2013年10月18日金曜日

しゃぶりつき生乳

先のエントリでは、「想いやり生乳」を飲んで「感じたこと」を書いたが、きょうは、「思ったこと」を書きます。ちなみに、冷蔵庫の中の次の1本はまだ飲んでない。

「母乳は、乳房の中では血液で、乳首から外へ出る直前に母乳になるんです」

私が偶然居合わせて聞いた、想いやりファーム・長谷川氏の話だ。つまり、母乳とは血液のようなものだというお話。先のエントリで私は、「想いやり生乳」を飲んだ感想として、「体液のように身体の隅々に染み込んでいくよう」と書いたが、その体液(栄養)とは、血液のようなものなのだ。

「身体の隅々に染み込んでいく」

私は塩を作っているが、塩でも「身体の隅々に染み込んでいく」ような感覚がある。私にとって、おいしい塩とは、まさにその感覚がある塩で、身体が欲しがっているものを摂って喜ぶおいしさだ。だから、身体が感じる「身体の隅々に染み込んでいく」感覚にはとても興味がある。

しかし、「身体の隅々に染み込んでいく」と言っても、塩と乳(または血液)ではレベルが違う。何と言っても、乳には「生っぽさ」、または生きている「動的」な感じがあり、塩はいたって「静的」だ。もっと言えば、乳は生物で、塩は無生物な感覚がある。塩は無機物(=ミネラル)だけが成分で、母乳または血液は、様々な無機物とともに様々な有機物の栄養素の集まりだ。

数年前、コップに搾ってもらったカミさんの母乳を飲んだとき、何となくドキドキしたことを憶えている。その一種の興奮とも言える心境は、その母乳がとても「生々しいもの」に感じたからだった。例えば、生きてる魚介類を食べたときのような興奮。生きてる白魚やエビが口の中で暴れて感じるような興奮。この手の興奮があると、その味が分かりにくくなるものだ。乳の「生っぽさ」っていうのは、それにも似た気がする。

そして「生っぽさ」は通常、腐敗する。しかし、長谷川氏曰く、

「1日の瓶詰め作業は、機械の組み立てなどの準備に1時間、瓶詰めに2時間、そして機械を分解しての掃除に6時間なんです」

これで、「想いやり生乳」は、いけない菌(大腸菌群など)が入り込まずに、生のまま瓶詰めされる。「ただ、乳酸菌はいるので、そのまま置いて置くと、ヨーグルトにはなりますが」とのこと。「ふっ、へー」。裏返せば、通常の牛乳が、加熱殺菌せねばならない理由はここにある。そして加熱されることで、様々な成分も変わっちゃうということだ。それは飲めば分かる。

つまりは、です。

簡単に言って、「想いやり生乳」って、「しゃぶりつき生乳」、つまり母牛の乳首にしゃぶりついて飲むようなことなんじゃないか。母牛の体温があるかないかの違いはあれど、外から雑菌が入らないように、直接乳首にしゃぶりついて、非加熱の乳を飲むということなんじゃないか。

それにしても、「乳を飲む」ということはどういうことなんだろう? 子どもは、「乳飲み子」から、いつしか「乳離れ」する。そして一度「乳離れ」した後は、拒絶するものだ。しかし、大人になっても、牛乳や乳製品を飲み食べ続ける・・・・。

改めて考えさせられる。

★関連エントリ: 「想いやり生乳」と母乳(2013年10月8日)
★関連エントリ: 「乳を飲む」ということ(2013年11月11日)

2013年10月8日火曜日

「想いやり生乳」と母乳


2週間ほど前、知人宅にて偶然、ある生乳の生産者の方とお昼ご飯を一緒に食べながら、お話しをする機会があった。その方は、想いやりファームの長谷川さん。私はド素人な質問をいくつもしたが、それらにとても的確に答えて頂いただけでなく、妙なる生乳についての話を聞いたのだった。そして、すっかりと「その生乳、まずは飲まなきゃ」という気持ちになった。

