2009年11月24日火曜日

森林伐採の棒


「抜けるような青空」とはこういう空だろう。その空の下、さっそうとオートバイが走っている。実にのどかな風景だ。ここは「カンホアの塩」の塩田へ向かう道。しかし、写真のピントは右側の赤と白のシマシマに数字が書いてある棒に合っている。きょうのブログのタイトルのとおり、これは、「森林伐採の棒」とも言えなくもない。これ、何だか分かります? 

塩田へはあと2〜3分といったところなので、海へももうすぐだ。この写真からは想像出来ないが、実はこの辺りは、毎年雨期になると水浸しになる。今(11月)、カンホアはちょうど雨期だ。この写真は今年の5月、乾期真っ盛りのときに撮ったもの。

少し前まで(15〜20年ぐらい前まで)ベトナムの田舎では、一般家庭用も含め燃料はみんな薪や炭を使っていた。(もちろん日本も昔はそうだった)ところが、経済も発展し人口が増えると、それまで続いていた薪や炭の循環による燃料だけでは足りなくなり、山に生えてる木を切り始めた。そして、しばらくして山はハゲ坊主になってしまった。10年ほど前、私はバスで山を走ったことがあったが、見事というかゾッとするぐらい木が切られた風景を思い出す。当然、山の保水力は衰え、やがてその山の下にあたる地域は雨期時の洪水の規模を増した。死者が出ることも決して珍しくないほどだ。

あわてたベトナム政府は、木の伐採の規制を強化し取り締まった。その結果、少しずつだが回復に向かっているという。いくら植物の成長が早い熱帯とはいえ、とても時間がかかることは言うまでもない。現在は、ちょっとした町ならガスが普及しているし、七輪を使っている田舎でも薪や炭の燃料は禁止され、すべて練炭になっている。

写真の赤白の棒、分かりましたか? こいつは、この辺りが水浸しになったとき、その水深を示す定規なのです。どんなに起伏のある道でも、水は平らにしてしまうから、上から見ただけで、その深さは分からない。例えば、水深20cmまでなら自分の乗ってるオートバイのエンジンに水が入らないとすれば、それ以上のところは通れない。それを確認するための定規である。

洪水は毎年あるので、こうしてコンクリートでしっかり作られている。もちろんこの辺りでも低い場所に立っている。ベトナムはメートル法が一般的なので、“2”は20cmを示すんだろうけど、“2”の上端に水面が来ると“2”が見えなくなっちゃうな。ん、まぁ細かいことは抜きにして、定規なんです。これが20cmならまだしも、120cmまで目盛りがある。120cmまでは来ないにしても、車が通れないぐらい(50cm)にはなることがあるらしい。私は雨期にもこのあたりに来たことはあるが、洪水の最中にはないので、実体験としては分からない。でも、これは決して飾りではないのです。

ところで、植樹活動はちゃんと行われているのか、気になるところだ。こうした森林伐採の話は、環境問題の課題としてしばしばあるが、そういう社会問題としてだけでなく、毎年の雨期には、塩田も塩田で働いている人たちの家も水浸しになる。私と直接関係ある人たちにも被害は及んでいる。

一度、カンホアの天日塩生産者に、「将来、少しでも出来る範囲で山に木を植えたいと思うが、どう思う?」と話したことがある。しかし、「そりゃ〜、喜ぶ人はいると思うけど・・・」とつれない反応。例えば、日本で言えばNGO組織などが植樹運動をしていれば、それに協力する形を比較的簡単にとれるだろうが、そういう雰囲気はまるでない。だから、もし現実的に行うとすれば、役所をからめてそのシステム作りから始めなくてはならないだろう。もちろんその際は、カンホアの天日塩生産者も巻き込んでのことになるだろう。それなりの覚悟は必要だ。

残念ながら、現在のところ、私にそこまでの余力はない。「カンホアの塩」は日本の人に喜んでもらいたい、また生産地もそれなりの技術的・経済的恩恵を受けてもらうことで、ひとつの循環がそこに生まれれば、という気持ちで作っている。最低限度、そこまでの循環がないと、このようなことは難しい。そういう意味で、余力がない。

