私は、エリック・サティが好きだが、そのピアノは、フランス・クリダのが好きだ。他のピアニストの録音を聞くと違和感を覚えるほど、私の中では、断然フランス・クリダ。全体的にメローで控えめな演奏に聞こえるが、「ココ」というところで「強さ」がキラッと光ると感じる。つまり私の中では、彼女が最もエリック・サティを理解しているように感じるということだ。
もう35年から40年ぐらい前の話だが、歌舞伎座へ坂東玉三郎の舞だけの幕を一幕見したことがあった。狂言の名は覚えていない。今もそうだが、当時も歌舞伎に詳しい訳でもなく、「坂東玉三郎の舞」というだけで、「一回、見てみたい」と思い、30分ぐらいのその一幕を観た。・・・・感動した。「こんな世界があるのか」と度肝を抜かれた。玉三郎が黒地に部分的に派手な柄が入った着物を着て、花道の半分辺りのところでずっと舞っていた。ただただ一人で舞い続けた。一幕見だから舞台まで遠いのだが、花道の半分ぐらいだと、本舞台よりずっと見やすい。私は若い頃、歌舞伎を10回ぐらい観に行ったが、全て一幕見。だから、舞台や花道を観る角度も一幕見席からの角度しかなかったはずなのだが、どういう訳か、その舞は、その花道のすぐ下から見上げた角度の記憶になっていて、指先の細かな動きまで含めたものだ。どー考えても間違った記憶なのだけど。何しろ、当時二十歳そこそこの私が、「女性の美しさとはこういうものなんだ」と、目を奪われ、心を鷲づかみにされた記憶が残っている。
つい先日、フランス・クリダのピアノのエリック・サティを聞いていたとき、ふとあのときの玉三郎の舞を思い出した。何でだろう? と自分に問いかけた。おそらく、両者は、性別を跨いで、その繊細さを表現しているところが共通しているんだと思った。
エリック・サティという男性の繊細さを、女性のフランス・クリダがピアノで表現する。
男性の坂東玉三郎が、女性の繊細さを舞で表現する。
「性別を跨ぐ」という言葉を使ったが、それはどこかぎこちなく、跨いではいない。女性の中の男性性(だんせいせい)、そして男性の中の女性性(じょせいせい)という気もしなくもないが、生物としての性別と人間の性質は異なるのだ。その繊細さは性別がない世界なのだろう。私にはそんな表現をすることは難しいが、何となくそれを感じることは出来る。そして、それは目映いほどに美しい。