2011年7月27日水曜日

カンカン照りの土用干し


梅干しや
  台風去って
    土用干し


というわけで、一昨日から土用干しを始めた。梅干しの土用干しは、仕上げの最終工程で、通常3日行う。きょうが3日目で最終日・・・・と言いたいところだったが、あいにくきょうの東京は天気が思わしくない。明日に延期した。

台風6号が来る前は、カンカン照りの土用干し日和が続いた。「あー、この陽差し、梅干し干すのにちょうどいいなー」と思ったものの、梅を干すには早すぎた。その時点では、シソに漬かっていた時間が短すぎると思ったからだ。台風が去って、「さぁー、今だー」と一昨日から干し始めたものの、台風前のカンカン照りほどではない。さらに、今朝の新聞の片隅に、気になる記事が・・・・。

「今月末から1週間ほど気温が平年よりかなり低くなる恐れがある」

来週は1週間ベトナム出張なので、やろうったってその間に土用干しは出来ないが、帰国してから再び台風前のカンカン照りが戻ってくるだろうか。「それはないかも知れない」と思った。これまでも、今年のように梅雨明けが早い年があったが、そんな年は夏が去るのも早いというのが私のイメージだからだ。統計は調べていない。また、1週間の出張から帰ってきての土用干しとなると、出張の間、梅が漬かった瓶の中のカビチェックが出来ない。天気と並び、これもリスクのひとつになる。

こうして、私はカンカン照りを待ち焦がれている。アスファルトの町で暮らしていると、「暑い」のは嫌なものだ。でも、「梅を干すため」という理由があるだけで、逆に「待ち焦がれる」ことになる。ここにも毎年私が梅干し作りを続けている理由があるのかも知れない。つまり、かんかん照りを「暑い」と思わず、「待ち焦がれる」ため。

私は天日塩作りの商品開発で、現地に長く滞在していたときにも、似たようなことを感じた。私が作る天日だけで干し上げる「カンホアの塩」の場合、海水から塩が出来上がるまでおよそ2〜3ヶ月かかる。いろいろ工夫を凝らした製造工程を経て、「さぁ、やっと明日は収穫だー」というときに、たまに雨が降ることがある。降ると当然、収穫は先延ばしになる。そんな状況では、カンカン照りを「暑い」なんて全く思わない。ひたすら「待ち焦がれる」だけだ。

きっと農家の人たちは、「寒い」ことや「雨降り」などなどの要素も加わるから、さぞかし「そのまま」を受け入れながら暮らしているんだろうと思いを馳せる。

私は、カンカン照りの静寂が好きだ。カンカン照りには静寂がある。たとえ町の真ん中で信号待ちしていても、カンカン照りだと、車の騒音が聞こえないような錯覚に陥る。蝉の声が響き渡っていても、カンカン照りだと静寂を感じる。

明日はそんなカンカン照りにならないかなー。

2011年7月15日金曜日

好きなものを腹一杯食べること


先のエントリ、鰻とご飯のバランスで、おいしい鰻をたくさん食べることを書いた。その鰻の話はごく最近のことだが、それは最近始まったことではない。それを書いていて、久しぶりに思い出した子供の頃の記憶があった。

私が小学校4年生ぐらいのときのこと。もう40年も前のことだ。

「好きなものを腹一杯食べてみたーい」

そう強く強く思っていたことがある。
当時、我が家は東京の下町の商店街で家族経営の中華料理店を営んでいた。そして住まいはその店の奥にあった。「お前、いつもラーメン食べられていいな」と友だちによく言われた。本人には優越感のカケラもなかったが・・・・。まぁ、だいたいそういうものだ。

当時、そんな私が腹一杯食べてみたかったのは、ケーキ(洋菓子)。

何せ住まいが商店街だったから、商店街を毎日何度も行き来するのだが、日中と夜とでは景色がずいぶん変わった。その洋菓子店は、我が家の並びの5軒先だった。ちょうどアーケードが切れて3軒ぐらいしたところ。街灯はあるものの、アーケードがない分周りは暗くなる。夜になるとそのきらびやかな店内の照明はまるで別世界を照らしているかのようだった。冒頭のイラストは、その洋菓子店を思い出しながら描いたもの。

子供だから、夜はあまり外出しない。が、その住まいには風呂がなかったので、日が暮れた頃に、毎日銭湯に通った。銭湯はその洋菓子店の少し先だった。ガラス張りの洋菓子店。その中にあるショウウィンドウには、キラキラした照明に照らされた色とりどりのケーキが並んでいた。風呂桶を抱えながら、店の前に立ち止まり、「あのモンブランとかいうやつ、どんな味がするのかな」とか「昨日はなかったイチゴのショートケーキがきょうはたくさんあるな」などと、毎日見入ってから銭湯へ行ったり、銭湯から帰ってきたり。

幸か不幸か、そのガラス張りの洋菓子店は差ほど流行ってなかったので、外からでもショウウィンドウのケーキがよく見えた。そのショウウィンドウ越しにはいつも30歳ぐらいの男性の店主が新聞なんかを読みながら座っていた。その人がケーキも作っていたと思う。5軒隣だから、もちろん店主は私のことを知っている。新聞を読んでいた店主がケーキに見入っている私に気がつき、私と目が合うと、私はガラス越しに会釈した。すると、決まって店主はニコッと微笑んでくれた。

