2017年4月28日金曜日

神亀 小川原良征氏 逝去

昨日、故小川原良征氏の告別式に行った。
一昨日の朝、会社にFAXが入って知った。
一年前から病気を患っていたという。知らなかった。
私は、専務の功績を語るようなタマじゃない。
ただ、ひとつだけ。

「お前は、塩を語るな。塩に語らせろ」について。

私が作る「カンホアの塩」の話をしに、初めて蔵へお邪魔したのは、私はまだこの仕事を始めて3年目ぐらいの頃だった。当時は、ひたすら塩について、自分が面白いと思ったことや、それなりに工夫した点などをしゃべり続けた。すると専務は、「おんなじだ、おんなじだよ」と言って、私のしゃべりを制した。

その後何年かたって、少し親しくさせてもらうようになった頃、専務は当時のことを振り返りながら、私に言った。

「お前は、塩のことを語り過ぎ。塩を語るな。塩に語らせろ」

当初は、塩の話に行って「塩について語らない」とは、どういうことか? と思ったが、今はしみじみ分かる。2〜3年前だったか、酒の席で私がつまらない話をすると、専務は私にデコピンした。それも楽しかった思い出です。

冒頭の写真は、昨日の告別式後の出棺を待つ蔵人さんたちと葬儀のお手伝いをされていた方々。この後、走り去っていく霊柩車の背中に向かって、ある女性が「専務、ありがとう!」と大きな声で叫んだ。私はただただ合掌するだけだったが、思いは同じだ。

ありがとうございました。
もう何もすることはありません。
ゆっくり休んでください。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

合掌

2017年4月26日水曜日

創造と絆創膏

何ヶ月か前、新聞のコラムで、「創」という漢字の意味に触れていた。「創」は、(創造など)「つくる」という意味と同時に、「きず(傷)」という意味があるという。そして、詩人・吉野弘さんの著書『詩のすすめ』からの下記のように引用していた。

「創造らしい創造をする精神は、そのいとなみに先立って、何等かのきずを負っているのではないか。きずを自らの手で癒そうとすることが創造につながるのではないか」

その好例が、傷口から初々しい根が生えてくる挿し木であり、きずが創造につながることを示す姿ではないかと、吉野さんは書いている。

「創造」なんていうと、「何もないところから何かをつくり出す」ようで、何となくカッコイイ。でも、「何もないところから何かをつくり出す」なんてことがあるのだろうか。きっとそれは、その「きず」に気づいていないだけなんじゃなかろうか、と私は思うようになった。(いちいちそれに気づく必要もないのだろうが)

私たちがしばしばお世話になる「絆創膏」。その意味は、以下の3つの文字の意味が重なって出来たという。

絆・・・きずな(つなぐ)
創・・・きず(傷)
膏・・・油、薬など

つまり、「傷をつなぐ薬」。

詩人・吉野弘さんは、その著書の中で、「創」について、冷静にやんわりと書いているが、私はそれを読んで、その続きを想ってしまった。

「創」は、その「きず」を癒すという必要があって創られるもの。
きっと、「きず」のないところに「創」はないのではないか、と。

身体の傷も心の傷も、負った傷が深ければ深いほど、つなぐのが難しくなる。そのためにつくることも大変になる。「創」という文字のふたつの意味を知って、「つくる」ことに人間の悲哀のようなものを感じるようになった。そして私が負っている心の傷も癒されるような気がした。

「創」というひとつの文字にふたつの意味を持たせてつくった中国の先人に敬意を表したい。その人は、一体どんな「きず」を負って、「創」という文字をつくったのだろうか。