

日本では、去年、「○○社は、プラスチックのストローを○○年までに廃止すると発表」などの報道があったが、ベトナムは、「○○年」とかじゃない。「すぐ」だ。無論、ストローだけじゃない。下は、去年12月にベトナム人宅にあったポリ袋。


私からすると、なんか急に「ECO FRIENDLY」とか書き出しちゃって・・・・と思えなくもなかったが、いいことだ。「100% biodegradeable」。100%生分解するってんだから、スゴい。日本では、こんな袋がどのくらい出回っているんだろう。そして、上の写真のオレンジ色の袋の右下をよく見ると、日本の「プラ」マークがついる。その下に「PE」とも。「プラ(PE)」で本当に100%生分解するんだろうかとの疑問も湧く。そして、その「プラ」マークの右には、なんと日本語。よく見ると、かなり怪しい日本語だ。アップでみると、下の写真。(クリックすると拡大します)


せっかく印刷するんなら、「ちゃんと書けばいいのに」と思ってしまうが、たぶんこれはただの『飾り』。ほとんどのベトナムの人たちはこの日本語を読めない。「HONDA」のニセモノで「HANDA」みたいのがあったが、何となく、「日本っぽい」のがベトナムではいい印象なんだということ。とすると、先述の「プラ(PE)」は無意味で、本当に100%生分解するようにも思える。

さてさて、ベトナム進出の日本企業も例外ではない。下のイオンさんの袋。「USE less plastic bag. Make more Green Environment」と書いてある。やる気満々。ちなみにイオンのロゴの下にあるベトナム語は、「日本の大手小売業者です」ぐらいの意味。


私は、22年前、「カンホアの塩」を作り始めてから、ベトナムに通っているが、これまでベトナムの人たちのプラスチックへの感覚は、ほとんど空気や水のようなものだった。そこいらへんに、プラスチックの袋が落ちていても、誰も拾わない。それは私の仕事上もそうで、「カンホアの塩」の塩田の周りにプラスチックごみが落ちていると、私一人が拾っていたこともあった。しかし私は、ここにずっといる訳ではないので、「少しでも落ちてたら、拾ってね」と言い続けていたものの、なかなか真剣に聞いてもらえなかった。

それがだ。去年12月、「カンホアの塩」の生産者の代表と話をしている際、「プラスチックの問題は深刻だ」と私の方に語りかけてきたので、ビックリ。どんな風の吹き回しかと思ったら、どうも去年、ベトナム政府が、国を上げて、プラスチック削減に取りかかったらしい。ベトナムは共産党の一党独裁国家。いったんこうなったら、話は早い早い。それで、カフェのストローも、ポリ袋も、たった半年の間にすっかり変わったのだ。生産現場でも、私がプラスチックごみを指摘すると、正面を向いて聞いてくれた。

ご存じの方もいると思うが、日本はプラスチックごみをベトナムへ輸出していた。12月に、あるベトナム人に言われた。「もう、日本からプラスチックごみは輸入しないよ」と。どう考えたって、自国で処理できないプラスチックごみを輸出しちゃいけない。この件は、明らかに日本がよくない。

プラスチックの問題は、地球温暖化の問題と密接と言われているのは、去年、下記のエントリでも書いたとおり。

新素材の前に(2019年8月30日)

それを思うと、ベトナムの足、オートバイはどうなるか? 車も年々増えているが、ホーチミン市では、地下鉄工事が始まっている。ベトナムのプラごみに対する意識がは確かに急に変わったが、物理的な変化は、まだまだこれからだと思う。しかし、日本は、このプラごみの問題もそうだけど、原発の問題、桜の問題と、動きがあまりに鈍すぎやしないか。そんな日本を尻目に、これからもベトナムは、どんどん変わっていく。

2019年11月19日火曜日

親子煮のネジ


ひとつ前のエントリ、「釜玉うどん」の反省で、捨てられたうどんの悲話と私の反省を書いたが、その翌日、上の写真のメールが、愛しい私のガラ系携帯に届いた。娘が通う中学校からだ。内容は、

