2024年9月13日金曜日

エスカレータの片側 〜 その2


 上の写真は、東京駅の中央線のホームに通じるエスカレータ。つい先週末にこれを撮影した私は、左側の上りに乗っている。下りが右側にあって、電車を降りたばかりの人でビッシリ詰まってるが、私が乗ってる上りのエスカレータ内の右側は、見事にスッポリ空いている。ちょうど10年前、私は、下記のエントリを書いた。

エスカレータの片側(2014年10月15日)

そのエントリにもあるとおり、エスカレータの片側を、急ぐ人のために空けることを、いいアイデアだなと、若かりし私は思った。しかし、それは40年も前のこと。今は、ときどき「エスカレータでは、歩かない」と警告のシールが、エスカレータの側面にときどき貼ってある。つまり、この写真で言えば、「空いてる右側は(歩かずに)立ってなさい」ということ。しかし東京駅の中央線、スゴイ人にもかかわらず、上りエスカレータの右側は立ってる人なんかはいなくて、スッポリ空いている。

私は最近、92歳の母親の手を引きながらエスカレータに乗るときがある。そんなときは、横に並んで、つまり私は右側に立って、左に立つ彼女の腕を掴みながら乗りたくなる。しかし、そのスッポリ空いた右側に、ポツンと自分だけ立っていると、後ろから上ってくる人がいないか気になってしかたない。だから、左側に立っている母親の一段後ろの左側に立って、前の母親の腕を掴んで支える。

今の私に右側を「歩く」選択肢はないものの、かといって、(隣に母親がいようがいまいが)右側に堂々と「立つ」立つ勇気が出ない。こういう両方の現実を、きっと多くの人が感じている結果として、冒頭の写真のように、わんさか人がいる東京駅でさえ、右側はスッポリ空き、左側に立とうという人の列がエスカレータ下に長く出来るという、何とも奇妙な状況になってるのではないか。ただ、これも10年経たないうちに変わるんだろうな、きっと。

2024年9月9日月曜日

草の根元に土寄せ、の不思議

つい先週のこと。我が家の庭に敷いてあるレンガの隙間から生えてる草の根元に、こんもりと土が円錐状に寄せられていた。ひとつだけでなく、その辺りの4〜5本もの草の根元に同じように、草の元を覆うように寄せられた円錐状の土。不思議でならない。ひとつをもっとアップした写真が下。高さは7〜8cm。雨上がりだったように思う。

誰の仕業ですか?

蟻?

ミミズ?


何者かによって作られたいくつもの円錐状の土が並んだ様子を見ていると、今の季節、千葉・八街のボッチ(落花生の草を積んで乾燥させてる山)を思い起こす。大げさに言えば、ストーンヘンジのような不思議さがある。一体、誰がどんな目的でこんなことしたんだろうか? 分かる方がいらしたら、教えて欲しい。

2024年7月1日月曜日

インド料理店のサラダ

 

3月の先のエントリに続き、再びインド関係のエントリになった。

暑かったので、週末インド料理店へランチしに行った。今や日本ではありふれたとも言える大衆的なインド料理店だが、ずっと前から、どうにかならないものだろうかと思っていることがある。付け合わせに、必ずと言っていいほどついてくるベビーリーフ・ミックスみたいな葉物サラダとそのドレッシングだ。

私がインドに滞在していたのは、今から三十数年前だが、少なくとも当時、生の葉物野菜を食す習慣自体がインドにはなかった。(おそらく今でも変わらないと思うのだが) インド料理でサラダ的なものはというと、ライタが代表例だと思う。スパイス(クミンなど)に塩を利かせたヨーグルトソースに絡まった、野菜料理だ。カレーにとてもよく合う。そのときの野菜に葉物はなく、大概は、トマトや人参など根菜、瓜の類だったように思う。

