2020年3月26日木曜日

「歯に衣着せぬ」と「オブラートに包んで」


新型コロナウィルス一色で、どうも落ち着かない日々が続いている。しかし、そればかりで現実的な暮らしは出来ない。少し前に、心にとまった新聞のコラムがあったので、きょうは一時(いっとき)、パソコンの画面に集中して、それについて書いてみたい。

まずは、冒頭の新聞のコラムを読んでもらいたい。(クリックすると大きくなります)

3月7日付け東京新聞(朝刊)に載ってた、師岡カリーマさんによる「本音のコラム」。このコラムの中で、「アサド大統領という正真正銘の悪党」という下りがあるが、そこは「正真正銘」とまで言い切れるものかどうか、私には定かでない。その点だけ、ひっかかるのだけど、全体として、ここで彼女が訴える・・・「無力化(Neutralize)」と言わず、「殺す」と言え・・・は本当に私もそうだと、常々思っている。

日本語に「歯に衣着せぬ」という言い回しがある。反対に「オブラートに包んで」というのもある。それは親切心が本来の意味だから、悪いことを誤魔化すためにオブラートに包んでは、逆に悪意となろう。日本は和の文化として、争い事を嫌い和やかに事を進めるという風習があるように思うが、「オブラートに包んで」は、それを反映しているように思う。しかし、「歯に衣着せぬ」という言葉もあるのだから、こっちもときには必要ってことかと思う。

カリーマさんは、「歯に衣着せぬ」言い方で、痛快だ。ずいぶん前に、彼女の著書「イスラームから考える」を読んだことがある。彼女は、エジプト人と日本人のハーフで、イスラム教徒でもある。日本を外から見る目を持っていながら、日本の「オブラートに包んで」の文化も知っている人だ。しかし、「オブラートに包んで」の文化は、日本だけのものじゃない。

「Neutralize」という言葉。自動車のギアの「N」でもある「neutral(中立な)」という形容詞の状態にする、つまり「中立的にする」という意味だ。それ自体に危険な香りはないが、場合によっては「殺す」を意味する。国を挙げての武力行使または戦争の場合、相手兵士を殺しても罪にならないどころか、むしろ目的を達成するのだから成功となる。それを「Neutralize」という言葉で表す。

どんな武力行使や戦争にも大義名分がある。つまり、それは正しいという理由だ。でも、武力行使や戦争には必ず相手がいるのだから、それは必ず一方的な理由であることは確かだ。国連を含め、誰が一体、「○○側の理由が正しい」と決めるのか?

一般市民はもちろん、政治家・企業家を含めて、戦争の是非を問うと、誰にきいても、「No」と答える。しかし現実として、今までたくさんの戦争があったし、今でも地球上で戦争がある。これはどういうことか? 「戦争No」と言う人も、その後には戦争をしてきたということだ。戦争に至るまでは必ずプロセスがあるとも言える。

例えば、「必要悪」という言葉。これは「必要>悪」で、「必要」が「悪」を上回った場合に使われる。最初は「必要悪」と始まり、それがあるプロセスを経て、なし崩し的にやがて「必要な戦争」ということになりはしないか。これまで起こってきた戦争とは、そういう歴史の繰り返しではなかったか。本来、必要な戦争なんかありゃしない。その矛盾を断ち切るために、「戦争の放棄」を謳った第9条がある。

さて、どこかの国の首相は、その憲法改正に躍起になっている。「戦後レジームからの脱却」という詰合せセットの中の一つのピースとして、憲法第9条に「『自衛軍保持』を明記すべき」と言う。「『わたし達は断固として国民の生命、財産、領土を守る』という決意が明記されるのが当然」であり、それが「普通の国家」であると言う。(この「普通」が意味不明だが)『国民の生命、財産、領土を守る』ために『自衛軍保持』が必要だという主張だ。

『自衛軍』と言ったって、具体的には、(世界最大の軍事国家である)米国に従う武力行使が行えるようになることを示すのは、明らかだ。「米国は誤らない」が前提になっている。そして『守る』ために、自衛隊をわざわざ『自衛軍』にする。では、この『守る』とは現実的に何を意味するのか?

これって、「人殺し」を「無力化(Nueutralize)」と表現することと同類だと思いませんか?