給食の調理中に手鍋のネジが「親子煮」に入ってしまい、(全校生徒分の大量の「親子煮」の中から)見つけられなかった。したがって、きょうの給食の「親子煮」は、急遽無しになりました。生徒さんにご迷惑をお掛けしましたことを、給食室を管理する学校として、お詫び申し上げます。

というものだ。「ネジが発見できなかったため」ということは、もしかしたら「床に落ちた」など、混入していなかった可能性もあったかも知れない。後から、娘にそのときの給食のことをきくと、ネジのことを聞いたのは、各教室にその親子煮が運ばれた後だったらしい。だから、その親子煮を目の前にして、「『食べちゃえば』という先生もいたけど、結局は『食べてはいけない』となって、誰もその親子煮を食べなかった。親子煮は、その日の主菜だったので、それ無しはきついとみんな言ってたよ」とのことだった。「その親子煮は、どうなったと思う?」ときくと、「捨てられちゃったと思う」と残念そうに言った。

彼女から話を聞くに及ばす、急遽無しの「無し」とはこの場合、現実的には「廃棄」ということだろう。想像をたくましくしても、養豚場の餌か。いずれにしても、私は、冒頭のメールを読んで、何となくの違和感を覚え、しばらく考えた。

まず、ご存じない方もいると思うので、軽く前置きを。今どきの学校給食は、給食センターと呼ばれる、学校から独立した施設で数校分の給食が集中調理され、昼前に各校に配達されるパターンが多い。そんな中、娘が通う中学校には自前の給食室があって、全てそこで調理された給食が生徒に提供されている。娘は「だから、うちの中学の給食はおいしいのよ。栄養士さんもよく考えてくれてて、いいのだけど」と言う。

言わずもがな、学校としては、「もしも、誤ってそのネジを飲み込んだり、かじって歯が欠けるようなことがあっては絶対ならない」ということで、このようになったのだろう。

この件を知って、最初に私が思ったのは、外れたネジに気がつかなかった調理師さんのことだ。手鍋の、たぶんカシメが、調理中の熱の経年劣化で徐々に緩くなることはよくあること。毎日大量の調理をする大鍋は、かなり激しい使われ方をしていることは想像に易い。調理師はそれが外れる前に鍋を修理するなり買い替えるなりしなくてはならない・・・・のだが、限られた時間の中、ついそれを怠って調理し続けてしまう。それもよくあることではないか。こんなことになってしまい、落ち込んでいるかも知れない調理師さんに、「よくあることですよ。いつもおいしい給食をありがとう」と伝えたい。こんなことがあれば、父兄としては「今後は気をつけてよ」とわざわざ指摘するまでもない。そして、忘れちゃいけないのは、必ず誰かが「廃棄」していることだ。もしもその人が、その調理師さんだったとしたら、あまりにも悲しい話ではないか。

そして、学校に対して思うこと。

これがもしも、一般家庭や飲食店で起こったならば、それは各々の自由だと思うが、公立の中学校で起こったことだ。教育の場である学校で起こったことだ。先述の「言わずもがな」の理由は、「生徒の安全を思って」とも取れるが、私からすると、無難な策を取った感もなくはない。「無し」にしたことで、学校の運営責任を問われることは、確実になくなった。

それはそれとして、今や、日本の食品ロスの問題は、大きな社会問題だ。賞味期限の新しいルールなどが敷かれたりしているが、まだまだなのは言うまでもない。擦り切れた言葉かも知れないが、世界には食うに困っている人が、子供が本当にたくさんいる。中学校を生徒たちの教育の場と捉えた場合(そうなんだけど)、せめて、「こういうことも、ひとつの食品ロスです。しかし、社会的責任を負う立場の本校としては、今回、残念ながら無しにする(廃棄する)しかありませんでした。親子煮おいしいのに、もったいなかったね」などと言って欲しかった。

「せめて」ではなく、ここでは私が望ましく思う学校の判断と想像を言いたい。「無し」にして、生徒に学校の運営責任や、「大人って大変なんだよ」ということを学ばせるよりも、こっちの方がより大事なことを学べるんじゃないかという意味だ。

