今回のエントリでは、前回の「金継ぎday」の続きのハズだったけど、それは延期します。
さてさて、東京在住の私は、昨日、カミさんがメガネを買っててくれたおかげで金環を見れた。だが、一日たったきょうでも、私の記憶に強く残っているのは、金環の輪より、金環日食の前後10分ぐらいの陽差しだった。その陽差しはあまりに妙で、普段見慣れた自宅の周りの景色が、まるで映画の不思議なシーンの中のように感じた。
冒頭の写真は、そのときの自分の影を撮ったもの。影が薄いのが分かりますか。日の出・日没のトワイライトでこんな影は出来やしない。かと言って、単なる薄曇りの陽差しとも違い、妙に赤味がかった柔らかい光だった。その陽差しが差している間、とても妙な気分、変な気分を味わった。
そして、昔の人のことを思った。あらかじめ日食が起こることを知らずに、突然こんな陽差しを経験した昔の人はどんなふうに感じたのだろう?と。
以前のエントリ「タイの皆既月食」で、皆既月食のことを書いた。タイという国で、それは「不吉なこと」とされていて、月食が早く終わることを願う。そのくらいだから、日食もそういう場所があるかも知れない。普段はさんさんと輝く太陽なのに、何故かその10〜20分の間、妙な陽差しになる。電気もなかった昔は、今よりずっと陽差しに対して敏感だったとも思う。
私は日食の間のその妙な陽差しの中、昔の人の気分を必死に想像した。
人間は、たぶん昔から「当たり前」と思うことによって、心配事を少なくしてきたと思う。特に自然に対して。心配事は誰でも嫌だから、減らせるものなら減らしたい。でも、過剰に減らすことは危険をはらむ。
去年の震災の記憶も新しいので特にそう思うのかも知れないが、例えば、きれいな空気は無尽蔵にあるのではなく、大気汚染もある。「当たり前」と思っている恋人や連れ合いも自分から離れていくことだってあるかも知れない。
そんな普段は「当たり前」と思っていることを、「何もないこと」と誤解することはとても危険なときがある。自然に対し、または人に対し、感謝を忘れてしまうときの危険だ。
晴天の下、太陽はさんさんと輝くもの。
それはかなり「当たり前」に近いが、実は違う。
昔の人は、日食を通して、「当たり前のことなんか本当はない」と自分たちを戒めていたのではなかろうか、と思った。そう思うと、例えばそれを「不吉なこと」と考えることも、自戒の意味で有意義だったかも知れない。
と、こんな想像をした昨日は、夕食後、4歳の息子と「戦いごっこ」をいつもの2倍した。その間に7歳の娘は宿題をし、カミさんは家事ができる。でも2倍もしたので、ぐったりした。いい歳だ。無理はいけないんだけど。
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