きょうは、前エントリ、洗わない「完熟手もぎ梅」の続き。
その後の報告だ。「梅酢は上がったけれど」、これちょっと小津安二郎入ってます。
さて、「完熟手もぎ梅」を洗わないで(水を使わないで)塩漬けした。だが「呼び水」なしなので、梅酢の上がり具合が気になっていた。でも、それは杞憂でしたぁー。冒頭の写真のとおり、しっかり上がってまーす。
コートジボアール戦を見た後、漬けたから、それは日曜日(15日)の昼過ぎ。冒頭の写真は、昨日(水曜日)の朝だから、3日目で見事に梅酢が上がっていた。洗って半乾きで漬けるともう1日早く梅酢が上がってきただろうが、1日ぐらいの違いは何てことない。
でも、問題はこれからかも・・・・。
「洗わない(水を使わない)」のは、「カビ防止」に繋がるという理論なのだが、考えてみると、赤梅干しの場合、
赤ジソの葉は洗わんわけにいかんだろう!
と、昨日になって気がついた。「頭悪いなー」と自分でも思う。でもまぁ、自己嫌悪にならず、「やっぱ最近疲れてるんだ」と思うことにしよ。
すでに水洗いされてる赤ジソも市販されているが、自分で洗っても「水を使う」ことに変わりはない。赤ジソの葉の表面積は梅よりずっと大きいから「水」の影響を受けやすいと思うが、ギューギュー塩もみするからね。何しろ、なるべく雑菌を少なくするのに越したことはないってことで、今後の経過を見てみましょ。
赤ジソを加えての本漬けは、今月末か来月初め。そして、カビが生える可能性が最も高いのは、8月になっても梅雨明けしなくて土用干しが先送りになる場合で、8月初めから中旬。また報告エントリ書きまーす。
参考エントリ:「完熟手もぎ梅」の土用干し(7月30日)
参考エントリ:洗わない「完熟手もぎ梅」(6月16日)
2014年6月19日木曜日
2014年6月16日月曜日
洗わない「完熟手もぎ梅」
昨日、コートジボワール×日本戦を観戦した後、梅干しの仕込みをした。コートジボワール、強かった。高温多湿の中、疲れが目に見え始めた後半15分に、満を持して、ドログバ投入というコートジボワール監督の采配がピタリと当たった。これで決勝トーナメント出場の確率は、2割程になっちゃったかな。まー、仕方ない。ポジティブに捉えれば、これで日本の選手たちは、開き直るしかなくなったから、目指す攻撃的なサッカーを見せてくれるだろう。その意味では楽しみだ。本当は、開き直らなくても見せて欲しかったんだけど・・・・。まー、簡単じゃないことぐらいは分かる。
・・・・と、失意とほのかな期待を抱きながら、試合が終わった昨日の昼過ぎ、梅干しの仕込みの第一段階である塩漬けを行った。
さて、今年の梅は特別だ。「完熟手もぎ梅」。
先週、大分の菊の助さんから送ってもらった。まず、完熟するのが早いのにビックリ。今、東京の店頭には、青々とした梅酒用の梅が並んでいるが、届いたのは既に完熟。さすがは九州。関東より2週間ほど早い。そして、その梅とともに、入っていたお手紙にこうあった。
「梅は、すべて手もぎですので、洗わなくて、結構です。洗うとカビやすくなるそうです」
梅は熟すと当然落ちる。落ちると、キズになったり、地面の土がついたりすことがある。木になってる梅を注意深く観察し、「そろそろ落ちるな」という梅を、ひとつひとつ手でもいで収穫した梅。それが「完熟手もぎ梅」だ。ん〜、何とも贅沢。菊の助さん、ありがとうございます。
梅干しの場合、塩分濃度が高いので、腐る心配はないが、(干す前の)漬けてる間にカビることがある。ハッキリ言って、梅干し作りの失敗とは、「ひどいカビにやられること」に他ならない。
他の食品、また化粧品(歯磨き粉なども)もそうだが、水を使わないと、雑菌が減り、カビが生えにくくなる。水というのは清潔な印象があるが、水分のあるところにこそ、カビを含めた雑菌類が繁殖する。その意味で、砂漠は清潔と言える。ベドウィン(アラブの砂漠の民)は、砂漠こそが清らかな場所で町は不潔な場所と考えているらしいが、それは全くもって正しい。ただ、この梅干しの仕込みにあたっては、ひとつ考えなくてはいけないことがあった。