だから、いくら日本だからとは言え、インド料理店という看板の店で、そもそもベビーリーフ・ミックスのサラダはおかしいだろーと思う。さらに、それにかかっている業務用っぽいドレッシング。私は、この手のドレッシングが苦手だ。でも、嫌々ながら、出されるとつい残すのがもったいなくて食べてしまう。先日行ったインド料理店は、数ある大衆的な店の中でも、料理はおいしいのだが、口の中に、このドレッシングの味が残って、残念だった。そして、これまでそれを何度となく繰り返してきた。

このサラダは、インド料理店が増え始めた20〜30年前から、日本にあるインド料理店では定番化している感があるが、おそらくそれは日本だけのことなのではないかと思う。

全くの想像だが、その昔、日本でインド料理店が増え始めた頃、メニューを考えていた人は、「日本人は、葉物の生野菜サラダが好きだ。ドレッシングはフツーの業務用のが日本ではポピュラーだ」と思い立ち、今やそれが定番化しているように思う。そもそも、日本で、生野菜を食べる習慣が始まったのは、戦後のことだと思う。そこにも一抹の疑問があるのだが。

スパイシーなインド料理の中で、あの葉物サラダとドレッシングは、箸休め的な意味で、元々は日本在住者の好みに合わせたという、いわば好意だったと思う。だがしかし、私からすると、それはその当初の思い込みであって、今やライタの方が、私以外の客もきっと喜ぶだろうし、何とかあの業務用ドレッシングはやめて欲しいと思う。でも、現状、特にランチプレートなんかの場合、これだけ定番化しているベビーリーフ・ミックスのサラダに替えてライタというのは、ややハードルが高そうなので、何か現実的な作戦を考えねばと思った。

「サラダには、ドレッシングなしで」

次の注文時には、さしあたり、こう注文しようと思っている。単純に「ドレッシング無し」なら、店側も難しくないだろう。塩味が足りなければ、シンプルに塩をかけた方がよっぽどいい。これまで何度も出てきたサラダを前にしてこう思ってきたのだが、不覚にも次の注文時(おそらく2〜3ヶ月後)につい言うのを忘れてしまってきた。よ〜し次回からは忘れないようにしよう。そう自戒の念を込めて、きょうのエントリを書いている。

念のため付け加えるが、ちゃんとした(?)インド料理店では、ライタは出ても、ベビーリーフミックスのサラダは決して出ない。しかし、これだけ大衆的なインド料理店がポピュラーになった今の日本だ。一見同じように見えるインド料理店を「選ぶ」時代になってきてる。その差別化の意味でも、ベビーリーフ・ミックスのサラダとそのドレッシングの代わりに、ライタが出てくる日は、来るのだろうか。

2024年3月13日水曜日

私の「インド人のこういうところ好き」

 インドの人口は、今や14億人とも言われ、近いうちに中国を抜くとも予想されている。そんな大国インドには、様々な人がいる。ただ、三十数年も前のことながら、私は今でも忘れられない、こんなインド人と接したことがあったという話。無論、インド人みんながこういう人な訳ではないし、日本では「たぶんなさそうなことかなー」と思うので。


インドではどこにでもある、露天のチャイ屋(ストール)。そこの長椅子に腰掛けてチャイを飲んでいたら、隣に同年代ぐらいのインド人男性が腰掛けた。面識はない。しばし、二人横並びでチャイをすすることとなった。少しして、彼は私に話しかけてきた。


「お前さん、いい腕時計しているな」と、私の左腕の時計(一般的なもの)をのぞき込みながら言う。

「そーお、褒めてくれてうれしいよ」と軽く受け応える私。すると、

「それとても気に入ったんだ。俺にくれないか?」と彼。

私は少したじろぎながらも、「あなたが気に入ってくれていることは分かったが、私だって気に入ってるんだから、あげることは出来ないな〜」と、何とか応じる私。

「そっか」と、チャイを飲み干した彼は、何事もなかったかのように立ち去った。

私は、チラッと彼の後ろ姿を見て、残りのチャイを飲み干した。彼は振り向く素振りもない。


この会話だけだと、彼は何と図々しいヤツだな〜と思うかも知れない。しかし、そのとき、私は全くそうは感じなかった。不快というより、むしろ爽快に感じた。マナーや事の善悪云々とは別次元で、「人間は自由だ」ということを私は彼から感じたからだ。特別な感情もなく立ち去った彼の後ろ姿を見て、私は自分の身体が少し軽くなった気になった。


