2011年12月27日火曜日

ピザ窯、完成


作りかけだったピザ窯が、先週末に完成した。先のエントリ、ピザの石窯、ただ今施工中 (11月28日付け)でも触れたように、「カンホアの塩」の石窯焼き塩のための石窯を応用して作った。我が家では3代目の窯にあたる。左に立てかけてある、大きな木製のヘラは、廃材の板を削ったもの。これで平らなピザやパンを出し入れする。(追記:雨除けは、しばらくの間はブルーシート。後日、屋根をつけた)

この窯の特徴は、コンパクトさ。窯本体内部のサイズは、幅67cm、奥行き45cm、高さ30cm。これで直径30cmのピザが焼ける。さらーに、この3代目は、壁際に置いたので、庭のハジっこになって、庭が広く使える。ただし、煙突が壁際になったので、掃除がしにくくなったというデメリットがある。誰も特別知りたくもないだろうけど、その煙突はモルタルづけしないで、レンガを積んだだけにした。つまり煙突・ロストルの掃除は、積んだレンガをどかしてするようになっている。

下の写真がその煙突。壁際コンパクトサイズのため、煙突の形が横長に平べったくなってる。写真は焚き始めの頃。このときは、煙突の口がちょっと広すぎたので、薄いレンガを一枚上にのせて半分ぐらいにしてる。こうして煙突の口を調整することで、ダンパーの役割をしてもらう。次に、焚き口。フタ自体は耐火レンガの半丁(はんぺん)。そのフタがのっているのは、赤レンガのはんぺんを切ったもの。
フタをのせる赤レンガのはんぺんは、その半丁分の高さをいかしていくつかの形に切ってあり、例えば下の写真のようにハの字に置いたりして焚き口の調整をする。下の写真は、窯の側面。基本的な窯の形は、赤レンガ2段積んだ上に、半円のアーチがのっかった、かまぼこ形になっている。完成時、「あ〜、出来た〜」と充足感に浸っている私に、カミさんは、「どーせピザなんか春にならないと焼く気にならないわよ」と冷や水をかける。確かに、こんな寒い中、いくら晴天の日中でもピザを焼く気にはならない。

とはいえ、私としては、せっかく完成したのだから、焚いてみたくなった。その気持ちの問題は大きいが、それだけではない。この窯にあった焚き方は実際に焚いてみないとわからないものだ。自分で設計したから、どんな風に焚くかも自分で探らないとならない。さー、いざ「ピザ焼くぞー」といきなりなると、最初は適した焚き方・焼き方を探りながらになる。

そーゆーこともあるので、まずはプレーンなパン(ホブス、ピタパン、またはチャパティのようなもの)を焼いてみた。5枚目ぐらいからだんだん上手に焼けるようになった。あと2〜3回練習すると、三分の力ぐらいでカッコ良くピザが焼けるようになるような気がする。

冬至がやっと過ぎた。
あ〜、今年は一段と春が待ち遠しい。

2011年12月21日水曜日

塩粕+大豆のソース


久保本家酒造の「塩粕」。生もとの酒粕と塩を合わせ2年熟成させたものだ。漬け床でもあるし、一種の調味料とも言える。通常、粕漬けの床には砂糖やみりんなど甘いものが入るが、この塩粕には入らず、塩のみ。「粕漬けは嫌いじゃないけど、あれで甘くなければもっといいのに・・・・」と思っている方には特にオススメです。もちろん2年の熟成期間を経てるので、すでにただの酒粕ではない。

去年、このブログでも書きました。・・・・塩粕(2010年4月16日)

そんなんで、今年の夏、晴れて「カンホアの塩」を使った塩粕が出来上がり、知り合いの酒屋さんに送ってもらった。届いたのを見てまず思ったのは、アメ色が以前より濃くなっていること。そして塩味がやや柔らかくなり、奥行きが出たような気がする。

それでです。早速、使ってみようとまずはエリンギを漬けたのですが、うちのカミさんが、今度は「大豆と合わせてみよう」と言い出し、早速やってもらった。

その大豆とは、湯がいたいわゆる「煮大豆」。それをフードプロセッサーにかけて、塩粕を加えて混ぜ込んだ。「作り方」ってほどのことはない。上の写真はそれをパンに塗ったもの。一昨日の朝食です。

塩粕に大豆を加えると聞いて、何となく思ったのは原材料的に味噌に近くなりそうな気がしたんだけど、実際は違った。クリーミーな感じになり、味にコクが出た。また大豆の分、塩分も低くなってるから、たっぷり塗れて、ホワイトソースを塗ったような感覚に近い。だから、パンに塗るだけでなく、いろんな食材とともにオーブンで焼くとグラタン風にもなりそうだ。市販のホワイトソースは、旨みが強い(または強すぎる)ものが多いと私は感じているが、その点もほどほどになるので、合わせた食材のおいしさが隠れない。

パンに湯がいたブロッコリーをのせて、この塩粕+大豆のソースを塗ってからトーストしたり、それで物足りなければチーズをのせてトーストしたり。ブロッコリーにツナやハムを一緒にしても・・・・。もちろんパンじゃなくてご飯でもドリア風になっていけそうだし、肉や魚に合わせても。

こいつを作り置きしておくと、「もう一品」なんてときはとっても重宝しそうでーす。

2011年12月16日金曜日

タイの皆既月食

先週末、皆既月食がありましたね。土曜日の夜11時頃という、日曜日が休日の人にとっては絶好のタイミング。私も日曜日が休みの口なのだけど、最近は9時〜10時には寝てしまう習慣から抜け出せず、11時にはぐっすり寝てしまった。

今から22〜23年前、私はタイ国南部の島、パンガン島にいた。今はかなり観光地化されている噂を聞くが、当時は、船着き場のある村以外は、電気もなく夜など必要なときは発電機で発電、だからケロシンのランプも大活躍していた。そんなところだから、夜は暗い。しかし、満月の夜は、夜道を歩くのに懐中電灯が必要ないほど明るかった。

そのパンガン島で、皆既月食を見た。街灯もないところだけど、それでもなるべく灯りのない場所がいいだろうと、仲間とともに夜道を30分ほど歩いて、人気のない海辺の高台へ行ってスタンバった。夜空は快晴。皆既月食のショウを満喫した。

ところで、このタイ国では、皆既月食の間に行うちょっと不思議な慣習がある。まず、皆既月食は「不吉なこと」というのが前提だ。月食が始まり2時間ほどで終わるまで、人々は両手に持った石をカチカチ鳴らす。なぜ石を鳴らすかというと、そうすると時間が早く進む、つまり不吉な時間が早く終わる、というのだ。

その皆既月食の間、私は人気のないところへ行ってしまったので、非常に残念ながら、このカチカチの音は聞けなかった。この話は、後でフランス人の旅行者から聞いたもの。

先にも書いたが、満月の夜は本当に明るい。街灯が当たり前の場所に住んでるとつい忘れがちだけど、それは夜の太陽と言えなくもないぐらい明るい。野球は出来なくてもサッカーぐらいはなんとか出来るんじゃなかろうか。昔から多くのお祭りが満月に行われるのも、この「明るさ」も理由のひとつだったんじゃなかろうか。月明かりに従った暮らしをしている人たちにとって、雲もないのに、それが突然暗くなるのが皆既月食だと思うと、それを「不吉なこと」という感覚になるもの分かるような気がする。

皆既月食ショウを見終えた私たち数人は、再び満月に照らされた、明るい山道を30分ほど歩いて、自分たちのバンガローへ帰った。

2011年11月30日水曜日

NYオリーブブレッド


先週末、うちのカミさんの両親、私の両親と私の家族4人、総勢8人で、うちの2人の子供の七五三のお祝いランチをした。2週間前に、近所の神社でご祈祷してもらって、そのとき境内で私が撮った記念写真を渡しがてらのランチだった。

実のところ、上の娘は満7歳、下の息子は数えで5歳(満4歳)なんだけど、無理矢理圧縮して、「一度にしちゃえ〜」と・・・・イカサマだけど、一度だし滅多にないイベント。その分パァ〜とランチしようということにした。そんなんで、場所は、パークハイアット東京のNYグリル。お天気にも恵まれ、52階からの眺めは最高で、東京スカイツリーも霞んで見えた。こういうメンバーでのアニバーサリーにはピッタリだった。

で、冒頭の写真は、このレストラン定番の食事パン、NYオリーブブレッド。近頃、このパンの粉の配合が17年ぶりに変わって、薄力粉が3割加わったという。「パンに薄力粉?」という方もいらっしゃると思うが、生地はややモッチリしてて、何とも素朴な味わいだった。

実はこのパンには我が「カンホアの塩」が使われている。その関係で、シェフからレシピまで教えてもらった。特徴は、ポーリッシュ種(水種、基本はフランス粉【中力粉】1:1水)の粉を薄力粉に変えたこと、とのこと。以下に記そう。

●NYオリーブブレッド●

薄力粉 300g
水 300g
イースト 0.5g
これを軽く合わせて常温で18時間かけてじっくり発酵させる。

そして 本捏ね。

フランス粉(中力粉)700g
水 340g
イースト 40g
カンホアの塩【石臼挽き】 15g
(普通20g程入るところ塩漬けオリーブが入るので少なめ)
オリーブ
バジルペースト

ところで、今から30年も前のこと。私は友人たちを訪ね歩きがてらに2ヶ月ほどヨーロッパを旅したことがある。そのとき食べた各地のパンには驚いた。あまりにいろいろあって、それぞれがあまりにおいしくて。

例えばパリの北駅のキオスクで普通に売ってた、チーズとハムのサンドイッチのバゲット。「キオスクで買ってこれかよー」と夜汽車のコンパートメントでしみじみ味わった感動は忘れられない。フランスのカレーの宿に泊まったときは、焼きたてのバゲットが朝食にふるまわれた。いくらでも食べられた。ウィーンで地元の人たちで賑わうパン屋の小ぶりで丸いライ麦パンには素朴な「粉のおいしさ」を教えてもらった。フィレンツェで、通りがかりに流行ってるパン屋を見つけたので買ってみたらパンに塩が入ってなくて驚いた。ローマの友人に連れてってもらった郊外のビザ屋のでっかい四角いピザも最高だった。「ピザはでかい方がうまい。焼きたてがうまい。だからお前にそれを食べさせるために、友だち10人呼んだ。みんなで食いに行くぞ」とイタリアらしくギューギューに乗った車3台で夜道を走った。なるほど大人数で食べれば、でっかいピザがすぐになくなるから、次から次へと常に焼きたてのいろいろなピザが食べられた。ワインが進む進む。(余談:ジュネーブの駅前にマクドナルドがあって、ハンバーガー食べたら、日本と全く同じだったのにも驚いた) チューリヒのテイクアウトのソーセージ屋でソーセージと一緒についてきたパン。ズッシリとうまかったな〜。ミコノス(ギリシャ)の港で、スバラキ(串焼き・羊肉だったと思う)の先っちょについてたパンのスライスもうまかったなー。何度か食ううち「スバラキにはこのパンがないと」なんて思いながらウゾを口に含んだ。

それら思い出に残ったパンたちにはみんな共通点がある。それは各地の料理・食材に合う、「素朴なおいしさ」だということだ。もちろんお邪魔した各友人宅で頂いたパンもしかり。30年も前のことながら、今でも記憶がすらすらとよみがえってくる。主食ってスゴイな。それが実感だった。当時私が日本で食べてたパンは何なんだとも思ったが、「日本ではご飯が主食」と疑わなかった。

しかし、時代は変わった。つくづく思う。日本でも、今じゃいろんなおいしさのパンにありつけるんだもの。それだけ、いろんなパンを求め始めたのだ。それは日本の人たちが好む料理・食材が変わってきたということ。私にとってパンは、ご飯の代わりというより、日本酒やワインに近い存在だ。発酵過程があるせいだろうか、いろんな料理・食材があっていろんな日本酒やワインがあるように、いろんなパンがあるのだ。

パンは、原材料・製法もいろんな選択肢があり、人の手がかかって出来上がるからこそ奥深く、いろんな顔がある。「とっても個性的でおいしいけど毎日食べるにはちょっと辛いな」というもの、また「毎日食べてられるけど、コレばっかりじゃつまらないな」とか。つまりは「きょうはこのおいしさ」、「明日はあのおいしさ」といろんな顔を楽しめる。

さて、強力粉が使われていない、モッチリ・シットリの食感の素朴な味わいのNYオリーブブレッド。

リッチなレストランのきらびやかさと、このパンの味わいの素朴さ。このコントラストが私的にはとっても気持ちよく、パンをお代わりした。そして4人のおじいちゃんおばあちゃんらも、「このパン、おいしい、おいしい」とお代わりしてた。この年配者4人は普段、パンといえば普通の食パンしか食べてない。そんな彼ら彼女らが、素直に「おいしい」と言える、NYオリーブブレッドだった。こんなところにも、このホテルのホスピタリティが密かに仕込まれているように思えた。

2011年11月28日月曜日

ピザの石窯、ただ今施工中


この間から、庭にピザ用の石窯を作り始めた。現在施工中。これで3代目だ。

初代は、簡単にレンガを四角く積んで、天井には鉄板をのっけただけ。窯というより、正確にはおくどさん(竈)だった。天井が鉄板なのは、ピザというより、チャパティが焼けるように作ったからだった。

その後、そのおくどさんでピザを焼くことを思いついたんだけど、ピザを焼くにはなかなか温度が上がらない。そこで、天井の鉄板の上にレンガを積んで、保温力をアップした。それで何とかピザも焼けたけど、熱が逃げるのが早くて、なかなか焼き続けるのが難しかった。

・・・・なんて思ってた頃、「カンホアの塩」の焼き塩の商品開発を始めた。これも石窯で焼く。「カンホアの塩」は私がプロデュースしてベトナムで作っている天日塩だけど、塩を焼く窯なんか、ベトナムでも日本でも世界中のどこでも、既製品なんてあるわけがない。だから、設計を含め自分で作るしかないわけだ。

・・・・ということで、石窯の勉強をせねばならなかった。特に窯の勉強なんてしたことのなかった私は、古くからの友人の陶芸家、黒沢有一氏に助けを求めた。陶芸用の窯は既製品もあるから、陶芸家さんみんなが自分で窯を作ってはいない。その点彼は自分で窯を作る上での知識・経験が豊富だったので、その知恵をお借りした。

彼には3回、カンホアへ来てもらった。それで窯を作ったり、焚き方の指導をしてもらったりして、「カンホアの塩」の【石窯 焼き塩】が出来上がった。

もちろん、彼だって塩を焼く窯を作ったのは初めて。窯の原理のようなことは、陶芸でも塩でも一緒だが、(粘土じゃなく)塩を焼くためにはそれなりの都合のようなものもある。その点も焼き塩用の窯には必要になったので、私も窯のことを知ってないとならない。

・・・・とは言っても、私はこういうことが好きなので、その設計から施工、窯焚きまでを含めて、楽しい仕事だった。そして、そのとき得た知識を応用して、我が家の庭のピザ窯の2代目を作ることにした。それがもう数年前だ。

2代目は、窯の中の対流を促すために、天井をアーチにした。アールのかかった園芸用のブロックを使ってね。これが簡単だった。そして、レンガを積むだけでなく、モルタルでくっつけた。普通のモルタルだけど。これで初代からすると飛躍的に温度が上がるようになり、ずいぶんと楽にピザが焼けるようになった。がしかし、温度を上げることを主眼にしたせいで、窯の入り口が小さくなった。ピザは直径15センチぐらいまで。また、普通のモルタルを使ったせいで、何度か使ううち、クラックが入って窯に穴が空いた状態になってしまったなどなど、少しずつ不都合が生じてきた。