配膳後、「いただきます」の前に、担任の先生は、これこれこういう訳で、その「親子煮」にはネジが入っている(または可能性がある)ことを生徒に告げる。したがって、「ネジに注意して食べること」と「食べないこと(=廃棄すること)」を、各生徒に選択してもらう。この2つの選択肢は、現実的には一枚のコインの裏表だということを分かってもらうことが大事だ。そして、食品ロスの社会問題の説明をし(中学生なら難なく理解すると思う)、「君たちが、廃棄しないで、この親子煮を注意しながら食べることは、食品ロスを減らすことになる」と付け加えると同時に、「かといって、飲み込んだり囓ったりする危険はともなうので、食べない(=廃棄する)のも全然アリです」とも言う。もう、中学生にもなれば、責任を持って、このぐらいの状況判断は出来るだろうと、私は思う。

ここからは私の想像だが、ここまで先生が生徒たちに伝えると、「ネジに注意して食べること」を選んだ(おそらく多くの)生徒たちは、一斉に目の前の「親子煮」の中のネジを、スプーンで探し始めるだろう。おそらくそのネジは一本だろう。誰かがその一本を見つけたら、すぐに校内放送で全校生徒に知らせる。その後は、「食べないこと(=廃棄すること)」を選んだ生徒を含め、みんなで普通においしい親子煮を食べればいい。(余談だが、その後しばらくは、「あのネジ見つけたの誰だ?」の話題が校内で持ちきりになりそうだ)

ただし例外もある。
生徒の中に、障害者など、ネジに十分に注意を払おうにも払えない生徒がいたら、その人たちは別だ。当たり前だが。

食品ロスの問題は、今回のネジ事件と根は同じだと思う。人間は効率を求めると、必ず行き過ぎる。だからそれをコントロールするために絶対安全なルールを設け、それに基準(責任)が貼り付けられる。絶対安全とは、万人に対してだから、極力例外がないようにする。これは一見ユニバーサル(万能)のようにも思えるが、その分、曖昧さは排除されているから、融通はきかず、工夫しないことが前提とも言える。世の中が複雑になった分、こうした画一化が必要になるのだろうが、その画一化のシワ寄せこそが食品ロスの問題の根ではないのか。本来は、複雑になったその分、工夫も必要になると思うのは私だけか。そこは校長先生の腕の見せ所と思いたいのだが。

「ネジが給食に入っちゃったけど、生徒みんなで探したら、見つかったんだって」
「へぇ〜、今どきそりゃあスゴいな。先生たち、考えたねー」

なんてブログを書いてみたい。

2019年11月12日火曜日

「釜玉うどん」の反省


東京も最近、グッと冷える日があって、そんな日のランチに、仕事場近くの丸亀製麺へ、うどんを食べに行った。

冷えるのだからと汁物を目指して入店したものの、注文したのは、「釜玉うどん」。列に並んでいる間、室温が暖かいせいか、まだまだ冬ではないのだからと、汁無しの暖かいうどんに気変わりした。

で、私は「釜玉うどん」と注文したつもりだったのだが、出てきたのは、それに(単純に)明太子がのってる「明太釜玉うどん」だった。メニューの写真で見た「明太釜玉うどん」は、明太子の赤色が毒々しいと感じたので「明太子ない方がいいな」と判断した経緯が私の中にあったので、出てきた「明太釜玉うどん」を見て、私は自信を持って「明太子がのってないのを注文したんですけど」と言った。

それを言った瞬間、私は「しまった」と思った、が遅かった。

お兄さんは、何事も無かったかのように、「明太釜玉うどん」の中身を全部ゴミ箱にボンと捨てた。無論、昼時は忙しく、数人が私の後ろに列を作っていた。でも私は、余計な明太子を取り除いてくれるだけでよかった。うどんの上に、ちょっと明太子が残っていようが、そのぐらいどうでもよかった。でも、捨ててしまった後から、何を言っても始まらない。

