2020年5月15日金曜日

トマトの「三角錐型螺旋栽培法 in 植木鉢」


マスクの消毒が日々の日課になって、はや2ヶ月。今や手慣れたものだ。アベノマスクは未だに届かないが、この調子だと手持ちの3枚で一年はいけそうだ。医療従事者の方々は別として、我々一般人にとって、普通の不織布のマスクがこんなに長く使えるだなんて、以前は思いもしなかった。コロナ後も、ひと冬2〜3枚しか使わないで過ごせちゃいそうだ。そんな人が少なくないとすると、マスク製造業は今後一気に供給過多に陥るかも知れない・・・・、なんて思いにふける今日この頃。

さて、このエントリのタイトル、トマトの「三角錐型螺旋栽培法 in 植木鉢」。
変な名前だ。これは今年私が試みる(ミニ)トマトの栽培法の名前なんです。

実は3年前、2017年7月に、このブログで、似たようなことを書いたが、きょうの「トマトの三角錐螺旋栽培 in 植木鉢」は、その発展型。ちょっと長くなりますが、このエントリだけお読み頂けたら大丈夫なように書こうと思います。

まず最初に、この栽培法の発想のキッカケについて。

芽欠きをしながら、茎を一本にしてトマトを育てると、スイスイと高くなって、すぐに背丈より高くなってしまう。広い畑なら支柱を幅広く立てて、茎を横や斜めに誘導すればいいが、狭い家庭菜園だとそうはいかない。狭いところで、茎の長さを出来るだけ低い位置で稼ぎながら、つまり茎長く&背低く育てたい。その方が収穫時期は長くなるし、支柱も倒れにくくなる。さらに、トマトが甘くなるよう、極力雨に当てたくない(一般家庭だからハウスは無しよ)。さらにさらに、狭い家庭菜園にありがちな、連作障害を避けたい。これらの条件を全てクリア出来る一般家庭での栽培法はないものか? 素人ながら、いやいや素人だからこその発想というのがあったっていいじゃないか? ということで、課題は、下記の4点。

1.一般家庭の庭先など極限られたスペースの中で陽当たり良好に。
2.いかに茎長く&背低く。
3.極力雨に当たらないように。
4.連作障害を避ける。

3年前に考えた方法は、トマトの苗ひとつに支柱を3本、三角錐型に立てて、二本立てにした茎をその三角錐の周りを螺旋状に上らせるよう誘導することだった。これは庭先の地べた、花壇の片隅でのことだ。当時は、「三角錐型螺旋方式」と馬鹿みたいに自分で呼んでいた。肝心の成果はどうだったかと言うと、葉っぱが混みすぎて風通しが悪くなり、収量が少なかった。パートナー・プラントのバジルを近くに植えたことも混みすぎを助長した。さらに、同じ場所での3年目だったので、連作障害の疑いもあった。ただ、上記課題の「1.一般家庭の庭先など極限られたスペースで陽当たり良好」と「2.いかに茎長く&背低く」はある程度クリアした。

そして去年、3年前は地べたの家庭菜園で試した「三角錐型螺旋方式」を3つの植木鉢(ひと鉢1苗)に移した。トマトを植木鉢で栽培することは、愛読ブログ「サムライ菊の助・畑日記」で菊の助さんが、以前、植木鉢を南向きの軒下に置いて栽培していたアイデアを拝借してのことだった。ただ、我が家にはそんなに広い南向きの軒下がない。そこで、3年前は、たまたまある我が家の屋上(地上3階相当)で、植木鉢での「三角錐型螺旋方式」を試みた。植木鉢の土なので、これで上記課題の「4.連作障害を避ける」をクリア。屋上には軒下がないので、残るは「3.極力雨に当たらないように」なのだが、夏場はかなり暑くなる屋上。雨に当たっても、きっと乾燥が早そうだから、ある程度いけんじゃないか。そして、屋上の抜群の陽当たりと暑さは、おいしいトマトに繋がりはしないかと、当初は考えた。

しかし、実際は、私の不在中(10日間の出張中)の嵐で、無残にも三角錐型の支柱が立った植木鉢は3つとも倒れ、土は散らばり、私の帰宅時には、3本の苗は息も絶え絶え。カミさんと子供二人という家族構成だが、その10日間、誰も屋上に出ず、無関心そのものだった。無論、瀕死の苗を植え直したが、その後の屋上の猛暑は私の想像を超えていた。6月半ば以降は陽当たりがいいというより、暑すぎてトマトが耐えられず、結果的に干からびてほぼ全滅した。季節が暑くなると、無関心だった家族の者たちがそうだったように、私自身も頻繁に屋上に出ることをついつい忘れた。そして、酷暑の中、放っておかれた可哀想なトマトの苗たちは、ほぼ全滅したのだった。