そこで、今年の春、(隣にだけど)引っ越すことになったのを機に、思い切って3代目を作ることにした。

●ピザは直径30センチ
●窯の位置は壁際(煙突も壁際)
●天井のアーチはレンガで作る
●モルタルは耐火モルタルを使う

これで、ピザの直径は、15センチから30センチに。2代目と違い、窯の位置が壁際になったので、庭の中で場所をとらない。ただその反面、掃除の必要な煙突が壁際になったので、可動式にして掃除出来るようにした。天井のアーチは園芸用のブロックだと割れたので、木枠のアーチを作りレンガをのせてく工法にした。モルタルも耐火モルタルを使うことで伸縮性が出て、もう穴は空かないだろう。

・・・・てな具合に、3代目はさらなる進歩を遂げ、今年中には完成する・・・・かな。キッカケは塩を焼く窯作りだったけど、このピザ窯は趣味なので、楽しみながらゆっくり作ります。

2011年11月9日水曜日

カマンベールの味噌漬け


「乙(おつ)な味」という表現がピッタリだ。

先日、うちのカミさんが外で酒を飲んでたとき、メニューにあって頼んだ、カマンベール・チーズの味噌漬け。私は、その晩、子供の世話となったが、「こーれが結構イケルのよー」とうれしい土産話になった。

その飲んでた店は、東京・二子玉川のはせがわ酒店。私は行ったことがないので、酒屋さんと聞いて、「立ち呑みなの?」とついきいたが、女性でも気軽に寄れるオッシャレーなバーカウンターらしい。もちろん椅子もあるから立ち呑みとは言えない。

さて、そんなカマンベール・チーズの味噌漬け、早速自宅で作ってみた。

豆腐の味噌漬け、(カマンベールではない)チーズの味噌漬け。似たようなものがいくつかあるけど、カマンベールの味噌漬けは、何とも言えぬ「ほどほどさ」のようなものがある。その「ほどほどさ」が乙と言わせるポイントだと思う。

豆腐の味噌漬けのことを称して、「チーズみたい」という表現がしばしばある。そのときはそう思うのだけど、じゃあ実際にチーズの味噌漬けを食べてみると「それはチーズをそのまま食べた方がいいんじゃないの〜」と感じる。

おいしいチーズほど芳しいものだ。そこに味噌の香りをわざわざ付けることはない、ということだけど、この白カビで覆われたカマンベールチーズだと、その白カビのコーティングが味噌の香りを制御してくれて、「ほどほどさ」を感じさせてくれる。

だからと言って、同じ白カビでも、ブリーだともったいない気がする。ブリーは私の好物だが、それはそのまま食べたい。(カマンベールさん、ごめんなさい) つまりは、そんな高価なカマンベールではなく、どこにでもあるようなフツーのカマンベールでいいのです。そしてそのフツーのカマンベール・チーズが変身するのです。味噌で。

上の写真、やや白カビの層を通って味噌が若干中のチーズ部分に浸みてるの分かりますか。このぐらいで1週間。

さらーに、何てったって、豆腐と比べこのカマンベールの味噌漬けのいいところは、作るのが簡単なこと。豆腐の場合は、味噌に漬ける前に水抜きしないとならないけど、カマンベールならそのまま味噌塗ってラップにくるんで冷蔵庫にポン。それで1週間後には写真のようになる。3日でもいいかも。決して敷居の高いものじゃない。フツーのカマンベールと味噌さえあれば、誰でも気軽に作れる、カマンベールの味噌漬け。

いや〜、乙な味です。

2011年10月25日火曜日

ベトナム・ソンベー焼

先のエントリに引き続き、ベトナムの陶器のこと。今回はソンベー焼に絞って書いてみたーい。ただこれは私の想像または妄想混じりです。歴史的事実関係のウラまではとってないので、その点ご了承願います。

まずは下の写真。


後ろの大きめの2つはフォーなどのドンブリ。手前の2つは、ご飯茶碗兼スープ椀です。(ここまでは妄想ではなく事実です)。ソンベー焼の中では、大小、左の2つがよくある絵柄で、右の2つは中国の影響を受けているか、もしくは中国からの輸入物・・・・というのが私の想像です。

次に下の写真の平皿4枚。


もう見てお分かりと思いますが、左の2枚がソンベー焼。でも、この左側の上下の2つ、ちょっと違うんです。大きさ・形・絵柄という意味ではなく、私が買った年が10年ほど違うんです。奥の青色の小さいのが10年以上前に買ったやつ。そして手前の花柄の大きい方は、最近たぶん1〜2年ぐらい前に買ったやつです。写真だと伝わりにくいんですが、奥の青い方が堅くて形がしっかりしている。しっかりとは言うものの、だいたいが粗悪な作りのソンベー焼(その粗悪さがいいんですが)。あくまで最近のと比べてという意味です。どうも最近のソンベー焼は10年前のと似てはいるものの、微妙に形・輪郭に緊張感が薄れていると感じています。指の関節でコツコツ叩いても音の違いがあり、生地素材や作り、また焼きの温度も違うように感じてます。

そして問題は右側の2枚。

これが、な、な、何と、フランス製なんです。サイゴンの骨董屋さんで見つけたんですが、昔フランスで作られてたものなんです。2つとも皿のウラには「FRANCE」の文字が押されているので、輸出用だったかも知れません。右側の2つ、左側のソンベー焼と酷似してると思いませんか? 私はこいつを骨董屋さんで見たとき、思いを馳せてしまいました・・・・ベトナムの仏領インドシナ時代、きっとフランス人が陶器とその作り方をベトナムに伝え、それがベトナムなりに変わって今のソンベー焼があるんだ・・・・と。

昔のフランス製の方は、青い絵柄にしても花の絵にしてもキッチリと描かれていますが、ベトナム製・ソンベー焼の方は、ササッと描かれている感じ。こうした変化の中、ソンベー焼はベトナムでとても大衆的な陶器へと変遷していったという訳です・・・・と、これも想像。想像ではありますが、私はこうして大衆化させていったベトナム人の感性が好きです。

そして最後に写真をもうひとつ。


まず手前の小さめのは、前の写真の左上のと同じもの。ですが、上の2枚は昔の(50年ほど前の)ベトナム・ソンベー製のものなんです。昔のフランス製のものを見つけてから何年かした後に、やはりサイゴンの骨董屋さんで出会いました。昔のフランス製と比べるとやや粗悪感がありますが、最近のソンベー焼よりはしっかりと絵柄が描かれていて、形もしっかりしています。つまり、「昔のフランス製」→「昔のベトナム・ソンベー製」→「10年前のベトナム・ソンベー製」→「ここ1〜2年のベトナム・ソンベー製」と、場所と時代の変化とともに変化してきているのが分かります。この間およそ50年〜60年ぐらいだろうと思います。こう変化させながら、ベトナムの人たちは徐々に「自分たちのもの」にしていったと私は思っています。

ちなみに私の個人的な好みとすれば、昔のソンベー焼(上の写真の上の2つ、緑と水色のです)が一番かなぁ〜。50年ほど前のヨーロッパとアジアが溶け合った感じがたまらない。私は骨董として保存する趣味がないので、我が家ではこれらすべての陶器を現役として使っています(金継ぎが大変)。またはそうできないレベルの骨董は買わないことにしてます。値段は、昔のソンベー焼の皿で、US$10ぐらいだったか。

日本の陶器も、昔から主に中国や朝鮮半島から入ってきた陶器を真似て作られてきました。そのベトナム・フランス版がこれらの陶器ということになりましょう。これらの皿で数十年の歳月を感じることができます。

そんなソンベー焼だけど、先のエントリの最後にも書いたとおり、ベトナムではもうなくなってしまうかも知れない。単に私が懐古的なだけかも知れないけど、その存続のためにも、ベトナムへ旅行にでも行ったら、是非ローカルな市場に隣接する小さな食器店の片隅をチェックしてソンベー焼をお土産に買いましょうね〜。

2011年10月19日水曜日

ベトナムの陶器


上の写真は、俗にベトナムで「ソンベー焼」と呼ばれる陶器たち。ソンベーとはサイゴン近郊にある地名で、昔からの焼き物の生産地だ。すべて型に粘土を流し込んで成形してある。

ソンベー焼は、10〜20年ぐらい前まではベトナムで最もポピュラーな陶器だった。私が初めてベトナムを訪れた1998年にはどこでも見かけた。当時は、「こんな器が普通に使われているんだ〜」と驚いたものだが、それがここ10年ぐらいの間に、つまりはベトナムの急速な経済発展にちょうど反比例するように激減している。

現在ベトナムの巷で最も使われているのは、世界中どこにでもあるような洋食器風のものがほとんでなので、このソンベー焼は、すでに普通の食器店には並んでいない。あるとすれば、ローカルな市場に隣接した古くからの食器店の片隅で、そのほとんどはたっぷりとホコリをかぶっている。きっと今の多くのベトナム人にとって、ソンベー焼は「古くさい」印象に映っていると思う。

ところで、ベトナムへ旅行に来る人たちの間で最もポピュラーなのは、「バッチャン焼」だろう。バッチャンとはハノイ近郊にある地名で、こちらも古くからの焼き物の生産地。千利休が愛したと伝えられる安南焼も「今のベトナム北部」が生産地だったと言われているから、この地域で作られたものだと思う。

ただ現在のバッチャン焼は、例えば外国人旅行者向けのお土産屋さんにはどこにでも置いてあり、ソンベー焼と違い、作りがしっかりしている。ハノイからはバッチャンへの日帰りバスツアーなんかもある。そして、このお土産屋さんに置いてあるバッチャン焼がソンベー焼と決定的に違うのは、それを使うベトナム人がいないことだ。激減したソンベー焼とはいえ、まだソンベー焼を使っている人はいれど、ベトナム人でその手のバッチャン焼を使っている人を見たことがない。興味のある方は、「バッチャン焼 画像」で検索してみてください。

一方、ソンベー焼は、バッチャン焼同様型で成形されているとは言え、作りが粗悪。微妙にゆがんだりしていてひとつひとつ形が違う。平らなところに置くと、カタカタと不安定なこともしばしばだ。しかし、それを嫌がるベトナム人はいなかったから、10〜20年ぐらい前までは最もポピュラーな陶器だったのだ。そして私はそんなソンベー焼が好きだ。ベトナム土産には、本当はこっちのソンベー焼の方がよりベトナムらしいと個人的には思う。何となく醸し出される素朴な生活の臭いがあるし(それも一昔前の臭いになりつつあるが)、その粗悪さは私にとっては暖かみや味。ベトナムへ行く度にそんなソンベー焼をちまちま買っては、我が家の食器棚に入れてきた。うちのカミさんからは「まーた買ってきたのー」と毎回小言を言われながらなんだけど。上の写真はそれらを引っ張り出して並べたもの。

さて、もう少しバッチャン焼の方の話を。

これは私の想像だが、外国人旅行者向けのバッチャン焼はおそらくどっかの西洋人がベトナムへの外国人旅行者向けに企画制作されたのが発端だと思う。なぜなら、15年ぐらい前は、西洋人経営のお土産屋さんを中心にバッチャン焼が置かれていたからだ。その後、ベトナム人経営のお土産屋さんにも並ぶようになった。それが10年ぐらい前のこと。そうなると、西洋人経営のお土産屋さんは、今度はどんどん新作を並べるようになった。しかしそれら新作は1〜2年もすると、ベトナム人経営のお土産屋さんにも並び始める。こんな追っかけっこが数年続く間、その「1〜2年」のサイクルはどんどん短くなった。そして、西洋人経営のお土産屋さんからバッチャン焼は消えた。新作もなくなり、今はベトナム人経営のお土産屋さんの隅っこに、「前はこういうのが流行ってたよな〜」ってな感じで置いてある。

そんなバッチャン焼の攻防とは無縁に、ここ10〜20年の間、ソンベー焼はベトナムの経済発展と逆行しながら、激減していった。ちょうど私がベトナムに関わり始めてからのことのようにも思えるので、そんなソンベー焼には思い入れがある。だから、妄想を含め、私が個人的に感じるソンベー焼のことを書いてみたいと思った。

冒頭の写真のソンベー焼は、実はここ10年ぐらいのものだ。もちろんソンベー焼はそれ以前からあった・・・・長くなりそうなので、詳しくはまた改めて。(→2011年10月25日 ベトナム・ソンベー焼

ちなみに最近聞いた話だが、ソンベーは区画整理のため、近いうちになくなるとの噂もある。時代の流れはそう簡単には変わらない。消えゆくソンベー焼なのかも知れない。そう思うと、私の思い入れはますます強くなるばかりだ。

2011年10月14日金曜日

バジル・ペーストへの思い


もー、限界・・・・。
今やらねば今年のチャンスはもうないだろう。

庭のバジルのことだ。毎年この時期になると、バジルの葉を収穫し、バジル・ペーストをこしらえてスパゲティを食す。ジェノバ・ペーストとも言うんだっけか。バジルの葉、松の実、オリーブオイル、ニンニク、塩のペースト。毎年、庭のバジルでスパゲティを食して十数年になる。

初めてバジル・ペーストを作って食べたのは、20年以上も前になるが、陶芸家の小野哲平さんと服作家の早川ユミさんの家に2ヶ月ほど居候させてもらってたときのこと。当時は常滑だった。

ユミちゃんが「松の実買ってきたよ。これでバジルのペースト作るとおいしいんだって。それでスパゲティ食べようよ」と進言した。そのとき私たちはみんな初めてのバジル・ペースト。早速彼女と私は、その庭のバジルを収穫しに向かった。そのときもちょうど今時分だった。「もう枯れてきちゃうところだね〜」なんて話しながらの収穫。「もー、限界」だった。

収穫後、どっさりザルに盛られたバジル。一般的には、こいつをフードプロセッサーかミキサーにかけるのだけど、当時彼らの家にはそれがなかった。でも、でっかいすり鉢がある。だからバジルは最初に包丁で粗く刻む。ニンニクを摺り下ろす、順序として最初に松の実を当たってから、バジル。でもスリコギでゴリゴリ始めたときは、「こんなたくさんのバジルがペーストになるまでどのくらい時間かかるんだろう?」と不安になったものだが、5〜10分も当たってると思いの外、ペースト状になってきた。

それは旨かった。その後、何度もこのペーストを作ったけど、必ずフードプロセッサーかミキサーを使った。初体験ってこともあったと思うが、金属の刃の高速回転で一気に砕くよりも、スリコギとすり鉢でちまちま当たったのがよかったのかも知れないと今でも思う。

しかし、このバジル・ペーストで最も大事なことは、バジルの葉の状態だ。マルゲリータなど、バジルが添え物または飾りで使われるのとは大きく違い、バジル・ペーストの場合、バジルは完全に主役だ。鮮度はもちろん、春から夏にかけてお日様をたっぷり浴びていること。これが肝要だ。茎や葉がたくましく育ってないとペーストになって、香り・味が劣る。当時の小野哲平・早川ユミ宅のバジルは南向きの庭の畑のド真ん中にあって、秋とはいえ、茂りすぎているぐらい元気に育っていた。

東京の我が家でも、陽当たりのいい南向きの庭で育ったバジルのペーストは旨かった。でもその翌年、その庭の南側に新たに家が建ち、陽当たりが十分でなくなったことがあった。バジルの発育が劣ったとたんに、ペーストの風味はガクンと落ちた。

また、10年以上もやってると、いろいろなバリエーションを試すことにもなった。場所に余裕があれば、バジルは放っておくだけで種が落ちて何年かは毎年同じところに生えてくるが、我が家にその余裕はない。だからバジルの育て方も、種植えだったり、苗植えだったり。背丈が20cmぐらいになってからは、芽かきをして葉っぱの成長を促したり、またはそんな余裕もなかったり・・・・。松の実の代わりにカシューナッツやクルミを使ったり混ぜたりしたこともあるが、やっぱり松の実だけが一番旨いな。ニンニクを擦ってみたりみじん切りにしてみたり。ちなみに今年の新たな試みは、ペペロンチーノのように、ニンニクのみじん切りをオリーブオイルに入れてゆっくり加熱して抽出してみたこと。子供も食べやすい味になった。刺激を欲する方は、ニンニクの玉をそのままフードプロセッサーがいいでしょう。