私は、「カンホアの塩」のサイト上で、「正統派・梅干しレシピ」というのを載せている。梅干しを仕込み始めて15年ぐらい、年々改良してきたレシピを載せている。
●正統派・梅干しレシピ
このレシピにもあるのだが(作り方1:下準備と塩漬け → Step1.梅の下ごしらえ → 1-3.水洗い)、熟した梅を、いったん水に浸して水洗いする。水切りして、「梅の表面がやや湿気ているぐらい」にしたところで、塩をまぶす、と書いている。これは「梅の表面がやや湿気ているぐらい」にすると、塩がからみ(付着し)やすくなるからだ。だから、「洗わずに(梅をドライなまま)」塩をまぶそうとすると、塩は梅の表面をスルリと滑ってまぶせないことになる。しかしせっかくの「完熟手もぎ梅」。洗わずに漬けてみようと決心した。私にとって、水を使わない梅干しの仕込みは初めてだ。
それにしても、まぶせないものを「どーしたものか」。しばし考えた末、冒頭の写真のように、容器に入れた梅の一番上に塩をドサっと置くようにかけることにした。(梅3.5kgに、塩612g) 梅にかけた塩は、下に落ちることはあっても、下の塩が上に上がることはないからだ。また、容器の底には、一握りだけ塩を撒いてから、梅を入れた。これは底に接した梅は、梅の自重と重石で押されて水分が出やすい状態だろうなーという考えから。
塩は、浸透圧で梅の水分に溶け、それが梅酢となる。洗った場合、梅の表面全体に残った水分が「呼び水」となり、浸透圧を促していた。しかし、今回は洗わない(水を使わない)。とは言うものの、梅表面の微量の水分と、重石によって出てくる梅内部の水分をキッカケにして浸透圧が進み、梅酢が出てくれば、結果として「洗わない」梅干し仕込みになる、というイメージだ。だから、水を使った場合と比べ、梅酢が上がってくるのは、ゆっくりになるハズだ。そして、これで「カビの危険性」を大きく避けることが出来れば、成功だし、もしかしたら出来上がる梅干しの味にも影響があるかも知れない。
・・・・と、「いろいろ勉強になるなー」と思っているところで、今朝、菊の助さんのブログを見たら、同じことをしている菊の助さんがいた。漬けてる量も多いので、画像の迫力も満点だぁ〜。ほんとにドーン。
●サムライ菊の助
「塩は一番上にドーンと置く」(6月15日)
だいたい同じようなことを考えてのことだと思う。嬉しくなった。
ところで、この「完熟手もぎ梅」。先に、完熟でありながら、「地面の土がついたりしていない」と書いたが、個人的には少し気になることがある。それは、少しぐらい土がついてても問題ないんじゃないか、ということ。現に菊の助さんのブログには、「汚れのあるものは、湿らせた布で拭きます」とある。また、「今回の梅は、落ちたのがほとんどなので、汚れを拭きましたが、手もぎのものは、拭くことも必要ありません」ともある。つまり、手もぎのものを出荷に回してくれてるってことだ。何かそれが少し申し訳ないとも思っている。
さてさて、どーなるか、今年の梅干し。楽しみだぁ〜。「どーなったか?」の報告もしないとと思ってます。たとえ失敗しても、報告するのでお楽しみに。
参考エントリ:梅酢は上がったけれど(6月19日)
参考エントリ:「完熟手もぎ梅」の土用干し(7月30日)
・・・・と、失意とほのかな期待を抱きながら、試合が終わった昨日の昼過ぎ、梅干しの仕込みの第一段階である塩漬けを行った。
さて、今年の梅は特別だ。「完熟手もぎ梅」。
先週、大分の菊の助さんから送ってもらった。まず、完熟するのが早いのにビックリ。今、東京の店頭には、青々とした梅酒用の梅が並んでいるが、届いたのは既に完熟。さすがは九州。関東より2週間ほど早い。そして、その梅とともに、入っていたお手紙にこうあった。
