2018年7月17日火曜日

暑さに取り込まれた夢

先週のこと、東京のJR御茶ノ水駅のプラットホームを歩いていて、五千円札が落ちていた。先を急いでたので、「これを駅の事務室に届けに行って、状況説明して連絡先を書いたりなんかしていると、待ち合わせ時間に遅れちゃうな。どうしようかなー」と、足下の五千円札を眺めつつ思案してたら、横から来たオジさんが、サッと拾い、無言で私を見上げて睨んだ後、そのまま足早に雑踏へと消えていった。

これで待ち合わせに遅れる心配はなくなったものの、「トンビに油揚げさらわれた」感が残った。が、まぁ、気持ちを切り替えて、待ち合わせの秋葉原駅へと向かう電車に乗った。

ところで、私は今月6日に、新幹線で関西へ出張した。その日は、記録的な西日本豪雨。大変な被害なので、私の不便など取るに足らないものの、東京から新神戸へ向かっていたのだが、その広島行きの新幹線は新大阪止まりとなってしまった。新幹線はじめ、多くのダイヤは大きく乱れ、降り立った新大阪駅の構内は、払い戻しをしようとする人の長蛇の列と、行き先を失った大勢の人で、混雑していた。アナウンスは何度も、「本日の払い戻し分は、一年間有効です。改めて別の機会にお願いします」と鳴り響いた。

そして帰京後3日たった、東京・秋葉原駅。先の御茶ノ水駅の直後、改札での待ち合わせ時間まで10分あったので、みどりの窓口をのぞいてみたら、待ってる人が誰もいなかったので、先日の払い戻しをしようと試みた。すると、「この新幹線が新大阪止まりになった確認を取りますので、少々お待ちください」と10分待たされ、待ち合わせの時間になってしまった。
そしてその窓口の人いわく、

「乗車券は、新大阪から新神戸までの分、そして、特急券は東京から新神戸までの分(5千数百円)が払い戻しになります」。

新幹線は3時間遅れたものの、新大阪までは行ったのだから、特急券も新大阪から新神戸までだけが払い戻しになると思っていたので、意外だった。

「えー、特急券は東京からの全線分が払い戻しになるんですか?」

と思わず質問。
するとその窓口の本人も不安になったみたいで、再び「少々お待ちください。もう一度確認してまいります」。即座に私は、「今、実は待ち合わせの時間になってしまったので、いったんここを離れて、5分後に戻って来ます」と了承を得て、待ち合わせ場所へと向かった。5分後、窓口に戻ると、

「やはり、特急券は全線払い戻しと確認が取れました」。

まぁ、決まり事とは言え、5千円得した感じ。御茶ノ水駅の五千円と相殺されるような気がしなくもないと一瞬脳裏をよぎったが、いやいや、これは全くの別件だ。

そしてまたその数日後の先週末、私は知人と酒を飲んだ蕎麦屋に、帽子を忘れた。店に入ったときは陽差しが眩しかったが、出るときは日が暮れていたんだ。その帽子は、たしか五千円ぐらいで買ったもの・・・・。いやいや、これも全くの別件だ。

さらにその2日後の月曜日(祝日)。私は自宅近所の体育館にあるプールに行った。5枚綴りの回数券(1300円)を1枚ずつ切り取って使うのだが、入場の際、その券のウラに入場時間が印字される。(2時間まで追加料金なしなので) 30分泳いだ後、窓口で渡す券を探すが見あたらない。なくしたのだ。仕方なく、そのまま窓口へ向かうと、窓口の手前の廊下に100円玉が落ちているのを見つけて拾った。窓口はすぐそこだ。まずは自分が券をなくしたことを話すと、「何時頃、入場しましたか?」。「5時半ぐらいだったと思います」。「回数券でしたか?」。「はい」と、1枚だけ残った自分の「1番」の回数券(5枚綴りの最後の1枚・・・・冒頭の写真)の回数券を見せた。「2番」(5枚綴りの最後から2枚目)の回数券を持った窓口の人は、「あ、間違いないですね。更衣室に落ちてたみたいで、届けてくれた人がいました」。

「ええっと、別件ですが、これ、さっきそこの廊下に落ちてたものです」と、100円玉を渡した。

ホームに落ちてた五千円も、意外な新幹線の払い戻しシステムも、蕎麦屋に忘れた帽子も、プールでなくした券も、拾った100円玉も、みんなみんな、別件だ。でも、この夏の暑さの中に取り込まれた、ひとつの夢のように感じた。あ〜、暑い。

あっ、早く蕎麦屋へ電話しなきゃ。

2018年7月3日火曜日

梅干し、土用前の土用干し(土用干し編)


先のエントリ、「梅干し、土用前の土用干し(準備編)」に続き、今回はその「土用干し」そのもの編。

6月30日に東京が梅雨明けとなった。「関東甲信でこれまで最も早い梅雨明けは2001年の7月1日だった」らしいので、記録更新とのこと。今年の新たな試みである、「土用前の土用干し」を昨日から始めた。上の写真は、2日目の今朝のもの。

予想より2〜3日早かったものの、概ね予想どおり。今年もやはり、梅雨明けのタイミングは、ここ数年と同じように早かった。というより、私の中では、7月20日過ぎの梅雨明けは過去のものとなった感がある。夏の土用とは、立秋直前の18日程度を示すが、今夏の土用の天気はどうなるだろうか。よ〜く成り行きを見ていたいと思う。