さて、やっとこさ、本題。
今年の、トマトの「三角錐型螺旋栽培法 in 植木鉢」だ。
現在の実物(2鉢)は冒頭の写真。(今朝撮影)

まずは、小まめに世話ができる一階の南向きの軒下の小さなスペースを何とか確保。スペースに余裕がないので、奥の方を一段高くし、水道と縁側の間に何とか収めた。(高さ180センチほどに立てた支柱が)「洗濯物の邪魔になる」とのカミさんの苦情にも対応済み。これで、「1.一般家庭の庭先など極限られたスペースで陽当たり良好」と「3.極力雨に当たらないように」、そして「4.連作障害を避ける」をクリア。残るは、「2.いかに背を低く&茎を長く」だ。

植木鉢での栽培の一番のメリットは、好きな場所に置けることだろう。ありさえすれば、陽当たりのいい場所で、軒下などあまり雨に当たらない場所を選ぶことが出来る。しかし、私が考えるメリットはそれだけではない。特に、この「三角錐型螺旋栽培法 in 植木鉢」において。

この栽培法では、三角錐型の支柱の周りを螺旋状に茎をうまく誘導していかねばならないが、茎が南方向へと伸びる習性を使って、植木鉢を少しずつ回しながら、茎を支柱に誘導することは出来ないものかと考えた。地面は回せない。これは回せる植木鉢ならでこそだ。例えば、冒頭の写真のとおり、今年スタートしたウチの苗は上から見て反時計回りの螺旋状になっている。茎の先は南に向かうので、茎の成長に合わせ、植木鉢を少しずつ時計回りに回しながら、茎を支柱にとめていくと、(理論上は)自然と三角錐型螺旋栽培になるという寸法だ。

これは3年前、先述の地べたでこの「三角錐型螺旋栽培法」を試みた際の苦い経験があったので、なおさらにして思うことだ。トマトの苗は、5月ぐらいまでの茎の細いうちは難しいことなく、螺旋状に誘導出来たのだが、6月以降、茎が太くなってきて、誘導が難しくなった。太くなった茎をちょっと無理に誘導しようとすると、簡単にポキッと折れた。それも二度三度と。そういうこともあって、そのときは、ひとつの苗から、一本立てでなく、二本立てにして、「一本折れても、もう一本ある」状態にしながら栽培した。(一本折れると、新たなもう一本が出てくるのを待ち、再び二本にした) しかし、二本にすることによって、「葉っぱが混みすぎた」状態になった。

何とかより確実に、一本立てで育てたい。小まめに植木鉢を茎の螺旋とは反対の時計回りにちょっとずつ回しながら、トマトが伸びたい方向に逆らわずに誘導出来ないか? それが首尾よくいけば、補欠のもう一本の担保は不要になり、一本のまま誘導し続けられるのではないか? それが出来れば、「葉っぱの混みすぎ」を避けられるんじゃないか、と考えた。無論もうバジルは植えない。

これでここまで、限られた環境の下、考え得る策は講じた。今年は、毎日帰宅して車を降りたところに2つの植木鉢が鎮座されているのだから、忘れることはない。小まめに世話しよう。ウチに帰るのが楽しみになった。

さてこの先、本当に、うまい具体に「三角錐型螺旋栽培法 in 植木鉢」が進んで、長らくトマト(ミニトマト)を収穫出来るのか? 後日、経過報告のエントリを書きたいと思う。

ちなみに、下の写真は、10日前に撮ったもので、まだ軒下が確保されてない状態だが、三角錐型に組んだ高さ180センチほどの支柱の全体像。イメージとして、この三角錐の周りを螺旋状にグルグル巻きながら茎が伸びていく・・・・(と、いいんだけど)という写真です。

2020年4月22日水曜日

山中伸弥氏のwebサイト

私は、毎日、下記のwebサイトを見ています。

山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信
https://www.covid19-yamanaka.com