「梅は、すべて手もぎですので、洗わなくて、結構です。洗うとカビやすくなるそうです」
梅は熟すと当然落ちる。落ちると、キズになったり、地面の土がついたりすことがある。木になってる梅を注意深く観察し、「そろそろ落ちるな」という梅を、ひとつひとつ手でもいで収穫した梅。それが「完熟手もぎ梅」だ。ん〜、何とも贅沢。菊の助さん、ありがとうございます。
梅干しの場合、塩分濃度が高いので、腐る心配はないが、(干す前の)漬けてる間にカビることがある。ハッキリ言って、梅干し作りの失敗とは、「ひどいカビにやられること」に他ならない。
他の食品、また化粧品(歯磨き粉なども)もそうだが、水を使わないと、雑菌が減り、カビが生えにくくなる。水というのは清潔な印象があるが、水分のあるところにこそ、カビを含めた雑菌類が繁殖する。その意味で、砂漠は清潔と言える。ベドウィン(アラブの砂漠の民)は、砂漠こそが清らかな場所で町は不潔な場所と考えているらしいが、それは全くもって正しい。ただ、この梅干しの仕込みにあたっては、ひとつ考えなくてはいけないことがあった。
私は、「カンホアの塩」のサイト上で、「正統派・梅干しレシピ」というのを載せている。梅干しを仕込み始めて15年ぐらい、年々改良してきたレシピを載せている。
●正統派・梅干しレシピ
このレシピにもあるのだが(作り方1:下準備と塩漬け → Step1.梅の下ごしらえ → 1-3.水洗い)、熟した梅を、いったん水に浸して水洗いする。水切りして、「梅の表面がやや湿気ているぐらい」にしたところで、塩をまぶす、と書いている。これは「梅の表面がやや湿気ているぐらい」にすると、塩がからみ(付着し)やすくなるからだ。だから、「洗わずに(梅をドライなまま)」塩をまぶそうとすると、塩は梅の表面をスルリと滑ってまぶせないことになる。しかしせっかくの「完熟手もぎ梅」。洗わずに漬けてみようと決心した。私にとって、水を使わない梅干しの仕込みは初めてだ。
それにしても、まぶせないものを「どーしたものか」。しばし考えた末、冒頭の写真のように、容器に入れた梅の一番上に塩をドサっと置くようにかけることにした。(梅3.5kgに、塩612g) 梅にかけた塩は、下に落ちることはあっても、下の塩が上に上がることはないからだ。また、容器の底には、一握りだけ塩を撒いてから、梅を入れた。これは底に接した梅は、梅の自重と重石で押されて水分が出やすい状態だろうなーという考えから。
塩は、浸透圧で梅の水分に溶け、それが梅酢となる。洗った場合、梅の表面全体に残った水分が「呼び水」となり、浸透圧を促していた。しかし、今回は洗わない(水を使わない)。とは言うものの、梅表面の微量の水分と、重石によって出てくる梅内部の水分をキッカケにして浸透圧が進み、梅酢が出てくれば、結果として「洗わない」梅干し仕込みになる、というイメージだ。だから、水を使った場合と比べ、梅酢が上がってくるのは、ゆっくりになるハズだ。そして、これで「カビの危険性」を大きく避けることが出来れば、成功だし、もしかしたら出来上がる梅干しの味にも影響があるかも知れない。
・・・・と、「いろいろ勉強になるなー」と思っているところで、今朝、菊の助さんのブログを見たら、同じことをしている菊の助さんがいた。漬けてる量も多いので、画像の迫力も満点だぁ〜。ほんとにドーン。
●サムライ菊の助
「塩は一番上にドーンと置く」(6月15日)
だいたい同じようなことを考えてのことだと思う。嬉しくなった。
ところで、この「完熟手もぎ梅」。先に、完熟でありながら、「地面の土がついたりしていない」と書いたが、個人的には少し気になることがある。それは、少しぐらい土がついてても問題ないんじゃないか、ということ。現に菊の助さんのブログには、「汚れのあるものは、湿らせた布で拭きます」とある。また、「今回の梅は、落ちたのがほとんどなので、汚れを拭きましたが、手もぎのものは、拭くことも必要ありません」ともある。つまり、手もぎのものを出荷に回してくれてるってことだ。何かそれが少し申し訳ないとも思っている。