さて、今年新たな試みとして、土用干しのタイミングを早めたことの他に、赤ジソの量を少し減らした。去年までは、梅の重量の20%にしていたが、それを15%に減らしてみた。

去年初めて行った試みは、赤ジソ投入後、土用干し前の一週間、重石をはずしたことだった。(これを「重石はずしの術」と呼ぶことにする)重石がのってると、梅と梅がくっついて、赤梅酢が梅に染み込みにくい。重石をはずすと、赤ジソや梅が梅酢の水面から出てしまうので、そこがカビのキッカケになりやすいというリスクはあるのだが、「重石はずしの術」を一週間と限ってやってみた。すると、それはそれは真っ赤になった。それが下の写真。去年、土用の頃の天気が悪く、困ってた様子も下記のエントリに書かれている。

きょうしかない、梅干し土用干し(2017年8月9日)


冒頭の今夏の梅干しの写真とは日光の加減が違うので、そのまま比較は出来ないが、明らかに20%と15%とでは異なる。あと詳しくみれば、本漬け(赤ジソ投入後)の日数が去年の方が2倍ぐらい長いので、その点も違いはあるかも知れないが、赤ジソの成分・色をしっかり梅にしみ込ませたいなら20%、程々になら15%ぐらいがいいだろう、と思うに至った。

それでまぁ、梅雨は明けたとはいうものの、東京の天気予報を見ると、明日以降から怪しくなる。ただ、去年は、8月下旬まで干し終わらなかったので、ずいぶんヤキモキしたが、今年それはない。たとえ明日から天気が悪くなったとしても、まだ7月3日なので、まだまだカンカン照りの日はあるだろうなーと、心に余裕を持てるからだ。

今年はどんな夏になるのだろう。

と客観的にもなれるのは、土用干しを土用前に始めたせいと思う。今後ひと月からひと月半ぐらい様子をみることになるが、梅干しの土用干しは、「土用前に」。鬼に笑われそうだが、これは来年もそうなりそうなりそうと、すでに思っている。

2018年6月27日水曜日

梅干し、土用前の土用干し(準備編)

 梅干しの仕込みのクライマックス、「土用干し」。カンカン照りの下、3日間行うのが一般的だ。梅を天日干しするタイミングが土用の頃が適していると、そもそもこの名前がある。しかし、私が感じるに、ここ数年の土用の頃の天気が差ほどよくなく、土用干しに苦労している。私が住む東京でのことだ。

これまでの私の感覚では、7月20日から25日ぐらいの学校の夏休みが始まる頃、梅雨が明け、7月末から8月初旬ぐらいまでの間、カンカン照りの日が続くというものだった。概ねこの頃が暦の上で夏の土用と重なる。しかしここ数年、梅雨明けが滅法早くて、7月初め。その後2週間ぐらいカンカン照りが続いて、「え〜、こんなに早く梅雨が明けて、この夏は暑い日が長くなりそうだ」との心配とは裏腹に、その後は結構雨や曇りが多くてそんなに暑くならない。カンカン照りが何日も続くことがほとんどないので、なかなか土用干しが出来ない、または途切れ途切れの土用干しとなる。東京では、7月末から8月初めに大きな花火大会が多いが、雨の中の決行もしばしばだ。

土用干しが出来ない、または長くかかるということは、梅が瓶の中に漬かったままになる時間が長くなるということ。そうなると、カビの心配が増すこととなる。

・・・・という訳で。

今年2018年は、思い切って、7月上旬に梅雨が明けるとの予想の下、7月上旬に干す計画を立ててみた。つまりは、その前段階の梅の塩漬け、そして赤ジソ投入のタイミングを少し早めた、とういことだ。

先週金曜日、しっかり白梅酢が上がったところで、赤ジソを投入し、赤ジソと梅が梅酢にギリギリ浸かる程度の重石をした。その5日後の今朝の状態が、冒頭の写真だ。しっかり赤ジソの成分・色が梅酢に移っている。一週間後ぐらいに、土用前だが土用干しをする予定なので、完全に重石を外した。それが下の写真。
こうすると、ご覧のように、赤ジソと梅が梅酢の水面から出てしまうので、その箇所がカビのキッカケになりやすくなるのだが、重石がのった状態だと、梅と梅がくっついて、そのくっついたところに赤梅酢がしみ込みにくくなる。だから、去年から土用干し前の最後の一週間に限って、重石を外すことにしている。こうすると、梅に赤ジソの成分がしっかり染みこみ、真っ赤になる。

これで、「土用前の土用干し」の準備は整った。

去年の最後の一週間の「重石外し」、そして、今年の「土用前の土用干し」。今年で、18年目になる私の梅干し仕込みだが、毎年、いろいろと試してみたくなることがある。もちろん、その梅干しを食べるための仕込みなのだが、試したいことがあるので、止められないという側面もある。

ちなみに、今年2018年の(夏の)土用は、7月20日から8月6日。この「土用前の土用干し」を、何と呼べばいいのか? うまい言葉が見つからないので、ちょっと長いけど、「土用前の土用干し」と呼ぼうと思う。