当然、私は「ケーキ、買ってよー」と親にねだった。親は、年に1〜2度(誕生日など)には買ってくれたものの、食べても1個。(4年生ぐらいでも1個はペロッと食べてしまう) そして常に残る「あ〜、もっと他のケーキもいっぱい食べたいな〜」という思い・・・・。

「あのショウウィンドウに並んだケーキを、誰にも止められることなく、片っ端から食べてみたーい」

という少年の思いは募るばかり。
そして少年は決意した。

「小遣い貯めるぞー」

これは「決意」ぐらいしないと出来ない。1日10円か20円の小遣いで、それまではせいぜい2〜3日貯めて、一番安いプラモデルを買うのが精一杯。普段は毎日駄菓子を買った。ときどきボールや爆竹などの遊び道具。しかし「ケーキを片っ端から食べる」となると、まぁ1ヶ月以上は我慢の日々が続くことになる。

しかし、その決意は実った。

500〜600円ぐらい貯まったんだと思う。毎日、ガラス越しに見るだけだったお店の重い扉を押し、中へ入った。毎日見ている景色だけど、外から見るのと中に入ったのとでは大違い。緊張し、浮き足だった。

店主は、「あれっ、どうしたの?」と、中に入った少年を不思議そうに見つめた。「きょうは、買うんです」。声が少し震えた。店主にケーキの説明を受けつつ、握りしめたコインを何度も見て、足し算をし、そのときのベストの選択をし、5つ買って店を出た。「ありがとうございます」背中越しの言葉に反応出来る余裕はなかったが、少し大人になった気分になった。

帰宅し目の前のテーブルにケーキを5つ横に並べ、「さーどれから食べようかな〜」。幸せの絶頂だった。

ケーキは1つ減り、2つ減り・・・・。ちょっとずつ無くなっていく寂しさ。そして、次へ次へといくほどに、何故か薄れていく感動。5つすべてを平らげたとき、その数分前の高揚感はすっかり消えていた。

何もケーキがおいしくなかったんじゃない。いくら違うケーキとは言え、5つも食べるとさすがに飽きてしまったのだった。

このケーキ経験の後、近所の鶏肉専門店の店頭でいいにおいを放ちながら焼いてる焼き鳥、そしてバナナ(時代を感じますね)と、「好きなものを腹一杯食べてみたーい」シリーズは少し続いたが、同じものを再びということは一度としてなかった。

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大人になって、バカになってる自分に気がついた。気づかせてくれたのは子供の頃の自分、というのも妙な気分だ。

2011年7月12日火曜日

鰻とご飯のバランス


先週末は、東京も梅雨明け宣言。その前日の金曜日の陽の高いとき、鰻を食した。上の写真がそれ。人形町・大和田本店の「桜」。「もー、絶対ご飯は見せません!」という感じで、立派な蒲焼きが3枚どーんとのっかってる。旨かった。

このときは連れがいた。彼は暖簾をくぐったそばから、「桜2つ、肝吸いつけてね」と、私のためにも蒲焼き3枚のせの「桜」を注文してくれた。そして鰻重が出てくるまでの間、彼は「シーズン中、2回これを食えば満足だ」と言って微笑んだ。

これまでも私は、ここの鰻は旨いなと思うと、今回のような3枚のせや、下から、ご飯・鰻・ご飯・鰻(鰻は計4枚)という2階建ての鰻重を何度か頼んだことがあったが、食べ終わってからいつも後悔した。

アツアツの鰻重を、悠長に箸でつつきながら酒のアテにするのも野暮なので、目の前に出されると思わずかっ食らいたくなる。それはご飯なしの蒲焼きでも白焼きでもそうだ。鰻の旨みと炭火で焼かれた香ばしさのハーモニーは重要だし、話に夢中になったりして時間が経つと、鰻の身自体がくったりしてしまって興ざめだ。

今回もどーんと3枚のせの「桜」が目の前に来ると、やはり、かっ食らった。たしかにここの鰻は旨かった。鰻自体も旨く、蒸し加減もちょうどいい、タレの甘さ・塩辛さも程よい感じだ。でも、いくら鰻が旨くても、多すぎると、食後は脳天が鰻でパンパンになり、どーも落ち着いて「旨かったー」としみじみ出来ない。そして「もー、しばらく鰻はいいやー」という気分になってしまう。この「桜」を頼んでくれた連れが、「シーズン中、2回これを食えば満足だ」というのも、ある意味頷ける。ただ私にとっては「2回しか食えない」と言った方が正確かも知れない。

景気よく「桜」と頼んでくれた彼には感謝しているが、私にはちょうどよくおいしい、鰻とご飯のバランスがあり、それはこのお重にしてこの鰻だと2枚だ。

「2回しか食えない」。私は鰻を年間を通して5〜6回は食したいと思っている。そうなると、2枚のせがちょうどいい。食べ終わっても、「あ〜、旨かった。また食おう」という気分になるのだもの。

何とも贅沢な話だ。たまにとは言え、これは明らかに飽食だ。しかし、気分の問題なのだろうか、鰻を食べると元気になる気がする。元気になりたいから、ついつい勢い余って景気よく頼む。そして勢い余った分は、後悔へと繋がる。「大人食い」とは、大人げないものだ。そして私のエンゲル係数はますますイビツに上がる。

それにしても、考えてみると、年に5〜6回食したい私は、年に5〜6回も元気になりたいときがあるのだろう。連れだった彼は元気だものな。あ〜、きょうも暑い。でも私は、まだ鰻は食えない。

→次のエントリ 「好きなものを腹一杯食べること」につづく。