第一にバジルの状態。これが一番なのは自信がある。次には、「出来たてを食すこと」もあろう。そしてすり鉢も・・・・と言いたいところだが、すり鉢を使ったのは先の話の1回だけだから自信はない。ジェノバの人たちにもきいてみたいものだ。バジル・ペーストの歴史からしたら、フードプロセッサーなんて極最近のものだしね。

「ガーガー」轟かせながらフードプロセッサー回してるとき、心の中ではいつも、すり鉢で静かにゴリゴリ当たってたときのことを思い出す。フードプロセッサーにはない、すり鉢の豊かさがそこにあるのだ。私はフードプロセッサーの便利さにかまけて、すり鉢の利点を見逃しているかも知れない。豊かさとは心の豊かさ、余裕に他ならないなぁ、との思いをかみしめる秋の日だった。

冒頭の写真、今年のバジル・ペーストのスパゲティを盛った皿はいつかと同じ、小野哲平作のものである。ペーストはフードプロセッサー製だけど・・・・。

2011年9月26日月曜日

蛇のはなし〜その2:マムシを食うこと

今回のエントリは、前回「蛇のはなし〜その1:蛇の根回し」の続きです。まだ前回のを読んでない方は、後からでもそっちもお読みになることをオススメします。

さて、20年ほど前の滋賀県は朽木村での話。

田んぼの草取り中に、蛇にからまれたんだが、そのときの記憶で一番私の感覚に残っているものは、「シャー、シャー」の声でもなく、私に向かって思いきりのばされた先割れの舌でもない。それはスネにスリスリされたときの皮膚の触感だ。それは体温がありそうで冷たく、独特の少しのザラザラ感をともなっていた。

蛇が水面でも地面でもはうとき、おそらく頭が通ったところと同じ場所を首、腹、尻尾と全身が通っていく。私のスネに絡まってきたとき、頭から尻尾の先まで、その蛇の全長を感じたのはそのためだったと思う。

当時私が住み込んでいた山小屋へは、車が通る道から山道を10分ほど歩いたところにあった。そこでは24時間車の音が聞こえない。その山道の前半の半分はゆるやかな登りで、両側に草が茂っていた。天気のいい日は、黒く細長い蛇がよく甲羅干しをするかのように横たわっていた。田んぼにいたのと同じ種類の蛇。それが多いときは片道で10匹ほど横たわっていた。最初のうちは木の枝などで追い払いながら通っていたが、だんだん面倒になって、またぐことにした。そうこうするうちに、またぐこともだんだん日常になっていった。

ある夏の日の深夜、その山小屋で、私が熟睡していたときのこと。

布団の上に仰向けに寝ていたが、暑かったので掛け布団から両足が出ていた。出していたその右足のスネに触るものがいた。先の田んぼの草取りのときの感覚が一瞬のうちによみがえり、蛇と分かった。熟睡中だったが、最初のそのタッチで頭だけはスッキリと目覚めた。でも、田んぼのときと同じように、「ここで動いちゃマズイだろうな」という感覚になると同時に、全身の力が抜けた。蛇は私の右側から右足のスネの上を通り、足の間を直進し、左足のスネの上を通って私の左側へとゆっくりと抜けていった。

このときは田んぼのときと違い、真っ暗だったせいか嫌な感じだった。その触覚は田んぼのよりやや太かったので「冷たさ」があり、重みも感じた。そしてザラザラ感がよりあった。長さは同じぐらいだったが、田んぼのと違う蛇ということもすぐに分かった。私は指一本、全身のどこも動かさずにそれが去っていくことを待った。間違えなく、全身のどこも動かさないためには、どこにも力が入ってはいけないような感覚になったため、全身の力が抜けたのだと思う。

右足から左足へ。その蛇の全身が抜けるまで長く感じた。おそらく10〜20秒ぐらいのことだったと思うが、とても長く感じた。

私の左足から離れた後、まだそのあたりにいることも考えられたし、すぐにまた身体のどこかの上をはうことだって考えられた。だから、真っ暗闇の中、私は全身の力を抜き続けた。力を抜き続けていたら、いつのまにか再び眠りに落ちていた。

翌朝、その山小屋の主である友人にそのことを話した。

「へぇ〜、するとまだ部屋の中にいるかも知れないね」

ということで、二人でまずは私が寝ていた枕元のタンスを持ち上げてみた。すると、そこには、トグロを巻いた、マムシ様が鎮座されていた。

「タケシ、分かる? 身体がずんぐりむっくりしていて、頭が三角だろ。これがマムシだよ」

私は、じっとして動かないマムシを凝視した。二人はお互い「どうしよう?」と顔を見合わせるが、結論が出ない。そこでとりあえず、タンスを元の位置に戻すことにした。

しばらくすると、その山小屋のすぐ下に住む別の友人が訪れてきた。私が草取りした田んぼの主でもある。

「いや〜、今そのタンスの下に結構でかいマムシがいるんだよね。どうしたものかと思っているところなんだよ」と私たち二人。

しかし、来訪した友人の決断は早かった。

「ここには、ウチの娘たち(当時4歳と10歳ぐらいだったか)も遊びに来る。薄暗い中なんかで踏んづけたりでもしたら大変だ。今すぐ殺すぞ」

それまでのところ、私たち二人は全く危害は加えられていなかったし、何となく「蛇は家の守り神」のような迷信もあるような気がしたので、思いあぐねていたが、彼の「娘たち」の話には説得力があった。もしものとき、私たちには責任がとれない。

私と山小屋の主は、再びタンスをそぉっ〜と動かした。さっきと全く同じようにトグロを巻いていて、寝ているかのようだった。娘さんのいる友人は、太めの枝を拾ってきて、マムシの頭を一撃した。マムシは、少し動いた後、動かなくなった。

「ん、これでいい。これで安心だ。そうだろー」

太めの枝をポンと草むらへ投げて、その友人は帰っていった。

残された私たち二人は、再び新たな問題に直面した。

「これ、どうする?」と私。
「村の人から、網で焼いて食べるとおいしいって聞いたことがあるけど」と友人。

たしかにまたとない機会かも知れない。思案している私の中には、夕べ私の両足の上をはっていったその「触感」がよみがえっていた。

「おーれ、やめとくわ」

私は辞退した。
が、友人は早速七輪に炭をおこし、マムシを包丁で開き、一口サイズに切った。

結構念入りに火を通していた記憶がある。「どお(味は)?」と聞くと、彼は「よく分からない」と言った。

ところで、その後の何年か後に、私は自分の子供の胎盤を食べた。(詳しくは、「胎盤の味」)そのときも説明しようのない味だったが、今思うと、そのときの友人の「よく分からない」はそれと似ていたかも知れないとふと思う。

私には苦手な食べ物はない。強いて言えば、甘い物がやや苦手なぐらい。しかしこのマムシの場合、味がどうのこうのじゃない。この朽木村に滞在して、いろいろ蛇にまつわる経験をさせてもらい、ほんの数時間前には私の足の上をはって、枕元のタンスの下でぐっすり寝ていたマムシ。訳あって、殺すことにはなったものの、それを食う気にはとてもなれなかっただけなのだ。ちょっとした気持ちの問題って言えばそれまでだが、その気持ちの問題っていうのが大きい。

昔、浅草の仁丹塔の下にたしか屋号が「よっちゃん」だったかな?、いわゆるゲテモノ(メインは蛇だったと思う)を食べさせてくれるお店があった。その店の前を通るたびに、不思議な特別なものを感じはしたが、暖簾をくぐる気にはならなかった。今でもその思いは変わらない。

2011年9月21日水曜日

蛇のはなし〜その1:蛇の根回し


上の写真は、10日ほど前、東京・昭島にある自宅の近所の道ばたの蛇。おそらく車にひかれたんだと思うが、死んでしまっている。動かなかった。つまんで草むらに投げた。そんなことのあった1週間後、友人から電話があった。

「友だちからマムシが送られて来たんだよ。一緒に食べないか?」

他の用件もあったので、主にそっちの話をして、マムシのお誘い話にはお茶を濁して電話を切った。

もう20年ぐらい前のこと。マムシを含め、蛇を「特別な生き物」と思わされた出来事が2〜3あった。場所は、滋賀県の朽木村。その村の谷の一番奥から少し上ったところにある友人の山小屋に、私は春から半年ほど住み込んでいた。

その近くにも別の友人が住んでいて、ある日、彼の田んぼの草取りを私ひとりですることがあった。無農薬、除草剤を使わない田んぼなので、クレソンなどがどんどん生えてくる。裸足で田んぼに入り、膝下ぐらいが水面になる。前かがみになって、軍手をした手で田んぼの床に根ざした草を鷲づかみにし、根こそぎ取っていく。

やや汗ばむぐらいの初夏の陽差しの下、ひとりで話し相手もいなかったせいか、草取りに集中した。前かがみの姿勢なので、ときどき身体を起こして腰を真っ直ぐにするぐらいが、ちょっとした息抜きだった。

前かがみになって、目の前の草取りに没頭していた、そのとき。

私の右足のスネに何か触るものがあって、ハッとした。黒く細長い蛇だった。体長は50センチぐらい。その蛇は、自分の頭から尻尾の先まで、つまりは身体全体を丁寧にこすりながら、私の右足のスネを1周し、次に左足のスネも全く同様に身体全体をスネにこすりながら律儀に1周した。こすりながらとはいえ、水面を動いているのだから、とても正確に泳いでいたということだ。私は、身体を起こしてその蛇の行動をただ見てるのが精一杯で、田んぼに肩幅に突っ込まれた両足は動かせない。

「この後はどうなるんだろう?」

と思った瞬間。その蛇は私の両足のちょうど間で鎌首を上げ、頭を私の顔に向けてきた。しばし私とにらめっこ状態になり、「えっ、それで?」と思ったら、今度は口を180度に大きく開いて、先が2つに割れた細長い舌を思いきり私の顔に向かって伸ばしながら、「シャー、シャー」と5秒ほど威嚇するような声をあげた。私はただそれを見ているだけだが、不思議とそれが怖くない。私は、この蛇が右足に触ってからは、全身の力が抜けたOFFの状態で、完全に観念していたからだ。だから、私が何かをするというよりは、この蛇様に畏敬の念を抱いていて、「何かお気に召されぬことでもありましたか?」という心境だった。「シャー、シャー」が終わると、何事もなかったかのように、スイスイと田んぼの水面を泳ぎ去っていった。

少しの間、ボォーっとした後、私は草取りを再開した。再開して30分ぐらいした頃だろうか、そのときの私は前よりは周りが見えてた。私の先10メートルぐらいのところにその蛇がいた。ジィーッとしてるので、どうしたのかと思ったら、その蛇の4〜5メートル先にカエルがいた。

カエルも動かない。が、たまにピョンと動く。その1度のピョンと動いた短い時間の間だけ、蛇も素早く動き、カエルとの距離を縮める。そしてまた静寂の時間に入る。しばらくしてまた、カエルはピョンと動く。蛇も動き、徐々にカエルに近づいていく。もー完全に私は(観客として)蛇の虜になった。その決定的瞬間を思うとワクワクし、その狩猟に見入った。しかし蛇は私が思った以上にずっと慎重だった。「さー次だな(食いつくな)」と私が思ってから食いつくまで5度はあったと思う。最初の1〜2度の「さー次だな」にはかなりの興奮があったが、5度目ぐらいになるとその興奮もやや冷めていて、「(そこまで近づいたら)そりゃ成功するよな。石橋たたき過ぎなんじゃないの」なんて気分にもなった。でも、それが自然の厳しさなのだ。

その蛇が最初わざわざ私の両足に絡まり、鎌首上げて大きな口の中から舌出して「シャー、シャー」やったのも、「これからカエル捕まえるんだから、お前ちゃんと周りを見ながら草取りしろよ。それでオレが狩猟モードになったら、くれぐれも邪魔してくれるなよ」という、カエルを捕まえるための根回しのようなものだったのか。だとしたら、それは大成功だし、決して石橋をたたくようなことではなく、至って正攻法だ。

そう思うと、ますます蛇への畏敬の念は深まるばかりだった。

この20年前の、朽木村での蛇の話にはまだ続きがある。次はマムシ編だ。改めてこの次に書きたい。

2011年9月9日金曜日

果実の中ではマンゴスチン


井上陽水の昔の曲に「カーネーション」というのがある。

カーネーション
お花の中ではカーネーション
一番好きな花

私は鼻歌で、この曲の節に合わせて、こう歌う。

マンゴスチン
果実の中ではマンゴスチン
一番好きなもの

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

私には持病がある。膀胱炎及び尿道結石。普段は何でもないが、極端に身体が疲れたりすると、下っ腹の膀胱あたりがとても不快なムズムズ感をおぼえる。そしてそれがさらに悪化すると尿道結石に発展する。これまで尿道結石までいってしまったことが二度あった。

そんな私が昔アジアを旅していた頃、洪水のバングラディッシュで無理をして、膀胱炎が発症してしまった。ダッカから何とかバンコクまで飛んで、1ヶ月ほど病院通いした。1988年のこと。通院は週に一度ほどだったので、ほとんどの日は、慣れないバンコクの町をひたすら散歩していた。その散歩コースにチャイナタウンがあった。他でもない。そこには目当ての屋台の果物屋があったからだった。

手押しの大八車の上にはマンゴスチンとランブータンの大きな山が2つ。商品はこの2つだけ。どっちもキロ15バーツだったことを今でも憶えている。当時のレートで、75円ぐらいか。それが初めて食べたマンゴスチンとランブータンだった。何とうまいフルーツがあるのかと3週間の間、この2つの果物を毎日むさぼり食った。マンゴスチンとランブータン、合わせて2キロ買って、寝泊まりしていたゲストハウスの冷蔵庫に入れた。そして入れた直後、前日に買って冷やしておいたマンゴスチンとランブータンを食すのだ。この2つの果物は冷えてた方が断然うまい。2キロはペロッと食べてしまった。これぞ至福の時だった。体調が悪いことで、フラストレーションがたまってたこともあったろう。また無意識にも膀胱炎の身にいいものだったのかも知れない。3週間の間、勤め仕事のように毎日チャイナタウンまで散歩をし、この2種類の果物を買い続け、食べ続けた。一日散歩を怠ると、次の日は冷えたのが食えないことになる。それが耐えられなかった。今思えば、もっと近くでも売ってたろうにと思うけど・・・・。

最初の1週間ぐらいは、マンゴスチンとランブータンを半々買っていたが、日が進むにつれ、徐々にマンゴスチンの割合が高くなっていった。マンゴスチンの上品な甘味とその甘味をやさしく包むような酸味の虜になったのだ。そしてその3週間の後半は、マンゴスチンが1.5キロ、ランブータンが0.5キロぐらいになっていた。食べ方もメインはマンゴスチンで、箸休め的にときどきランブータンを間にはさむようになっていた。

こうして「果物の虜」になる話は、ドリアンでしばしばあるが、私の場合、マンゴスチンだった。ドリアン様も好きだけど、マンゴスチン様の比ではない。

ところで、先月ベトナムへ行った際、木になってるマンゴスチン様に初めてお目にかかれた。よくマンゴスチンを知らない日本の人へのその外見の説明で、「柿みたいだけど、色が濃い紫色」というのがあるが、その葉っぱもやや柿の葉にも似ていた。

また、今年のベトナムは、マンゴスチンの当たり年だったらしい。例年より安く、小さめのマンゴスチンをたくさん食すことが出来た。小さいヤツは、中の種がないのが多いので食べやすく、味もいい。

もう今は、さすがにキロ単位で食べることはなくなったが、今でも「一番好きな果物は?」と聞かれると、迷わず「マンゴスチン」と答える。「一番好きな食べ物は?」と聞かれても答えられないんだけど・・・・。