今年は、一週間後(7月初旬)の梅雨明けを前提にここまで来たが、そうなるとも限らない。一週間後に、改めて報告のエントリを書きたいと思っている。

参考:正統派・梅干しレシピ | 天日海塩 カンホアの塩

2018年6月1日金曜日

タマムシの物語

 タマムシと言えば、私が最初に思いつくのは、小学生のとき国語の教科書に載っていた「たまむしのずしのものがたり」。漢字がどうだったかは覚えてないが、音として覚えている。その物語の私の印象は、情景として薄暗い場所、湿気を感じるような空気感。そしてその物語の趣旨は、苦労に苦労を重ねて、その厨子が出来上がったということだったように思うが、どうだったろうか。私は、それを読んで、無数のタマムシの死骸を思い浮かべたという、趣旨とは違うひねくれた思いを持った記憶がある。

また、大人になって、おとぎ話のように記憶していた「たまむしのずしのものがたり」の玉虫厨子が実在のものだったことを改めて知って、不思議に思った記憶もある。さらに、その後、「たまむしのずしのものがたり」は、後付けで創作されたものなんだろうとも思った。

それにしても、多くの物語を教科書で読んでいながら、「たまむしのずしのものがたり」を覚えているのは例外的だ。どういう訳なのだろう?

「あっ、タマムシだ」

冒頭のタマムシの写真は、つい一週間ほど前に、うちの庭で撮ったもの。私は、東京の下町の生まれ育ちなので、その物語を読んだ子供の頃、本物のタマムシを見たことがなかった。クラスの仲間も皆そうだったと思う。それだけに、「タマムシって、どんなに美しいんだろう」と想像だけが膨らんだ。見たことのないものの想像というものは活発なものだ。特に文字からだけの想像は。日光の「想像の象」を思い浮かべる。それが例外的に「たまむしのずしのものがたり」を覚えている理由なのかも知れない。

友人の陶芸家、小野哲平の父親(すでに故人)の個展に行った際、小さな猿の置物の作品が気に入って買った。そのとき、親父さんは「私は、猿を作るとき、猿を(図鑑などで)見ないようにしています。これはそうして作りました」と言ってたのを思い出す。

さてさて、私なりに思い出深いタマムシ。庭で発見して驚いた私は、子供たちやカミさんにその興奮を伝えようとするも、全くにして、つれない。だいたいそういうものだと思いつつも、やっぱりやるせない。

すると、庭のタマムシ発見時は「たまむしのずしのものがたり」だった連想が、紙芝居のようにスルッと変わって、中学時代、親に買ってもらった学ランの裏地がタマムシ色だった連想にすり替わった。当時、学ランの裏地をタマムシ色にすることは、先進的な(平たく言えば、不良な)生徒たちの間で流行っていた。そんな風でない至って平凡だった私は、学校でそれが周りに知られないようにとビクビクしていた。その青く弱い心持ちを思い出したのだった。

タマムシに視線を移すと、風に揺れる新緑の萩の葉の裏に隠れようとしていた。

2018年5月29日火曜日

コーヒー塗装の色

『失敗は成功の元』。
だいたい、成功より失敗からの得るものの方が、大きいものだ。そうに決まってる。

我が家の古いダイニングテーブルの天板が反り返り、傷や汚れもずいぶん目立つようになったので、表面を削った。元々この1m×2.3mぐらいのテーブルは頂き物。材質は杉で、オイル仕上げなので、変形・傷つきやすいが、加工もしやすい。

現在持っている電動工具は、インパクトドライバー、ベビーサンダー、丸ノコ、ジグソー。(←買った順) 「次に入手する電動工具があるとすれば、それはオービタルサンダーだな」と、数年にわたり思っていたのだが、3ヶ月前、ホームセンターへ行ったら、昔よりずいぶん安くなってなーと思い、思い切って買った。(春先だったので、ちょっと気分も緩くなってたかな)

購入時、イメージしていた目的は、3点。屋上に置きっぱなしの木製テーブル(三六判、ペンキ塗装)、月見台のような小さなウッドデッキ(1坪弱)、そしてこのテーブル天板(三六判よりやや大きい)。屋上のテーブルは買ってすぐ。ボロボロになった表面を新品オービタルサンダーで磨いてペンキの塗り直しをして終了。残る2点は、どちらも無垢の上に、柿渋の塗装、「エゴマ油+ビーワックス」のオイル仕上げ。ウッドデッキの方は雨ざらしなので、傷みが早い。これまで、一年に一度ぐらい、手でヤスリをかけて、塗装と仕上げをしてきたが、このオービタルサンダーで、楽チンだ〜。こいつは梅雨入りまでにと後回しにして、先週末、「手でやるには、ちょっとなー」と、これまでやる気が出なかったやや大きめのこのテーブルの補修を、やることとなった。

まずは土曜日。反り返りの最大差が1cmぐらいあったので、オービタルサンダー君を擁してでも半日仕事になった。(一瞬、電気カンナがが欲しくなった。でも買わない) 削り終了後は塗装なのだが、それはつい一週間ほど前、思いついたことがあった。

コーヒー染め(木の塗装)。

これまで一体何度、コーヒーのシミをシャツにつけて来たことだろう。じゃあ、そのコーヒーで塗装したら落ちにくいんじゃないか。と思いついた。すると、ちょうど先週のタモリ倶楽部で、「コーヒーで染めた紙」をみて、「もう、やってみよう」と、思いつきが本気になった。(そのタモリ倶楽部、ネタは「ZINE」。コーヒー染めの紙で作ったZINEがあったのだが、番組全体がとても面白かった。別の話になるけど)