こういうときは、いろんな情報の急流がある。
この山中氏のwebサイトは、その急流ににドカッと座った岩のようだ。
その岩につかまることで、急流に流されずに済む。

すでに相当なアクセス数があると思うけど、まだご存じない方は、是非見てみてください。データに基づいていて、とても客観的な見方。「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」というページもあり、巷に流布している情報が「確かなもの」から「やや確か」、「あまり信用ならない」などと分けられて、載ってもいます。

山中氏が選んだデータとその説、報道などが日々あり、それに山中氏がコメントを付し、それにはどんな意味(または可能性)があるなど、解説もしてくれています。

ご存じのとおり、山中氏は、iPS細胞の研究者だから、感染症の専門家ではありません。しかし、専門家ではないからこそ、私など素人にも分かりやすく、客観的に書いてもらえているんではないかとも思います。

毎日、3点程もの更新があります。そのための情報収集や論文などを読むのに、かなりの時間がかけられているはずなので、ご自分の本業を犠牲にしてまで、このwebサイトを更新し続けてくれているようにも思います。

例えば、きょう(4月22日)更新の、「東京の感染者数は減少しているのか?」の山中氏のコメント。下記(カッコ書き)は、私が思ったこと。少し短くして下記に書いてみます。

ここ何日かの、東京都発表の日毎の感染者数は、やや減少傾向にあるが、誤解してはいけない。PCR検査件数は、この何日か、ガクッと減っているというデータがあるからだ。単に検査をしていないから感染者数が減ってるだけのこと。陽性率が高くなっているのはそのため。2月は3%だった陽性率はどんどん上がり、4月は19%。(ある程度症状が出ている人しか検査でしていない、またはしたくても出来ていないのでは?) 日本よりはるかに多くの検査をしている米国の陽性率は20%程度で、専門家は検査数を3倍に増やす必要があると主張している。ちなみに、十分に検査しているドイツは陽性率7%、韓国は3%。(日本もPCR検査数を増せるようにならないと、未検査の感染者が増える一方になるから、とても危険)

最後は、
感染者数のみで一喜一憂するのではなく、真の姿をとらえる必要があります。
と、太字のコメントで終わっている。

追記(4月24日):
上記の「東京の感染者数は減少しているのか?」について、山中氏によって、4月23日付けで訂正されました。それによると、4月16日以降の検査件数のデータは「保険適用で行われた検査数が含まれていない」(実際の検査数はもっと多いよ)との指摘を受けてとのこと。山中氏は、その指摘を受け、正確な検査数を「未確定」と訂正している。その指摘した方は、「保険適用で行われた検査数」を山中氏に提示していないのか?

日毎の感染者数とともに正確なPCR検査件数の把握はとても大事なはず。どっちも正確でないと、陽性率/陰性率が出ない。それを誰にでも容易に分かるようにしてもらいたく思う。ちなみに、PCR検査の保険適用は3月6日からだった。その後40日も経った4月16日以降のデータが分かりにくくなったとは、集計が混乱してきたのかと心配になる。

2020年3月26日木曜日

「歯に衣着せぬ」と「オブラートに包んで」


新型コロナウィルス一色で、どうも落ち着かない日々が続いている。しかし、そればかりで現実的な暮らしは出来ない。少し前に、心にとまった新聞のコラムがあったので、きょうは一時(いっとき)、パソコンの画面に集中して、それについて書いてみたい。

まずは、冒頭の新聞のコラムを読んでもらいたい。(クリックすると大きくなります)

3月7日付け東京新聞(朝刊)に載ってた、師岡カリーマさんによる「本音のコラム」。このコラムの中で、「アサド大統領という正真正銘の悪党」という下りがあるが、そこは「正真正銘」とまで言い切れるものかどうか、私には定かでない。その点だけ、ひっかかるのだけど、全体として、ここで彼女が訴える・・・「無力化(Neutralize)」と言わず、「殺す」と言え・・・は本当に私もそうだと、常々思っている。

日本語に「歯に衣着せぬ」という言い回しがある。反対に「オブラートに包んで」というのもある。それは親切心が本来の意味だから、悪いことを誤魔化すためにオブラートに包んでは、逆に悪意となろう。日本は和の文化として、争い事を嫌い和やかに事を進めるという風習があるように思うが、「オブラートに包んで」は、それを反映しているように思う。しかし、「歯に衣着せぬ」という言葉もあるのだから、こっちもときには必要ってことかと思う。