2011年9月2日金曜日

想定内の「想定外」


これは、8月29日付け東京新聞の朝刊から。5ページ目の紙面の端っこの小さな囲み記事。

この記事読んで、「へ〜、ウソだったんだー」なんて思う人はいない。だからこんなに小さい記事であり、今は誰も目にもとめないものかも知れない。

しかし事の重大さと、ささやく声のようなこの小さな記事。そのコントラストには何かスゴイものがあると思いませんか? メチャクチャだ。あまりにメチャクチャすぎて、憤る以前に、私は唖然としゾッとした。

大手新聞の中で最も「脱原発」を明言しているとされる東京新聞(発行元は中日新聞)なのだけど、この「ウソだった!」のビックリ・マークはかなりその空虚さと怖さを引き立てている。

原発事故で苦しんでいる人たちのことを思うと言葉がない。

2011年8月25日木曜日

昨夕の空


昨日の夕方、東京・多摩は奥多摩バイパスを東へ向かって車で走っていたら、前方の空を見て少し「ハッ」とした。頭では、「残暑も今年は終わりかな」と思っていたが、この空を見て、「もう秋だ」との感覚に襲われた。空の青さが否応なく私の目に訴えていた。

「ハッ」としてから、「早く信号で停まらないかな」という思いが湧き起こり、赤信号で撮った。何か撮っておきたい衝動に駆られたのだ。

正面奥に微動だにしない入道雲。その入道雲の手前には雨雲のような雲がふたつ、右から左に急いでいるかのように流れている。そして天高くに、白い薄雲が大きく広がっている。

私には、遠目の入道雲と、「そろそろ私たちの出番よ」と語っているかのような天高い雲が、去りゆく夏とすでに到来している秋を教えてくれているようだった。そしてこの空の青さは、天高い雲のための色に映った。真っ白な入道雲を背景に、ネズミ色した2つの雨雲は、入道雲の季節と天高い雲の季節に慌ててボーダーラインを引くかように、目に見えて左へ左へと流れていく。

夏は終わった。

この時期、振り返ってみると、夏の間は熱病にかかっていたかのように感じる。この空を見て、やっと正気に戻ったような。

2011年8月23日火曜日

バナナのつぼみ


上の写真は、ベトナムの市場の八百屋さんで撮った。黄色いポリ袋に入っているのは、バナナの花のつぼみだ。バナナのつぼみを繊維に沿ってスライスしたもの。サイズはだいたいモヤシぐらい。ベトナム料理には欠かせないハーブのひとつになる。

例えば、一週間ぐらいベトナムを旅行したら、必ず複数回は食べることになると思うが、予備知識なしで、これがテーブルの上にあっても、「これはバナナのつぼみだね」という日本人はいないと思う。(沖縄の人は分かるかな?) 私はさんざん食べて慣れ親しんだ後、「これはバナナのつぼみ」と知った。ベトナムでは全く珍しいものではないため、あえて「これはバナナのつぼみだよ」なんて教える人も少ないのだ。それだけ、ベトナムでは至ってポピュラーなものであり、同時に東京に住む日本人にとっては縁遠いものだ。

使い方は、フォー(米麺の汁そば)や鍋物など主にスープ類に、食べる直前に加えて食す。日本で言えば薬味のような存在。味はほろ苦く、食感はシャキシャキで、これがなかなかオツなのだ。

使うときは必ずスライスされるので、食卓では上の写真の姿でお目にかかるのだが、下の写真は、スライスする前の状態。これもベトナムの同じ市場で撮った写真。大きさはちょうどタケノコぐらい。ご覧のとおり、つぼみの皮の外側が紫色で中が白色なので、繊維に沿ってスライサーでスライスすると、冒頭の写真のようになる。


実は3週間ほど前、ベトナムへ行ってたのだが、そのとき木になってるバナナのつぼみの写真を撮った。フルーツの農園だった。それがコイツ。


つぼみの根本に緑色のバナナが上へ上へと、どんどんついてきている。先述のとおり、最初は「バナナのつぼみって食べられるんだー」と意外に思ったが、この木になってるところを見ると、「これは食べてみるだろう」と感じた。木についたバナナのつぼみは、バナナ本体よりも「実らしく」感じたからだ。

残念ながら、このつぼみが開いているところにはお目にかかれなかったので、ネットで、「バナナの花 画像」で検索してみたら、いっぱいあった。・・・・南国の花らしく、ゴージャスでとてもきれいな花だ。でもこーなると食べる気が起こらない。

やっぱりバナナ(の花)は、つぼみに限る。

2011年8月22日月曜日

氷コーヒーと滑り台


この2〜3日、秋のような東京だが、今月の暑かった日の朝、用があって町を歩いていたときのこと。用を足したくなってミスタードーナツに入った。ミスドは滅多に入らないので、「ただのコーヒーじゃつまらんなぁ〜」と思いながら、いざカウンターでメニューを見ると、何を注文していいか分からない。注文待ちをしている私の後ろの人の気配も気になって困っていたら、「氷コーヒー」っていうのが目についた。アイスコーヒーではない。軽いプレッシャーの中、それを注文した・・・・「コ、氷コーヒーください」。

注文を受けたカウンターの向こうの店員さんは、手際よくキューブ状の黒色の氷になったアイスコーヒーをガラガラとグラスに入れ、そこに冷えたミルクを注いだ。何せ入店の主要な目的は用足し。先を急いでいたから、「すぐに飲み終えて・・・・」と思ったが、氷のコーヒーがグラスに残ってる。普通の氷なら残っても気にならないが、コーヒーの氷となるともったいない。ガリガリかじってみるが、香りが感じられず味が抜けたような氷のコーヒーはあんまりおいしくなかった。(上の写真で、赤いストローの先にあるのが氷のコーヒー)

アイデアはいいと思ったんだけどなー。

ところで、この夏、我が家に滑り台を作った。ちょっと特別な滑り台だ。家の子供部屋の窓から庭のプールに直接入水する滑り台だ。構想から完成まで、2ヶ月を要した。


窓の高さやプールの大きさは決まってるから、滑り台の傾斜もおおむね決まってしまってのことだが、完成して滑ってみると、思った以上に勢いがいい。子供のために作ったが、もちろん大人だって滑れる。(大人だと1回の入水でも水がずいぶんこぼれちゃうけどね) 先日、完成後初めて使ったときは、近所の子供とともにワイワイとてもウケたが、その後、小学一年生のうちの子は、「(この滑り台より)プールで水泳の練習をする方が楽しい」と言う。これも成長の証だと自分に言い聞かせるが、この滑り台、苦労して作った割には・・・・という雰囲気。

アイデアはいいと思ったんだけどなー。

いくらいいアイデアだと思っても、喜ばれないと自分よがりだ。ただ、氷コーヒーは喜んでいる人も多いだろうし、滑り台は私の趣味だし・・・・。滑り台設計したり作ったりしてるときは楽しかったなぁ〜。だから、「まいっかー」ということで。

氷コーヒーも滑り台も、1ヶ月も前のことではないが、急に涼しくなった今思い出すと、遠い夏の思い出のようだ。

2011年7月27日水曜日

カンカン照りの土用干し


梅干しや
  台風去って
    土用干し


というわけで、一昨日から土用干しを始めた。梅干しの土用干しは、仕上げの最終工程で、通常3日行う。きょうが3日目で最終日・・・・と言いたいところだったが、あいにくきょうの東京は天気が思わしくない。明日に延期した。

台風6号が来る前は、カンカン照りの土用干し日和が続いた。「あー、この陽差し、梅干し干すのにちょうどいいなー」と思ったものの、梅を干すには早すぎた。その時点では、シソに漬かっていた時間が短すぎると思ったからだ。台風が去って、「さぁー、今だー」と一昨日から干し始めたものの、台風前のカンカン照りほどではない。さらに、今朝の新聞の片隅に、気になる記事が・・・・。

「今月末から1週間ほど気温が平年よりかなり低くなる恐れがある」

来週は1週間ベトナム出張なので、やろうったってその間に土用干しは出来ないが、帰国してから再び台風前のカンカン照りが戻ってくるだろうか。「それはないかも知れない」と思った。これまでも、今年のように梅雨明けが早い年があったが、そんな年は夏が去るのも早いというのが私のイメージだからだ。統計は調べていない。また、1週間の出張から帰ってきての土用干しとなると、出張の間、梅が漬かった瓶の中のカビチェックが出来ない。天気と並び、これもリスクのひとつになる。

こうして、私はカンカン照りを待ち焦がれている。アスファルトの町で暮らしていると、「暑い」のは嫌なものだ。でも、「梅を干すため」という理由があるだけで、逆に「待ち焦がれる」ことになる。ここにも毎年私が梅干し作りを続けている理由があるのかも知れない。つまり、かんかん照りを「暑い」と思わず、「待ち焦がれる」ため。

私は天日塩作りの商品開発で、現地に長く滞在していたときにも、似たようなことを感じた。私が作る天日だけで干し上げる「カンホアの塩」の場合、海水から塩が出来上がるまでおよそ2〜3ヶ月かかる。いろいろ工夫を凝らした製造工程を経て、「さぁ、やっと明日は収穫だー」というときに、たまに雨が降ることがある。降ると当然、収穫は先延ばしになる。そんな状況では、カンカン照りを「暑い」なんて全く思わない。ひたすら「待ち焦がれる」だけだ。

きっと農家の人たちは、「寒い」ことや「雨降り」などなどの要素も加わるから、さぞかし「そのまま」を受け入れながら暮らしているんだろうと思いを馳せる。

私は、カンカン照りの静寂が好きだ。カンカン照りには静寂がある。たとえ町の真ん中で信号待ちしていても、カンカン照りだと、車の騒音が聞こえないような錯覚に陥る。蝉の声が響き渡っていても、カンカン照りだと静寂を感じる。

明日はそんなカンカン照りにならないかなー。

2011年7月15日金曜日

好きなものを腹一杯食べること


先のエントリ、鰻とご飯のバランスで、おいしい鰻をたくさん食べることを書いた。その鰻の話はごく最近のことだが、それは最近始まったことではない。それを書いていて、久しぶりに思い出した子供の頃の記憶があった。

私が小学校4年生ぐらいのときのこと。もう40年も前のことだ。

「好きなものを腹一杯食べてみたーい」

そう強く強く思っていたことがある。
当時、我が家は東京の下町の商店街で家族経営の中華料理店を営んでいた。そして住まいはその店の奥にあった。「お前、いつもラーメン食べられていいな」と友だちによく言われた。本人には優越感のカケラもなかったが・・・・。まぁ、だいたいそういうものだ。

当時、そんな私が腹一杯食べてみたかったのは、ケーキ(洋菓子)。

何せ住まいが商店街だったから、商店街を毎日何度も行き来するのだが、日中と夜とでは景色がずいぶん変わった。その洋菓子店は、我が家の並びの5軒先だった。ちょうどアーケードが切れて3軒ぐらいしたところ。街灯はあるものの、アーケードがない分周りは暗くなる。夜になるとそのきらびやかな店内の照明はまるで別世界を照らしているかのようだった。冒頭のイラストは、その洋菓子店を思い出しながら描いたもの。

子供だから、夜はあまり外出しない。が、その住まいには風呂がなかったので、日が暮れた頃に、毎日銭湯に通った。銭湯はその洋菓子店の少し先だった。ガラス張りの洋菓子店。その中にあるショウウィンドウには、キラキラした照明に照らされた色とりどりのケーキが並んでいた。風呂桶を抱えながら、店の前に立ち止まり、「あのモンブランとかいうやつ、どんな味がするのかな」とか「昨日はなかったイチゴのショートケーキがきょうはたくさんあるな」などと、毎日見入ってから銭湯へ行ったり、銭湯から帰ってきたり。

幸か不幸か、そのガラス張りの洋菓子店は差ほど流行ってなかったので、外からでもショウウィンドウのケーキがよく見えた。そのショウウィンドウ越しにはいつも30歳ぐらいの男性の店主が新聞なんかを読みながら座っていた。その人がケーキも作っていたと思う。5軒隣だから、もちろん店主は私のことを知っている。新聞を読んでいた店主がケーキに見入っている私に気がつき、私と目が合うと、私はガラス越しに会釈した。すると、決まって店主はニコッと微笑んでくれた。

当然、私は「ケーキ、買ってよー」と親にねだった。親は、年に1〜2度(誕生日など)には買ってくれたものの、食べても1個。(4年生ぐらいでも1個はペロッと食べてしまう) そして常に残る「あ〜、もっと他のケーキもいっぱい食べたいな〜」という思い・・・・。

「あのショウウィンドウに並んだケーキを、誰にも止められることなく、片っ端から食べてみたーい」

という少年の思いは募るばかり。
そして少年は決意した。

「小遣い貯めるぞー」

これは「決意」ぐらいしないと出来ない。1日10円か20円の小遣いで、それまではせいぜい2〜3日貯めて、一番安いプラモデルを買うのが精一杯。普段は毎日駄菓子を買った。ときどきボールや爆竹などの遊び道具。しかし「ケーキを片っ端から食べる」となると、まぁ1ヶ月以上は我慢の日々が続くことになる。

しかし、その決意は実った。

500〜600円ぐらい貯まったんだと思う。毎日、ガラス越しに見るだけだったお店の重い扉を押し、中へ入った。毎日見ている景色だけど、外から見るのと中に入ったのとでは大違い。緊張し、浮き足だった。

店主は、「あれっ、どうしたの?」と、中に入った少年を不思議そうに見つめた。「きょうは、買うんです」。声が少し震えた。店主にケーキの説明を受けつつ、握りしめたコインを何度も見て、足し算をし、そのときのベストの選択をし、5つ買って店を出た。「ありがとうございます」背中越しの言葉に反応出来る余裕はなかったが、少し大人になった気分になった。

帰宅し目の前のテーブルにケーキを5つ横に並べ、「さーどれから食べようかな〜」。幸せの絶頂だった。

ケーキは1つ減り、2つ減り・・・・。ちょっとずつ無くなっていく寂しさ。そして、次へ次へといくほどに、何故か薄れていく感動。5つすべてを平らげたとき、その数分前の高揚感はすっかり消えていた。

何もケーキがおいしくなかったんじゃない。いくら違うケーキとは言え、5つも食べるとさすがに飽きてしまったのだった。

このケーキ経験の後、近所の鶏肉専門店の店頭でいいにおいを放ちながら焼いてる焼き鳥、そしてバナナ(時代を感じますね)と、「好きなものを腹一杯食べてみたーい」シリーズは少し続いたが、同じものを再びということは一度としてなかった。

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大人になって、バカになってる自分に気がついた。気づかせてくれたのは子供の頃の自分、というのも妙な気分だ。

2011年7月12日火曜日

鰻とご飯のバランス


先週末は、東京も梅雨明け宣言。その前日の金曜日の陽の高いとき、鰻を食した。上の写真がそれ。人形町・大和田本店の「桜」。「もー、絶対ご飯は見せません!」という感じで、立派な蒲焼きが3枚どーんとのっかってる。旨かった。

このときは連れがいた。彼は暖簾をくぐったそばから、「桜2つ、肝吸いつけてね」と、私のためにも蒲焼き3枚のせの「桜」を注文してくれた。そして鰻重が出てくるまでの間、彼は「シーズン中、2回これを食えば満足だ」と言って微笑んだ。

これまでも私は、ここの鰻は旨いなと思うと、今回のような3枚のせや、下から、ご飯・鰻・ご飯・鰻(鰻は計4枚)という2階建ての鰻重を何度か頼んだことがあったが、食べ終わってからいつも後悔した。

アツアツの鰻重を、悠長に箸でつつきながら酒のアテにするのも野暮なので、目の前に出されると思わずかっ食らいたくなる。それはご飯なしの蒲焼きでも白焼きでもそうだ。鰻の旨みと炭火で焼かれた香ばしさのハーモニーは重要だし、話に夢中になったりして時間が経つと、鰻の身自体がくったりしてしまって興ざめだ。

