2012年5月30日水曜日

私の「金継ぎ」実践編


金環日食で一回飛んでしまったが、きょうこそは5月16日のエントリ「金継ぎday」の続き。用意するモノは、「金継ぎday」にあるとおり、特製うるし(金)やエポキシ系樹脂の接着剤など。冒頭の写真は、今年の金継ぎdayの陶器、全部で15点。思い立たないと出来ないので、1〜2年に一度の金継ぎdayにまとめてやる。

では、その実践の説明です。

小野哲平の片口

片口はどうしてもこの口の先っちょが欠けやすい。この場合は、先端の釉薬が少し剥がれた程度だったので、ちょこっと金継ぎするケース。まず、特製うるし(金)のチューブのうるしと付属の金色の粉を、厚紙の上で竹串を使ってよーく混ぜる。そしてそれを竹串の先端に少量つけて、釉薬が剥がれた箇所に塗る。このときのコツ、それは薄く塗ること。漆はとても固まりにくいから、厚く塗ると固まるまでにえらい時間がかかるからだ。厳密に言うと、漆が固まるにはある一定の温度と湿度が保たれてないとならない。そのため職人さんは室などを使うけど、私の場合、金継ぎでそこまでしたくないので、より簡易的にという意味で、薄く塗ります。厚く塗って変に固まり始めてしまうと、長いと数週間かかります。(経験談)

さてさて、あとは指で触って、手に付かなければ、完成。ん〜簡単。薄く塗りさえすれば、2〜3日で固まる。

次はガラスだけど、こんな感じ。やはりちょっとの欠けのケースで、要領は上の片口と同じ。

斎藤ゆうのグラス

そして、次はやや、ややこしい。

ベトナム・ソンベー焼の小鉢

ご覧のとおり、やや大きく欠けてる。これだけ欠けが大きいと、特製うるし(金)だけで埋めると、どうしても多く塗るようになるから、先述のとおり固まるのが極端に遅くなる。


そこで登場するのが、エポキシ系樹脂の接着剤(通称ABボンド)。こいつを下地に使う。最初に厚紙の上で、AとBをよーく混ぜて、(硬化5分型の場合は)3分ぐらいそのまま置いておく。やや固まりかけた樹脂を竹串を使って、欠けてる箇所を埋めるようにつける。AとBを混ぜ合わせてから5分ぐらい経過すると、手で触ってもくっつかなくなり、かつまだ硬くは固まってないので、そのタイミングに指でおさえるなどして形を整える。それが上の写真。

接着剤が固まったら、あとは片口の要領と同じように金色のうるしを塗る(薄く)。もしも接着剤を盛りすぎたら、完全に固まった後、やすりなどで削ることも可能だ。下の写真が金色のうるしを塗って乾いたところ。下地の接着剤の形をしっかり整えるのがポイントと言えよう。それで、金色うるしを薄く塗れるからね。


「欠けた茶碗は良くないと思うけど、継ぎがしてあればいいのよ。継ぎさえしてあれば」

「そうねー、でも最近、金継ぎした器って見ないわねぇ〜」

2012年5月22日火曜日

金環日食の陽差しに思う

今回のエントリでは、前回の「金継ぎday」の続きのハズだったけど、それは延期します。

さてさて、東京在住の私は、昨日、カミさんがメガネを買っててくれたおかげで金環を見れた。だが、一日たったきょうでも、私の記憶に強く残っているのは、金環の輪より、金環日食の前後10分ぐらいの陽差しだった。その陽差しはあまりに妙で、普段見慣れた自宅の周りの景色が、まるで映画の不思議なシーンの中のように感じた。

冒頭の写真は、そのときの自分の影を撮ったもの。影が薄いのが分かりますか。日の出・日没のトワイライトでこんな影は出来やしない。かと言って、単なる薄曇りの陽差しとも違い、妙に赤味がかった柔らかい光だった。その陽差しが差している間、とても妙な気分、変な気分を味わった。

そして、昔の人のことを思った。あらかじめ日食が起こることを知らずに、突然こんな陽差しを経験した昔の人はどんなふうに感じたのだろう?と。

以前のエントリ「タイの皆既月食」で、皆既月食のことを書いた。タイという国で、それは「不吉なこと」とされていて、月食が早く終わることを願う。そのくらいだから、日食もそういう場所があるかも知れない。普段はさんさんと輝く太陽なのに、何故かその10〜20分の間、妙な陽差しになる。電気もなかった昔は、今よりずっと陽差しに対して敏感だったとも思う。

