2010年4月23日金曜日

不思議なこと


この世には不思議なことがいっぱいある。
オカルト的なことは別にして、不思議なこととは、その「理由」を知らないために、不思議に感じることである。

先週末、東京は代々木公園で、アースディのイベントがあり、出店した。車で搬入・搬出のため、「渋谷区役所前駐車場」という区営の駐車場を使った。上の写真はその駐車券である。

朝、駐車場に入る際、機械からペロっと舌のように出てきたこの駐車券を受け取るとゲートが開き、中へ入った。駐車券には入庫時間などが印字されている。夕方、駐車場を出る前に、駐車場内にある、「事前精算機」という機械のところへトコトコ歩いて行き、精算した。この券を入れると、「○○○○円」と表示され、その金を入れた。するとその精算機は、「この券はお出になる際、必要ですから必ずお持ちください」と機械の声が聞こえ、出庫時間が印字された駐車券が出てきた。

そして機械の言うとおり、その駐車券を持って、車で出口のゲートに着いた。すると「しばらくお待ちください」という表示が5秒ほどあり、ゲートが開いた。精算済みの駐車券はまだ手元に持ったままだ。「あれ〜、駐車券入れなくていいのかな〜」と迷っていると、インターホンから「はい、行って行って」という人間の声が聞こえた。右手に駐車券を持ったまま、キツネにつままれたような気分でアクセルを踏んだ。

出口のゲートで、私は駐車券を入れてない。持ち帰った駐車券は現にこうして今でも私の手元にある。でも、「この人(または車)は、ちゃんとお金を払った」と、何かが「認識」しているのだ。それは何だ?

実は自宅近くの大型ショッピングセンターの駐車場でも似たようなことがあった。最近こういうのは常識的なのかも知れない。確かに、駐車券を入れるより入れない方が、駐車場出口ではスムーズだ。でもまぁ、事前精算は済んでるので、券を入れての「認識」と比べると大した差とも思えない。それにしても、あーーーー、不思議だーーー。

ところで、不思議と言えば、もう25年ぐらい昔のことで、今でも不思議と思っていることがある。25年も「不思議だな〜」という思いを引きずっているということだ。

ネパール第二の町で、ポカラという町がある。そのポカラから、トレッキングで北へおよそ1〜2週間行ったところに、ヒンズー教の聖地、ムクティナートというところがある。たしか標高3,800メートルほどだったと思う。私が行ったのは、ポカラが雨期で、観光的にはオフシーズン。したがって、トレッキング客もほとんどいない。しかし、全行程の半分行くとそこからはヒマラヤの北側の気候となり、嘘のようにパタッと雨は止み抜けるような青空になった。だから雨がちだったのは半分だけ。

さて、ムクティナートには、ヒンズー寺院がポツンとひとつある。そこにたどり着いたとき、観光客・巡礼者は私ひとりだった。そのお寺をお参りして、帰ろうとすると、ひとりの老婆が私から10メートルぐらい離れたところで盛んに手招きをしている。「とにかく、こっちへ来い」という強い意志を感じた私はその老婆に向かった。すると老婆は「私についてこい」という仕草をして、私はついて行った。

大きな岩がいくつかゴロゴロしているところへ来ると、老婆はしゃがみ込んで、岩の間の奥の方を指さす。「見えるか、あれが見えるか?」といった感じだ。その岩と岩の間隔は人が入れないぐらい狭い。私は、角度を変えながら岩の奥の暗闇の中を探す。・・・・すると、あった。それは青白く燃える炎だった。おそらく天然ガスが燃えているのだと思う。暗闇の中なので距離感がよく分からなかったが、おそらく5メートルぐらい先にある、5センチぐらいの炎だった。「あった、あった」と老婆にお礼を言うと、老婆は「ここへ来たら、これを見なきゃいかんのだ」という風なことを言って、どこかに立ち去った。