今回もどーんと3枚のせの「桜」が目の前に来ると、やはり、かっ食らった。たしかにここの鰻は旨かった。鰻自体も旨く、蒸し加減もちょうどいい、タレの甘さ・塩辛さも程よい感じだ。でも、いくら鰻が旨くても、多すぎると、食後は脳天が鰻でパンパンになり、どーも落ち着いて「旨かったー」としみじみ出来ない。そして「もー、しばらく鰻はいいやー」という気分になってしまう。この「桜」を頼んでくれた連れが、「シーズン中、2回これを食えば満足だ」というのも、ある意味頷ける。ただ私にとっては「2回しか食えない」と言った方が正確かも知れない。

景気よく「桜」と頼んでくれた彼には感謝しているが、私にはちょうどよくおいしい、鰻とご飯のバランスがあり、それはこのお重にしてこの鰻だと2枚だ。

「2回しか食えない」。私は鰻を年間を通して5〜6回は食したいと思っている。そうなると、2枚のせがちょうどいい。食べ終わっても、「あ〜、旨かった。また食おう」という気分になるのだもの。

何とも贅沢な話だ。たまにとは言え、これは明らかに飽食だ。しかし、気分の問題なのだろうか、鰻を食べると元気になる気がする。元気になりたいから、ついつい勢い余って景気よく頼む。そして勢い余った分は、後悔へと繋がる。「大人食い」とは、大人げないものだ。そして私のエンゲル係数はますますイビツに上がる。

それにしても、考えてみると、年に5〜6回食したい私は、年に5〜6回も元気になりたいときがあるのだろう。連れだった彼は元気だものな。あ〜、きょうも暑い。でも私は、まだ鰻は食えない。

→次のエントリ 「好きなものを腹一杯食べること」につづく。

2011年6月30日木曜日

ベトナム・コーヒーの流儀【上級編】


深煎りで濃ーいコーヒーが大好きなベトナムの人々。町中はもちろん、どんな田舎へ行ってもcafeは必ずあるベトナム・・・・。まさにコーヒー大国ベトナム、である。

「この濃ーいコーヒー、あ〜、カフェオレに合うだろなー」と私は思う。しかーし、そのベトナムで(コンデンスミルクではない)フレッシュミルクのカフェオレを飲むことは、一筋縄ではない。なので、偉そうだが今回は【上級編】ということにさせて頂きます。

まず、ベトナムではフレッシュミルクを飲む習慣がほとんどない。それはコーヒーに入れる用途においても然りだ。だから、フレッシュミルクはどこの店に行ってもあるものではない。変化の著しいベトナムなので、将来は分からないが。たとえあっても、いわゆる「ロング・ライフもの」、つまり何ヶ月も常温保存可能に加工されたミルク(味もやや違う)。さらーに、その「ロング・ライフもの」でも多くの場合「砂糖入り」なことを付け加えておこう。残念ながら、日本や欧米、インドにあるような加熱殺菌しただけのフレッシュミルクは、ベトナムでは見たことがない。パスチャライズ(低温殺菌もの)なんて夢の夢って感じ。

さて、このフレッシュミルク。ベトナムのcafeでこいつをコーヒーに入れてもらうには、ただ「ミルク」と言っただけでは用を足さない。何度も出てきてるけど、ベトナム語で「ミルク」は「スア」。これだけでは普通のコンデンスミルクになってしまう。なので、これに生(なま)の意である「トーィ」を加えて、「スア・トーィ」と言う。これで「(コンデンスミルクではない)生のミルク」になる。

ここで問題です。

【問い】
ベトナム語で、砂糖抜きの(フレッシュミルクの)ホット・カフェオレは?



【答え】
カフェ・スア・トーィ・ノン・コン・ドゥン
(コーヒー・ミルク・生・ホット・無し・砂糖)

冒頭の写真がコイツだ。コーヒーもミルクも温かい。ちなみに、この冷たい版(砂糖抜きのアイス・カフェオレ)は、

カフェ・スア・トーィ・ダー・コン・ドゥン
(コーヒー・ミルク・氷・ホット・無し・砂糖)

「ノン(ホット)」が「ダー(氷)」になる。もう皆さんお分かりですねー(って誰が?)。これは下の写真。
いや〜、我ながら、かなりマニアックな世界に入ってしまったことは否めない。それにこんな注文する人はベトナムにはほとんどいないので、これについてはこのカタカナ発音では通じないかも知れない。通じたとしても「コーヒーは砂糖抜きでも、スア・トーィは砂糖入りでいいか?」などときかれたりする。その場合は、「スア・トーィ・ノン・コン・ドゥン(ミルク・生・ホット・無し・砂糖)」と念を押さねばならない。

さらに、料金について。

基本的なこととして、何度も言うが、コーヒーにフレッシュミルクを入れる人は、まずいない。ゆえにフレッシュミルクはコーヒーと別料金になる場合が多い。つまり、ブラックコーヒーとフレッシュミルクの2品頼むことになり、料金も2品分になる。(上のアイス・カフェオレの写真は、2品の注文。このミルク、コーヒーに入れるためは立派過ぎるでしょ) ただ、決してこれに腹を立ててはならない。これがベトナムcafe文化なのだ。

元々料金が高い高級cafeなんかでは、通常の(コンデンスミルクの)ミルクコーヒーと同じ料金で、フレッシュミルク(ロングライフものだが)を出してくれたりするが、高級cafeの料金がそもそも高いので、かえって別料金のcafeの方が安上がりということも珍しくない。

何しろレアだ。cafeの人に「何だそれ?」という顔をされたら、仕切り直して、砂糖抜きのブラックコーヒーとフレッシュミルクを別々に2つ注文するのが堅い注文方法になる。

カフェ・デン・ノン・コン・ドゥン
(コーヒー・ブラック・ホット・無し・砂糖)

と一度言って、別に、

スア・トーィ・ノン・コン・ドゥン
(ミルク・生・ホット・無し・砂糖)

・・・・と、ここまでおつきあい頂いた方、お疲れさまでした。

しかし、私にとっては、まだ次のハードルがある。何とかして「ロングライフもの」ではないフレッシュミルクのカフェオレが飲みたーい、という思いが残っており、この話はまだまだ終わらないのであった。ん〜、今度のベトナム出張は、8月だ。

2011年6月21日火曜日

ベトナム・コーヒーの流儀【応用編】

先のエントリの【基礎編】では、珍しい金属のコーヒー・フィルターの説明がなかったので、まずはそれから。

下の写真は私が自宅に持っているもので、【基本編】の写真のアルミ製と違い、ステンレス製だ。最近は、サイゴンなど都会を中心にこのステン製が幅を利かせてる。問題は、その構造だが、下の左側の写真が完成型、こうして使うというもの。そして、右側の写真は、ご覧のとおり3つのパーツをばらした状態。
3つのパーツは、フタ(右上)、フィルター上部(右下)と本体(左)からなっている。このステン製の本体はこれで1セットだが、アルミ製の場合は、本体の下部についてる円盤状の部分が本体と離れているものが多い。本体の底には小さな穴、そしてフィルター上部のパーツにはそれより少し大きな穴がたくさんあいている。コーヒーの粉を、本体の穴の上に入れ、フィルター上部のパーツをその上にのせる。つまりは粉をこの2つのフィルターでサンドイッチにする。お湯は2つのフィルターを通って少しずつコーヒーが落ちてくるという構造になっている。この穴のサイズが違うところも小さなキモだ。そしてそれを蒸らすようにフタをするのです。フタは【基本編】でも書いたとおり、飲むときは、ひっくり返してテーブルに置き、漉し終わった本体をその上に置く。こうして若干ながら残っているコーヒーの雫を受け止め、テーブルにコーヒーが垂れるのを防止する。

このフィルターのオリジナルは、仏領インドシナ時代にフランスから伝わったらしい。当時はアルミ製のみ。今じゃ本国フランスではほとんど見ないが、ベトナムでは現役バリバリだ。それどころかステン製になったりして、進化し続けている。言わずもがな、金属製だからとても長持ち。

さて、【応用編】というと偉そうですが、要は甘いコーヒーが苦手な「私の場合」ということ。

先の【基本編】では、ベトナムでコーヒーを注文するときは、通常、以下の4パターンと書きました。

1.カフェ・デン・ノン(コーヒー・ブラック・ホット)
2.カフェ・デン・ダー(コーヒー・ブラック・アイス)
3.カフェ・スア・ノン(コーヒー・ミルク・ホット)
4.カフェ・スア・ダー(コーヒー・ミルク・アイス)

この4つでベトナムのほとんどの人たちは、事足りてます。でも、私の場合、これでは終われない。ベトナムでコーヒーに入れるミルクは必ずコンデンスミルクなので、上記3と4の2つのカフェ・スアはその時点ですでに甘い。ついでに言うと、このカフェ・スアにさらに砂糖を加える人も珍しくない。また、たとえ上記の1か2のカフェ・デン(コーヒー・ブラック)を注文しても、しばしば(溶けやすいという意味で、サービスよく)グラスの底に砂糖が入れられ、そこにコーヒーが注がれてサーブされる。つまり、上の4つのコーヒーはみんな甘いのです。甘いコーヒーが苦手な人はベトナムにはほとんどいないということ。南国だから、カロリーとらないと、ってところでしょうか。インドから中近東のチャイもみんな甘いですね。

難しく考える必要もないが、「砂糖抜き」という言葉をオプションで加えるのだ。

「コン」が「“not”または“no”」で、「ドゥン」が「砂糖」。
ゆえに砂糖抜きは「コン・ドゥン」となる。

何しろ、甘いコーヒーが苦手な人はほとんどいないので、しっかりと念を押すように「コン・ドゥン」と言わなければならないところがポイントだ。たいがいは「コン・ドゥン?」と聞き返されることが多いぐらいのことだ。

例えば、
カフェ・デン・ノン・コン・ドゥン
(コーヒー・ブラック・ホット・無し・砂糖)

となります。これで砂糖抜きのホットブラックコーヒーにありつけます。もちろん、これのアイス版は、

カフェ・デン・ダー・コン・ドゥン
(コーヒー・ブラック・アイス・無し・砂糖)

ここで一息・・・・。

すでにお気づきの方もいようが、上記の「砂糖抜き」はブラックコーヒーのみ。え〜、ベトナムのコーヒーは、深煎りで濃いコーヒーなのに、フレッシュミルクのカフェオレ(砂糖抜き)は飲めないの〜。

・・・・ということで、私の場合、これでも話は終わらず、まだ続く。贅沢だけど、(コンデンスミルクではない)フレッシュミルクのカフェオレをたまには飲みたいと思うのだ。それはまたこの次に。

いや〜、かなりマニアックになってきたぞー。

2011年6月16日木曜日

ベトナム・コーヒーの流儀【基本編】

きょうは、ベトナムのコーヒーのお話。
最初に、日本がコーヒーの生豆を輸入している相手国、ベスト5は以下のとおりだ。

1.ブラジル   96,406トン
2.コロンビア  84,809トン
3.ベトナム   55,055トン
4.インドネシア 52,030トン
5.グアテマラ  34,826トン
※全日本コーヒー協会調べ(2008年)

ジャーン! ベトナムが「第3位」ってちょっとビックリでしょ? あまり知られてないけど、私たちはベトナム産のコーヒーを実は結構飲んでるのだ。日本の喫茶店で、「ベトナム産コーヒー」とはほとんど聞かないけど、缶コーヒー、インスタントコーヒー、またコーヒー味のお菓子などなどを介して私たちは飲んでいるんです。

そのベトナムは、先のエントリ(ベトナムとパチンコ屋の静寂)にも書いたとおり、町中cafeだらけで、かなり田舎へ行っても必ずある。このブログのタイトルが“natural salt cafe”なのも、実は、私の仕事場ベトナムには、「cafe文化」と呼べるぐらいのcafeがあるからなのだ。そしてその本国ベトナムのcafeでコーヒーを注文したり飲むには、それなりの流儀がある。きょうはそのお話し。

まずは上の写真の説明から。これは私がプロデュースしている「カンホアの塩」の生産者のところでの、朝食のテーブル風景です。手前はバゲットのサンドイッチ(バインミー)。写真中央にアルミ製のコーヒー・フィルターがあって、下のグラスにコーヒーが落ちてる。コーヒーが全部落ちたら、フィルターの上蓋だけを裏返ししてテーブルに置き、その上にフィルター本体を移して、余ったコーヒーの汁がテーブルに垂れるのを防ぐ。上蓋に3つのポッチがあるのが分かります? それは裏返したときの足になる。コーヒーは、通常、かなり濃いのが少量(この写真のコーヒーもおおかた全部落ちている状態)。つまり、かなり深煎りでかなり細かく挽かれた粉に少量のお湯が注がれて出来ている。エスプレッソのようだが、圧力はかかっておらず、焙煎時、香りや味を若干つけているものが多い。それはエスプレッソとは違い、何ともベトナム・コーヒーなのだ。また、「薄めに」なんて頼む人はいなくて、少数派の薄め好みの人は、氷を入れたり、別にもらった小さなポットのお湯を足して飲んだりしている。

右側のアルミ製のポットは、ティーポット。小さな茶碗にお茶(ジャスミン茶)が注がれている。10年前はどこのcafeに入っても、コーヒーを注文すると一緒にこのお茶が(無料で)出てきたが、最近の大きな町では別料金のcafeが増えちゃいましたー。そして左には氷があって、コーヒーのグラスに入れれば、そのままアイス・コーヒーになるようサーブされている。

では、コーヒーの注文方法に入ります。
唐突ですが、このコーヒーは、ベトナム語の順番で「コーヒー・ブラック・ホット」。

一昔前の日本の喫茶店では、「ホット」と一言で注文が済むこともあるが、ベトナムではそうはいかない。それはcafeであろうが、誰かの家であろうが、注文の仕方にも共通した流儀がある。

ベトナム語の発音は難しいので、ここではだいたいの発音をカタカナで表します。(ベトナムのcafeで注文するシチュエーションだったら、このカタカナで何とか通じると思います)

まず、コーヒーには、通常、

・カフェ・デン(コーヒー・ブラック)
・カフェ・スア(コーヒー・ミルク)

の2種類がある。
「デン」は「黒」の意。「スア」は「ミルク」の意。「ミルク」と言っても、ベトナムでコーヒーに入れるミルクは通常甘〜いコンデンスミルクだ。

これだけ知ってれば、不自由なさそうだが、まだ先がある。私が最初にベトナムを訪れたとき、cafeに座って、「カフェ・デン」といくら言っても、しつこくその後を聞かれたことを今でも思い出す。

その後に「ノン」か「ダー」をつけないと、注文にはならない。「ノン」は「熱い(ホット)」の意。「ダー」は「アイス(氷)」の意。だから、「カフェ・デン」と言っただけでは、その後「ノンなのかダーなのか?」と必ず聞かれる。上の写真のとき、実は「カフェ・デン・ノン」(コーヒー・ブラック・ホット)を頼んだ。ただ、ここは知り合いのところなので、「もし、途中でアイスにしたければどうぞ」という親切な気持ちから、氷もサーブされている、という訳。

ここらでまとめてみましょう。つまりベトナムでコーヒーを注文するとき、通常、基本は以下の4種類になる。

1.カフェ・デン・ノン(コーヒー・ブラック・ホット)
2.カフェ・デン・ダー(コーヒー・ブラック・アイス)
3.カフェ・スア・ノン(コーヒー・ミルク・ホット)
4.カフェ・スア・ダー(コーヒー・ミルク・アイス)

単語としては、「カフェ」と4つの言葉の組み合わせだけ。そして覚えるのはまずは自分の好みの1パターンだけでいい。実際、ベトナムの9割以上の人たちは、この4つのいずれかでコーヒーを注文する。

・・・・と、ここまでが【基本編】。
次に【応用編】もと思ってます。【応用編】と言っても、それは単に私の場合ということだけど。「こんな話、役に立つかな〜」。「まっ、いっかー」。