さてさて、どーなるか、今年の梅干し。楽しみだぁ〜。「どーなったか?」の報告もしないとと思ってます。たとえ失敗しても、報告するのでお楽しみに。
参考エントリ:梅酢は上がったけれど(6月19日)
参考エントリ:「完熟手もぎ梅」の土用干し(7月30日)
2014年6月13日金曜日
今の日本は、何かがおかしい
先日出張で、東京・秋葉原から、初めて乗る「つくばエクスプレス」という電車に乗って守谷駅まで行った。ひと仕事終わって、帰りの電車に乗るために守谷駅へ戻った際、ちょっと疲れたので、電車を1〜2本見送って、駅でコーヒーを一杯飲もうとしたときのこと。
あらかじめ電車の時間を調べとこと思い、改札の外にある時刻表を探したが、どこを探しても見あたらない。そこで、改札脇にある「i」(インフォメーション)に入った。そしたら、20代半ばぐらいの男性がカウンター越しに3人立っていて、威勢よく「いらっしゃいませ」と声を揃えて積極的な3つの視線が私に注がれた。「おっと、こんなことで3人がかりか」と思いながらも、尋ねた。
「改札の外に、この駅の時刻表はありますか?」
すると、3人のうちの1人が、
「ええ、外にはないんです。ここに、この駅の時刻表と、こっちには(つくばエクスプレス)全線の時刻表がありますので、お使いになってください」
と、2枚のカードサイズの時刻表を手渡された。この駅のだけでよかったので、1枚は返そうとしたら、「どうぞどうぞ、2枚とも持って行ってください」と言われ、2枚を持って、カフェへ向かった。
コーヒーを飲んだ後、調べた電車の時間に合わせ、改札を入った。手元にある2枚の時刻表は、私にとってもう不要だし、ちょっと見ただけだったから、再びインフォメーションに入って、
「これ、ありがとうございます。ちょっと見ただけなので、お返ししますね」
と言いながら、1人になっていたカウンターの男性に、2枚の時刻表を手渡した。時刻表をくれたときの積極的な彼の愛想が、そのとき何故か、ふてくされた表情に変わっていた。その理由が分からずインフォメーションを出たものの、何となく気になって振り返ったら、彼はその2枚の時刻表をゴミ箱に捨てていた。
「えっ」
駅の業務マニュアルには、「一度渡した時刻表は返されても再利用しない」などのルールがあるのだろうか。また、それはその男性個人の感性によるものだったのだろうか。その詳細は確かめる気にもならなかったが、理由は何であれ、「何かがおかしい」。
同時に、そのおかしさは、今の日本独自のもののようにも感じた。つまり、今の日本以外のところで、こういうことは起こらないと感じたということだ。
カードサイズの印刷物2枚のことなのだが、私の憂う気持ちはもっともっと大きい。こういうことが今の日本の常識なのか? ならば、常識とは一体何なのか? 怒りというより、落胆に近い。
きっと少しずつこうなっちゃったのだから、きっと少しずつこうでない方へ向かうしかないのだろうな、と思う。
あらかじめ電車の時間を調べとこと思い、改札の外にある時刻表を探したが、どこを探しても見あたらない。そこで、改札脇にある「i」(インフォメーション)に入った。そしたら、20代半ばぐらいの男性がカウンター越しに3人立っていて、威勢よく「いらっしゃいませ」と声を揃えて積極的な3つの視線が私に注がれた。「おっと、こんなことで3人がかりか」と思いながらも、尋ねた。
「改札の外に、この駅の時刻表はありますか?」
すると、3人のうちの1人が、
「ええ、外にはないんです。ここに、この駅の時刻表と、こっちには(つくばエクスプレス)全線の時刻表がありますので、お使いになってください」