正直に言おう。そのとき至って愚かで思慮の浅い私は、「なーんだ、ちっちゃい(しょぼい)炎じゃん」と思った。でも、それからというもの、その青白い炎の画像が脳裏を離れず、私の中では特別な理由もなく、ときどき思い出していた。そして、あるとき(たぶんそれから5〜6年たった後)、突然、「あっ、あれはスゴイものを見せてもらった」と気がついた。だって「あの炎は一体誰が点火したのか?」、それとも「何らかの自然現象でついてる火を、誰かが見つけたのか?」。可能性としては、この2つのような気がする。ちなみに、見せ物として誰かがガスパイプを設置した雰囲気は皆無である。

人為点火説:その人は、どうやってあそこから天然ガスが出ていることを知ったのか? それもとても人間が入れない岩の間に入って。また、もし多量のガスが溜まっていたら、点火と同時に大爆発になりかねない。

自然現象発見説:人間は火を扱う唯一の生物とされているが、火はこうして人間が生まれる前からチョロチョロと静かに燃えていたのだ。火の起源を考えさせられる。火は人間が起こすだけじゃない。火山や山火事などでも火は起こる。それにしても、この5センチの炎を見つけた人はスゴいではないか。

この炎の「理由」を確かめてはいない。ただ、個人的には何となく「自然現象発見説」の方だと思っている。それが聖地ムクティナートの「理由」なんじゃないかと思えるから。

この世には不思議なことがいっぱいある。
不思議なこととは、その理由を知らないために、不思議に感じることである。

2010年4月16日金曜日

塩粕


きょうはちょっと珍しい食材のこと。その名も「塩粕」。パッケージには「漬物用酒粕」となっているが、用途は、何も「漬物用」と限らない方がおもしろいので、通称「塩粕」と呼びます。漬け床とも言えるし、調味料とも言える。酒粕に塩をあわせ、2年寝かせて熟成させたものだ。奈良にある久保本家酒造という酒蔵さんが作っていて、有り難くも送って頂いた。「生もとのどぶ」「睡龍」の酒蔵と言えば「あぁ〜」という人もいるかも知れない。もちろん純米酒。生もとの酒蔵さんだ。だから、生もとの酒粕。こんなのがあるなんて、聞いたこともなかったので、私なりにいろいろ試してみた。

まずは、パッケージのウラの説明書きはこんな感じ。

昔ながらの酒造り「生もと純米酒」の酒粕を
蔵で塩と一緒に熟成させた漬物用です。
蔵人の賄い料理にも大活躍している栄養豊かな
酒粕をどうぞお料理にもご利用くださいませ。

一見、粕漬けの床みたいだが、違う。一般の粕漬けは酒粕にみりん(ときには砂糖)を合わせるが、原材料は「米、米麹、食塩」、つまり酒粕と塩だけ。これに大豆が加わると味噌のようだが、麹の糖分はお酒になってるから甘くはない。ただし酒粕に塩を合わせただけの味じゃぁ〜ない。2年熟成され、色は味噌のようなアメ色。酒粕っぽさは穏やかになり、ほのかなうま味もあるものになっている。何とも表現が難しい初めての味なのです。

まずは、豆腐の味噌漬け風に、絞った豆腐を「塩粕」に漬けてみる。・・・・正直、やや物足りない。たぶん味噌漬けに慣れてるせいだと思う。豆腐の味噌漬けに使う味噌は、糀が多めの味噌が好き。糀の甘さやうま味がしっかりあるからだ。それに比べ、「塩粕」はその甘さ・うま味が少ない分サッパリしている。

次に、鰯の丸干しをそのまま漬けてみた。あぶって食す。ほんのり酒粕っぽい香ばしさもともない、とってもおいしい。鰯のうま味と、適度な酸味もある塩辛さは、もーお酒がないといけない感じ。豆腐とは違い、味噌ではないこの「塩粕」だからのおいしさだ。

どうも動物性はいいかも知れないと思い、今度は豚肉を漬けて焼いてみた。世間には豚肉の味噌漬けなんかがよくあるけど、私はそれを「子供向けな味だなぁ〜」と感じるときが多い。妙に甘いからだ。味噌に比べ甘さ・うま味が少ない分、魚・肉などそれ自体にしっかりうま味がある素材には、「塩粕」で「大人向け」な味に仕上がる。・・・・おいしい。「大人向け」とは言いながら、5歳の娘も喜んで食べていた。

