2008年12月8日月曜日

傷は消毒しない 〜 続編


12月1日付けで「傷は消毒しない」というのを書いた。そしたら、何人もの人からメールやコメントをもらった。その方々の反応は、「いざとなって、消毒しないなんてできやしない」というのが大方で、「私も消毒しない」は少数派。また「私の治療法は、○○すること」など秘技を教えてくれた方もいた。こうなってくると、ぼくは医者ではないから、ちゃんと返信は出来ないが、先日の新聞記事の引用だけでなく、せめて「全文を載せなきゃ」と思いました。左がその新聞記事の全文です(2005年7月31日付け東京新聞から)。読むときはクリックしてください。

私の場合「消毒」がキッカケで化膿が一気に進んだが、3年前の新聞記事そしてその担当の外科医は「湿潤治療」というのをすすめている。それは「消毒しない」ことと並んで「傷を湿潤に保つ」ことが骨子だ。

ついでに、私の経験も少しつけ足します。

その外科で治療に使われたのは、「プラスモイスト」(瑞光メディカル社)という傷に接する面が特殊で乾かないようになっているシート状のもの。A4サイズぐらいで、適当な大きさにハサミで切って使う。一見特別なものには見えない。また、その病院(昭島病院)の売店(薬局ではありません)ではこの「プラスモイスト」を1枚ずつバラ売りしていて、私は1枚を¥1000(1袋ではない)で買い、しばらくは自宅で張り替えて使っていた。売店で売ってるぐらいだからそれ程難しいものではない。でも、そんじょそこらで売ってるものでもない。詳しくは、こちらをどうぞ。また、この新聞記事にもあるとおり、ジョンソン・エンド・ジョンソン社からキズパワーパッドというのも出ていて、こっちの方がポピュラーらしいのだが、担当の外科医は「プラスモイスト」をすすめた。理由をたずねると、「こっち(プラスモイスト)の方が断然安い」とのこと。まぁ、ちょっとした傷なら、A4サイズが1枚もあれば、相当使える。私の場合、4分の1を使った後、治った。問題は、その治り具合だが、私の場合、化膿した部分を切除したので、最初は浅い穴が開いてた状態だった。手術後1週間ぐらいで下の肉が盛り上がり、さらにその3日後には完治した。やはり治りは早かったのではないかと思っている。

2008年12月1日月曜日

傷は消毒しない

きょうは、食べ物の話ではない。
実は先日、あと一歩で危うく歩けなくなりそうになった。そしてそのときの教訓が何と「傷は消毒しない」。これを読んでくれた方も、もしかしたら役に立つかも知れない、いやきっと役に立つに違いないと思い書きつづります。

ちょうど1ヶ月ほど前のこと。私の左足のクルブシ辺りにできてた、いわゆる「座りダコ」が痛くなった。正確には、座りダコの下の皮膚の辺り。最初は「座りにくいなぁ〜」程度で1週間ほど過ごした。そしてそれとは別に、次の週末に私は家族で温泉へ行こうと宿の予約などをすでに済ませていた。なかなか痛みがひかなかったものの、温泉行くのに下手に切られでもしたら楽しくなくなるだろうなと思い、そのままさらに放っておいた。そして出発3日前(水曜日)になって「まぁ何もしないよりはいいだろう」と、薬箱の隅にあった消毒薬(マキロン)とヨードチンキでその座りダコ辺りを丁寧に消毒した。

