この写真は、私が作る「カンホアの塩」の塩田へと向かう道。(ベトナム・カンホア)
この先の左に水色の平屋の家屋が2つあるのが分かるだろうか。右側のは倉庫、左側のは検品など作業屋舎。写真では見えないが、その周りに「カンホアの塩」の専用塩田がある。一週間前、ここにいた。
この道の左右には水が張ってあるように見えるが、これは現地の塩田。
この塩田地帯は広いので、移動はもっぱらオートバイだ。こうした道をオートバイで走っているとき、いつも考えていることがある。
「どこを通って行こうかな」
写真ではあまり分からないが、この辺りの土の道は結構起伏がある。トラックなど車も通るので、ところどころ轍(わだち)にもなっている。また、乾いた土・砂が吹きだまっているようなところもあるし、小さな橋、そしてときどき大きな石もある。
このときもそうだったが、オートバイの後ろに人を乗せているときは、特に気を使うことになる。ここに通い始めて20年近くなるが、一度、パンクしたこともあるし、何度か砂にはまって転びそうになったこともある。
どこを通れば一番すんなり通れるかは、そのときそのときの状況で違うから、「どこを通って行こうかな」と、少し先の道の状態を見ながら、進むコースのイメージを描きながら走る。
先週、そんなこと思いながら走っていたら、これは人が生きていくことのミニチュアのように思え、この道の写真を撮りたくなった。オートバイをいったん停めて、カメラのシャッターを押した。
きっと人の数だけ道もある。私の場合はこの道ということだ。どこを通ろうと自由だが、選択を誤ると、パンクしたり転んだりすることもある。ガソリンがちゃんと入ってないとオートバイを降りなきゃいけなくなる。目の前の道の状態だけに気を取られると、その先は悪路だったりすることもあるので、なるべく遠くを見ながら、目の前も視野に入れて走るのがいい。かといって、いつも失敗をせずに通れることはない。具体的な失敗の経験こそ、新たに進むときの糧になる。しかしながら、どこを通っても、結局は自分の進む道は目の前にある道しかない。
そんなこと思って写真の道を走っていたら、フェデリコ・フェリーニの「道」を思い出した。続けて、ジャック・ケルアックの「路上(オン・ザ・ロード)」。どちらの主人公も、運命的とも思える人生を歩んでいて、どこに辿り着くのかは不確かだが、その不確かな中を生き抜くことが現実なのだ。不確かだからと、つい確かにしたくなるのが人情だが、それこそが現実の歪曲(誤りまたは偽り)の始まりだと思う。
もう数百回は通った道を走っていて、初めて思ったことだった。