ところで、この「塩粕」、元々は蔵人の方々のまかない用だったとのこと。また、一緒に送ってもらったレシピを見ると、砂糖や生クリーム、チーズ、マヨネーズなどとあわせて調味料のようにも使われている。何かプラスアルファが鍵かも知れない。

そこでアッサリなおいしさ志向の私は、パンに「塩粕」を塗ってトーストした後、細かく刻んだパセリをのせてみた。ちょうど庭のパセリが収穫時だったので思いついた。ん〜、なーんかこれは新しいおいしさ〜。それは鰯や豚肉のような、うま味ベースのおいしさではなく、パセリのさわやかな苦みが「塩粕」の芳醇さと仲良くしていまーす、というおいしさだ。トーストするとき、エメンタールチーズも加えたら、アッサリ・プラス・コクになった。豆腐の塩粕漬けも、ひとひねりすると変身するかも知れない。


使い慣れてない食材なので、まだまだ未知数。きっとその可能性はたくさんあるだろう。

この「塩粕」をわざわざ送って頂いたのは、実は昨夏、「カンホアの塩」を使った「塩粕」が仕込まれたことがキッカケ。2年後は、来年2011年の夏。「カンホアの塩」でどう変わるかな。あー、待ち遠しい。

※このブログの続編 “豆腐の【味噌漬け】と【塩粕漬け】(5/28)” もあります。

2010年4月12日月曜日

路傍の花

ベトナムの家の庭や、ちょっとしたレストランには、花がたくさん咲いている。熱帯だからいつも咲いてる。例えばハイビスカス、プルメリア、火炎樹などなど。でもそんなところでなくとも、例えば何でもない道ばたにも花は咲いている。「おっ、こんなところにこんな花が」と目に付いたときカメラを持ってるとシャッターを切る。そんな花の写真を集めてみた。どれも名前など詳しいことは分からない。本当は「名もない路傍の花」ではなく、たまたま種が飛んで咲いている「有名な花」かも知れない。どれもカンホアの塩田周辺で撮ったもの。つまり、土壌に塩分が多く含まれているところでたくましく咲いてる花たちだ。


タンポポみたいだったのでついシャッターを切った。葉っぱもタンポポみたいでしょ。これは「カンホアの塩」専用塩田から20〜30mのところ、特に土壌の塩分がキツイところに咲いていた。これしか咲いていない。やはりタンポポはたくましい。


「カンホアの塩」の塩田近くでいつも泊まる部屋がある。その裏庭の茂みに咲いてた花。雑然とした茂みで人が栽培しているものではない。ピンクと黄色の花はアジサイのように、小さな花が集まっている。ちょっと小さめだけど、葉っぱの形もアジサイに似ている。ベトナムの女の子の髪飾りにこんなのがありそう。つぼみも可憐だ。


これも泊まる部屋の裏庭。スクリューか風車のような形の純白の色が印象的だった。


これは塩田に通じる車道の脇に咲いていた。何とも奇っ怪な花の形と色だったので、つい撮ってしまった。


これもその車道沿い。「サボテンの花」(そんな歌が昔あったっけ) このサボテンは、この地域の家の垣根に使われているので、ここでは全然珍しくない。


これも車道沿い。何となくこんなところに咲いてちゃもったいない気がして撮ってしまった。日本にも似たような花があるような・・・・ないような・・・・。

旅に行くと、その地では当たり前のものがとても特別なものに見えることがある。その特別さの驚きは、常に現地の人たちのつれない無反応の中にあり、ときにそのギャップに寂しささえおぼえる。しかし、その特別さが大きければ大きいほど、またその無反応さがつれなければつれないほど、旅人はその旅の意味を大きく感じるものだ。

恋のはじまり、人は相手とひとつになりたいと欲するが、同時に、決してひとつにはなれない寂しさも感じる。そしてその寂しさが大きければ大きいほどその恋の意味を大きく感じるものだ。

私はカンホアへ旅に行き、そこの塩が特別なものに見えた。そしてその塩と恋に落ちた。もう12年も前のことだ。浮かれたことを言ってる場合じゃない。