すると次の日(木曜日)の朝、私の左足は象の足のようにパンパンに大きく腫れ上がってしまったのだ。痛みも前日の比ではなくじっとしていても辛い。「こりゃ〜、もー放っておけない」と思いながらもその日は仕事で病院に行けず、次の日(金曜日)の朝、何とか近くの大きな病院に駆け込んだ。診断を終えた外科の先生いわく、「座りダコが下の皮膚を徐々に押して傷をつけたようです。そこからバイ菌が入って化膿したのが最初で、その後消毒したことでその化膿が助長されたようです。このクルブシの辺りは皮の下がすぐ骨で肉がほとんどない。骨は骨膜というもので覆われていますが、あと一歩でそれに到達していたところでした。そうなってたら、歩けなくなるので即入院でリハビリでしょう。すぐに手術しましょう」とのこと。私は有無を言うことなく手術台に横になった。しかし、「消毒したことでその化膿が助長された」という言葉が気になって、先生に改めてたずねた。すると「傷は消毒するということが一般的ではありますが、実は逆効果なんです」「声の大きい医者(その先生の言葉をそのまま引用)は、そうはなかなか言いませんが、我々臨床の者の間ではそうなんです」。「声の大きい医者」とは学会などで偉い医者のようだ。

私は、その答えを聞いて、ハッとした。3年以上も前に読んだ新聞の記事を思い出したのである。その切り抜きは自宅のファイルに保存してあった。(2005年7月31日付け東京新聞)内容としてはだいたい以下のとおり。

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傷・ラップあてるだけ?
消毒液もガーゼもいらない「湿潤治療」
「自然治癒力に任せる」万能ではないけれど

「消毒液は細菌(細胞)を殺す毒で、それは人間の細胞も殺してしまう。そのため、消毒するとかえって傷が治りにくくなる。ケガをした後の傷からは、傷を治すために必要な成分が含まれた浸出液が出る。そこにガーゼをあてると、治癒に必要な成分が吸収され、傷が乾燥してしまう。湿潤治療の本質は、傷面を湿潤に保つこと」

「出血している場合は、傷口を直接押さえて圧迫止血する。傷周囲の汚れは水道水で湿らせたガーゼなどで払い落とす。傷口に砂や泥が入っていたら、水道水できれいに洗う。ラップを傷にあてる。このとき、ラップにワセリンを塗ってからあてたほうが、痛みがすぐなくなる。ラップの周囲をばんそうこうで固定する。暑い時期には一日に二回以上取り換え、その際は傷周囲の皮膚をよく洗って、あせもの発生を防ぐ」
「これで、早くきれいに痛くなく治せる。病院に行くより数段早い」

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消毒しちゃいけないのだ。それは治癒に必要なその浸出液の細胞をも殺してしまう。私の場合、消毒がキッカケになり、悪い菌が一気に繁殖してしまい、一夜にして象の足になってしまった。またこの「湿潤治療」というのも気になる。wikipediaにもありました。ご興味のある方は、コチラ

さて、座りダコと化膿した箇所の摘出手術が始まった。「この『臭い』からすると、飲み薬では追いつかない。きょうから3日間は毎日抗生物質の点滴が必要ですね。本当に危なかったですよ」。そして私は温泉出発の直前と帰宅直後に点滴。(それが冒頭の写真)もちろん温泉では、左足にビニール袋。輪ゴムでとめて。湯船に浸かれただけでもメッケもの。「紅葉狩り」なんて悠長なことはあり得ない。しかし「入院・リハビリ」の言葉は重く、自然と「不幸中の幸い」という感覚が私の心を占めた。

それにしても、新聞の切り抜きまでしておきながら、いざとなると丁寧に消毒していた。こんなもんかと思う。また、あと数日早く病院に行ってれば、手術なんかしなくて済んだ。いろいろあるが、「傷は消毒しない」と心に刻まれた。ちょっとした傷で命に関わることは少なかろう。でも、傷なんてものは誰でも日常茶飯事。進行して重くならないよう、また早くきれいに治るようにするためには「消毒しちゃいけない」のです。にわかに信じられない方も多いだろうが、身をもって経験してしまった私としては、心にとめておいた方がいいと思う。

最後に、その新聞記事の最後の注釈を以下に記します。

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・人間や動物にかまれた傷
・骨折や神経損傷などが疑わしい傷
・骨や腱のような組織が露出している傷
・すでに化膿している傷
・木くずなど異物が傷の中に残っている場合
・さらに傷口がバックリと開いている場合など
・素人が見ても『これは大変』と直感するようなケガの場合
・乳幼児の場合など
以上のような場合は、病院で受診したほうが良いでしょう。