しかし、一過性の経済優先で失われた環境は、結果的に社会全体としては不利益だという、(悪い意味での)経験値は日本の方が高い。せっかくだから、それは何とかして伝えたい。が、これがかなり難しいのだ。ただ、もしそこまで出来たらそれは絶対にすばらしいことだ。そんな夢もあるから、この仕事を続けられているのかも知れない。

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2009年11月17日火曜日

「ズルズル」の文化


前のブログで、麺の「ズルズル」を書いた後、もう一歩踏み込んで、「ズルズル」を考えてみたくなった。「ズルズル」は世界的にとても特別なもの。考えてみる価値を感じてしまった。

まず、麺の食べ方のスタイルは大きく3種類に分かれると思う。

  1. 日本では、もり・せいろ・ざる・そうめんなど、つゆにつけて食べる麺(以下、「つゆ麺」と称す)

  2. ラーメンやフォーなどの「汁麺」、朝鮮の冷麺もこれに入る

  3. スパゲティーなど主に絡まったソースで食べる麺


上の3つの麺類で、私が最も「ズルズル」を必要と感じるのは、間違いなく1番のつゆ麺だ。2番の汁麺はケースバイケース。着てる物にもよったりしてね。3番は「ズルズル」しない。

汁麺をケースバイケースと思うのはなぜだろう。何となくのイメージでは、麺以外の具材がたくさん入っている汁麺は具材と共に食べることもあるから、「ズルズル」な印象は比較的薄いが、ちょっとトッピング程度のシンプルなラーメンやフォーは「ズルズル」する印象がややある。やはり、「ズルズル」は「麺と汁との絡み具合」がその骨子だろう。汁麺はあらかじめ汁に浸かっており、つゆ麺は自分で浸ける。もしかしたら、私にとって、汁麺の「ズルズル」はつゆ麺の「ズルズル」の延長線上にあるのかも知れない・・・・という仮説の下、つゆ麺の「ズルズル」を深ーく考察してみようと思う。

ちょっと話が面倒になってきた。ちょうど今蕎麦がうまい時だし、蕎麦に絞って進める。

まず、蕎麦(そば切り)を汁にドップリつけると、大概はつゆの香り・味が勝ち過ぎて、蕎麦の味・香りが消され過ぎてしまう。だから、箸でとった蕎麦の5cmぐらいは残して下の部分をつゆにつけるぐらいがちょうどいい。そして素早く「ズルズル」っとする。ちょうど落語家の人が扇子の箸で蕎麦を食べる感じだ(「時そば」は汁麺だったと思ったが)。それで思い出したが、蕎麦通と呼ばれる人が「死ぬまでに一度でいいから蕎麦をたっぷりつゆにつけて食べたかった」というオチの落語があったような気がする。やせ我慢はよくないが、やはり適度が一番いい。・・・・ちょっと話がそれたので、戻します。・・・・何しろ素早く「ズルズル」っとすると、口の中で蕎麦と適量の汁がうまく絡み、独特のハーモニーを醸し出す。これは蕎麦をつゆに適度に浸けてゆっくりハムハムするのとは違う。素早く「ズルズル」っとすることにより、蕎麦とつゆだけでなく、「空気」も口の中に一緒に入り、その3者の絡みで、蕎麦とつゆのハーモニーを感じるのだ。私にとって「ズルズル」の意味は、この「空気」をも一緒に食べることにある。

またオプションとして私の場合、最初の一口の前に、一度は蕎麦だけを2〜3本つゆに浸けずに口に運び、蕎麦の香り・甘さも含めた味を記憶にとどめ、つゆを浸ける量を調整しながら「ズルズル」する。蕎麦を食すとき、蕎麦の香り・味を感じたいと思う。これはうどんの小麦の味・香りも一緒だ。

こうしたことはスパゲティーではあり得ない。粘性のあるソースがあらかじめ平均的に麺に絡まっているので、「ズルズル」するとかえってそのバランスを崩しかねない。それにソースが飛び散るのもイヤだ。だから「ズルズルは御法度」なのも頷ける。

でも、蕎麦はね。うどんもそうめんも冷や麦も、つゆ麺はね・・・・
もー、世界の誰が「ズルズルは御法度」と言おうが、「ズルズル」は止められない。

きょうは、「ズルズル」の文化を考えてみようと臨んだが、気がつくと私の全く主観的な、単なる「ズルズル」の言い訳に過ぎないな。もーいいや、「ズルズル」のどこが悪い!