そして日曜日。近所の食料品店で一番安いインスタントコーヒーを買ってきて、飽和に近い水溶液をこしらえた。色落ちはすると思ったので、一番濃くしてみたということだ。前日に綺麗に削った面に、それを半分塗ったのが、実は冒頭の写真。

いや〜、なかなかいい色ではないか。このウォルナットな感じ〜。

塗り立て時はそう思った。全面塗り終えて、しばらく乾燥を待っていると、どんどんベトベトし始めて、少し不安になってきた。上にニスやラッカーを塗るならこれでもいいのかも知れないが、この後の仕上げは「油+ビーワックス」だからね。

その後、ある程度乾いたところで、試しにやや湿気った雑巾で拭いてみた。すると、落ちる、落ちる、どんどん落ちるインスタントコーヒー。ということは、このテーブルの濡れたところにシャツが触ると、染まるっていうこと〜?。あれ〜。こんなハズじゃあ・・・・。たまりかねて、「やっぱ、それじゃまずいよね?」と一応カミさんにきいてみるも、答えは聞くまでもない。拭いても拭いてもコーヒーは落ち続けるので止めるに止められず、結局、ほとんどコーヒー色を拭き取ってしまい、元の木阿弥。

どなたか、いい方法をご存じないですか? ベッタリ塗った後、2〜3日放置しておけばよかったのかな〜? 草木染めでは、定着液(みょうばんなど)を使うよな〜、この材木の場合はどうなんだろう? と余裕のない思いが巡りつつも、答えは見つからず。

仕方なく、柿渋を塗った。

一瓶ものインスタントコーヒー、もったいなかったし、コーヒー塗装は徒労に終わった。そして、きょうも、柿渋の上に「エゴマオイル+ビーワックス」を塗った平らなテーブルで、何事もなかったように、家族はご飯を食べている。

2018年5月15日火曜日

アサガオや、伸びたいように、伸びなさい

先週末、去年育てたアサガオの種がポットで二葉になったところで、本植えした。(上の写真) 今、ヒルガオもポットで育てているのだが、アサガオより少し遅めなので、もう少し先になると、ここにヒルガオが加わる予定だ。

さて、上の写真の上の方はどうなっているかと言うと、下の写真のようになっている。
高さ6mぐらい。南東向きの陽当たりのいいところ。
去年も同じ場所で4mぐらいの支柱を立てたのだが、軽〜く一番上まで伸びたところに台風が来て、古い竹竿の支柱が半分に折れた。そこで、今年は、6mの青竹を入手して、負担のかかる支柱の支点にクッションを挟んだ。

アサガオを育てている家は多いが、どんどん伸びて、夏には蔓の絡み先が見あたらなくて先端がブラブラしていることが多い。しかし、一度だけ、いつだったか、古い二階建ての横壁一杯に茂っていたアサガオを見たことがあって、「こんなに伸びるんだ」と感心したことがあった。

アサガオに、つるべ取られて、もらい水

この名句のアサガオも井戸のつるべ程度の高さだし(おそらく2mぐらいか)、朝顔市のアサガオは蔓を回した鉢植えだ。人間の都合はいろいろあれど、アサガオ自身は、もっと高く伸びたがっている。そして、それはアサガオの天性であり、それ自体、何も悪いことではない。

話は飛んで、中世のヨーロッパ。貴族など裕福な女性の間で、長い爪が「おしゃれ」または「裕福さの象徴」のように思われていた時代があったらしい。湾曲しながら長く伸びた爪を、誇らしげに見せる女性の絵を見たことがある。絵に残っているぐらいだし、服装もゴージャス。無論こんな爪で皿洗いは出来ないし、一般的には生活全般に支障を来すが、それでも暮らしていけるのだから、裕福な訳だ。異様に見えるものの、単に「金持ちの道楽」というだけでなく、私なりに、「どうしてこんなタシナミがあったのだろうか」と考えたことがある。それは「伸びたがっているものは伸ばす」ということではなかったか。

私は、二十歳代の頃、生活上及び衛生上の理由から無理だったので爪こそ伸ばさなかったものの、髪の毛と髭を5年ぐらい切らなかったことがある。それは、「伸びたがってるものは、それなりに意味があるはずだから、切ることはない。伸ばしたれ」と思っていたからだった。ある種のナチュラル派。今になって思えばだが、その頃私は、何となく世の中を窮屈に感じていたので、その反動でそうしていたような気もする。

髪の毛は腰まであったし、髭は薄いながら、一番長いので20cmぐらいあったと思う。伸ばしてみて気づいたが、髪の毛も髭も、ある程度伸びると、それ以上伸びないものだ。もっと太い髪の毛や髭だともっと伸びただろうが、あるところまで来るまでに自然と摩耗していたり、そのうち抜けたのもあったりで、髪の毛は腰までが限界だった。

さて、アサガオに話を戻す。

今は人並みの髪の毛ので、髭も2〜3日に一度は剃っているが、我が家のアサガオには、「伸びたがっているアサガオよ。伸びたいだけ伸びろ」という想いがある。それが今年は6mの支柱になっている。(6mでも足りないかも知れないが) 先述のように、家の壁に沿わせる方が、グリーンカーテンも兼ねていいのだが、我が家にはあいにくその場所がなく、こんな目立った出で立ちになってしまった。

