この間、山梨の友人宅を訪れた際、お土産に山栗をもらった。「さっき近くで落ちてたから拾ってきたやつよ。全部は食べられないと思うけど」と言葉を添えられたとおり、10個に1〜2個は、虫が食ってたりでたべられなかったが、とてもおいしく頂いた。最初の1個食べたら、もう止まらない。写真はいつのまにか残り僅かになって、慌てて撮ったものだ。
栗ひとつずつに、包丁で切り込みを入れて、ルクルーゼやストウブのようなフタ付きの厚手の鍋で、水を加えず、栗自身の水分だけで加熱する。これがうウチのカミさん流なのだが、そのへんで売ってる大粒の栗と、一回り二回り小さなこの山栗とでは全然違う。
売ってる栗が虫食いだとクレームになっちゃうんだろうし。「幸せはカネじゃ買えない」とは言い過ぎか。
さて、私はその山梨は八ヶ岳南麓に住む友人を訪れる前に、蓼科山北麓の別の友人宅を訪れていた。その界隈を車で走っていたら、「メガソーラー 絶対反対」というでっかい看板があった。その後、その八ヶ岳の友人宅を久々に訪れたら、彼の家の隣の敷地には広々とメガソーラーが広がっていてビックリ。八ヶ岳の友人は、「震災以来、このへんこれがバンバン出来てね。すごいんだよ。森を更地にしてコレ(メガソーラー)ってのも珍しくないんだぜ」と言う。メガソーラーには、このおいしい山栗が食べられなくなるという関係もあるのか・・・・。
そう言えば、電力会社は電気の買取りを行っているが、震災直後はある程度の価格で買っていたものの、その後は買取り価格を下げてしまって、メガソーラーを設置した業者は「作ったはいいが採算が取れなくなってきてる」という話しを聞いたことがある。さらに、ソーラーパネルには、有毒物質が使われていて、廃棄するときそれが問題になる。ドイツなどでは、廃棄時、その有毒物質を分別出来ないソーラーパネルの規制がすでにあるのだが、安価が売りの中国製などのソーラーパネルは分別出来ない構造だから、生半可な投資で出来たメガソーラーは、今後耐用年数を迎えるときに深刻な問題になる。といった話しも思い出した。これらの話しを思い出しながら、友人宅隣に威圧感たっぷりに広がるソーラーパネルを見てたら、正直ちょっと恐ろしくもなった。
町中の住宅の屋根に貼り付いているソーラーパネルは、珍しくなくなったし、原発や火力発電よりは、次世代のエネルギーとして、戸別に設置可能なソーラー発電は有望なのかも知れないと、かつては思っていた。
私はベトナムで「カンホアの塩」という天日塩を作っているのだが、かつてはその生産現場で使う電動石臼や室内作業の照明の電気を、「オフグリッドのソーラーシステムで賄えないものか。天日で塩作ってるんだから、電気だって・・・・」と考えていたことがあったが、なーんかその考えはどんどんしぼんできてしまった。
★関連エントリ:
ソーラーシステムの現実(2014年8月11日)
頂いたおいしい山栗を食べながら、メガソーラーの将来を考えてしまった。
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