ベトナムに行くと、嫌いでなければ、必ずコーヒーを飲む機会がある。ベトナムはcafeだらけ。町にはエアコン完備で立派な店構えのものから、小さな椅子に腰掛けて飲む道ばたの屋台まであちこちにある。そして特に屋台などエアコンのないオープンなcafeでは、
「一人で腰掛け、道行く人を眺めながら、コーヒーをすする人」
をしばしば目にする。そんな人は、物思いにふけっているふうにも見え、独特の静寂感が漂っている。そしてそんな人は、何も静かな場所だけで目にするのではない。上の写真のようにオートバイの大波が打ち寄せる道路に面したサイゴンの中心部のcafeでさえも見かける。どうにもならないような喧噪の中で、そんな人を見かけると、私はホッとし、「ベトナムだなぁ」と感じる。
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「静寂」って、何デシベルとか何ホンの問題ではなく、「静けさ」を感じるかどうか。つまり感覚の問題だ。
私は30年ほど前、パチンコ屋の店員をしていたことがある。もちろん店内はものすごい騒音。広い店内には私を含め数人の従業員がいて、その騒音の中、お互いにコミュニケーションを取りながら働いている。
「38番台が打ち止めになりそうだ」
「103番台の玉が引っかかっている」
「あの(常連)客は面倒だから俺が行く」
「今、手が放せない。ドル箱(玉を入れる大きな箱)を持ってきてくれ」
などなど。
声が届かないぐらい遠くにいる従業員とも、身振り手振りでコミュニケーションを取る。番号は市場の競りのように指で示すが、不思議なことに、何ヶ月かすると、遠くで声が聞こえなくても仲間の従業員が何と言っているのかが分かるようになる。
店が忙しくなると(客が多くなると)、騒音は更に増すが、店員の集中力も増す。すると、その口の動きを見て、その声を感じ、細かなことまでも聞き取れるようになるのだ。「読唇」ということなのかも知れないが、その人の声をまるで近くで聞くのと同じように感じ、何を言っているのかが分かる。そして、そうしたときは、決まってパチンコの騒音は聞こえず、その人の声だけが聞こえるように感じる。それはまるで「静寂」の中で聞いているがごとくなのだ。忙しいときは、そんなことあまり意識しないが、落ち着いて後から考えてみると、「あの騒音の中で、あの距離で、何であの人の声がちゃんと聞こえたんだろう?」と不思議に思ったものだ。
“sound of silence”という名曲が昔あったが、こういうことかも知れないと思った。
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初めてベトナムを訪れる人は、サイゴンのオートバイの喧噪に度肝を抜かれ、圧倒されることが多い。エンジン音もあるが、クラクションをやたらと鳴らすからだ。目を奪われそうなアオザイ姿の美女に「ブッブー」と思いっきりクラクションを鳴らされたりすると、「えー」と思うかも知れない。しかし、そのクラクションも、日本とは違う意味がある。
私が初めてベトナムでオートバイを運転したときのこと。当時、やたらと鳴らすクラクションに嫌気が差していた私は、「自分はクラクション鳴らさないで走ったるぞー」と心に決めて発車した。そして追い越しをかけたときも、クラクションを鳴らさなかったら、後ろに乗ってた人から、「危ないじゃないかー、追い越すときはクラクション鳴らさないとダメだよ」と厳しく注意された。追い越しだけでなく、発車して合流しようとするオートバイや道を渡る人が前方にいるときなども同様だ。
ベトナムでは、オートバイや車で道を走っていて、例えば追い越しをかけるとき、「私は、あなたの横を通って追い越しますよー。だから車線変更しないでくださいねー」という意味で、クラクションを鳴らして自分の存在を知らせるのが親切なマナーなのだ。
「どんな(異文化・異感覚の)人でも分かる行為をして、安全を守る」。
島国育ちの私は、こーゆーのが大陸的習慣なんだと思った。
確かにベトナム、特にサイゴンのオートバイはうるさいが、そこで暮らす人々がうるさい訳じゃない。ベトナム人の話し声のボリュームは、概して小さい。
「静寂」はきっと世界のどこにでもあるものだと思う。
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