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安易な消毒には、くれぐれもご用心。

2008年11月25日火曜日

自然薯のムカゴ

ムカゴと言えば、ムカゴご飯が一番一般的なメニューかと思うが、私はこいつを下ゆでした後サッと油で炒めて塩だけ振って食べるのが好きだ。ビールによし、日本酒によし。この日も調理法は一緒のムカゴ。で、一粒。「ん、ん、ん〜〜〜、味が全然違うぅ〜〜〜」。見たとこ確かにムカゴだが、粒が小さい。写真のとおり、だいたいパチンコ玉ぐらいのサイズだ。「これ、ムカゴなの?」と思わず調理したカミさんにきいてしまった。で、お答えは「それは自然薯のムカゴなの。全然違うでしょ」とニンマリ。ご周知のとおり、市販の普通のムカゴは長芋のものだ。サイズはこの3倍ぐらいはある。長芋と自然薯の芋の部分の味ももちろん違うが、ムカゴまでこんなに違うとは驚いた。いやむしろ味自体の違いは、ムカゴの方が大きい。元々、私が「油でサッと炒めて・・・」が好きなのは、(長芋の)ムカゴは味が淡泊なので、それを補うように油を使う。それで何となくちょうどいいコクが生まれ、その淡さを味わう。でも、この自然薯のムカゴはもうこれ自体に濃厚な味がある。これならカラ煎りするだけでいいかも知れない。これでこの季節の楽しみがひとつ増えた。

ところで、簡単に「自然薯のムカゴ」とは言うものの、その入手は大変だ。自然薯でさえ、どこでも売ってるものではないのに、そのムカゴとなると売ってるところがあるのだろうか。見たことない。ちなみに今回のものは「頂きもの」でした。あー、ありがたやありがたや。でも、一度自然薯堀りをしたことのある私としては、ひとつ言いたいことがある。

無論、自然薯掘りは大変だ。私の場合は、20cmぐらいの自然薯を掘るのに、直径1m〜1.5m、深さ1mぐらいの穴を掘らねばならなかった。しかし、スコップ持って山に入らなくても、ムカゴだけなら超カンタン。私は山歩きをしていて(そんなに山深くなくてもあります)、自然薯のムカゴらしきものを見つけたことは何度もあった。でもスコップは持ってないし、そんな時間もないので掘ろうとは思わなかった。またその場合、「(ムカゴとして食べるにも)小さいな」と思っていた。しかし、それは小さいものなのだ。これからはムカゴだけちょいちょいつまんで持って帰ることにする。それは下草が枯れた今がちょうどのタイミング。近々山歩きの予定のある方、また近くに自然薯らしきツルを見つけた方は、心にとめておいてください。そのぐらいの価値は十分にある自然薯のムカゴです。

2008年10月6日月曜日

東京・昭島の水道水

私は、東京の昭島(あきしま)市に住んでいる。昭島に住んでいる大きな理由のひとつに水がある。昭島の水道水は感覚的に軟水で、おいしい。100%地下水くみ上げの水なのである。初めて昭島の友人宅を訪れ、お茶をごちそうになったときの静かな驚きは今でも忘れない。

ときどき、市主催のイベントなどで、水道部の方々が「利き水」をしている。「○○のおいしい水」など数種類の市販のミネラルウォーターのラベルを隠して、昭島の水道水(蛇口をひねって出しただけの水)と比べる。「どれが一番おいしいですか?」の質問に、私は昭島の水道水を選ぶ。水は、その成分やクラスターも大事だが、それだけではないと思っている。私が数あるミネラルウォーターから昭島の水道水を選ぶのは、味だけでなくその新鮮さを感じてだ。「○○のおいしい水」も採水したばかりのものはきっと違うだろうと思う。

ちなみに、通常の井戸は5〜10m程度の深さらしいが、昭島の水道水源は、地下70mの深層地下水とのこと。いわば地層のフィルターを通っているから、水道法という法律で義務づけられている必要最低限の塩素が加えられているのみらしい。しかも水道料金が安い。詳しくは、昭島市水道部のサイトで。