と、2枚のカードサイズの時刻表を手渡された。この駅のだけでよかったので、1枚は返そうとしたら、「どうぞどうぞ、2枚とも持って行ってください」と言われ、2枚を持って、カフェへ向かった。
コーヒーを飲んだ後、調べた電車の時間に合わせ、改札を入った。手元にある2枚の時刻表は、私にとってもう不要だし、ちょっと見ただけだったから、再びインフォメーションに入って、
「これ、ありがとうございます。ちょっと見ただけなので、お返ししますね」
と言いながら、1人になっていたカウンターの男性に、2枚の時刻表を手渡した。時刻表をくれたときの積極的な彼の愛想が、そのとき何故か、ふてくされた表情に変わっていた。その理由が分からずインフォメーションを出たものの、何となく気になって振り返ったら、彼はその2枚の時刻表をゴミ箱に捨てていた。
「えっ」
駅の業務マニュアルには、「一度渡した時刻表は返されても再利用しない」などのルールがあるのだろうか。また、それはその男性個人の感性によるものだったのだろうか。その詳細は確かめる気にもならなかったが、理由は何であれ、「何かがおかしい」。
同時に、そのおかしさは、今の日本独自のもののようにも感じた。つまり、今の日本以外のところで、こういうことは起こらないと感じたということだ。
カードサイズの印刷物2枚のことなのだが、私の憂う気持ちはもっともっと大きい。こういうことが今の日本の常識なのか? ならば、常識とは一体何なのか? 怒りというより、落胆に近い。
きっと少しずつこうなっちゃったのだから、きっと少しずつこうでない方へ向かうしかないのだろうな、と思う。
2014年6月4日水曜日
初夏の色
昨日、小学4年生の娘が、上の写真のを作って見せてくれた。容器は、オーブントースターの付属品で、おそらくカップケーキのようなものを焼くためのものだ。ウチでは使わないので、子供たちが土遊びなどで使う道具になっている。
材料のほとんどが、今ウチの庭で咲いている花の花びらだ。彼女曰く、「枯れかけた花びらだけ採ってきたの」と言うから立派だ。これらの花の苗は、主にカミさんが植えたもの。私はただぼんやり眺めているぐらいだから、「あー、あちこち咲いてきてるな〜」とは思っていた。でも、こうして集められたものを改めて見せられ、思わずカメラを取りに行った。
これもひとつのデザイン感覚だと思う。散らばっているまんまの素材では感じないことを、デザインすることで感じさせる。また、花びらを水に浮かせることで、清涼感も出てるし、水面に浮いた感じもいい。
野暮ながら、左上から時計回りで、
チェリーセージ
マリーゴールド
ドクダミ
アスチルベ
ブルーセージ
笹の若葉
このうち、ドクダミだけは私が担当の庭の植物。また笹の若葉だけは、庭ではなく彼女が学校の帰り道に摘んできたもの。こういうのを道草って言うのかな。笹はこれから葉を広げるところで、まだ茎に丸まった葉がへばりついていた。彼女は帰宅後、その丸まった若葉だけを剥がしてこうしたらしい。
ドクダミは私担当でありながら、これを見たときそれと分からず、「これ何の花?」ときいてしまった。今、ドクダミは満開だが、私は、日が暮れかけた夕方に映えるドクダミの白い花は大好きなので、採用してもらって嬉しくなった。
ところで、今から5年前(2009年)の秋、同じ容器で同じようなことをした彼女がいた。私は彼女に、「前にも同じようなことを、秋だったけどしてたことがあるよ。憶えてる?」ときいてみたら、憶えてなかった。当時、5歳。私はそのときも思わずカメラを取りに行った記憶があるので、今朝、写真を探してみたら、あった。
この頃、庭の植物の担当は私だった。こちらは、紫式部、水引、あとは名前を知らぬが、夏から秋に映える草で、ギザギザの葉の一部がオレンジ色になるやつ。ベトナムでも見るから、南方系か。それとピンク色の小さな花は何だったろう。思い出せない。