改めて出してくれた、「釜玉うどん」をテーブルについて食べてるときに撮った写真が冒頭のもの(by ガラ系のカメラ)。この「釜玉うどん」は何かを私に語っているように感じた。あのゴミ箱の中の「明太釜玉うどん」に、私はとても悪いことをしたと思い、悲しくなった。そしてこの「釜玉うどん」を食べながら、反省した。

それをサッと捨てるのは、店のマニュアル通りだと思う。私にとって、それは簡単に想定出来た範囲だったじゃないか。だから、「しまった」と思ったのだ。にも関わらず、きっとそのときの私の中では、「おれは間違っていない」といった、持つ必要のない意地があったからこそ、自信を持って「明太子がのってないのを注文したんですけど」と言葉に出たのだと思った。その余計な意地がなければ、きっと「明太子のってないのを注文したので、その明太子をとってくれたら、それでいいよ」と言ってたハズだった。

こういうことは、その一瞬に試されるものだ。
「私にはきっと成長の余地がある」。
きょうは、そうポジティブに思うようにしよう。

2019年10月29日火曜日

映画「ジョーカー」を、15歳の娘と観に行った

1〜2週間前に、新聞のコラムで、この映画のことが書かれていたのを読んで、観てみたいなと思った。そしたら、先週末の朝、中3の娘が、「私、ジョーカーって映画、観てみたい〜」と言い出したので、ちょっと驚いた。

「重い内容の映画で、暴力シーンも結構あると思うよ。決して楽しい映画じゃないけど、それでも観てみたい?」

「だって、今、話題の映画なんだもん。観てみたーい」

「今話題の映画だから」という理由は、理由になるのだろうかと思いつつも、その日の午後、二人で観に行った。ちなみにR15指定。彼女はちょうど15歳。

で、映画を見終わって、彼女に感想をきいてみた。

「こういうことって、世の中にあるんだなーって思った。日本は平和だね」

この映画をまだ観てない人に、ここで私がとやかく言うのは野暮ながら、私の感想は、あまり肯定的ではない。主人公アーサー自身が殺人を犯すようになっていく描写はされてるものの、多数の暴徒になった人たちの「暴徒になった」理由の描写がほとんどない。何となく金持ち層に対しての不満を持っているぐらいか。

今の時代背景として、ポピュリズム、アラブの春のようなことがある中なので、大衆の力・多数の暴徒の描写は特に描かなくても、何となく「今の時代、こういうことってあるでしょ」と、制作側が観る側に前提として委ねているような気がして、そこが乱暴というか無責任に感じた。どんな暴動にも、個々の理由が必ずあると私は思っているから、そこを描かないで、直接「暴徒と化した大衆」に繋げるのには抵抗を感じてしまう。それは特別な理由はなくても「暴動はアリ」と、暗に表現しているようにも思えてしまうのは、私の偏見か。

私の感想は別にして、全体的にこの映画では、「大衆が(特に若者が)不満を募らせると、暴動が起こりうるものだ」というメッセージはある。そして、主役の男優(テニスのロジャー・フェデラーにそっくり)の演技はよかった。

そして、この映画は、映画「バットマン」の敵役のジョーカーが生まれた経緯を示すものらしいので、主人公アーサーは、最後は「ジョーカー」と呼ばれるようになり、生き延びる。ラストシーンは、その生き延びる様子を、少しコミカルに描いてもいる。

さて、話を日本の中学生に戻す。

どうも、この映画、うちの娘という狭い話ではなく、「観てみたい」という、日本の中学生(たぶん高校生も)が少なくないらしい。その理由は、おそらくうちの娘のように「今話題の映画だから」という、内容とは関係ないところなんだと思うのだが。(それにしても、この映画を見終わった今でも、十代の人たちの間で、なぜ「今話題の映画」なのか、私には分からない)

逆に、内容として、「観てみたい」となったとすると、ちょっと怖い。私を含む多くの大人がそうだったように、若い頃、特に十代は、エネルギーが満ち満ちていても、そのやり場がないということがよくあるものだ。少ない人数でも、そのエネルギーのやり場として、「ジョーカー」の「暴動はアリ」と繋がったら・・・・。これもオッサンの私の考え過ぎと思いたい。