また、この「伸びたがっているアサガオよ。伸びたいだけ伸びろ」は、私にとって、子育てにも重なっている。「我が子らよ、伸びたいだけ伸びろ」といった風に。つい自分の都合や、いわゆる「常識」、「危険性」というのが邪魔になって、必要以上に子供の考えや行動を制御しがちになるときが、私にはある。そんなときこそ、懐を深くして子供の話をしっかり聞かねばならない。その戒めとしても、このアサガオがどんどん蔓を伸ばしていく姿を眺めていたいと思っている。

2018年5月7日月曜日

ニセアカシアを想う人間の気持ち

♪アカシアの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい〜

ちょうど今、東京の多摩川河川敷では、ニセアカシアの花が、甘い香りを放ちながら咲き乱れている。あっちでもこっちでも。「あっ、アカシアだ」と呟いた後、「本当はニセアカシアだったっけ」と呟き直す。もう何度、同じ呟き直しをしたことだろうか。ニセでない、本家のアカシアを、私は見たことがない。

少し気になったので、その違いについて。
wikipediaによると、

明治期に日本に輸入された当初は、このニセアカシアをアカシアと呼んでいた。後に本来のアカシア(ネムノキ亜科アカシア属)の仲間が日本に輸入されるようになり、区別するためにニセアカシアと呼ぶようになった。しかし、今でも混同されることが多い。本来のアカシアの花は放射相称の形状で黄色く、ニセアカシアの白い蝶形花とは全く異なる。

どうも、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」の「アカシア」も、「ニセアカシア」らしい。人間にとって、言葉の影響は大きい。ニセと付くだけで、どこか悪者の雰囲気が漂う。また、この外来種は、繁殖力が強いため(在来種の繁殖を妨げるため)、しばしば駆除の対象になる。刺さると痛いトゲもある。バラは「美しいものにはトゲがある」と例えられるのだが。

さて、一週間前、そんなニセアカシアが咲き乱れた多摩川の河川敷で、たまたま待ちぼうけをくらった私は、その花を集めてみようと思い立った。最初は「天ぷらかお浸しか」などと思ったのだが、待ちぼうけの勢いで、ひと抱えの花の付いた枝を車に積んだ。車の中はスゴイ香り。あまりの香りなので、帰路、家の隅に置いておくだけで、アロマな感じになりはしないかと思った。トイレなんかもいいんじゃないか、とかね。

帰宅後、枝から花の房だけを取った後、カミさんに相談したら、「それだけあるとアカシア酒がオススメ」とのこと。また、少しだけ、水で溶いた小麦粉を絡ませたものを、油をひいたフライパンで焼いてくれた。天ぷらにすると、「デレッとなっちゃうから」。なるほど。これまで何度か天ぷらを食べたことがあったが、たしかにデレッとなってた。何しろ、甘い香りが強烈なので、食べると、半分お菓子のような感じ。ひとかけ食べた中二の娘は「ポン酢がうまいと思う」と提案。甘さが中和される感じで、たしかにうまい。
それで。本命のアカシア酒。カミさんは35度の玄米焼酎がいいと言うのだが、そんな準備はないので、近くの酒屋さんで、25度の麦焼酎を買ってきた。彼女が持ってる果実酒の本によると、漬けるのは一週間がいいらしい。その後は、苦味が出てくるとのこと。
 一升の麦焼酎に浸り切れないほどのニセアカシアの花。その浸かり切れてない部分が気になって、一日2〜3度、天地をひっくり返して、一週間経ったのが、昨日。
花のガクの緑色がしみ出たのか、やや黄色を帯びた。ここから花を取り出す。
これで完成と思いきや、ここから3ヶ月寝かせて、完成らしい。とは言え、ちょっと飲んで見たが、ほのかに甘い香りがついている程度。

在来種の繁殖を妨げる外来種のニセアカシア。どうやって駆除しようか日々腐心されてる人たちもいる。ただ、その繁殖力の強さゆえに、我が家で「アカシア酒」になってもいる。3ヶ月後、この酒はどんな味を醸し出していることだろうか。

2018年3月16日金曜日

コンビニのコーヒー・失態談の考察

前のエントリで書いた通り、続けて二度の失態をやらかした私だが、その後考えたことがあるので、書き出してみる。

1.「カネを払う」ということに、私は固執していなかったか?

一度目の失態後、私は改めて「コーヒー代」を払おうとした。そして二度目は、「L」に足りない50円を払おうとした。どちらもコンビニ店の好意に押され、払わなかった。まぁ、そこは仕方がなかったかな。朝の忙しい時間という状況もあったし。しかし、その「朝の忙しい時間」ということも手伝い、ついつい手っ取り早くカネに固執した私がいたことは否めない。「カネを払えば」というつもりはなかったものの、即カネにからむ言動をとったことは反省すべきことだったようにも思える。ここに現在のカネ社会の問題の一面もある気もする。

2.その店の対応は、マニュアルどおりだったのか、個人的なものだったのか?

店員さんの反応には迷いがなかったので、マニュアルどおりだったかも知れないが、何とも日本独特な対応だったようにも思った。もしもこれが他の国だったらどうだったか? マニュアルどおりでも個人的な判断であっても、客に対して親切なことに変わりはないのだけど、強いて「それが100%いいことか?」と考えると、言い切れない何かが残る。何故だろう?