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2009年11月10日火曜日

蕎麦屋のシンフォニー


昔、私が二十歳ぐらいのときのこと。スイス人の友だちが日本に遊びに来ていて、一緒に蕎麦屋に入った。もりだかせいろだかを頼んで、私はズルズルと普通に食べ始めた。それを見ていたスイス人の友だちは、目を見開いて驚愕している。最初、私は彼に何が起きたか理解できなかった。「どうしたの?」ときいても、興奮して「お前スゴイな〜」と言うだけ。似たような経験をお持ちの方もいらっしゃるだろう。

彼ら西洋の人たちにとって、「ズルズル音を立てて食べる」ということは御法度だ。幼い頃から、「音を立てて食べてはいけません」と躾けられている。日本も共通しているが、麺類だけは例外だ。その意識のなかった私はゆるーい感じで、「蕎麦はこうして食べた方がうまい。やってみな」と言った。でもこれがいくら頑張っても出来ない。「これも日本の文化」と彼は何度か仕切り直して頑張ってみるが、出来ない。それはまるで自転車に乗ったことのない人に「ペダルをこげばいいんだよ」と言うのと同じようだった。

彼は、ズルズル食べることを諦めると、今度は腹を抱えて笑い出した。彼曰く「(蕎麦屋が)スゴイことになってるー」。私はそれまで意識したことなかったが、意識してみると、あっちで「ズルズル」こっちでも「ズルズル」。その店のあちこちから「ズルズル」が、まるで田んぼの蛙のシンフォニーのように聞こえてくるのだ。彼にしてみれば、禁断の行為がまるで無法地帯のように行われているからおかしくてたまらない。

ところ変わってベトナムはサイゴン。今年、「カンホアの塩」の生産者の人(ベトナム人)と、日本料理店で一緒に食事をした。お造りだの天ぷらだのを肴に日本酒を飲んで、シメに蕎麦となった。そーしたら、出来ないんです。麺類が豊富なベトナムの人も。広くは東アジアは麺類が豊富だから、そこの人たちはみんな「ズルズルする」と私は勝手に思いこんでいたが、それは大きな間違いだった。

よく考えてみた。

ベトナムのフォーは汁麺(noodle soup)だが、ベトナムでもブンという麺は、ときどきつゆにつけても食べる。が、サーブされるブンは日本のもりやせいろのようにパラパラしてなくて、麺がくっついて固まりになっている。箸でその固まりを刺すように取る。固まりになってると食べにくいから、つゆにドップリつける。ドップリつけるとブンはつゆの中でほぐれて食べやすくなる。それに若干の違和感を感じたことを思い出した。しかし、もちろんそれは「そーいうもの」であり、それなりにおいしい。

何しろ、世界で(アジアも含め)「ズルズル」は特別なことなのだ。

・・・・と話が結論めいてきて、私は鏡の中の自分を見る。ベトナムで私がフォーやブンを食べるとき、「ズルズル」してなかったか? もう相当な回数食べているけど、どうしても思い出せない。あまりに日常的なことなので全く記憶に残っていないのだ。「ベトナムの普通のご飯」という見出しのブログでも少し触れたが、ベトナムで食べ方の流儀はいくらかあれど、無礼にあたるタブーのようなことはあまりない。だから「ズルズル」の受け取り方も西洋とは違うからやや安心。まぁ、単純に周りの視線に私が鈍感だっただけかも知れないが。

ん〜、でもやっぱりベトナムで麺類を食べるときも、個人的には人の視線を気にせず、ノビノビとズルズルしたいなと思う私がいる。

(冒頭写真は、東京・八王子の車屋さんの「鴨せいろ」)

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