2011年5月31日火曜日

ソメイヨシノのサクランボ


今朝は珍しく早くに目が覚めた。4時過ぎで、うっすらと朝が始まりかけていた。毛布と夏掛けにしてたせいか、布団の中でもやや肌寒く、トイレにも行きたくなって、思い切って起きた。昨日のラジオで、毎朝4時に起きて、趣味の手芸をしてから出勤する女性の話を聞いていた影響もあったかも知れない。こんなことは滅多にない。

最初にポストをチェックするが、新聞はまだ届いていない。コーヒーを入れようとしたが、こーゆーときに限って豆を切らしてる。仕方がないから、普段の朝と同じインスタント・コーヒーをすすりながら、「何しようかなー」としばしボォーっとした。久しぶりにボォーっとした気がした。

音楽CDの整理を始めたら、最近の雨続きでやれてなかった棚板のペンキ塗りを思い出し、そっちに移った。ペンキを塗り終えた5時半頃、6歳の娘が起きてきたので、散歩に誘った。眠そうな顔つきが笑顔に変わり、散歩に出た。子供と朝の散歩は去年の秋以来だ。春になって、「そろそろ朝の散歩に行こうね」と言いながら、「春眠暁をおぼえず」だったり、雨だったり。歩き出してすぐ、去年の秋の散歩の話題から始まった。「前(去年の秋)は、木の上に蛇がいたね」。「じゃぁ、まずはその木に行ってみようか」。

しばらくすると、「ねぇ、ひらがなとかカタカナより簡単な漢字って知ってる?」との質問。「ん〜、なんだろうなー」。「じゃ、教えてあげる。一(イチ)っていう字だよ。私も書ける」。「そーだなー、そんな簡単な漢字、ひらがなとかカタカナではないぐらいだな」と、親ばかながら、結構感心して言ったら、「ううん、カタカナのノは同じぐらい簡単だよ。斜めになってるだけで」と教えてくれた。

しばらくして、彼女が生まれて初めて滑った滑り台のある神社の境内に着いた。そのときの彼女の嬉しそうな顔を今でも思い出す。「大きくなったなー」としみじみ思った。

その滑り台の下の地面を見たら、ソメイヨシノのサクランボが無数に散らばっていた。彼女はそのサクランボを拾い集めた後、緑が濃くなったでっかいイチョウの葉っぱを添えて私にくれた。「もう春は終わったね」と言われた気がした。暁をおぼえられるようにもなったし。さて、神社にお賽銭をと思って財布を見たら、小銭が100円玉と5円玉が1個ずつ。100円に消費税だな。

子供にはいろんなことを教わる。
何となく、自分がリセットされた気がした。
そしてこの朝の散歩は記憶に残る気がした。

2011年5月25日水曜日

日本の水の豊かさ


1週間ほど前、子どもの保育園のイベントがあったので、東京・立川市にある、国営昭和記念公園に行った。我が家から自転車で10分のところ。ここは元の米軍立川基地の跡地。その前は日本軍の飛行場。ゼロ戦もこの地から飛んだ・・・・と語り始めるといろいろあるが、今回はそういうことを書きたいのではない。まっ、何しろ広大な敷地で、現在は国営の公園になっている。

それで、その公園のトイレに入ったら、上の写真の張り紙がしてあった。下記に書き起こします。

●トイレの洗浄水について●

トイレの洗浄水には、公園内の再処理水を利用しています。洗浄水に若干の色がついていますが、使用上は問題ありません。国営昭和記念公園では、地球にやさしい資源の有効利用に取り組んでいます。


いいことだと思う。
でも、同時に、「あ〜、日本では、飲み水をトイレでバンバン使ってんだなー」と思った。それは日本では当たり前のことで、もちろん我が家だって、私の仕事場も、飲み水をトイレや庭の撒き水に使っている。

でもどうだろう。飲める水をそうした雑事にも使っている地域は、世界中だと、1割にも満たないのではないだろうか。トイレの水に再処理水を使うのはいいことだと思うけど、それがわざわざ張り紙になっているというのは、何とも贅沢な主張と思ってしまう。

それだけ日本は水が豊かですばらしいとも言えるけど、キッチンに蛇口が2つあって、コッチが飲み水でコッチが皿洗い用の水ってところも、世界ではよくあること。そう考えると、この張り紙を見て、「そんなに偉そうなこと言うなよ」という皮肉のひとつも言いたくなる。カネのことを言えば、飲めるほどにする水の浄化にだってコストがかかってるハズ。言ってみれば、トイレで使う水まで飲める程に浄化しなくてもいいんじゃないの? と思ってしまうのだ。

もう一歩突っ込むと、人間はあまりに普通または日常的になってることに価値を感じなくなってしまうことがしばしばある。水や空気はその代表例。広くは身の回りの自然も当たり前のことになりがちだ。この張り紙を見て、「地球にやさしい資源の有効利用に取り組んでいる」ことより、普段トイレに飲める水を使っていることの方が気になった。こんな些細なことをぼやくのは、それだけ私が歳取っただけのことなのかも知れないけど。

震災後の3月、東京の水道水も基準値以上の放射性物質が検出され、ペットボトル入りのミネラルウォーターが店から消えた。買い占めは、当たり前のことに麻痺していたからこそ起こるように思える。

こうした張り紙をせずに、さりげなーく再処理水を使う世の中にならないものか。それこそ贅沢というものか。

2011年5月16日月曜日

家電の幸せ

最近自宅を引っ越しをした。そしたらそれを機に、7年前購入した洗濯機の調子が悪くなった。それでメーカーの人に来てもらい、修理してもらった。12,000円かかった。そしたら、その後FAX電話も調子悪くなり、どうしようか考えている。どうしようか・・・・それは、この機会に思い切って買い換えるか、そのままごまかしながら使い続けるか。

私はいわゆる高度経済成長期に生まれ育った。東京オリンピックが3歳のときで、私の住んでた家の前を通ったパレードを、母親に抱きかかえられながら見た記憶がうっすらとある。

当時は狭い家にテレビや洗濯機、冷蔵庫、掃除機・・・・その後には電子レンジと、次々と入って来た時代でもあった。買い替えたんじゃない。それまで知らなかったもの、全てが初物だった。

パソコン含め、家電製品はあって当たり前の時代に生まれ育っている方々にも想像してもらいたい。当時、例えば冷蔵庫を買って、「10年もてばいいよね」なんて感覚はまったくなかった。また「(修理より)買った方が安い」なんてセオリーもなかった。買い替えることなどこれっぽっちも考えてないのだ。それはそれは大変な文明の利器が我が家にお見えになったのだから、たとえ壊れたとしても修理が当たり前。再度壊れてもまた修理。もう一生使うぐらいの気持ちで、それはそれは大事に使ったし、尊い存在でさえあった。だからたとえ10年使っても、修理不能になって新しく買わなきゃならなくなると、かなりのショックだった。その感覚は今とだいぶ違う。

並行して、親からは「モノは大事に使いなさい」と何度言われたことか。それは、家電製品もそうだから、とても説得力のある重い言葉だった。今は「買った方が安い」の道を選ぶこともあるので、自分の子どもに「モノは大事に使いなさい」と言うには正直言ってやや抵抗を感じてしまう。

昔は商品を買うのは近所の電器屋さん(個人商店)から。だから故障してもその電器屋さんに頼めばすぐに修理に来てくれ、直ったものだ。しかし、それから10年ほどすると、東京では「家電は秋葉原が品揃え豊富で、しかも安い」という時代になった。その頃になるとその近所の電器屋さんは、新商品が出ると「払いはいつでもいいから」と言い残し、新しい家電製品を我が家に置いていった。そしてそのまた10年後、今度は秋葉原の時代から巷に量販店が出現し始めた。その頃になると、その近所の電器屋さんは廃業した。

こうした時代を経てきて、とても不思議というか腑に落ちない思いが私の心の壁にへばりついている。

戦後、高度経済成長をしてきた日本は今経済が低迷していると言われている。家電メーカーから見ると、家に家電製品がなかった当時は、こぞって売れたのだから、そりゃ景気がいい。でも、みんな一通りの家電製品を持つと、あとは修理か買い替え。当然、メーカーの売上げは落ちるはずだ。iPodやデジカメ(もー古いかー)など最近だって新たな商品もないわけじゃないが、私の幼少時代とは、比較にならない。

こうして考えてみると、モノが豊かになれば、景気が低迷する(消費が冷える)のは必然だ。なのに、今、「景気が悪い」と、それが諸悪の根源のように言われる。何かがおかしい。

きっと景気が「悪い」んじゃなくて、言い方を変えれば、モノが豊かな時代になると景気は低迷するが、それはモノが豊かになった証なのだ、と思う。経済はサービスもあるが、初めてテレビが家に来た時代のモノのボリュームほどの新しいサービスが最近あるだろうか。

高度成長期によかったのは、「景気」だったんじゃなく、たぶん白黒テレビが初めて家に来たときの「幸せ感」だったように、今になって思う。そしてその「幸せ感」があったから、それらのモノを大事に使った。しかし、当時のような「幸せ感」を今持つことは現実的に難しい。幸せって何だっけ?

2011年4月18日月曜日

エネルギー政策以前に

先のエントリの続き。

「原発から段階的に再生可能エネルギーに転換すればいい」

誰でも考えることだが、なかなかそうはならない現実がある。何十年もやってきた原子力発電だから、関係者には既得権のようなものもあろうが、ここではそういうことじゃなく、民意としての現実を考えてみたい。

しばしば記者会見に登場してくる「原子力安全・保安院」は、経済産業省の管轄。そもそも経済産業省とは、日本経済の発展を図ることが目的。「原子力安全・保安院」は「経済発展には原発推進が必要」という国の方針の下に存在している。だから、東京電力も含め事態を過小評価する傾向にある。

過小評価を感じたら、本当は厚生労働省や環境省、農林水産省には怒ってもらいたい。ただそれらの省は原発の管理には関わってないだろうし、そもそも国の方針が「経済発展には原発推進が必要」だから、結局は「原子力安全・保安院」の会見が表紙になっているというのが現状なんだろう。

ただ、「原発推進&経済発展」セットの前提は、あくまで「事故は起きない」だ。でも起きたのだからそれはもう経済の問題というより、まずは健康(厚生労働省)、環境(環境省)、農水産業(農林水産省)の問題のハズだ。

このゆがんで見える光景は、日本がこれまでいかに経済優先で来たかを示しているように思う。戦後の経済発展は日本人のモノの豊かさに直結していた。多くの政策も、「経済発展=国民の幸せ」という基本方程式の下にあったと思う。そしてここ20年ほどの日本経済の低調さ、「出口の見えない不況」と言われた状況は、現実とその方程式がかみ合ってなかったことを意味していたように思う。

「カネはたくさんある方がいい」
「簡単・便利な方がいい」

この2つの心理が原動力になって、今まで経済やテクノロジーが発展してきたと思う。すごく単純で当たり前のことのようだけど、本当は「カネや便利さは適度なのがいい」。人類の最大の弱点は、この「適度」の判断(足を知る)が下手なことだと思う。カネや便利さはときに小さな幸せをもたらせてくれることがあるが、安心・健康のような大きな幸せとは別次元だ。人間はいろんなことが出来るようになった分、「適度」がより複雑で分かりにくくなり、目先の幸せしか見えなくなってきたんじゃなかろうか。だから例えばGDPを指標にする。GDPだけを見れば、たくさんカネを稼いで、たくさん電気を使って、たくさんモノを作って、たくさんモノを買って、たくさんモノを捨て、そしてまたたくさんカネを稼ぐ。という循環がいいことであり、それを好景気と呼ぶ。

その「適度」を失ったところの象徴が原子力発電のように思えてならない。

「原発から段階的に再生可能エネルギーに転換すればいい」

先のエントリ(再生可能エネルギー転換とその痛み)でも書いたが、再生可能エネルギーへの転換は「痛み」をともなう。つまり「カネはたくさんある方がいい」「簡単・便利な方がいい」の心理に逆らう「痛み」とのセットだ。

または全国に散在している原発をそれほど危険と感じずにその「痛み」を避けるか。原発事故は周知のとおりだが、たとえ事故がなくても、目に見えず臭いもしない、そして何万年も土深く埋めておかねばならないほどの放射能の危険とセットの原子力発電。

どちらにしても、個人個人の覚悟が必要だ。

最後に、先日政府が組織した、東日本大震災復興構想会議。この委員の一人(特別顧問)、梅原猛氏が会議後、記者団に語った言葉がある。

「原発問題を考えずにこの会議は意味がない。近代文明は原発を前提としており、文明そのものが問われている。私は原発を廃止した方がいいと考えているが、(原発容認派と)双方の意見を聞くべきだ」(時事ドットコム「委員の会議後の発言=復興構想会議」より)

つまり、今は「文明の曲がり角」なんだと。人類は来るところまで来てしまったのかも知れない。そのぐらいのことだと、本当に思う。

2011年4月15日金曜日

再生可能エネルギー転換とその痛み

再生可能エネルギーへの転換は、言うは易く行うは難しだ。しかし、今回の震災とFUKUSHIMAは、その課題を十分すぎるほど見せつけたと思う。

以下、今後のエネルギー政策を大まかに想像してみた。政治は、もちろんエネルギー問題だけでは考えられないが、とりあえずこれは書いておきたいと思う。

1)FUKUSHIMAはじめ、東北・関東の東海岸の原発は毎日続く余震に対しての対策はベストを尽くしているとして、全ての原発が東日本大震災以上の地震や津波対策が想定されているかを確認し、ダメなのは早急に対応策をとる。堤防を高くするなどもあるが、原発はすぐに止まるものではないので、的確な対応策が見つからない場合は、「とりあえず停止」という選択肢をも含む。何しろ現在、地震活動期と言われている。また大きな地震があって、「第二のFUKUSHIMA」なんてシナリオは絶対に避けなくてはならない。

2)当座は火力発電所などの稼働率を上げるなどしてしのぐ。その間、夏場のピーク時などに電力不足があるかも知れないが、それは計画停電などで乗り切る。節電は言うまでもない。

3)太陽光・地熱発電など再生可能エネルギーの大規模な開発に本腰入れる。

4)再生可能エネルギーの実用化がある程度の規模になったら、その規模に応じて原子力発電を段階的に止めていく。

上記の中で、当座の国民の負担は2)の計画停電だが、節電の新たな工夫も生まれよう。そしてそれよりずっと大きな負担は、被災地の復興のためにしばらくは莫大な費用がかかる中、現在稼働中の原発を止めて再生可能エネルギーの開発となると、相当新たな費用がかかることだと思う。でもそれは電気料金や税金を上げればいいと私は思っている。もちろん納得のいく値上げや増税分のカネの使い方であることが条件。多少なら、電気料金の値上げや増税があっても、危ない原発が止まるならそれにこしたことはない、ぐらいの危機感が私たちにあると思う。ただそうなると特に産業界は困るだろう。そして物価も高くなるかも知れない。これがエネルギー転換にともなう「痛み」であり、この「痛み」なくしてエネルギー転換はあり得ないのではないかと思う。ただ何十年かかるか分からないが、転換した後には放射能の危険がなくなるという、安心と平穏がある。

国民に利益を訴えて当選した議員は数えられないほどいようが、国民に「痛み」をも訴えて当選した議員は少ない。最近では、財政破綻した夕張市の市民が再建のために「痛み」を受け入れた。それは財政破綻の危機感と夕張市への愛着とがあったからだと思う。エネルギー政策は国の問題だ。これは国民が放射能汚染による危機感と国への愛着とをどれだけ持っているかにかかっているのだと思う。

上記の再生可能エネルギーへの転換のロードマップは、原子力発電に依存する国としてはとても大胆だと思う。でも、この大胆さは、HIROSHIMA・NAGASAKIを経験し、今後どうなるかも見えないレベル7のFUKUSHIMAを抱えた国でないと出来ないんじゃないかとも思う。そしてこの未曽有の試みに突き進む勇気を持ち、成功例まで示せたなら、現在もなお放射性物質を放出して迷惑をかけてる世界への償いになるかも知れない。そして、もっと貧乏になるかも知れないけれど将来の日本に夢を持つことができる。それは決して「甘い」夢ではなく、「痛み」をともなう夢、現実的な夢だ。