3.私のような失態をする客はどのくらいいるのだろうか?

ちなみに、この失態談を5人の前で話した。すると、最初は笑って聞いていたものの、少し時間が経った後、2人から似たような失敗談を聞いた。「何だ、最初から言えよ」って感じ。一般的には、わざわざ人に聞かせる話でもないから、あまり明るみに出てこないが、実は結構ありそうだ。

4.「R」のカップに「L」の量のコーヒーを入れてもこぼれないのは、「R」カップの設計時点で計算済みなのだろうか?

あのこぼれないギリギリな様を見て、私は計算済みだと思った。それを見届けた店員さんも、すでに知っていることといった振る舞いだった。上の「3」とも関係するが、何度か経験済みなんだと思う。さて、深読みしてみる。レジで「R」の注文をして「R」のカップを受取り、犯罪的に「L」のボタンを押しても同じようになる。たくさんこぼれるカップのサイズまたはコヒーの量だと、コーヒーマシンに捨てたコーヒーがたくさん溜まることになるが、このようにギリギリだと、多くは溜まらない。(排水機能は簡素でいい) 「L」サイズを飲みたがっている犯罪者は、あの店員さんのように、最小限こぼしてフタをして立ち去ることだろう。その場合、お店側は、その挙動不審さに気がつかなければならない。(スリルを味わって楽しむ人たち。決してそのような行為はしないでください。それは明らかに犯罪です)

5.レジ裏のバックヤードに消えたコーヒーは、その後どうなったんだろうか?

バックヤードで休憩している店員さんなどが「ラッキー」とばかりに飲んでくれてたらいいのだが、忙しい中では難しそうだ。また、日本独特の「衛生上悪い」という理由で、捨てられていたら、ちょっと悲しい。悪いのは私なのだが、捨てられることに抵抗感があるのも確か。操作を誤った人の場合は、全部捨てなくても、「R」のカップに入ったなみなみのコーヒーを「R」ぐらいの量まで捨てて、どうぞと渡されるぐらいが、私には一番納得がいくのだが・・・・。薄々、捨てられていそうな気がしているので、やや気にかかる。

さて、冒頭の写真だが、中途半端にコーヒーが入っているが、飲みかけのコーヒーなのではない。「R」サイズの「ホットコーヒー」のカップに、「R」サイズの熱い「アイスコーヒー」が入っている。だいたいカップに半分ぐらいだ。意識的に「R」のところを「L」を入れたら犯罪だ。しかし、値段が同じ「ホット」と「アイス」の「R」を押し違えることは、厳密には詐称ながら、「アリ」なんではないかと思って、イタズラ心(好奇心)も手伝って、やってみちゃった。わざわざ忙しい店員さんの許可を得るのも憚れたので。

何せ私は、濃いコーヒーが好きだ。エスプレッソがあるとよく飲む。ベトナムでもコーヒーはドロドロ濃い。ご存じと思うが、コンビニの「アイスコーヒー」の場合、たっぷりの氷が入ったのカップに、熱い「アイスコーヒー」を注いで、氷入りの冷たい「アイスコーヒー」が出来上がる。つまり熱い「アイスコーヒー」を薄めたものだ。だから、アイスコーヒーのカップに注がれる熱い「アイスコーヒー」自体を、一度熱いまま飲んでみたい、と思っていた。

さて、問題の味だが、エスプレッソとは異なる。どうも、その熱い「アイスコーヒー」は、苦味が剥き出しな感じで荒っぽい味。手軽に、「きょうは苦味が濃いコーヒーを飲みたいな」と思って、コンビニの前を通りかかったら、いつもでなくても、オプションとしてはいいかも知れない。というのが私の感想です。ただし、何度もするのなら、事前に店員さんに許可を取るべきだろう。

この熱い「アイスコーヒー」の、お店側の不都合を考えると、レジで集計されるであろう「ホット」と「アイス」の数量と、コーヒーマシンでの実際の販売数量が合わなくなることが考えられる。コーヒー豆は、各々異なるから、コーヒー豆や(氷入り含めた)カップなどの在庫管理にズレが生じるかも知れない。

世の中には、厳密にすべきことと、緩くしておいた方がいいことがあると思う。それは当然個人差もあるのだが、決まり事になれば、社会的にもなる。厳密さと緩さのサジ加減を誤ると、必要以上に不都合が生じたり、不自由になったりしてしまう。そして、現実は常に移ろうものだから、そこに絶対はないものだ。だから、私は、いつも厳密さと緩さを持ち合わせながら、身の回りの様々な判断をしたいと思っている。コンビニのコーヒーも含めて。

2018年3月13日火曜日

コンビニのコーヒー・失態談

ときどき、コンビニでコーヒーを買う。だいたい小さいカップ(R)で100円、大きいカップ(L)で150円。1ヶ月ぐらい前から、週に3日ぐらい、朝、仕事場への途中で、このコーヒーを求めるのがややクセになっていた。

このクセが始まってから1〜2週間が過ぎて慣れた頃、コーヒーが入った置いたカップにフタをする際、手元が狂って、カップを倒してしまった。コヒーマシンの周りから床にコーヒーがぶち撒かれた。慌てて店員さんに、「すみません。コーヒーこぼしちゃった」と告げると、彼は、いったん現場の状況を確認して、「大丈夫ですよ」と言って、雑巾とモップを取りに行った。