実はその知人宅の冷蔵庫にも、その「想いやり生乳」があり、「持って来ようか?」とお誘いを受けたのだが、きくまでもなく高価なもののように思えたので、その場では遠慮し、その数日後、仲間と一緒に取り寄せて飲んだ。

スゴイ牛乳だった。
いや、「牛乳」ではなく、「生乳(せいにゅう)」と呼ばなくてはならない。

「生乳」それはつまり、牛から絞ったままの生(なま)の乳で、加熱などの殺菌もされていない。長谷川さんには、その牧場の話、工場の話、もちろん牛乳や生乳の話。いろいろ聞いて驚いたのだが、一番驚いたのは、それらの話しを聞いた数日後にそれを飲んだとき。衝撃的でさえあった。ややその興奮がまだ残ってさえいる。なので、いろいろな説明に先だって、まずは飲んで感じたことをこのエントリで書いてみたーい。

その名は、「想いやり生乳」。ちょっと上の写真では見にくいが、ピンク地に白抜きの文字で、「想いやり生乳」。そして、右側のビン、ウラ面には「生乳(無殺菌)」と記されている。

1本(180cc)を、家族4人で分けて飲んだ。1本525円(送料別)なので、貧乏くさいが、チビチビ飲んだ。チビチビと、心して飲んだ。

さーて、私のひと口目。

最初に「えっ?」って感じ。この「えっ?」は、意表を突かれた「えっ?」だ。うかつにも私は牛乳を口にしたつもりだったのだ。なので私は「別のモノ」を口にしたような感覚に陥った。そう、これは(加熱殺菌された)牛乳ではなく、「生乳」であり、その両者は「別のモノ」なのだ。私は動揺した。

少し冷静さを取り戻して、ふた口目。

感じたというか思い出したのは、「母乳」だった。「あっ、母乳だ」と思った瞬間、口に入ったその生乳は少しずつ、体液のように身体の隅々に染み込んでいくようだった。スゴイ。何だこのスムーズさは。

それは数年前のこと。うちの子どもが毎日ゴクゴク母乳をむさぼるように飲んでるのを見ていて、「母乳ってどんな味がするんだろ? うまいのかな?」と思ったことがあった。数年前のことながら、その記憶はまだハッキリとある。カミさんに頼んで、10ccほどコップに絞り出してもらった母乳は、半透明からやや薄めの乳白色だった。そのときの私の先入観として、粉ミルクと牛乳があった。ひと口目を飲んだときは、「えっ(何だコレ)?」って感じで、少し冷静になったふた口目は、身体の隅々に染み込んでいくようだった。母乳と粉ミルクはずいぶん違うことを実感した。

さて、もうお気づきと思います。最初の「えっ?」にしても、その味自体にしても、「想いやり生乳」と母乳は酷似している。強いて違いを言えば、人間の母乳の方が若干甘かったことぐらいだ。ちなみに粉ミルクはもっと甘い。

そのへんの微妙な違いについて、カミさんに尋ねると、

「母乳って毎日味が変わるのよ。これ(想いやり生乳)は母乳(または母親)が、いい(健康的な)状態のときの味がするなー」

「へぇ〜」と、関心する私。

でまぁ、ですね・・・・。
まだ飲んだことのない人にとって、それが「おいしいのかどうか?」、きっと興味あるところと思います。でも、どーも私には、それを一口では言えないのです。奥歯にモノが挟まった言い方だけど、それは「いい状態の母乳」とまで言うカミさんも同じような感想だった。

「おいしい」とか「おいしくない」とかいうのではなく、体液を摂ってそれが身体に染み込んでいってるように感じたのです。飲物という感覚だと、「おいしい・まずい」みたいなことがあると思うのだけど、飲物というより、「栄養」って感じなのです。通常の食品・飲物は、消化器官が消化し、やがてそれが身体の栄養になるが、これは直接身体の栄養になっている感じ、と言ったら伝わるかな。何しろ「おいしい」という表現ではどーもピタっとこない。やっぱり私の感想は、「スゴイ」が一番ピッタリなのだ。

こういうときは、子どもです。アレコレ言わない子どもです。うちの二人の子どもに、50ccぐらい飲んでもらい感想をきいてみた。9歳の女子とは6歳の男子。お姉ちゃんの方は、「嫌じゃないけど、もう要らない」。そして、弟の方は、「おいしい! もっとないの?」。ずいぶん違う反応だ。その違いは何だろう?

