2014年10月23日木曜日

ヒンズー教の神様

上の写真は、東京の自宅近所にあるインド料理レストランの片隅にあった神棚。メモ書きや配線などでゴチャゴチャしてる雰囲気が気に入って、つい写真を撮った。

私はインドに1年ほどいたので、この手の神棚には馴染みがある。ヒンズー教は多神教だ。神様がたくさんいる。その点、日本とも通ずるところがある。まずは金色の額縁に入った絵にあるヒンズー教の神々の説明を少し。

青い顔をしたのはシバ神。破壊の神様である。インドで一番人気の神様は、間違いなくこのシバ神だ。たくさんいる神様は大きく3つのグループに分けられる。創造の神様(ブラフマ)のグループ、維持の神様(ヴィシュヌ)のグループ、そして破壊の神様であるこのシバのグループと。世の中は、「創造→維持→破壊→創造・・・」と繰り返されていると考えられている。この3つの中で、破壊は一番物騒な感じもするが、一番ドラマチックなのも破壊であり、破壊は創造を産むとも考えられているから、シバ神が一番人気なのも、そのへんが理由だと思う。

さて、額縁の絵に戻ろう。

絵の中央にシバの妻であるパールヴァティ。彼女の膝にのっているのが象の頭をした息子のガネーシャ。右下にはもう一人の息子のムルガン。そして、小さいけど右上の白い牛。これはシバ神の聖なる乗り物であり、ナンディと呼ばれる立派な神様だ。この店の人は、シバ神系がお好きらしい。

私のインド滞在中、こういう絵はしょっちゅうお目にかかっていた。そして、ヒンズー教徒の人たちは自分が信仰している神様のことを私に喜々として説明してくれた。ちなみに私は、ヴィシュヌの何番目かの化身であるクリシュナが好きだ。クリシュナは、シバのような力強さはないが、いつものんびりと川辺で笛を吹いていたりして、キレイな女性に囲まれていたりする。いいでしょ。当時、私はよく笛を吹いていたせいで、「お前は、クリシュナを信仰すればいい」と言われたこともあった。

彼らヒンズー教徒にとって、神様はもちろん神聖なものなのだが、その神様の絵を、まるで、日本の若い人たちがアイドル歌手の写真を自分の部屋に貼って楽しんでいるような面もあるところが面白い。それだけ神様は実に身近な存在とも言える。

ヒンズー教の神様は、おそらく数十いる。ただ、それらだけではない。例えばインドのヒンズー教徒の家や店の神棚には、キリストの絵やお釈迦様の絵までもが飾られていることさえある。あるとき、「お前の宗教は何か?」と質問され、私が「仏教だ」と答えると、「仏教か。あー、仏陀もなかなかいいことを言ってるよな」などと言われたこともあった。それはキリストもしかりだ。

仏陀やキリストなどはやや例外的にはなるが、ヒンズーの神様だけを奉らなくてはならないという訳でもない「多神教」なのだ。上の写真の額縁の右側にある「伏見稲荷」のお札はお気づきだろうか。シバ神の隣にお稲荷さんのお札が掲げられていても、ヒンズー教的に、不信心さを示している訳ではないのである。ただ、ヒンズーの神がいなくて、伏見稲荷だけだと、ヒンズー教徒としてはおかしい、とはなりますが。言うまでもないか。

何しろこのへんがヒンズー教の面白いところであり、懐の深さだと思う。
そして、この多神教の根底には「異教同根」という考え方・教えがある。

「宗教(または人生)というのは、ひとつの山を登るようなものである」

と、しばしば例えられる。この場合の山は、富士山のような独立峰の山のイメージが分かりやすい。中心の頂上へは、(上から見れば放射線状に)360度の登るルートがあることになる。

「登り口は異なれど、目指す頂上は皆同じ。宗教(または人生)とはそういうものだ」

という考えがあるのだ。だから、キリストでもお稲荷さんでも、神様は神様ということになる。「異教同根」とは、今どきの言葉で言えば、「多様性」を認めるまたはそれが当たり前な考え方なのだ。

もう27年も前のこと、インドを旅していた私は、そんなインドに心惹かれていった。インドでは面白いことがたくさんあった。そのいくつかを、次のエントリに書けたらと思う。冒頭の写真の絵を見てたら、いろいろ思い出すことがある。これも写真のシバ神のお導きか・・・・。

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