私は、別の店員さんに改めてコーヒー代を払おうとすると、「いいですよ、いいですよ、どうぞ」と言って、彼女は新しいカップを差し出した。朝の忙しい時間だ。ここで押し問答するのもどうかと思い、私は「すみませんでした。ありがとうございます」と言って、そのカップを受け取り、モップで床を拭いている店員さんの横のコーヒーマシンで改めてコーヒーを注ぎ、慎重にフタをした。床を拭いているその店員さんに再三謝るも、彼はニコニコして「大丈夫ですから」。私はその店を後にした。

そんなことがあってから一週間後。それまで、大きいカップ(L)を注文していた私だったが、その朝は忙しくゆっくり飲んでる時間がなかったこともあって、小さいカップ(R)を注文した。が、ついついその前日までの「L」の惰性と、「L」のボタンが右側にあったせいか(私は右利き)、誤って「L」を押してしまった。慌てて左側の「R」を数回押直し、さらにカップが入っている透明なプラスチックの扉を開こうとしたが、ロックがかかって開かない。コーヒーマシンは、豆をガリガリ挽いていて、もうすぐコーヒーが小さいカップに注がれる。

「あー、またやっちゃった」
(一週間前と同じコンビニ)

「すみません。小さいのに大きいLを押しちゃいました。どうしましょう?」と、やや動揺した私。会計途中のレジにいた、一週間前とは別の店員さん(店長)は、その客を待たせて、「扉は開かないんですよ。大丈夫ですよ」と笑顔で、コーヒーマシンの方へ歩み寄り、私の隣でコーヒーが注がれるのを見ていた。「R」の小さいカップに、なみなみのコーヒーが注がれたが、何と、寸止めでこぼれない。ロックが解除された扉を開けて、店長さんは、(床にこぼれないよう)そのなみなみのコーヒーを少しだけこぼしてから、

「今、新しいカップを持って来ますから」
「えー、これでいいですよ。あと50円払いますし」
「いえいえ、いいんですよ」
と言い残して、レジ裏のバックヤードへ消えてしまったかと思うと、すぐに引き返し、新しい「R」のカップを私に手渡すと、待っている客がいるレジへと戻った。

やはり朝の忙しい時間だ。ここで押し問答は出来ない。私は言われるままに、そのカップをコーヒーマシンに設置し、冷静に「R」を押す。コーヒーにフタをしているとき、待たされていた客は、何事もなかったように、私の横をすり抜ける。私は店長さんに、「すみませんでした。ごめんなさい」と深く頭を下げ、店を後にした。

このような、二度の失態の後、私はいろいろ考えた。

1.「カネを払う」ということに、私は固執していなかったか?
2.その店の対応は、マニュアルどおりだったのか、個人的なものだったのか?
3.私のような失態をする客はどのくらいいるのだろうか?
4.「R」のカップに「L」の量のコーヒーを入れてもこぼれないのは、「R」カップの設計時点で計算済みなのだろうか?
5.レジ裏のバックヤードに消えたコーヒーは、その後どうなったんだろうか?

長くなったので、改めてのエントリで書きたいと思う。

2018年2月26日月曜日

不便の恩恵

今から30年ほど前、自炊しながらインドを旅行していたときのこと。今はどうだか分からないが、当時、普通にインドの市場で売られていたお米には、(米粒より若干小さな)小石が混ざっていた。このまま炊くと、食事中、無防備に小石をガリッと噛んでしまうことになり、それは結構辛い。したがって、ご飯を炊く前には、必ず小石を取り除く選別作業が必要だった。売ってる米に小石が混じっているなんてことは考えもしない地域出身の私は、「毎回選別が必要だ」と最初に思ったときは、面倒だ厄介だと憂鬱な気分になった。しかし、必要なことなので、毎日の習慣として行うことになった。

いざ日々行ってみると、これが思いの外、面倒に感じない。ほんの2〜3日目ぐらいからだったと思うが、不思議と全く面倒と感じなかったのだ。それはまるで、「料理を始める前に手を洗う」ぐらいのことになっていた。その全く面倒と感じない感覚は、面倒と思った当初の自分と同一人物の感覚なのかと、疑いたくなる程だった。

自分の直感を信じることは大事なことと、常日頃思ってはいるが、こういうように、アテにならない自分の直感もあるのだ、ということを思い知った経験だった。そのキッカケになったのは、選別の必要性だったと思う。その必要性が、憂鬱に思った私の背中を押したからこそ、面倒と感じなかった不思議を味わえた。もうひとつ思い知ったのは、「(まだやってないことを想像して)思うこと」と、「(実際にやってみて)感じること」の違いだ。この場合、面倒と「思ったこと」は幻想で、面倒でないと「感じたこと」が、現実だったということだ。

さて、時は流れて、今の東京の我が家。

カミさんの実家は専業農家で、お米も作っている。そのため、東京の我が家で食すお米は、有り難くも定期的に送ってもらっている。ただし、去年収穫のお米は粒が小さかったという理由で、籾摺りがちゃんと出来ていない米粒が混じっている。