この2つの写真を見比べると、季節や子供がどんどん変わっているのがよく分かる。
それにしても、オレはほとんど変わってないなー。きょう帰宅したら、今朝見つけた5年前の写真を彼女に見せてみようと思う。
材料のほとんどが、今ウチの庭で咲いている花の花びらだ。彼女曰く、「枯れかけた花びらだけ採ってきたの」と言うから立派だ。これらの花の苗は、主にカミさんが植えたもの。私はただぼんやり眺めているぐらいだから、「あー、あちこち咲いてきてるな〜」とは思っていた。でも、こうして集められたものを改めて見せられ、思わずカメラを取りに行った。
これもひとつのデザイン感覚だと思う。散らばっているまんまの素材では感じないことを、デザインすることで感じさせる。また、花びらを水に浮かせることで、清涼感も出てるし、水面に浮いた感じもいい。
野暮ながら、左上から時計回りで、
チェリーセージ
マリーゴールド
ドクダミ
アスチルベ
ブルーセージ
笹の若葉
このうち、ドクダミだけは私が担当の庭の植物。また笹の若葉だけは、庭ではなく彼女が学校の帰り道に摘んできたもの。こういうのを道草って言うのかな。笹はこれから葉を広げるところで、まだ茎に丸まった葉がへばりついていた。彼女は帰宅後、その丸まった若葉だけを剥がしてこうしたらしい。
ドクダミは私担当でありながら、これを見たときそれと分からず、「これ何の花?」ときいてしまった。今、ドクダミは満開だが、私は、日が暮れかけた夕方に映えるドクダミの白い花は大好きなので、採用してもらって嬉しくなった。
ところで、今から5年前(2009年)の秋、同じ容器で同じようなことをした彼女がいた。私は彼女に、「前にも同じようなことを、秋だったけどしてたことがあるよ。憶えてる?」ときいてみたら、憶えてなかった。当時、5歳。私はそのときも思わずカメラを取りに行った記憶があるので、今朝、写真を探してみたら、あった。
この頃、庭の植物の担当は私だった。こちらは、紫式部、水引、あとは名前を知らぬが、夏から秋に映える草で、ギザギザの葉の一部がオレンジ色になるやつ。ベトナムでも見るから、南方系か。それとピンク色の小さな花は何だったろう。思い出せない。
この2つの写真を見比べると、季節や子供がどんどん変わっているのがよく分かる。
それにしても、オレはほとんど変わってないなー。きょう帰宅したら、今朝見つけた5年前の写真を彼女に見せてみようと思う。
2014年6月2日月曜日
秋葉原の喫茶店
昔と今の秋葉原。
ずいぶん違います。
かつて、秋葉原駅の北側は市場だったと聞いたことある。そして、電気街からオタクの聖地へと時代は移っていったワケですが、いろいろ時代が変わっても、スゴイ人混みは相変わらず。だから、私はたまにしか行かないものの、その人混みの秋葉原を歩くといつもくたびれる。くたびれるとゆっくり座って、コーヒーでも飲みたくなる。
今から数年前ぐらいまでは、ガード下の2階に「古炉奈」という名の昭和な感じのお気に入りの喫茶店があって、決まってそこでよく休憩した。水出しコーヒーなんてのがあった記憶がある。
でまぁ、何年か前に「古炉奈」に行こうと思ったら、すっかりアキバな店に様変わりしていた。「これは困ったな」と「古炉奈」に替わる喫茶店を探していて、見つけたのが冒頭の写真の喫茶店(店内)、その名も「アカシヤ」。西田佐知子を連想するアナタ。分かりますよ。私も口ずさみたくなる。「アカシアぁ〜の雨に打たれてぇ〜♪」。
元々、秋葉原へはそんなに行かないし、この喫茶店は最近知ったので、これまで5回ぐらい入ったろうか。でも、まぁ行くときは「アカシヤ、アカシヤ」とこの店に向かいました。ちなみにお店の入口には大きめのこの看板。
で、私は先日行ったとき、お店を出がてらに何の気なしに振り返ったら、思わぬものが目に入って、ちょっとばかり驚いた。