水というのは、空気に似て、その味に慣れてしまう。とは言うもの、昭島の水の味に気づかされるときが年に2度ある。そのうちの一度がちょうど今、9月末〜10月初め頃(秋)だ。毎朝コップ一杯の水を飲む私は、1週間ほど前に「ん、うまい」と感じた。年に2度のもう一度は、5月末〜6月初め頃(春)。このときは、実は「ん、変わったな」と感じる。今の時期の「ん、うまい」より、春の「ん、変わったな」の方が説明がしやすい。それは、塩素の味・臭いだ。ちょうどどんどん気温が上がって暑さに向かう頃、これを感じる。このことを市のイベント会場で水道部の方にたずねたことがある。「暖かくなると、水道に塩素の量を増やしますよね?」ちょっと意地悪な質問だ。しかし、その答えは意外なものだった。「塩素の量は年間を通じて同じです。だた、暖かくなると水道水の温度が上がり、蒸発する塩素が増える。それを感じて同じことをおっしゃる方が多いんですよ」とのこと。塩素は蒸発する。金魚の水槽の水を一日置くのはきっとそのためだ。そしてその蒸発のスピードは、その水の温度で変わる。

一週間ほど前に、「ん、うまい」と感じたのは、水道水の温度が下がり、塩素の蒸発が抑えられ始めたということ。昭島の水道水はおいしいだけでなく、季節の変わり目も感じさせてくれる水である。

2008年9月25日木曜日

松茸のフライ

タイトルのとおり、写真は「松茸のフライ」であります。
塩をパラパラ振って、スダチをしぼって頂きました。

松茸と言えば、土瓶蒸し、ホイル焼き、網焼き、松茸ご飯・・・ということになりましょう。もちろんそういった定番は文句なくおいしい。しかし、そこをあえて「フライ」であります。松茸をフライにするとどうなるか。これはそれら定番料理からすると、また別の趣があります。近頃は、結構手頃なお値段で買えるので、こうした冒険もまた一興です。

昔から「香り松茸、味シメジ」と申します。そう松茸は香りが命。でも、この「フライ」に関しては、「味」が命になります。でも、やりようによっては「香り」と「味」の両方が楽しめる。この一筋縄ではいかないところが、この「松茸のフライ」の最大のポイントと言えましょう。

最初の一口目。ザクッとひとかじりした私は、先入観からか、衣を破った際に発する香しい松茸様をイメージしていました。しかし、案外しない。「んっ」と思いながら、さらにパクパク。するとこれが独特の淡いエグ味のような、または野趣に富んだ味というか、がしてきました。思えば、ホイル焼きにしてもその香りとともに土のような味もしますね。その味がクローズアップされる感じです。プ〜ンと香るいわゆる松茸の香りは抑えられ、代わりにその味がグッと前に出てくる。これまでとは違う松茸。

しかし、です、そう感じている私の前で、このフライを調理したうちのカミさんは、「すごい香りだね」と言う。「すごい香り?」とちょっと当惑したが、彼女が続けて言うには、「揚げてるときも、すごい香りがしてた」。これを想像するに、彼女は揚げてたときのすごい香りを嗅覚に残しつつ、この「松茸のフライ」を食したんだと思う。私には、換気扇のグルグルまわってる台所の香りは伝わってきていない。「いや〜、オレにはスゴイ香りなんてしないけど、こういう松茸もあるんだなぁ〜」。

ちょうどこの前日、実は、食卓のホットプレートに油をひいて、松茸をソテーした。そのときのすばらしい香りを思い出した。そしてこの「フライ」にも通ずる味とその食感は、「こりゃイケル」。松茸は、きっと油で高温に熱すると一気に香りを放つのだ。しかし、大胆不敵にも「フライ」。その「香り」も楽しみたければ、厨房に入らなければならない。それを一カ所で楽しみたければ、ホットプレートのソテー。どっちにしても、スダチはお忘れなく。