何しろ、私はこの「想いやり生乳」を50ccほど飲んで、新たな経験をした気になった。高価だけど、この味を、ガブガブ飲む気にはならない。高価な珍味のように、週に一度、100ccぐらいを飲めば、身体には十分なような気もしている。

でも、それは、私が1本525円という値段にビビッて、余計な緊張があっただけなのか。何しろ、まだ50ccしか飲んでない。我が家の冷蔵庫には、あと2本眠っている。この次は、もっとリラックスして飲めるだろう。そう、取り寄せてからもう10日以上経つのだけど、この「想いやり生乳」は悪くならない(腐敗しない)。「無殺菌」なのは、腐らせる菌がいないからなのだ。

ここまで書いたが、まだ書きたいことが残っている。「想いやり生乳」を飲んで、私の中のいろいろなことが思い起こされた。それらを改めて書きたいと思う。

★関連エントリ: しゃぶりつき生乳(2013年10月18日)
★関連エントリ: 「乳を飲む」ということ(2013年11月11日)

2013年10月2日水曜日

カマキリ大好き

カマキリ、何と格好いいんだろう。
全くもって、ホレボレする。
「一番好きな虫は? 」ときかれたら、迷わずそれはカマキリだ。

何と言っても、まずはそのフォルム。

全てが計算され尽くしてしるかのように洗練されている。機能美という面もあるが、それだけでは決して言い尽くせない。6本の足一本一本の形、身体の線。そして何とも愛らしい逆三角形の頭とそこから飛び出した思い切り長い触角。それら全体の妙なるバランス。完璧だ。

さらに、その動き。

前後に揺れながら進むその動きには思わず見とれてしまう。このゆっくりな動きで、獲物に近づき、最後の一瞬で素早く飛びつく。10年ほど前、庭に張り出たデッキで洗濯物を干していたら、何やらバリバリと妙な音がした。それが洗濯物を干している間、つまりは5分ぐらいしても休むことなく鳴り続けていたので、その音源の方をよーく見たら、5メートルほど離れた草むらで、カマキリが殿様バッタをバリバリ音を鳴らして食べているではないか。スゴイ音だった。

たしか交尾の後、メスはオスを食べて滋養をとり、産卵する。この食べちゃうっていう行為。昔それを初めて知ったとき、私はオスなせいか、「え〜」とゾッとした記憶がある。でも最近、それは変わり、オスはそれで幸福感を得るような気がするようになった。ちょっと考えてみれば、それでそのオスは、子孫の繁栄に貢献しているのだ。春先によく見かける小さなカマキリの子供たちは、見るからに、か弱そうだ。あの中から一匹でも多く大きくなって欲しいとオスは望んでいる。

それにしても何て格好いいんだろう。

庭で見つけると、嬉しくなる。保護色だから視界に入っていても気づかないことがほとんどだと思う。それだけに、見つけたときは、いつも突然で、毎回ハッとする。そして「あー、うちの庭にいてくれている」とラッキーな気分に浸る。

下の写真は、2週間ほど前、草刈りしていたときに庭で見つけたカマキリさん。捕まえて、デッキの上にのせても堂々としている。そんなカマキリさんも枯葉色になったこの頃。しかし、腹部の羽部分だけはまだきれいな若草色。そのコントラストも美しい。こうして身体をねじりながら振り向いたお姿もまた一興。あー、何て格好いんだろう。