えー、「明石屋」だったんだー。オーナーが明石さんなのか、または明石ご出身の方なのか。そして帰りの電車の中で、「あれ、もしかして」とちょっとひっかかり、帰宅後調べたら、なるほど西田佐知子の歌は、アカシ「ヤ」ではなく、アカシ「ア」だったのだ。
「こいつぁー、まんまとやられたな」
と、心地よい「やられた感」を抱いた私なのでありました。お店の名前を付けた人に、どんな意図があったかは不明だ。でも、この「やられた感」は、ささやかな私の幸せでもあるので、まー、お店の人にはそのへんきかない方がいいかも知れない。
「明石屋」だったことに気がつき、秋葉原駅へ向かって歩いていたら、駅前で下の写真の風景に遭遇した。
ここは、駅前のヨドバシカメラの真ん前ということも影響してか、「サーバーレンタル料金0円無料!」というサインを見た私は、「えー、(インターネットの)レンタルサーバー無料なんてことがあるのかよー」と足を止めた。でも、一瞬の後、明らかにそれはミネラルウオーターのサーバーレンタルであることに気がついた。ひたすら馬鹿な私は、「そりゃー、そーだよなー」と納得し、記念にこの写真を撮った後、駅の改札へ向かった。最近、ちょっと疲れてるみたいだ。
ずいぶん違います。
かつて、秋葉原駅の北側は市場だったと聞いたことある。そして、電気街からオタクの聖地へと時代は移っていったワケですが、いろいろ時代が変わっても、スゴイ人混みは相変わらず。だから、私はたまにしか行かないものの、その人混みの秋葉原を歩くといつもくたびれる。くたびれるとゆっくり座って、コーヒーでも飲みたくなる。
今から数年前ぐらいまでは、ガード下の2階に「古炉奈」という名の昭和な感じのお気に入りの喫茶店があって、決まってそこでよく休憩した。水出しコーヒーなんてのがあった記憶がある。
でまぁ、何年か前に「古炉奈」に行こうと思ったら、すっかりアキバな店に様変わりしていた。「これは困ったな」と「古炉奈」に替わる喫茶店を探していて、見つけたのが冒頭の写真の喫茶店(店内)、その名も「アカシヤ」。西田佐知子を連想するアナタ。分かりますよ。私も口ずさみたくなる。「アカシアぁ〜の雨に打たれてぇ〜♪」。
元々、秋葉原へはそんなに行かないし、この喫茶店は最近知ったので、これまで5回ぐらい入ったろうか。でも、まぁ行くときは「アカシヤ、アカシヤ」とこの店に向かいました。ちなみにお店の入口には大きめのこの看板。
で、私は先日行ったとき、お店を出がてらに何の気なしに振り返ったら、思わぬものが目に入って、ちょっとばかり驚いた。
えー、「明石屋」だったんだー。オーナーが明石さんなのか、または明石ご出身の方なのか。そして帰りの電車の中で、「あれ、もしかして」とちょっとひっかかり、帰宅後調べたら、なるほど西田佐知子の歌は、アカシ「ヤ」ではなく、アカシ「ア」だったのだ。
「こいつぁー、まんまとやられたな」
と、心地よい「やられた感」を抱いた私なのでありました。お店の名前を付けた人に、どんな意図があったかは不明だ。でも、この「やられた感」は、ささやかな私の幸せでもあるので、まー、お店の人にはそのへんきかない方がいいかも知れない。
「明石屋」だったことに気がつき、秋葉原駅へ向かって歩いていたら、駅前で下の写真の風景に遭遇した。
ここは、駅前のヨドバシカメラの真ん前ということも影響してか、「サーバーレンタル料金0円無料!」というサインを見た私は、「えー、(インターネットの)レンタルサーバー無料なんてことがあるのかよー」と足を止めた。でも、一瞬の後、明らかにそれはミネラルウオーターのサーバーレンタルであることに気がついた。ひたすら馬鹿な私は、「そりゃー、そーだよなー」と納得し、記念にこの写真を撮った後、駅の改札へ向かった。最近、ちょっと疲れてるみたいだ。
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