玄米で送ってもらって、我が家の家庭用精米器で五分づき程度に精米するのだが、精米後、玄米のときよりも、それら小さな籾付きの米粒が目立つようになる。
上の写真のように、ついでに、茶色や白色になった粒も選り分ける。昔、ビックコミック・スピリッツの「美味しんぼ」の白飯対決で、海原雄山が、炊く前の米の選別を一粒ずつ行っている飯炊き職人で士郎を唸らせたが、それを思い出してしまい、つい変色した粒をはじいてしまった。「美味しんぼ」では、少しでも欠けた米粒もはじいていたが、私はそこまではやらない。(ちなみに、ベトナムでは、あえて割れた米だけで作られた料理がある。だから、割れた米だけのお米も売っている。この話は別の機会に) 私がはじいた籾殻付きや変色した米粒は、庭を訪れる鳥の餌になった。

話が脱線気味だ。戻そう。何しろ、選別せずに炊くと、食べたとき、籾殻が口の中に残り、あまり気持ちのいいものではない。30年前のインドの小石ほどではないにしても。そこで、精米後、籾殻付きのお米の選別作業を行う。それが冒頭の写真。

当然、30年前のインドでの経験がよみがえる。

有り難くもカミさんの実家から届いているお米。その有り難さは、選別作業の必要性に直結する。時間にして、5合で10分ぐらいだろうか。それは単純な時間の長さなのではないのだが、もう、幻想として面倒と「思うこと」はない。選別している間の短い時間、30年前インドで同じようなことをやっていた感覚がよみがえってくる。それはまるでタイムマシーンに乗ったような感覚だ。

言うまでもなく、小石や籾殻付きの米を選別するよりしない方が便利だ。だが、その不便から得ているものは、大きいかも知れない。

2018年2月15日木曜日

にぎり寿司と醤油

この冬は記録的な寒波が来た。私の住む東京・昭島も、最低マイナス8℃にもなったらしいのだからすごかった。この激しい寒波が東京を襲う直前に私は、南国ベトナムへ出張した。連日30℃は越えるのだが、一週間の出張なので、その暑さにちょうど慣れた頃、日本に戻らなくてはならなかった。で、帰ってくると寒さが身にこたえたこともあって、カミさんに「今朝はマイナス4℃かよ。東京にしちゃぁ、えらい寒よね」と言ったら、「何言ってんのよ。先週は、最低マイナス8℃で、あまりに寒くて夜中に起きちゃったぐらいなんだから。このマイナス4℃は寒くないの。暖かいのよ」と怒られた。続いて娘も「そーだ、そーだ」とカミさんの援護射撃をする。何しろ本当に寒かった。

さて、にぎり寿司。古くは、江戸時代、華屋与兵衛という人が考案したと言われている、と思った。そういうウンチクはさておき、回転寿司でも、ネタのウラにワサビをちょいと塗って、シャリと合わせて、にぎり寿司だ。多くの人は、そのにぎりの端っこに、小皿にとった醤油をつけて食す。

私は常々、その食べ方はよくないと思っている。小皿にとった醤油ににぎりの端っこをつけると、毛細管現象で、醤油が米粒と米粒の間にぐんぐん染み込んで、醤油過多になるからだ。だいたいシャリにはしっかり味がついているから、そこにさらに醤油が染み込むことになる。一方、ネタの方は、多くはツルツルしたソリッド状なので、醤油はにぎりの端っこの極部分的表面にうっすらとつく程度。

江戸前寿司と称した高級な寿司屋さんへ行くと、ネタ自体に仕事がしてある、つまり味もついていることが多いから、醤油の小皿自体ない。ネタの寝かし方・時間もしっかり考えられているから、おいしいです。とは言え、そういう高価な寿司屋さんにはそうそう行けないから、私にとっては回転寿司でも、少しでもおいしく食すことが現実的に重要だ。

この醤油のつけ方が気になり始めた頃、まず私は、にぎりを裏返してネタ側を下にして、小皿の醤油に浸して食していた。こうすると、たしかにシャリには醤油が染み込まずに済むのだが、ネタは平べったい場合が多いため、ネタ全体にベタッと醤油がついてしまい、ついつける醤油が多過ぎてしまう。また、何となくが裏返しになったにぎりが小皿の醤油に浸かった姿が私の美意識に反した。

そこで思案した私は、回転寿司の皿にのったにぎりの上に好みの量の醤油をサッと好きな位置にかけることにした。こうすれば、裏返えった姿を目にすることもなく、そのまま口へ持っていける。また、醤油がかかったところとかかっていないところが適度なムラになって(味に変化が出て)おいしい。お気づきと思うが、こうすると、皿の枚数分、醤油をかけることになるのだが、そのぐらいの手間は、おいしく食す事が出来ることを思えば、惜しむに値しない。

ここで冒頭の写真を見て頂きたい。にぎりの上にワサビ、そしてそこに醤油がかかっている。これは子供たちに連れて行けとせがまれて行った、ビュッフェスタイルのしゃぶしゃぶファミレスでのもの。ここは客に子供たちが多いから、ワサビは後のせなのだった。

回転寿司とは勝手が違う。
考えることがひとつ増えた。

「ワサビのせる→醤油かける」の順か「醤油かける→ワサビのせる」の順かが問題だ。写真は、前者。よく言えば、程よくワサビが醤油に溶けている。私はこのムラが好きなんだな。でも、本ワサビじゃなくたって、もしかしたら、「醤油かける→ワサビのせる」の順の方が、ワサビの香りが高まって、よかったかも知れない。ただ、この店は一応しゃぶしゃぶ屋さんなので、二皿は食べていない。今度、試してみよっと。