政治家、通信社・マスコミが、「人殺し」を「無力化(Neutralize)」と表現し続けるとなると、私たちは、「無力化(Neutralize)」を「人殺し」と読み替えなくてはならない。『自衛軍』を、武力行使も出来る「軍隊」と読み替える。その度に気持ちの悪い「歪み」を感じる。彼女は冒頭のコラム記事の最後に、

相手の人間性に敬意を払い、はっきり「私たちは兵士を○人殺した」というのが、人としての最低限の礼儀だ。

と書いているが、それは、殺された側の人たちだけでなく、殺す側の主権者である市民に対しても、最低限の礼儀だと思う。なぜなら、殺す側だって、いずれは殺される側になるからだ。仇討ちのように個人対個人の場合と違って、多数対多数の場合、全員を殺し殺されることまでは通常ない。だから全ての人が殺されるとはならないが、部分的には必ずある。その「部分」が具体的に誰かは「分からない」というだけで、それは貴方の孫かもしれないし、私自身かも知れない。何しろ、世の中、一方的で終わることなどない。

最後に改めて、第9条を以下に。

第9条
    日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
    前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2020年3月16日月曜日

「You've got a friend」と「昭和枯れすゝき」


この春から、息子が小学生から中学生へ、娘が中学校生から高校生になる。この機会に二人が個室を持てるようにと、家中の配置を再編成した。それにともない、私は持ってた本・音楽CD・服類などを半分処分した。それは、眠っていた本や音楽CDを整理し、見直す機会にもなった。

それで、たまたまキャロル・キングのカーネギーホールのライブ録音(1971年録音)のCDを久しぶりに聴いた。後半に、ジェームス・テイラーがサプライズ登場して、「You've got a friend」を一緒に歌う。

それ聴いてて私は、「あっ、これ、さくらと一郎だ」と思った。「昭和枯れすゝき」だ。

久しぶりに「昭和枯れすゝき」を聴きたいと思って、Youtubeで検索したら、二代目さくらさんの映像がほとんどだった。少なかった初代さくらさんのをやっと見つけたが、全然違う。二代目さくらさんは、とっても頑張っているんだが、残念ながら特別な感じがしない。初代さくらさんは特別だった。

さてさて、「You've got a friend」は、いろいろな事情があるアメリカ社会の中で、アメリカの良心を歌っていると感じる。それは至って穏やか。一方、「昭和枯れすゝき」は、いろいろな事情ある日本社会の中で、日本の情愛を歌っていると感じる。それは至って強烈。

この2曲、男女のデュエットという点が共通。男女のデュエットというのは、何となく、女性と男性の代表者が歌っているようにも感じる。片方の独りよがりでは成り立たないというか。それが説得力にも繋がっているように思う。

とは言うものの。この2曲は、歌詞の内容も曲調も全く違う。むしろ対照的だ。しかし、何かが同じと感じてしまうのはなぜだろう。至って私の感覚的なことなので、客観的なタイミングを調べてみた。

キャロル・キングの録音は前述のとおり、1971年。
そして、「昭和枯れすゝき」は、1974年のリリース。
3年の違い。同時代ということか。

太平洋の東と西ということはあっても、どちらもポップミュージック、大衆に好まれた曲だ。最近は、ポップという言葉も死語だろうか。代わってポピュリズムが使われる。大衆迎合主義と訳されるポピュリズム。大衆に迎合したっていいはずなのに、どこか危険さを孕むように感じる。

しかし、「You've got a friend」も「昭和枯れすゝき」も危険さを全く感じない。「昭和枯れすゝき」には、「死」という言葉さえ歌詞に含まれるが、危険な感じがしない。

切取り方だ。

ふとそう思った。いろいろある社会の中で、「アメリカの穏やかな良心」を、そして「日本の強烈な情愛」を切り取って曲が出来ている。その切取り方が、この2曲は実に見事で、「いろいろある事情」など思い浮かべる余地なく、しっかりとその世界観だけに浸らせてくれる。そういう力を持っていることがこの2曲の共通点なような気がしてきた。切取り方、それはいい役者がそうであるように、切り取った世界観の人物への成り切り方とも言える。

切取り方、成り切り方。それは純粋さでもある。ネット社会になって、情報が溢れている環境では、物事を純粋に捉えることが難しくなっているんじゃないか。たまには昔のように、雑音(情報)をオフにして、静かに自分の中にある純粋な感情に光を当てることがあった方がいいように、または今の自分にはそれが不足しているように、思った。