・・・・と、ここまで書いたが、こんなことはきっと誰でも考えることなんだろうなと思う。そして「誰でも考えること」でありながら、そうはならない現実がある。それは何なのか? もっと根本的で大きな問題があるような気がする。

2011年4月14日木曜日

FUKUSHIMA

この震災で、いろんなことを考えた。いっそのこと震災関係のことに一切触れないで、このブログを書こうかとも思ったが、違和感を感じるので、やはり書こうと思う。

何しろ、この震災では大事なことがあまりにもたくさんあって、論点を絞って書くことが難しい。被災地のこと、地震や放射能、農業・漁業、エネルギーなど、何かの専門家ならいざ知らず、私のような一般人にとって論点があまりにも多い。それだけ、今まで注視してなかったことが、一般人にも堰を切ったように押し寄せているように感じる。

あまりにたくさんある論点の中で、原子力発電のことを考えた。一昨日の新聞では、FUKUSHIMAがレベル7になったとあった。地震と津波は天災、原発事故は人災、とよく言われるが、原子力発電のことを考えるのは、地震予知よりもはるかに分かりやすい。

今まで原子力発電が行われてきたのは、決まっておおよそ以下のようなことだったと思う。

1)安全対策は万全
2)CO2を出さないクリーンなエネルギー
3)発電のコストが安い
4)どんどん高まる電気の需要に応じるために必要

FUKUSHIMAを機に、これらを鵜呑みにする人はいなくなったが、以下、ひとつひとつみてみようと思う。

1)安全対策は万全
誰が見ても「万全」とはほど遠い。

2)CO2を出さないクリーンなエネルギー
CO2は出さなくても放射能を出す。たとえ事故がなくても原子力発電をする限り、放射性物質が生じる。それが「クリーン」になるまでには気の遠くなるほどの時間が必要と言う。

3)発電のコストが安い
この「コスト安」には、「事故は起きないもの」という前提条件があった。こうしていったん事故があると廃炉費用はもちろん被害額を含めコストは相当高くつく。またたとえ事故が起こらなくても原子力発電をする限り、放射性物質を管理(最終的には廃棄)するための相当のコストとかなりの時間がかかるらしい。万全と主張されていたFUKUSHIMAで事故は起きたのだから、従来の火力発電と比較して、もはや「コスト安」とは言えない。

4)どんどん高まる電気の需要に応じるために必要
これは産業界と一般人の間に温度差があると思う。工場がどんどん中国へ移っていく中、大量の電気を使う産業界では、簡単に「節電しましょう」とは言えないだろう。また、日本の人口は減る傾向にあることも事実だ。

一方、これだけのショックを受けた私たち一般人は、電気に対する感覚が変わった。それは半分になったコンビニの照明に慣れただけではない。

原子力発電所は米軍基地に似て、「安全」と言いつつ実はかなり「危険」なのだ。つまり福島は東京の身代わりになって危険にさらされ風評をも受けている。私を含む東京在住の人間は、福島の人たちに罵倒されても仕方ないのだ。政府や東京電力の情報収集・開示の怠慢はしばしば指摘されているが、だからといって、政府や東京電力に怒りをぶつけるだけでは事は進まない。私たち東京都民にも責任があるのだ。FUKUSHIMAのことをみんなが知りながら、先週末も東京都民は原発推進派の石原氏を次期都知事に選んだ。因果関係は十分にある。

1)安全性、2)クリーン、3)コスト安の3つに比べ、4)の高まる電気需要についてはすぐに現実的な答えが見つからない。ただ、原子力発電だけがエネルギーではないから、既存の火力発電を含め、それなりの規模を携えた太陽光・地熱などの再生可能エネルギーがアテになりさえすれば解決に向かう問題に思える。

ただ、現実的にその道のりは簡単ではない。必ず痛みもともなう難しいことだと思う。石原氏の当選は、その難しさを「避ける」ことを意味しているように感じる。だからといって例えば、「安全第一」イコール「脱原発」は、その難しさを飛び越えているようで、現実味を感じない。

ところで、震災の後、私はスイスの友人とskypeで話をした。彼の第一声はやや興奮気味に「お前、なぜ逃げない?(私は東京在住)」。少し落ち着いた後は、「日本はテクノロジーの国だと思ってたのに・・・・」。「テクノロジーに失敗は付きものだ」と答えた。ただ今は、そのテクノロジーで今後何とかいい方向に向かっていけないものだろうかとは思う。そしてskypeの会話が終わって気がついた。日本語を話さない彼もすでに、「FUKUSHIMA」とスラスラと発音する。「HIROSHIMA」、「NAGASAKI」と同じように。非常に残念なことだけど、今となってはそれを将来に活かすしか道はない。

2011年3月17日木曜日

みんなで分け合えば、できること

個が集まって「みんな」になる。

2011年3月15日火曜日

NPO『地球村』緊急募金

今、私に何が出来るだろう?
・・・・募金。
いろいろ考えてみて、まずはこれだと思う。
でも募金はいろいろあるから、一番効率的なものを選びたなぁ・・・・と思っていたところに、私の知人のブログ、サムライ菊の助「畑日記」、で紹介していた募金先にピンときた。私はここに募金する。

環境と平和のNPO法人 ネットワーク『地球村』

状況は人によって違う。そんな中、今、私に出来ること、あなたに出来ること、みんなが出来ること。

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NPO『地球村』緊急募金
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『地球村』緊急募金(郵便振替)

■加入者名:『地球村』緊急募金
■口座番号: 00920-7-105330
※「東北地方太平洋沖地震」とお書き添えください


郵便局以外の金融機関からのお振り込みの場合:


■銀行名:ゆうちょ銀行
■金融機関コード:9900
■店番: 099
■預金種目:当座
■店名:〇九九 店(ゼロキユウキユウ店)
■口座番号:0105330
※「東北地方太平洋沖地震」とお書き添えください

2011年3月3日木曜日

豆腐の熟れ鮓・鮓とうふ


昨日、スゴいものがクール宅急便で届いた。
豆腐の熟れ鮓(なれずし)である。
「なーにー、豆腐の熟れ鮓ぃーーーー」。
手に取った私の手が震えた。

送り主さんは、京都・長岡京で、豆腐屋さんをやっている「あらいぶきっちん」の矢沢氏。私が作っている「カンホアの塩」のお客さんだ。この「あらいぶきっちん」が熟れ鮓の「徳山鮓」と共同開発したと説明書にある。

私は、こういう乳酸発酵品が大好きだ。熟れ鮓、すぐき、沢庵・・・・なかなか「これだー」というものに出会えないが、この「鮓どうふ」は「キター」、って感じですぅ〜。なかなか「これだー」というのに出会えないというのは、食べやすい味に、つまり、マイルドというか、あんまり酸っぱくなく、また鮒の場合など、あんまり香らないように作ってあるものが多いということだ。

おそらく日本中で、こういうのが好きな人は100人に数人いるかいないかだと思われるので、「食べやすく」は仕方ないと思う。「あらいぶきっちん」にお礼の電話をしたときも、奥さんが、「好きな人と嫌いな人に別れるんですよね〜」と言ってたが、つまりは好きな人は少数派。でも、熟れ鮓にしてもすぐきにしても、その乳酸の刺激がたまらないと感じる私にとって、「食べやすく」は「物足りなさ」になってしまう。

で、繰り返すが、この品、何と豆腐屋さんが熟れ鮓屋さんと一緒に作った「豆腐の熟れ鮓」なんです。こんなの初めてだー。パッケージに「チーズのような」とあるが、このチーズはもちろんウォッシュタイプのもの。この手のチーズもそうだけど、一般的には好んで食べる人が少ない。だから、少ない分、私は声を大にして叫ばないと伝わらないんじゃないかと思うので叫ぶぞー。

「うまいーーーーー!」

そうそう、パッケージの写真だけではダメだ。下は、包丁を入れて食う寸前の状態。よく思いとどまって、箸を付ける前に写真を撮れたなと我ながら思う。一番右のスライスの断面を上に向けたけど、分っかるっかなー。外側の熟れ鮓の飯(いい)に包まれてしっかり漬かってネットリした(水抜きされた)もめん豆腐。

開封後はもちろん、ひと箸ごと、鼻を刺激する乳酸香。豆腐が口の中でとろけていきながら酸味はさらに広がる。そしてその酸味が徐々に去っていくにつれ、現れ出る豆腐の淡ーい旨みが何とも憎い。一口ごと、もー身体が生き生きしてくるのを実感できる。たまらない。説明書には、

【豆腐は】
小さくカットしてサラダにちらしたり生湯葉で包んで素揚げにしたり
ジンジャーや蜂蜜との相性も抜群!!

【飯(いい)は】
お茶漬けにいれるととてもいい香りです。
すりつぶし裏ごししてから豆乳と混ぜて
冷蔵庫で発酵させればヨーグルト!!

とあるが、そんなバリエーションを試す余裕もなく、ただただ飯(いい)とともに豆腐を大事に大事に食べた。もちろん日本酒とともに。

そして、一緒に送られた説明で、この「あらいぶきっちん」の矢沢氏が、NKH BSの「ネコのしっぽ カエルの手」に出演するという知らせがあったから、また驚いた。いつも楽しみに観ている、京都・大原のベニシアさんの番組ではないかー。毎回録画だから最近はちょっとたまっちゃったけど。その番組に、ベニシアさんの友人として出演するというのだからまたまた驚いた。番組の中で、この「鮓とうふ」も紹介されるという。私は、矢沢氏に会ったことはないが、もう勝手にイメージが広がってしまう。イケナイ、イケナイ。

3月6日(日)から3月12日(土)の間、BS-hiとBS2にて。
詳しくは、番組HP、

http://www.nhk.or.jp/venetia/

でチェックしてください。

私は明後日から一週間、「カンホアの塩」の生産地、ベトナム・カンホアへ出張なんだが、「カンホアの塩」を作っていて、こんな素敵な頂き物があるなんて・・・・。まるで神様からのご褒美のようだ。

ありがとうございます、矢沢さん。
ありがとう、カンホアの塩。

そして、生産現場での仕事にも、自然と気合いが入る。

2011年3月1日火曜日

藪・並木の鴨


東京・浅草にある藪蕎麦の名店だ。木造のお店もとっても雰囲気があるんだけど、老朽化のため改築されることになった。そして、昨日(2月末日)にて8ヶ月間の休業に入った。

2〜3ヶ月前、私はある知人と話をしていて、ふとこの店の話題になり、改築の予定を知った。「これは、改築前に行かないとー」と思いはしたもののしばらく行けず、やっと行けたのが4日前だった。上の写真は、そのとき撮ったもの。この店では、これを食わないといけない。「鴨(南蛮)」だ。

鴨肉は、肉厚なスライスが数枚と、真ん中にミンチが1個。「俺は今、肉を食っているぞー」・・・・という感覚に、こんなになる鴨は他にないのではなかろうか。だからって、肉臭い訳じゃない。邪魔するものがなく、「肉を食うこと」に突き進んで行けるのだ。粗くたたかれたミンチも同様だ。しかし、その出汁が出た汁は繊細で、最後まで吸い干す。

下に隠れている蕎麦は、細めの藪。最近の香り重視の蕎麦と違い、その味がしっかり藪を主張している。だから、またこの鴨に合う。

飲まぬとき、ざる行ってから、鴨に行く

私の感覚では、鴨を食うときは、最初にざるを食う。最初に蕎麦だけを味わいたいからだ。その細めの藪な蕎麦もさることながら、そのつゆがいい。ビシッと塩辛く、鰹の出汁がしっかり利いている。甘さはほとんどない。このつゆに、細めの藪がよく絡む。つゆをどっぷりつけちゃいけない蕎麦とは、こういうつゆのことだ。蕎麦だけを楽しんだ後、鴨と蕎麦のアンサンブルを楽しむのだ。鴨のときの蕎麦は名脇役になる。私は東京の下町で生まれ育ってるせいか、こういう店の雰囲気が好きだ。昔はこういうお店が当たり前にあった。概してだけど、高級な料理店では、客を大事に大事に扱うが、心が遠く「緊張しろ」と言われてるように感じるときがある。しかし、こういう店は、ひとりで席に着くと目の前にさっと何気に(スポーツ)新聞を置いてくれたり、ざると鴨の間に30秒以上の間があると、小さい声で「遅れてすみません」と言葉を添えてくれたり、注文時いちいち「すみませーん」と声をあげなくても、視線だけで気がついてくれたり、その自然と感じるサービス・雰囲気が何より嬉しいのだ。これこそがお店の風格なんだと思う。何も特別扱いしてくれなくていい。でも、これは特別扱いを望む客が増えたからという面もあるんだろうな・・・・。物事一面だけを見てはいけない、と自分に言い聞かせる。

しかし、時代は変わる。

老朽化しない建物はないし、暖簾は残っても代替わりはする。そうして時代と共に変わっていった店をいくつ見てきただろう。これも自然の成り行きだ。

4日前、同じテーブルに居合わせた初老の常連客は、「改築するって聞いたから、飛んできたよ。お願いだから、(このお店の)雰囲気は残してね。自動ドアなんかにしないでね」と両手を胸のまえで合わせて女将さんに何度も懇願していた。その声と姿が忘れられない。常連じゃない私でさえ複雑な心境だ。

冒頭にも書いたが、きょうから8ヶ月の休業に入ってます。この店の鴨は11月から3月まで。つまり11月、改築された鉄骨の店のオープンは、鴨とともに始まる。

2011年2月23日水曜日

ベトナムとパチンコ屋の静寂

ベトナムに行くと、嫌いでなければ、必ずコーヒーを飲む機会がある。ベトナムはcafeだらけ。町にはエアコン完備で立派な店構えのものから、小さな椅子に腰掛けて飲む道ばたの屋台まであちこちにある。そして特に屋台などエアコンのないオープンなcafeでは、

「一人で腰掛け、道行く人を眺めながら、コーヒーをすする人」

をしばしば目にする。そんな人は、物思いにふけっているふうにも見え、独特の静寂感が漂っている。そしてそんな人は、何も静かな場所だけで目にするのではない。上の写真のようにオートバイの大波が打ち寄せる道路に面したサイゴンの中心部のcafeでさえも見かける。どうにもならないような喧噪の中で、そんな人を見かけると、私はホッとし、「ベトナムだなぁ」と感じる。

◆◆◆◆◆◆◆◆

「静寂」って、何デシベルとか何ホンの問題ではなく、「静けさ」を感じるかどうか。つまり感覚の問題だ。

私は30年ほど前、パチンコ屋の店員をしていたことがある。もちろん店内はものすごい騒音。広い店内には私を含め数人の従業員がいて、その騒音の中、お互いにコミュニケーションを取りながら働いている。

「38番台が打ち止めになりそうだ」
「103番台の玉が引っかかっている」
「あの(常連)客は面倒だから俺が行く」
「今、手が放せない。ドル箱(玉を入れる大きな箱)を持ってきてくれ」
などなど。

声が届かないぐらい遠くにいる従業員とも、身振り手振りでコミュニケーションを取る。番号は市場の競りのように指で示すが、不思議なことに、何ヶ月かすると、遠くで声が聞こえなくても仲間の従業員が何と言っているのかが分かるようになる。

店が忙しくなると(客が多くなると)、騒音は更に増すが、店員の集中力も増す。すると、その口の動きを見て、その声を感じ、細かなことまでも聞き取れるようになるのだ。「読唇」ということなのかも知れないが、その人の声をまるで近くで聞くのと同じように感じ、何を言っているのかが分かる。そして、そうしたときは、決まってパチンコの騒音は聞こえず、その人の声だけが聞こえるように感じる。それはまるで「静寂」の中で聞いているがごとくなのだ。忙しいときは、そんなことあまり意識しないが、落ち着いて後から考えてみると、「あの騒音の中で、あの距離で、何であの人の声がちゃんと聞こえたんだろう?」と不思議に思ったものだ。