上記の会話を、私は今でも覚えているものの、その腕時計がどんなものだったかを実は思い出せない。そのときは、それなりに私も気に入ってたんだろうが、それは後になって忘れてしまう程度だったのだ。もしかすると、あのときの彼の方が、私より「気に入り度」が高かったかも知れない。さらに、彼との会話を、私はこうして三十数年経った今でも忘れられないでいるし、私が彼から受けた爽快感の方が、陳腐な私の「気に入り度」よりも価値があるようにも思える。


インドには喜捨(バクシーシ)という習慣がある。何かを「施す」ということは、ときに「喜び」にもなり得るのだ。あのとき私は彼に腕時計をあげるのが正解だったと、今は思う。そうしていたら、私の人生はその後、もっと自由になったかも知れないと。

2024年1月15日月曜日

「ムクドリの万両栽培説」の未練

 

上の写真は、我が家の庭の植え込み。すっかり冬になっているこの折、少しの草の上に敷いてある藁の間に、小さな赤い実が、いくつも落ちている。万両の実だ。万両は、右隣の家に植わっていて、しばしば数羽のムクドリがホバリングしながら、たわわになった実をついばんでいるのを見かけていた。この万両はきっと、その万両に違いないと思った。

また、最近、その万両の庭の反対側(左側)二軒先の家の二階の戸袋に、ムクドリの巣があることに、私は気がついていた。ムクドリはきっと、そのムクドリに違いないと思った。そのムクドリの巣と右隣の万両の木のちょうど間に、我が家の庭がある。

この2つのことを繋げると、左二軒先の戸袋に巣があるムクドリが、右隣の庭の万両の実を、うちの庭に落としていった、となる。「え〜、どうしてだろう?」とその理由を想った私は、もしかしたらムクドリが「故意に」ここに落としていったんじゃないかと思い至った。もしも、巣に持ち帰る途中で、誤って落としたとしたら、拾っていったはずだ。

植物は我が身をもって、鳥や昆虫に、食料を供給しつつも、その種や花粉を遠くに運んでもらうという共存の関係にある、なんてことがよく言われる。でも、ムクドリが、偶然ではなく「故意に」、万両の実をうちの庭に落としていったとしたら、それは「栽培」なんじゃないかとふと思い、ちょっと興奮した。

右隣の万両の木を覗き見ると、つい2週間ぐらいまで、タワワになっていた真っ赤な実がひとつもなくなっている。せっかくムクドリが種まきしただろう万両だが、我が家としては、借家のここに万両の木が根付くのはちょっとマズいという事情がある。ムクドリがこの実を欲しくなったときは、持っていくだろう。しばらくこのままにしておくことにした。そして、数日間、その状態は続いた。

その2〜3日後、カミさんが一週間の出張から帰宅した。私は、その「ムクドリの万両栽培説」を、「どうだ」とばかりに彼女に唱えた。すると、「その万両は、私が(飾りに)料理で使ったものよ。使い終わった実を庭に撒いておいただけ」とのお答え。一瞬にして、私の「ムクドリの万両栽培説」は否定された。そして、改めて庭の植え込みを見ると、藁の上にあった真っ赤な万両の実は、何事もなかったかのように、すっかりなくなっていた。彼女曰く「あ〜、落ちてるのに気がついて、持っていったのね〜」。