2008年8月25日月曜日

ラーメン・ゼロ

東京は目黒。山手通りを大鳥神社から南へ歩いて少しのところ、歩道橋のたもとにこのお店がある。その名も「ラーメン・ゼロ」。魚介系ラーメンの旗手・前島司氏のお店だ。写真では一見、普通のラーメンに見えるが、調味料が一切使われておらず、具材の味だけのラーメンだ。食すと誰もがその「新しさ」を感じる味と思う。それは一口に「ワイルドな味」だ。食べてて自分が原始人のようになった気がした。しかし、決して荒っぽい味ではない。むしろ繊細な味だ。魚介系から肉系・野菜系の様々な味が融合していて、「きっと原始時代、超グルメな人が調理するとこんな味になったのかな」と思わせる「ワイルドな味」だ。「素材の味をいかす」という擦り切れた言葉があるが、「ラーメン・ゼロ」は、それがモロ(直接的)な味で、英語では“naked taste”(裸の味)という言葉が合う気がする。

私の嫌いなラーメン。それは最初の一口はおいしいが、だんだんくどくなり、最後まで食べるのが大変なもの。そして私の好きなラーメン。それは最初はやんわりとおいしく、食べ進むと時間とともにそのおいしさが深くなり、食べ終わったときにちょうど満足感を得られるもの。無論「ラーメン・ゼロ」は後者だ。前者の方は、「最初の一口がおいしい」と書いたが、実際には条件反射的に、そのおいしさをおいしいとは感じなくなっている。

あえて言うまでもないが、日本のラーメンは完全に一大文化だ。様々な志向を持った様々な人たちが様々なラーメンを食べる。そして様々なラーメンが生まれる。その多様さは、ヒットメイクまたは生き残りの厳しさとも常に背中合わせだ。そういう意味で、この「新しさ」は大胆に勝負に出ている。あとは客の反応次第。「ラーメン・ゼロ」、まずは一度体験してみたらいかが?

2008年8月6日水曜日

大辛塩鮭

タイトルは「大辛塩鮭」でありながら、写真は「紅鮭(甘口)」。ここにきょうのブログの意味があります。

「最近、塩辛ーい鮭、見ないなぁ〜」とお嘆きの方、いらっしゃいませんか? 焼いた鮭の表面は塩が吹き出てて、ふっくらと言うよりやや固めの食感。そして塩はもとより鮭の味も濃厚。そいつを箸でほぐし、アツアツのご飯にのせて、またはチビチビつまむ酒のアテとして、そしてやっぱりお茶漬けの具として。(拙ブログ2007年9月6日の「水かけご飯」の具にも最高です) 塩気が強いからあんまりたくさんは食べられないけど、日持ちします。キッチンの火を使わずに、毎日ちょっとずつ食します。特にこの季節はこの塩気が食欲をそそります。もちろんお医者さんから「減塩」の注意を受けてる方は例外ですので、あしからず。

「大辛塩鮭」が少なくなったこと。その理由は「減塩」もありますが、この冷凍保存が常識の時代に、新巻鮭のような保存が目的での大辛は合わないのかも知れません。ただ、塩を作っている私が思うのは、塩鮭に使う塩が時代とともにおいしくなくなってんじゃないか、ということ。塩だけという非常にシンプルな味付けながら、私はその塩にこだわっている塩鮭を見かけたことがないからです。いずれにしろ、この「大辛塩鮭」の肩身が狭い時代。それを逆手にとって、おいしい「大辛塩鮭」を作りましょう。というのがきょうのブログです。

「大辛塩鮭」が世間に少ないということは、写真のような「甘口塩鮭」、つまり塩分控えめの塩鮭が多いということ。塩にこだわるなら、かえってこの「甘口」がいいのです。もちろん、シーズンには「生鮭」も使えます。この「甘口」または「生」の鮭に自分の好みの塩を使うのです。もちろん塩分の加減も自分の好みで。一手間と言えば一手間だけど、塩を振って冷蔵庫に何日か放っておくだけだから、非常に簡単。気を使うのは、振る塩の量ぐらいですね。だいたい鮭の重さの10%ぐらいを目安にすると「大辛塩鮭」になります。切り身一切れ150gとすると、15gぐらいの塩をパラパラすればいい。それが下の写真です。