“sound of silence”という名曲が昔あったが、こういうことかも知れないと思った。

◆◆◆◆◆◆◆◆

初めてベトナムを訪れる人は、サイゴンのオートバイの喧噪に度肝を抜かれ、圧倒されることが多い。エンジン音もあるが、クラクションをやたらと鳴らすからだ。目を奪われそうなアオザイ姿の美女に「ブッブー」と思いっきりクラクションを鳴らされたりすると、「えー」と思うかも知れない。しかし、そのクラクションも、日本とは違う意味がある。

私が初めてベトナムでオートバイを運転したときのこと。当時、やたらと鳴らすクラクションに嫌気が差していた私は、「自分はクラクション鳴らさないで走ったるぞー」と心に決めて発車した。そして追い越しをかけたときも、クラクションを鳴らさなかったら、後ろに乗ってた人から、「危ないじゃないかー、追い越すときはクラクション鳴らさないとダメだよ」と厳しく注意された。追い越しだけでなく、発車して合流しようとするオートバイや道を渡る人が前方にいるときなども同様だ。

ベトナムでは、オートバイや車で道を走っていて、例えば追い越しをかけるとき、「私は、あなたの横を通って追い越しますよー。だから車線変更しないでくださいねー」という意味で、クラクションを鳴らして自分の存在を知らせるのが親切なマナーなのだ。

「どんな(異文化・異感覚の)人でも分かる行為をして、安全を守る」。
島国育ちの私は、こーゆーのが大陸的習慣なんだと思った。

確かにベトナム、特にサイゴンのオートバイはうるさいが、そこで暮らす人々がうるさい訳じゃない。ベトナム人の話し声のボリュームは、概して小さい。

「静寂」はきっと世界のどこにでもあるものだと思う。

2011年2月14日月曜日

サンマの価格


「この時期になんでサンマ(秋刀魚)???」と思われることでしょう。でも、旬とか関係なしに、言っておきたいことがある。

最近、去年の新聞の切り抜きをペラペラと見ていたら、サンマの記事が目に留まった。

憶えてますか?
去年の夏、サンマが不漁で、「今年はサンマが高いぞ〜」とマスコミが騒いでいたこと。私はサンマが好物なので、とても気になった。上の写真は、東京新聞(11年8月4日付け朝刊)の記事だ。その最後には「入荷が極めて少なく、価格も一匹400円前後と昨年の倍」というスーパーの担当者のコメントが引用されている。(クリックすると拡大できます)

これ読んで、サンマを七輪で焼いて食べるのが大好きな私は、「いつもは5〜6回は焼くけど、今年はそんなに出来そうにないな」と思いながら、切り抜いたことを憶えている。

でも、その後、徐々に店頭にサンマが並び始めると、本当の最初こそやや高かったものの、9月に入ると150円だった。8月のサンマは毎年やや割高なので、例年と全く変わりない。

「あれっ、別に高くなってないじゃん」と拍子抜けな感じ。

そして、左のこの記事。先の記事のちょうど1ヶ月後。これも東京新聞で9月4日付け朝刊(クリックして拡大)。私は東京在住。「サンマ 東京なら100円台の怪」の見出し。「1億円の赤字が出たらしい」「赤字を誰が負担したのかは霧の中」とある。また、「量販店から頼まれると卸も仲卸も産地の業者もサンマ以外にも取引があるから断れない」ともある。

これらの限られた情報だけど、整理すると、実際問題、サンマは不漁だった。でも東京の量販店などに、例えば「去年と同じ卸値で」と頼まれると流通業者や漁業関係者は断れず、去年と変わらない卸値になり、店頭では100円台。その分の赤字はサンマ以外の海産物の利益から穴埋めされている・・・・ということだと思う。

それにしても、1匹150円なら、特別に感じないし、例年並みに売れたと思う。不漁の中、その数は足りたのだろうか? という疑問も湧いてきた。

この2つ目の記事の冒頭に、スーパーで生サンマを2匹買った女性のコメントがある。「今年は高いと聞いていたけど、そう高くないな、と思って」とある。

私は、「それって本当に大丈夫なの?」と言いたくなってしまう。

まず、不漁ということは、自然界ではあり得ること。だから、その際、値が上がるのは極々自然なことだと思う。ただ私を含め、誰だって高いより安い方がいい。目の前のサンマは、400円より150円の方がいいに決まってる。

しかし、ですよ。

こういうことって、どこかで必ずシワ寄せが来る・・・・ということも決まってることなんじゃないだろうか。それが「霧の中」だとすると、そのシワがどこに寄っているかも分からない。そういうのって、私は嫌だなー。

1匹400円したって、サンマの他にもおいしい魚はあるし、そういうときはそれなりの食生活をすればいい話のように思う。目の前に甘い条件があると、その理由なんかはどーでもよくなって、その条件を躊躇なく受けるのは人間の性のようにも思うけど、そのツケがどっかにまわり、いずれは自分自身に跳ね返ってくるもののように思える。そして、そのツケが何なのかも分からないのだから、自分に跳ね返ってきても自覚症状も持てない。それはとっても不健康な経済システムのような気がしてならないのだ。

昔から「タダより高いものはない」って言いますね。
サンマは「タダ」じゃなくとも、同じような意味を感じてしまう私って、異常だろうか?

2011年1月25日火曜日

ニンテンドーDSのボタン


うちに6歳の娘がいる。下に弟がいる第一子だ。現在、彼女は保育園に通っている。4月からはピカピカの小学生1年生。それで彼女が描いた絵が上の写真。ゲーム機、ニンテンドーDSなのである。A4の紙が二つ折り。それを四つ折りにしてノートパソコンのようになっている。

これはねぇ〜、多くの親が考えさせられると思うけど、我が子も例外ではない。

保育園に通ってると、いろんなクラスメイトがいる。で、その子にお姉さんやお兄さんがいると、その上の子たちはゲーム機を持っている場合が多い。そして自分ちで兄弟で遊ぶことはいたって日常的なことで、6歳の子でもゲーム機の楽しさを知る。自然なことだ。

そして、その子は保育園に来てその楽しさを、ゲーム機をまだ知らない友だちに伝える。もちろん保育園にゲーム機を持ってきてはいけないから、その姿を絵で伝えながら、遊び方をも教える。

するとゲーム機を見たこともない子へも、その楽しさは伝わり、その子は真似してDSの絵を紙に描き、その絵のボタンを押しながら遊ぶ。そして家へ帰ってからも、そのボタンを懸命に押しながら、「ねぇ、DSの遊び方教えてあげようか? こうして遊ぶんだよー」と親に教えてくれる。その後は、当然、「ねぇ〜、DS買って〜」と懇願する。

この十字に描かれたボタンを一生懸命押しながら遊んでいる我が子の姿を見ると、「そんなの・・・・」と思いながらも、私としてはとても辛いものがあります。ちなみに、この裏はこんなになってて、ハートなんかが描いてある。
私は比較的、歳をとってから子供を授かっているので、同年代の私の友人はだいたいこのことは経験済みだ。そんな友人に、「どうしてた?」ときくと、買ってる場合が多い。少数派だけど、「買わなかった」という友人もいる。しかし「買わなかった」派の友人でさえ、「買わなくても、結局は友だちの借りたりして、実際はゲーム機で結構遊んでんだよね。だから買っても買わなくても大差ないよ」と口を揃えて言う。

自分が子供の側だったら・・・・と思うと、絶対に親にせがんでんだろうなーという確信もある。大げさに言えば、人生において通らなければならない道があるんだ。これもそのひとつなんだと思う。変に温室育ちになってもらいたくないという気持ちもある。俗にまみれるのも大事なことだ・・・・なんて自分に言い聞かせる。

やっぱ、せいぜい1日30分とか1時間とか時間を決めるのが精一杯で、「買うことになるんだろーなー」とつぶやく。

2011年1月19日水曜日

菜懐石「仙」の料理

この間の土曜日、東京・三宿にある、菜懐石(ナカイセキ)「仙」へ行ってきた。「カンホアの塩」のサイトでも塩料理のレシピを作ってもらっている、カノウユミコさんの料理屋だ。肉・魚・乳製品・砂糖は使われていない精進料理で、おまかせの懐石コースのみ。個室3部屋だけの完全予約制。隣の部屋の声も聞こえないから、次々に出てくる料理に集中出来る。内装はちょっと変わった和風な感じで、何せ居心地がよく、いつまでもいたい雰囲気でもある。

さて、彼女は、「誰でも作れる」ことを主眼として、料理教室や本なんかでは料理を紹介している。また今月と来月は、「キューピー・3分クッキング」(日テレ系)の毎週土曜日に出演してもいる。

でも、この「仙」では、「誰でも作れる」料理は出てこない。きっと彼女にしか作れないだろう料理が次々と出てくる。だから、見たこともないような珍しいものがあるので、きょうはそれらを紹介したいと思う。

トップバッターは下の写真。

食前酒:ガラリ酒
先付け1:落花生豆腐
お茶:ハマ茶


一番上の小さなグラスに入ったちょっと赤味を帯びたのが「ガラリ酒」。これ、実はもう半分以上飲んだ後。この日、私は全部の料理の写真を撮ろうと意気込んでいたんだけど、料理が出されて説明を受けると、もうその料理のことに気持ちが向かってしまい、ついつい写真撮らずに食べたり飲んだりしてしまった。そんな訳で料理の全景がなかなか撮れなかった。これもその1枚。3人で食べていたので、3人で「忘れないようにしようね」と念を押し合っていながらも、気がついたらもう食べ始めている・・・・。中には、気がついたらもう食べ終わってたのもあった。それは魔法にかけられていたかのようだった。その点、ややお見苦しいとは思いますが、ご勘弁を。

では、料理の説明に戻ります。

「ガラリ酒」は、「ガラリ」という名前の奄美大島のプラムを玄米焼酎に漬け、メープルシロップで甘味をつけたもの。もちろん自家製。ほんのり甘く、滋養がある感じで、「さー食うぞー」という気分になる。左の白いのが落花生豆腐。生の落花生を絞った汁を葛で固めたもの。ねっとりした食感の中に、落花生が持つ甘味と香りが口の中に広がる。そして添えてあるワサビが引き締めてバランスが取られている。素直においしい。そして右のお茶は、ハマ茶。マメ科の植物「カワラケツメイ」を焙じたお茶とのこと。「カワラケツメイ」は、その昔、お茶の木がうまく育たない地方に弘法大師が「替わりにこれを育てて飲みなさい」と広めたものという。このお茶の「カワラケツメイ」はカノウユミコさんの出身地、山陰地方の砂地に生えてるものらしい。砂地じゃお茶は育ちそうにない。いわば裏のお茶だけど、豆の仲間だから身体には良さそうだし、その素朴な香ばしさが落花生豆腐とマッチしている。

そして次。

先付け2:栗のすり流し

栗と豆乳のスープ、やや昆布だしが利いている。栗の風味がたまらない。和な栗のポタージュだ。これも半分以上食べちゃった後の写真。「この時点で写真のこと思い出しました」とも言える。

へこたれず、次、行きます。

前菜:春菊の生姜和え、切り干し大根と京人参の酢の物、干し柿の酒粕和え、豆腐の味噌漬け、小さな椎茸の煮物

春菊のほろ苦さ、酢の物の微妙な酸味、干し柿と酒粕のほのかな甘さ、味噌漬けの非常に淡い塩辛さ、ドンコの子供みたいな椎茸から染み出る柔らかい旨み。これら五味の訴えが柔らかく、人の優しさのように感じられ、どれを食べてもしみじみとします。

さらに、

蒸し物:聖護院かぶらの蒸し物

これも半分以上食べちゃった写真(魔法ですから)。おろした聖護院かぶらの中に、百合根、蓬の生麩、白しめじ、銀杏が入っている。これもザ根菜・聖護院かぶらをしみじみと味わいながら、百合根などのいろんな具が楽しい一品です。

続いて、

焼き物:精進のうなぎモドキ

これは珍しく食べる前に撮れました。3枚あるうち一番右のは、うなぎの皮(?)が見えるようにひっくり返しました。「これがウナギじゃないなんて・・・・」と思いますが、ウナギじゃないんです。タレは、醤油とみりんとお酒かな?のようだったけど、舌にシルキータッチな上品な味。下に敷いてあるのは、紅芯の大根(甘ーい)、隠元に手前がムカゴ。いろんな味を楽しめます。

次は、

お造り:生湯葉など、おぼろ昆布を巻いた青のり生こんにゃく、イギス、アロエ、ソルティーナ

残念ながら、この料理は、全部食べた後、写真忘れたのに気がついたので、写真はない。器は織部だったことは覚えているんだけど。「イギス」は、海藻を練って固めたもの。主に日本海側で採れる海藻です。信州では「エゴ」、福岡では「オキュウト」なんて呼ばれているものの仲間ですね。アロエはほとんど苦くなく、そのへんのアロエではない。身体が元気になる感じ。ソルティーナは、若干の塩気を感じるやや肉厚な葉物野菜。シャキシャキした歯ごたえがこのお造り全体のアクセントになっている。ソルティーナはたぶん「ソルティー菜」。料理を運んでくれた女性に「スベラーズみたいですね」と言ったら笑ってた。同年代らしい。

さて、次行きます。

揚げ物:アピオス、オレンジ薩摩芋、葉付き京人参、ふきのとう、柿の木茸ときく芋のかき揚げ

これは珍しく、食べる前に撮れました。一番手前の2つのコロコロがアピオス。北米インディアンが好んで食べている、滋養たっぷりの芋というお話。ホクホク感がありサツマイモと栗の間ぐらいな味。まー、そのへんじゃ見かけませんが、精のつきそうな感じです。京人参は小さく、葉っぱの方をたっぷり食べるような天ぷら。そんで、「鳥取の雪の下から取り出した」というこのふきのとう、味が濃かったなー。大寒の前にも雪の下で芽生えている生命力とでも言うんでしょうか。オレンジ薩摩芋は甘かったし、きく芋は私の好物なので、嬉しさひとしお。これらをシンプルに塩だけで食す。塩は、カンホアの塩の【石窯焼き塩】。

ここでやっと、

ご飯:湯葉山椒のせご飯
椀:なめこと菜の花の赤だし
香物:白菜漬け・梅干し・赤カブの漬物


ここまで結構食べてるんで大丈夫かなと思いきや、食べられるんですねぇ〜。湯葉山椒も白いので写真では分かりにくいですが、ご飯の上にちゃんとのってます。この湯葉山椒でご飯が進み、お代わりしちゃいました。個室のせいでしょうね。お代わり用のおしつがありました。もちろんおしつのご飯にも湯葉山椒がのってまーす。赤だしは、そのスルッと喉を通る優しさ軽さがが精進のいいところって感じます。香の物は全部シンプルに塩漬け。自信のほどがうかがえます。写真はもちろん少し食べちゃった後のもの。毎度毎度ですみません。

さぁー、ついに最後です。

デザート:サツマイモの寒天ケーキに無糖の苺ジャム添え
抹茶:無農薬の抹茶


最後となって安心したせいか、写真がありません。もちろん砂糖が使われてないので、ケーキは芋と苺が持っている甘さです。長かったようですが、写真を撮り忘れるぐらい次から次へという感じで、終わってみたらあっという間でした。ごちそうさまー。

季節柄、根菜類のオンパレードでしたが、これが季節が変わるとまたいろいろあるんだろうなー。最後に気になるお値段ですが、懐石のおまかせコースのみで、9,240円/1人(税・サービス料込み)。ちょっと高めだけど、しょっちゅう行く訳でもないし、ご覧のとおり、その価値は十分にあるでしょ。

菜懐石「仙」は、「カンホアの塩」のサイトでも紹介している。
菜懐石「仙」のご案内