カリーマさんは、「歯に衣着せぬ」言い方で、痛快だ。ずいぶん前に、彼女の著書「イスラームから考える」を読んだことがある。彼女は、エジプト人と日本人のハーフで、イスラム教徒でもある。日本を外から見る目を持っていながら、日本の「オブラートに包んで」の文化も知っている人だ。しかし、「オブラートに包んで」の文化は、日本だけのものじゃない。

「Neutralize」という言葉。自動車のギアの「N」でもある「neutral(中立な)」という形容詞の状態にする、つまり「中立的にする」という意味だ。それ自体に危険な香りはないが、場合によっては「殺す」を意味する。国を挙げての武力行使または戦争の場合、相手兵士を殺しても罪にならないどころか、むしろ目的を達成するのだから成功となる。それを「Neutralize」という言葉で表す。

どんな武力行使や戦争にも大義名分がある。つまり、それは正しいという理由だ。でも、武力行使や戦争には必ず相手がいるのだから、それは必ず一方的な理由であることは確かだ。国連を含め、誰が一体、「○○側の理由が正しい」と決めるのか?

一般市民はもちろん、政治家・企業家を含めて、戦争の是非を問うと、誰にきいても、「No」と答える。しかし現実として、今までたくさんの戦争があったし、今でも地球上で戦争がある。これはどういうことか? 「戦争No」と言う人も、その後には戦争をしてきたということだ。戦争に至るまでは必ずプロセスがあるとも言える。

例えば、「必要悪」という言葉。これは「必要>悪」で、「必要」が「悪」を上回った場合に使われる。最初は「必要悪」と始まり、それがあるプロセスを経て、なし崩し的にやがて「必要な戦争」ということになりはしないか。これまで起こってきた戦争とは、そういう歴史の繰り返しではなかったか。本来、必要な戦争なんかありゃしない。その矛盾を断ち切るために、「戦争の放棄」を謳った第9条がある。

さて、どこかの国の首相は、その憲法改正に躍起になっている。「戦後レジームからの脱却」という詰合せセットの中の一つのピースとして、憲法第9条に「『自衛軍保持』を明記すべき」と言う。「『わたし達は断固として国民の生命、財産、領土を守る』という決意が明記されるのが当然」であり、それが「普通の国家」であると言う。(この「普通」が意味不明だが)『国民の生命、財産、領土を守る』ために『自衛軍保持』が必要だという主張だ。

『自衛軍』と言ったって、具体的には、(世界最大の軍事国家である)米国に従う武力行使が行えるようになることを示すのは、明らかだ。「米国は誤らない」が前提になっている。そして『守る』ために、自衛隊をわざわざ『自衛軍』にする。では、この『守る』とは現実的に何を意味するのか?

これって、「人殺し」を「無力化(Nueutralize)」と表現することと同類だと思いませんか?

政治家、通信社・マスコミが、「人殺し」を「無力化(Neutralize)」と表現し続けるとなると、私たちは、「無力化(Neutralize)」を「人殺し」と読み替えなくてはならない。『自衛軍』を、武力行使も出来る「軍隊」と読み替える。その度に気持ちの悪い「歪み」を感じる。彼女は冒頭のコラム記事の最後に、

相手の人間性に敬意を払い、はっきり「私たちは兵士を○人殺した」というのが、人としての最低限の礼儀だ。

と書いているが、それは、殺された側の人たちだけでなく、殺す側の主権者である市民に対しても、最低限の礼儀だと思う。なぜなら、殺す側だって、いずれは殺される側になるからだ。仇討ちのように個人対個人の場合と違って、多数対多数の場合、全員を殺し殺されることまでは通常ない。だから全ての人が殺されるとはならないが、部分的には必ずある。その「部分」が具体的に誰かは「分からない」というだけで、それは貴方の孫かもしれないし、私自身かも知れない。何しろ、世の中、一方的で終わることなどない。

最後に改めて、第9条を以下に。

第9条
    日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
    前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2020年3月16日月曜日

「You've got a friend」と「昭和枯れすゝき」


この春から、息子が小学生から中学生へ、娘が中学校生から高校生になる。この機会に二人が個室を持てるようにと、家中の配置を再編成した。それにともない、私は持ってた本・音楽CD・服類などを半分処分した。それは、眠っていた本や音楽CDを整理し、見直す機会にもなった。

それで、たまたまキャロル・キングのカーネギーホールのライブ録音(1971年録音)のCDを久しぶりに聴いた。後半に、ジェームス・テイラーがサプライズ登場して、「You've got a friend」を一緒に歌う。