この写真では鮭の下に市販の「水取り(脱水)シート」(出る水を吸い取ってくれるシート)が敷いてあります。これに包んでタッパー、そして冷蔵庫に2〜3日以上。まぁ、そんな便利なシートを使わなくても、そのままタッパーでもできます。

「しょっぱい鮭、食べたいなぁ〜」

という方、自分の好きな塩で、自分の好きな塩加減の塩鮭を作りましょう。これは「甘口塩鮭」だからこそできること。だから今こそチャンスです。主役が鮭で濃いめの塩味、こういうのには我が「カンホアの塩」、とてもよくあいます。また食べる直前にレモン汁をたらしてもおいしいオプションです。

2008年7月25日金曜日

バゲット@ベトナム


ベトナムでは、そんじょそこらでバゲットにありつける。これはコーヒー同様、フランスがベトナムを統治していたときの置きみやげだ。原材料もちゃんと「小麦粉・酵母・塩・水」で、バゲットと呼ぶにふさわしい。ただし、その食べ方はベトナム流。上の写真は、先月ベトナム・カンホアへ出張したときのある日の朝食(2〜3口かじった後で写真を撮ってる)。

ベトナムでもそのまま食事用になるが、たいがい写真のようなサンドイッチにして食されることが多い。その具材は、ハム、魚の練り物、ハーブなど様々。味付けはヌクマム(魚醤)やアジア的な甘辛ソースになる。ハムと言っても、ヨーロッパのハムとはちょっと趣が違う。ハーブも同じくベトナムでよく使われているハーブ類。最初はちょっと戸惑った。気持ちはバゲットを食していても、味はすっかりベトナムだからだ。でも何口か食べてるうち、その戸惑いは消え、この味を楽しむ気分になる。そしてクセになる。ヌクマムが染みこんだバゲットの味もなかなかなのだ。ある知り合いのフレンチのシェフの言葉を思い出す。「ヌクマムはアンチョビみたいなもんですよ」。確かにそういう面もあるが、このバゲットは、アンチョビの代わりにヌクマムなのではない。独特の香りを放つヌクマムゆえにその染みこんだ味もまた格別なのだ。

バゲットの作り方に決まりはあっても、その食べ方に決まりはないはずだ。日本にももちろんバゲットはあるが、日本流の食べ方ってあるのだろうか・・・と、ふと考える。

醤油をたらした目玉焼きとバゲット。これぐらいはありそうだが、私は日常的に目玉焼きにヌクマムをかけて食べるから、それで「日本流」とは言い過ぎな気もする。では、冷や奴を崩して醤油をたらしキュウリのぬか漬けやタクワンをバゲットに挟んで食べる。ん〜、やったことはないけど、イケルかも知れない。ただ一般的にはなさそうなことだ。日本では、ラーメン、カレーライス、スパゲティナポリタンなどあるものの、殊に近年は、本場の習慣をアレンジすることは邪道とされる嫌いがある。本場に対しての敬意ともとれるが、そのへんは微妙だ。そういう意味で、なんかベトナムはすごいと思う。ベトナムでバゲットのサンドイッチを食すと口の中で文化が交錯する。この現実に、ベトナムの文化を感じる。「いいものはいい」と多様性を素直に認める文化だ。大陸的とも言えるかも知れない。そしてフランス側もそれで金儲けしようというものでもなかった(と思う)。だからその文化がすくすくとこうして育ったのだ。

かつてフランスはベトナムを統治した時代があった。そしてベトナムはそのフランスを追い出した。でも、バゲットや(深煎りの)コーヒーは、今のベトナムの暮らしに欠かせないものになってしっかり根付いている。