すっかり私の思い違いだったのだけど、「稀にでも、鳥って栽培しないのかな〜」と、私はまだ捨て切れないでいる。

2023年9月12日火曜日

ぶどうの加熱


 先週末、東京の我が家に、岡山で前泊したという客人が、大量のぶどうをお土産に持って来てくれた。上の画像の左側がそのぶどうなのだけど、ネットで調べても品種が分からない。赤と緑が混ざった色で、何しろ房がデカイ。頂いた量は、そのデカイ房で6〜7つ。味は甘味の中に少し渋みがある。最近は、巨峰、ピオーネ、シャインマスカットなどがスーパーに並んでいることが多いが、この味は久しぶりな感じで、新鮮だった。

近所に配ってもデカイ4房が残った。このままだとどんどん傷みそう。ということで、ウチのカミさんの登場です。まずはジュースに。そのままミキサーにかけると思った私は、「赤ワインみたいに皮ごとでいいのかな?」ときいたら、「ネットで調べると、皮付きの粒ごと加熱するのがいいんだって」と言う。トマトを加熱してトマトジュースにすると、トマトの旨味が増すというのはあったが、「まさかぶどうは旨味とは違うよな」とブツブツ独り言を言いながら、出来上がりを待った。

その加熱直後が、上の画像右側の鍋。液体が染み出ていて、皮が剥けかけているが、ご覧のとおり、ぶどうの粒々感はまだまだある。加熱直後に液体(ジュース)を味見したら、大層うまかった。イケル。色はほんのり赤みがかっていたが、ほとんど透明。そして、粗熱が冷めるまで待ち、ザルで漉して、ボトルに詰め替えたのが下。

皮の色が出たらしく、「ほとんど透明」から、ロゼワインのような色になった。無論、冷やして飲む。すこぶるうまい。結構濃い味なのでウォッカと炭酸で割って飲んだり・・・・。

さて、ザルに残った粒々感のあるぶどう。いくつかはそのまま食べて、あとは日持ちのために少し砂糖を加えてジャムにすることになった。冷蔵庫で冷やすと、感じる甘味がやや少なくなるが、あんまり砂糖を加えると果実感が減るので、少しだけ。大量のジャムになったので、再び近所に配る。

それにしても、何故加熱するのだろうか? 彼女は「ネットにそうあった」と言うが、詳しくはハッキリしていない。発酵を抑えることにはなるだろう。味や香りも変わるのだろうか。画像のとおり、皮の色はよく移るようだ。加熱直後と冷やした後の味や香りの違いまでは感じ取れなかった。

おそらく、この疑問も、ネットよーく調べると分かるだろう、と思う。でも、今回はやめた。以前、下記のエントリでも書いたが、何でもすぐに分かればいいものじゃないと思うから。そのうち、「あー、きっとこういうことだー」と思いつく幸福感を味わえるかも知れないので。


2023年3月13日月曜日

梅が散るとき

昨日の朝、庭へ出ると、足下に白い破片が数枚落ちているのが目に付いた。一瞬「ん、何だ、これ?」と思ったが、梅の花びらと分かった。よくみると、数枚ではなく、数十枚だった。隣の庭の白梅が散り始めた。


梅が散るとき。


・・・・いいなと思った。

まだまだ寒い春先に咲き始める梅の花。散るときは、いかにも「春っぽくなってきた」と実感するときだ。梅は、まるで散ることで、何かを始めているよう。


インドのヒンズーの神々の中で、一番人気は、断トツでシバ神だ。破壊の神様。壊すことは新しいことの始まりだということを、インド・ヒンズー教徒の人たちは、よく知っている。または、新しいことをすることは、程度の差こそあれ、何かが壊れることを、よく知っている。


ちなみに私が、ヒンズーの神々の中で好きなのは、クリシュナ。ビシュヌの化身で、維持の神様。クリシュナが登場する絵は、だいたい川沿いで、綺麗な女性に囲まれながら、笛を吹いている。いいですね〜。何かとっても平和で穏やかな感じが好きだ。


梅が散る光景を見られるのは、梅の木にまだ花が残っている間。あと一週間もないだろう。花が散りきって、新芽が出る。そして3ヶ月後には、梅の実が付くなんて、今は信じられない。