それ聴いてて私は、「あっ、これ、さくらと一郎だ」と思った。「昭和枯れすゝき」だ。

久しぶりに「昭和枯れすゝき」を聴きたいと思って、Youtubeで検索したら、二代目さくらさんの映像がほとんどだった。少なかった初代さくらさんのをやっと見つけたが、全然違う。二代目さくらさんは、とっても頑張っているんだが、残念ながら特別な感じがしない。初代さくらさんは特別だった。

さてさて、「You've got a friend」は、いろいろな事情があるアメリカ社会の中で、アメリカの良心を歌っていると感じる。それは至って穏やか。一方、「昭和枯れすゝき」は、いろいろな事情ある日本社会の中で、日本の情愛を歌っていると感じる。それは至って強烈。

この2曲、男女のデュエットという点が共通。男女のデュエットというのは、何となく、女性と男性の代表者が歌っているようにも感じる。片方の独りよがりでは成り立たないというか。それが説得力にも繋がっているように思う。

とは言うものの。この2曲は、歌詞の内容も曲調も全く違う。むしろ対照的だ。しかし、何かが同じと感じてしまうのはなぜだろう。至って私の感覚的なことなので、客観的なタイミングを調べてみた。

キャロル・キングの録音は前述のとおり、1971年。
そして、「昭和枯れすゝき」は、1974年のリリース。
3年の違い。同時代ということか。

太平洋の東と西ということはあっても、どちらもポップミュージック、大衆に好まれた曲だ。最近は、ポップという言葉も死語だろうか。代わってポピュリズムが使われる。大衆迎合主義と訳されるポピュリズム。大衆に迎合したっていいはずなのに、どこか危険さを孕むように感じる。

しかし、「You've got a friend」も「昭和枯れすゝき」も危険さを全く感じない。「昭和枯れすゝき」には、「死」という言葉さえ歌詞に含まれるが、危険な感じがしない。

切取り方だ。

ふとそう思った。いろいろある社会の中で、「アメリカの穏やかな良心」を、そして「日本の強烈な情愛」を切り取って曲が出来ている。その切取り方が、この2曲は実に見事で、「いろいろある事情」など思い浮かべる余地なく、しっかりとその世界観だけに浸らせてくれる。そういう力を持っていることがこの2曲の共通点なような気がしてきた。切取り方、それはいい役者がそうであるように、切り取った世界観の人物への成り切り方とも言える。

切取り方、成り切り方。それは純粋さでもある。ネット社会になって、情報が溢れている環境では、物事を純粋に捉えることが難しくなっているんじゃないか。たまには昔のように、雑音(情報)をオフにして、静かに自分の中にある純粋な感情に光を当てることがあった方がいいように、または今の自分にはそれが不足しているように、思った。

2020年2月19日水曜日

ベトナムの田舎の普通のカフェ


ベトナムにはカフェがたくさんある。今や大きな町には、スターバックスもあるし、スターバックスのような店も、日本のようにたくさんある。数年前には、ホーチミンに、スペシャルティコーヒーを出すカフェも登場した。しかし、ベトナム独特の文化とも言える、「ベトナムのカフェ」は、そういうものじゃない。

私がベトナムに通い始めた22年前は、大きな町でも、道端に小さな椅子とテーブルが並んだ屋台のカフェがたくさんあったし、露天でなくても、こじんまりした小さなカフェがたくさんあった。ベトナムは暑いから、町中の(路上でない)お店のカフェでも、入口にはドアも壁もなく、とても開放的。だから、カフェの前を通り過ぎる人々を眺めながらコーヒーをすするなんてこともよくあった。仕事の途中のちょっとした時間に一人で、カフェでぼおーっとして、気分転換をはかる。そんな気軽な存在のカフェが、ベトナムのカフェ文化だと私は思っている。そんなカフェは、店先を無数のオートバイが走りまくるの喧噪の中でも、不思議と「静けさ」があって、落ち着く。

そして今から10〜15年ぐらい前になると、ちょっとした町には、エアコンが効いたカフェがどんどん増えていった。エアコンとなると、入口にドアも壁もないという訳にはいかないから、閉鎖的にならざるを得ない。椅子はよくなったものの、大音量のBGMもかかるようになった。

そして現在、町中の路上のカフェはほとんど見なくなった。入口のドアや壁のないカフェもちらほら。ただ、田舎へ行くと違う。私が作る「カンホアの塩」の生産地は田舎なので、まだまだ開放的なカフェが普通にある。

