2019年11月19日火曜日

親子煮のネジ


ひとつ前のエントリ、「釜玉うどん」の反省で、捨てられたうどんの悲話と私の反省を書いたが、その翌日、上の写真のメールが、愛しい私のガラ系携帯に届いた。娘が通う中学校からだ。内容は、

給食の調理中に手鍋のネジが「親子煮」に入ってしまい、(全校生徒分の大量の「親子煮」の中から)見つけられなかった。したがって、きょうの給食の「親子煮」は、急遽無しになりました。生徒さんにご迷惑をお掛けしましたことを、給食室を管理する学校として、お詫び申し上げます。

というものだ。「ネジが発見できなかったため」ということは、もしかしたら「床に落ちた」など、混入していなかった可能性もあったかも知れない。後から、娘にそのときの給食のことをきくと、ネジのことを聞いたのは、各教室にその親子煮が運ばれた後だったらしい。だから、その親子煮を目の前にして、「『食べちゃえば』という先生もいたけど、結局は『食べてはいけない』となって、誰もその親子煮を食べなかった。親子煮は、その日の主菜だったので、それ無しはきついとみんな言ってたよ」とのことだった。「その親子煮は、どうなったと思う?」ときくと、「捨てられちゃったと思う」と残念そうに言った。

彼女から話を聞くに及ばす、急遽無しの「無し」とはこの場合、現実的には「廃棄」ということだろう。想像をたくましくしても、養豚場の餌か。いずれにしても、私は、冒頭のメールを読んで、何となくの違和感を覚え、しばらく考えた。

まず、ご存じない方もいると思うので、軽く前置きを。今どきの学校給食は、給食センターと呼ばれる、学校から独立した施設で数校分の給食が集中調理され、昼前に各校に配達されるパターンが多い。そんな中、娘が通う中学校には自前の給食室があって、全てそこで調理された給食が生徒に提供されている。娘は「だから、うちの中学の給食はおいしいのよ。栄養士さんもよく考えてくれてて、いいのだけど」と言う。

言わずもがな、学校としては、「もしも、誤ってそのネジを飲み込んだり、かじって歯が欠けるようなことがあっては絶対ならない」ということで、このようになったのだろう。

この件を知って、最初に私が思ったのは、外れたネジに気がつかなかった調理師さんのことだ。手鍋の、たぶんカシメが、調理中の熱の経年劣化で徐々に緩くなることはよくあること。毎日大量の調理をする大鍋は、かなり激しい使われ方をしていることは想像に易い。調理師はそれが外れる前に鍋を修理するなり買い替えるなりしなくてはならない・・・・のだが、限られた時間の中、ついそれを怠って調理し続けてしまう。それもよくあることではないか。こんなことになってしまい、落ち込んでいるかも知れない調理師さんに、「よくあることですよ。いつもおいしい給食をありがとう」と伝えたい。こんなことがあれば、父兄としては「今後は気をつけてよ」とわざわざ指摘するまでもない。そして、忘れちゃいけないのは、必ず誰かが「廃棄」していることだ。もしもその人が、その調理師さんだったとしたら、あまりにも悲しい話ではないか。

そして、学校に対して思うこと。

これがもしも、一般家庭や飲食店で起こったならば、それは各々の自由だと思うが、公立の中学校で起こったことだ。教育の場である学校で起こったことだ。先述の「言わずもがな」の理由は、「生徒の安全を思って」とも取れるが、私からすると、無難な策を取った感もなくはない。「無し」にしたことで、学校の運営責任を問われることは、確実になくなった。

それはそれとして、今や、日本の食品ロスの問題は、大きな社会問題だ。賞味期限の新しいルールなどが敷かれたりしているが、まだまだなのは言うまでもない。擦り切れた言葉かも知れないが、世界には食うに困っている人が、子供が本当にたくさんいる。中学校を生徒たちの教育の場と捉えた場合(そうなんだけど)、せめて、「こういうことも、ひとつの食品ロスです。しかし、社会的責任を負う立場の本校としては、今回、残念ながら無しにする(廃棄する)しかありませんでした。親子煮おいしいのに、もったいなかったね」などと言って欲しかった。

「せめて」ではなく、ここでは私が望ましく思う学校の判断と想像を言いたい。「無し」にして、生徒に学校の運営責任や、「大人って大変なんだよ」ということを学ばせるよりも、こっちの方がより大事なことを学べるんじゃないかという意味だ。