私は日食の間のその妙な陽差しの中、昔の人の気分を必死に想像した。

人間は、たぶん昔から「当たり前」と思うことによって、心配事を少なくしてきたと思う。特に自然に対して。心配事は誰でも嫌だから、減らせるものなら減らしたい。でも、過剰に減らすことは危険をはらむ。

去年の震災の記憶も新しいので特にそう思うのかも知れないが、例えば、きれいな空気は無尽蔵にあるのではなく、大気汚染もある。「当たり前」と思っている恋人や連れ合いも自分から離れていくことだってあるかも知れない。

そんな普段は「当たり前」と思っていることを、「何もないこと」と誤解することはとても危険なときがある。自然に対し、または人に対し、感謝を忘れてしまうときの危険だ。

晴天の下、太陽はさんさんと輝くもの。
それはかなり「当たり前」に近いが、実は違う。

昔の人は、日食を通して、「当たり前のことなんか本当はない」と自分たちを戒めていたのではなかろうか、と思った。そう思うと、例えばそれを「不吉なこと」と考えることも、自戒の意味で有意義だったかも知れない。

と、こんな想像をした昨日は、夕食後、4歳の息子と「戦いごっこ」をいつもの2倍した。その間に7歳の娘は宿題をし、カミさんは家事ができる。でも2倍もしたので、ぐったりした。いい歳だ。無理はいけないんだけど。

2012年5月16日水曜日

金継ぎday

 「あたしゃ、破けたり穴があいてる服着てる人はだらしないと思うけど、継ぎがしてあればいいのよ〜。継ぎさえしてあれば」

「そうねー、でも最近、継ぎのあたったズボンはいてる人って見ないわねぇ〜」

30年も前のことだけど、皿洗いのアルバイト先だった新宿の居酒屋への出勤途中、同じエレベーターに乗り合わせた年配の女性従業員二人の会話だった。

この何気ない会話を耳にした二十歳の私は、「ん〜、もっともだー」と思った。だからといって、その後自分が着る服に継ぎをあてたことはあまりなかったが、その「継ぎ」という言葉は私の中に根付いた。

「欠けた茶碗は良くないと思うけど、継ぎがしてあればいいのよ。継ぎさえしてあれば」

と、ちょうど30年前、エレベーターの中で聞いた会話を反芻(はんすう)するように、ここ10年ぐらい私は我が家の器を「金継ぎ」している。

我が家の器は、作家モノ、古いモノ、ベトナム・ソンベー焼のモノが多い。これらの器は共通して独特の柔らかさと温もりがある。しかし、その分生地がもろいから、よく欠ける。欠ける以上に壊れると、生地のもろい陶器はポロポロと細かな破片になりがちで、そこまでいくと諦められる。だけどよくあるのは、ちょこっとフチが欠けたり、釉薬が剥がれたり。

「こんなことぐらいで使えないなんて耐えられない。でも、ずう〜っとそのまま使うのも何だな〜」

と、そんなときは「金継ぎ」だ。

ただ、器が欠けるのは一個一個。「金継ぎ」はその都度やってられない。だから、私は1〜2年に一度ぐらい、「金継ぎday」を設けて、その日は数々の器を「金継ぎ」しまくることにしている。先日の連休中の一日を「金継ぎday」にした。

まず、用意するモノは以下の写真。

●特製うるし(金)
●エポキシ系樹脂の接着剤

材料としてはこの2つ。写真では3つあるが、ちょうど古い接着剤がなくなりそうだったので、新しいのも写真に加えて、接着剤2つと特製うるし(金)だ。これに、

●竹串またはツマヨウジ(ツマヨウジも竹製が使いやすい)
●厚手の紙(菓子のパッケージなど、そのへんの余ったので十分)

を使う。

エポキシ系樹脂の接着剤はいろんなメーカーから出ているが、どこでもいいと思う。また、「透明」「白」など、樹脂が固まったときの色の選択肢があるが、器の色は様々だから「透明」が無難だと思う。また、「5分」「15分」など、硬化時間が何種類かあるが、私は「5分」を使う。そして特製うるし。これは元々釣り具(和竿)用だと思う。これも数種類の色がある。「金」継ぎにしたければ、「金」色の粉がついてる「金」を買う。「銀」もあったと思う。

元来、「金継ぎ」は、割れた陶器を金色の漆でくっつけるものだと思うが、私の場合、くっつけるときはこのエポキシ系樹脂の接着剤。また「欠け」が小さい場合は、特製うるし(金)だけだが、「欠け」が大きい場合は、この接着剤と特製うるしの両方を使う。

30年前の話なんかしてたら、長くなってしまった。次回のエントリで私流の金継ぎの実践編を書きます。