冒頭の写真は、「カンホアの塩」の塩田と宿泊したホテルの途中にあったカフェの看板。これまで何度もこの道は通ったが初めて見た。何とも味わい深くて、二度三度オートバイで行き来している間、この看板が気になって仕方なかった。時間が出来たところで、入ってみると、雰囲気が何とものどか。コーヒーもおいしい。入店後しばらくしてきいたら、何と30歳前の若くて真面目そうな男性がやり始めた新しいカフェだった。たどたどしいながらも英語も話してビックリ。「この看板が気に入って、入ったんだよ」と言うと、照れくさそうに、「それはとりあえず描いただけで、今度もっといいのにしようと思っているんだ」と応えてくれた。私からすると、コレが味わいがあっていいのだけど・・・・。

これは去年2019年の12月のこと。今頃、新しくなってるかも知れない。こういう味わいあるものって、寿命というか、時間制限があるんだと思う。だから、次々と生まれても、運がいいと出会えるし、そうでないと知らない間になくなっている。

この田舎には、エアコンが効いたカフェはほとんどないが、もっと人通りのあるところにある大音量が鳴り響いているカフェは、賑やかだけど、私は落ち着かない。そんな中、こんなのどかで落ち着くカフェでコーヒーが飲めて、私はとてもラッキーだった。ご参考まで店内のパノラマ画像を下に(クリックすると拡大します)。入口どころか、四方に壁がないから風通しがとてもよく、しっかり日陰が作られていて、気持ちいい。12月とは言え、このときの気温は30℃ぐらい。左にいるお客さんたちは将棋を指している。


最後に、9年も前のことだが、ベトナムのカフェでコーヒーを注文する際の流儀をこのブログに書いたことがあったのを思い出した。以下に引用する。初めてベトナムへ行くコーヒー好きな方は、知っておくと役に立ちます。

ベトナム・コーヒーの流儀【基本編】(2011年6月16日)

ベトナム・コーヒーの流儀【応用編】(2011年6月21日)

ベトナム・コーヒーの流儀【上級編】(2011年6月30日)

2020年1月31日金曜日

ベトナムのプラスチックごみ対策


上の写真は、去年12月に入ったホーチミンのカフェでのもの。ストローがステンレス製。続けて、下の写真、これは白い紙製。


もひとつ。下のは、同じ紙でもちょっとポップなストライプ柄。


今や、ベトナムの都市部のカフェでは、プラスチック製のストローが消えている。私は、去年6月にもベトナムに行ってるのだが、そのときには全くなかった現象だったので、たった半年のうちに、こうも変わっているに、もービックリ仰天。

日本では、去年、「○○社は、プラスチックのストローを○○年までに廃止すると発表」などの報道があったが、ベトナムは、「○○年」とかじゃない。「すぐ」だ。無論、ストローだけじゃない。下は、去年12月にベトナム人宅にあったポリ袋。


私からすると、なんか急に「ECO FRIENDLY」とか書き出しちゃって・・・・と思えなくもなかったが、いいことだ。「100% biodegradeable」。100%生分解するってんだから、スゴい。日本では、こんな袋がどのくらい出回っているんだろう。そして、上の写真のオレンジ色の袋の右下をよく見ると、日本の「プラ」マークがついる。その下に「PE」とも。「プラ(PE)」で本当に100%生分解するんだろうかとの疑問も湧く。そして、その「プラ」マークの右には、なんと日本語。よく見ると、かなり怪しい日本語だ。アップでみると、下の写真。(クリックすると拡大します)


せっかく印刷するんなら、「ちゃんと書けばいいのに」と思ってしまうが、たぶんこれはただの『飾り』。ほとんどのベトナムの人たちはこの日本語を読めない。「HONDA」のニセモノで「HANDA」みたいのがあったが、何となく、「日本っぽい」のがベトナムではいい印象なんだということ。とすると、先述の「プラ(PE)」は無意味で、本当に100%生分解するようにも思える。

さてさて、ベトナム進出の日本企業も例外ではない。下のイオンさんの袋。「USE less plastic bag. Make more Green Environment」と書いてある。やる気満々。ちなみにイオンのロゴの下にあるベトナム語は、「日本の大手小売業者です」ぐらいの意味。