配膳後、「いただきます」の前に、担任の先生は、これこれこういう訳で、その「親子煮」にはネジが入っている(または可能性がある)ことを生徒に告げる。したがって、「ネジに注意して食べること」と「食べないこと(=廃棄すること)」を、各生徒に選択してもらう。この2つの選択肢は、現実的には一枚のコインの裏表だということを分かってもらうことが大事だ。そして、食品ロスの社会問題の説明をし(中学生なら難なく理解すると思う)、「君たちが、廃棄しないで、この親子煮を注意しながら食べることは、食品ロスを減らすことになる」と付け加えると同時に、「かといって、飲み込んだり囓ったりする危険はともなうので、食べない(=廃棄する)のも全然アリです」とも言う。もう、中学生にもなれば、責任を持って、このぐらいの状況判断は出来るだろうと、私は思う。

ここからは私の想像だが、ここまで先生が生徒たちに伝えると、「ネジに注意して食べること」を選んだ(おそらく多くの)生徒たちは、一斉に目の前の「親子煮」の中のネジを、スプーンで探し始めるだろう。おそらくそのネジは一本だろう。誰かがその一本を見つけたら、すぐに校内放送で全校生徒に知らせる。その後は、「食べないこと(=廃棄すること)」を選んだ生徒を含め、みんなで普通においしい親子煮を食べればいい。(余談だが、その後しばらくは、「あのネジ見つけたの誰だ?」の話題が校内で持ちきりになりそうだ)

ただし例外もある。
生徒の中に、障害者など、ネジに十分に注意を払おうにも払えない生徒がいたら、その人たちは別だ。当たり前だが。

食品ロスの問題は、今回のネジ事件と根は同じだと思う。人間は効率を求めると、必ず行き過ぎる。だからそれをコントロールするために絶対安全なルールを設け、それに基準(責任)が貼り付けられる。絶対安全とは、万人に対してだから、極力例外がないようにする。これは一見ユニバーサル(万能)のようにも思えるが、その分、曖昧さは排除されているから、融通はきかず、工夫しないことが前提とも言える。世の中が複雑になった分、こうした画一化が必要になるのだろうが、その画一化のシワ寄せこそが食品ロスの問題の根ではないのか。本来は、複雑になったその分、工夫も必要になると思うのは私だけか。そこは校長先生の腕の見せ所と思いたいのだが。

「ネジが給食に入っちゃったけど、生徒みんなで探したら、見つかったんだって」
「へぇ〜、今どきそりゃあスゴいな。先生たち、考えたねー」

なんてブログを書いてみたい。

2019年11月12日火曜日

「釜玉うどん」の反省


東京も最近、グッと冷える日があって、そんな日のランチに、仕事場近くの丸亀製麺へ、うどんを食べに行った。

冷えるのだからと汁物を目指して入店したものの、注文したのは、「釜玉うどん」。列に並んでいる間、室温が暖かいせいか、まだまだ冬ではないのだからと、汁無しの暖かいうどんに気変わりした。

で、私は「釜玉うどん」と注文したつもりだったのだが、出てきたのは、それに(単純に)明太子がのってる「明太釜玉うどん」だった。メニューの写真で見た「明太釜玉うどん」は、明太子の赤色が毒々しいと感じたので「明太子ない方がいいな」と判断した経緯が私の中にあったので、出てきた「明太釜玉うどん」を見て、私は自信を持って「明太子がのってないのを注文したんですけど」と言った。

それを言った瞬間、私は「しまった」と思った、が遅かった。

お兄さんは、何事も無かったかのように、「明太釜玉うどん」の中身を全部ゴミ箱にボンと捨てた。無論、昼時は忙しく、数人が私の後ろに列を作っていた。でも私は、余計な明太子を取り除いてくれるだけでよかった。うどんの上に、ちょっと明太子が残っていようが、そのぐらいどうでもよかった。でも、捨ててしまった後から、何を言っても始まらない。

改めて出してくれた、「釜玉うどん」をテーブルについて食べてるときに撮った写真が冒頭のもの(by ガラ系のカメラ)。この「釜玉うどん」は何かを私に語っているように感じた。あのゴミ箱の中の「明太釜玉うどん」に、私はとても悪いことをしたと思い、悲しくなった。そしてこの「釜玉うどん」を食べながら、反省した。

それをサッと捨てるのは、店のマニュアル通りだと思う。私にとって、それは簡単に想定出来た範囲だったじゃないか。だから、「しまった」と思ったのだ。にも関わらず、きっとそのときの私の中では、「おれは間違っていない」といった、持つ必要のない意地があったからこそ、自信を持って「明太子がのってないのを注文したんですけど」と言葉に出たのだと思った。その余計な意地がなければ、きっと「明太子のってないのを注文したので、その明太子をとってくれたら、それでいいよ」と言ってたハズだった。

こういうことは、その一瞬に試されるものだ。
「私にはきっと成長の余地がある」。
きょうは、そうポジティブに思うようにしよう。