私は、22年前、「カンホアの塩」を作り始めてから、ベトナムに通っているが、これまでベトナムの人たちのプラスチックへの感覚は、ほとんど空気や水のようなものだった。そこいらへんに、プラスチックの袋が落ちていても、誰も拾わない。それは私の仕事上もそうで、「カンホアの塩」の塩田の周りにプラスチックごみが落ちていると、私一人が拾っていたこともあった。しかし私は、ここにずっといる訳ではないので、「少しでも落ちてたら、拾ってね」と言い続けていたものの、なかなか真剣に聞いてもらえなかった。

それがだ。去年12月、「カンホアの塩」の生産者の代表と話をしている際、「プラスチックの問題は深刻だ」と私の方に語りかけてきたので、ビックリ。どんな風の吹き回しかと思ったら、どうも去年、ベトナム政府が、国を上げて、プラスチック削減に取りかかったらしい。ベトナムは共産党の一党独裁国家。いったんこうなったら、話は早い早い。それで、カフェのストローも、ポリ袋も、たった半年の間にすっかり変わったのだ。生産現場でも、私がプラスチックごみを指摘すると、正面を向いて聞いてくれた。

ご存じの方もいると思うが、日本はプラスチックごみをベトナムへ輸出していた。12月に、あるベトナム人に言われた。「もう、日本からプラスチックごみは輸入しないよ」と。どう考えたって、自国で処理できないプラスチックごみを輸出しちゃいけない。この件は、明らかに日本がよくない。

プラスチックの問題は、地球温暖化の問題と密接と言われているのは、去年、下記のエントリでも書いたとおり。

新素材の前に(2019年8月30日)

それを思うと、ベトナムの足、オートバイはどうなるか? 車も年々増えているが、ホーチミン市では、地下鉄工事が始まっている。ベトナムのプラごみに対する意識がは確かに急に変わったが、物理的な変化は、まだまだこれからだと思う。しかし、日本は、このプラごみの問題もそうだけど、原発の問題、桜の問題と、動きがあまりに鈍すぎやしないか。そんな日本を尻目に、これからもベトナムは、どんどん変わっていく。

2019年11月19日火曜日

親子煮のネジ


ひとつ前のエントリ、「釜玉うどん」の反省で、捨てられたうどんの悲話と私の反省を書いたが、その翌日、上の写真のメールが、愛しい私のガラ系携帯に届いた。娘が通う中学校からだ。内容は、

給食の調理中に手鍋のネジが「親子煮」に入ってしまい、(全校生徒分の大量の「親子煮」の中から)見つけられなかった。したがって、きょうの給食の「親子煮」は、急遽無しになりました。生徒さんにご迷惑をお掛けしましたことを、給食室を管理する学校として、お詫び申し上げます。

というものだ。「ネジが発見できなかったため」ということは、もしかしたら「床に落ちた」など、混入していなかった可能性もあったかも知れない。後から、娘にそのときの給食のことをきくと、ネジのことを聞いたのは、各教室にその親子煮が運ばれた後だったらしい。だから、その親子煮を目の前にして、「『食べちゃえば』という先生もいたけど、結局は『食べてはいけない』となって、誰もその親子煮を食べなかった。親子煮は、その日の主菜だったので、それ無しはきついとみんな言ってたよ」とのことだった。「その親子煮は、どうなったと思う?」ときくと、「捨てられちゃったと思う」と残念そうに言った。

彼女から話を聞くに及ばす、急遽無しの「無し」とはこの場合、現実的には「廃棄」ということだろう。想像をたくましくしても、養豚場の餌か。いずれにしても、私は、冒頭のメールを読んで、何となくの違和感を覚え、しばらく考えた。

まず、ご存じない方もいると思うので、軽く前置きを。今どきの学校給食は、給食センターと呼ばれる、学校から独立した施設で数校分の給食が集中調理され、昼前に各校に配達されるパターンが多い。そんな中、娘が通う中学校には自前の給食室があって、全てそこで調理された給食が生徒に提供されている。娘は「だから、うちの中学の給食はおいしいのよ。栄養士さんもよく考えてくれてて、いいのだけど」と言う。

言わずもがな、学校としては、「もしも、誤ってそのネジを飲み込んだり、かじって歯が欠けるようなことがあっては絶対ならない」ということで、このようになったのだろう。

この件を知って、最初に私が思ったのは、外れたネジに気がつかなかった調理師さんのことだ。手鍋の、たぶんカシメが、調理中の熱の経年劣化で徐々に緩くなることはよくあること。毎日大量の調理をする大鍋は、かなり激しい使われ方をしていることは想像に易い。調理師はそれが外れる前に鍋を修理するなり買い替えるなりしなくてはならない・・・・のだが、限られた時間の中、ついそれを怠って調理し続けてしまう。それもよくあることではないか。こんなことになってしまい、落ち込んでいるかも知れない調理師さんに、「よくあることですよ。いつもおいしい給食をありがとう」と伝えたい。こんなことがあれば、父兄としては「今後は気をつけてよ」とわざわざ指摘するまでもない。そして、忘れちゃいけないのは、必ず誰かが「廃棄」していることだ。もしもその人が、その調理師さんだったとしたら、あまりにも悲しい話ではないか。

そして、学校に対して思うこと。

これがもしも、一般家庭や飲食店で起こったならば、それは各々の自由だと思うが、公立の中学校で起こったことだ。教育の場である学校で起こったことだ。先述の「言わずもがな」の理由は、「生徒の安全を思って」とも取れるが、私からすると、無難な策を取った感もなくはない。「無し」にしたことで、学校の運営責任を問われることは、確実になくなった。

それはそれとして、今や、日本の食品ロスの問題は、大きな社会問題だ。賞味期限の新しいルールなどが敷かれたりしているが、まだまだなのは言うまでもない。擦り切れた言葉かも知れないが、世界には食うに困っている人が、子供が本当にたくさんいる。中学校を生徒たちの教育の場と捉えた場合(そうなんだけど)、せめて、「こういうことも、ひとつの食品ロスです。しかし、社会的責任を負う立場の本校としては、今回、残念ながら無しにする(廃棄する)しかありませんでした。親子煮おいしいのに、もったいなかったね」などと言って欲しかった。

「せめて」ではなく、ここでは私が望ましく思う学校の判断と想像を言いたい。「無し」にして、生徒に学校の運営責任や、「大人って大変なんだよ」ということを学ばせるよりも、こっちの方がより大事なことを学べるんじゃないかという意味だ。

配膳後、「いただきます」の前に、担任の先生は、これこれこういう訳で、その「親子煮」にはネジが入っている(または可能性がある)ことを生徒に告げる。したがって、「ネジに注意して食べること」と「食べないこと(=廃棄すること)」を、各生徒に選択してもらう。この2つの選択肢は、現実的には一枚のコインの裏表だということを分かってもらうことが大事だ。そして、食品ロスの社会問題の説明をし(中学生なら難なく理解すると思う)、「君たちが、廃棄しないで、この親子煮を注意しながら食べることは、食品ロスを減らすことになる」と付け加えると同時に、「かといって、飲み込んだり囓ったりする危険はともなうので、食べない(=廃棄する)のも全然アリです」とも言う。もう、中学生にもなれば、責任を持って、このぐらいの状況判断は出来るだろうと、私は思う。

ここからは私の想像だが、ここまで先生が生徒たちに伝えると、「ネジに注意して食べること」を選んだ(おそらく多くの)生徒たちは、一斉に目の前の「親子煮」の中のネジを、スプーンで探し始めるだろう。おそらくそのネジは一本だろう。誰かがその一本を見つけたら、すぐに校内放送で全校生徒に知らせる。その後は、「食べないこと(=廃棄すること)」を選んだ生徒を含め、みんなで普通においしい親子煮を食べればいい。(余談だが、その後しばらくは、「あのネジ見つけたの誰だ?」の話題が校内で持ちきりになりそうだ)

ただし例外もある。
生徒の中に、障害者など、ネジに十分に注意を払おうにも払えない生徒がいたら、その人たちは別だ。当たり前だが。

食品ロスの問題は、今回のネジ事件と根は同じだと思う。人間は効率を求めると、必ず行き過ぎる。だからそれをコントロールするために絶対安全なルールを設け、それに基準(責任)が貼り付けられる。絶対安全とは、万人に対してだから、極力例外がないようにする。これは一見ユニバーサル(万能)のようにも思えるが、その分、曖昧さは排除されているから、融通はきかず、工夫しないことが前提とも言える。世の中が複雑になった分、こうした画一化が必要になるのだろうが、その画一化のシワ寄せこそが食品ロスの問題の根ではないのか。本来は、複雑になったその分、工夫も必要になると思うのは私だけか。そこは校長先生の腕の見せ所と思いたいのだが。

「ネジが給食に入っちゃったけど、生徒みんなで探したら、見つかったんだって」
「へぇ〜、今どきそりゃあスゴいな。先生たち、考えたねー」

なんてブログを書いてみたい。