2008年6月30日月曜日

ベトナム、菜食の日

今月半ば、1週間ほどベトナムへ出張していた。主に「カンホアの塩」の生産現場、カンホア・プロヴィンス(省)のホンコイ村の滞在だ。日本からベトナムへ観光で訪れる人はたくさんいるが、仕事だと、こうしていつも同じ場所へ行き同じ人たちと会うことになる。もう10年間、20回はここに通ってるが、毎回必ず何かしら変化があり、未経験なことも必ずある。

今回の滞在中、6月18日が満月だった。毎月陰暦の1日と15日、つまり新月と満月の日は、終日菜食になるという習慣がベトナムにある。仏教関係の習慣だが、必ずという決まりは特にない。だから、何となく私の感覚だと、40〜50人に1人やってるかやってないかぐらいの習慣だと思う。十四夜の日、いつも私たちの食事を料理してくれているニームさんという女性が、「明日は15日だけど、菜食にする?」ときいてくれた。私は、ベトナムで1日中菜食をしたことがなかったし、とても興味があったので、「是非」とお願いした。

明くる朝、出してくれたのが、上の写真のフォー(ベトナム風米粉のうどん)である。フォーは通常、鶏か牛。ベトナムでは豚も好んで食べられるが、不思議と豚のフォーはない。しかし、これは完全に動物性タンパクゼロのフォーだ。ヌクマム(魚醤)ももちろん使われていない。出汁は、キノコ類や根菜のなどからなる極めてサッパリとしたフォーだ。サッパリさもいいが、連日猛暑の中の仕事だったので、ちょっとした胃腸の休憩にもなる。こういうものは、スルスルと食べられる。もう毎日でもいいぐらいだけど、毎日にすると一緒に食事をするここの人たちもつきあわなければならず、なかなかそうもいかない。そして、下の写真は、昼食時。

中央左の肉のスライスのように見えるものやその右のハムのように見えるものは、いわゆる大豆タンパク。そして、見にくいけど右奥のエビを春巻きの皮で包んで揚げたように見えるものもエビの代わりにやはり湯葉の唐揚げのようなものが包まっていて、食感はまるでエビ。このようにいわゆるモドキ料理が多い。この傾向は、中国、台湾などにもあるが、肉や魚介類を食べたいところを菜食しているのだろうか。またはそれは一種の洒落のようなものか。モドキにしなくても、それはそれでおいしいんだけど。

この「カンホアの塩」の生産地、カンホアのホンコイ村は、かなりの田舎だからないが、ちょっとした町へ行くと、菜食の食堂は結構ある。“co'm chay”の看板が目印だ。“co'm”はご飯、“chay”は菜。毎年1〜2回は来るベトナムなので、要所には行きつけの“co'm chay”屋さんもある。また、全然知らない町でも、確率的に一番多いのは、お寺の近く。しかし菜食だからと言って、みんな同じような食堂とは限らない。味付けのセンスもその店次第だ。当たり前だけどね。インドもそうだが、アジア、特に暑いところには、菜食の習慣が多く残っている。宗教的な意味あいもあったりするが、暑いところは単純に消化のいいものがいいという面もある。身体が健やかだと気持ちも健やかな感じになる・・・・・。ん、それが宗教的な意味合いか。

2008年5月20日火曜日

海ぶどうの思い出 〜 その4(最終編)

飛び飛びになってしまったが、「海ぶどうの思い出 〜 その3」に続く「その4(最終編)」。「その2」で、下記のように書いた・・・・

そう、この家には5〜6人の子供たちも暮らしている。おばあちゃんに尋ねると、家が(学校から)遠い子供たちが、いわば下宿しているとのこと。この子たちは、この家の掃除・洗濯から炊事など全ての家事をやりながら、ここから学校へ通っている。そんな子供たちにおばあちゃんは、結構厳しい。「あそこが汚い。すぐに掃除しなさい」「この洗濯物、ちゃんと汚れが落ちてないじゃないか」。私にも、「この子ら、全く働きが悪い」などとぼやく。しかし私には「まぁまぁ、お手柔らかに」などと無責任なことは言えない。

・・・・豪傑なおばあちゃん、旧日本軍の言葉を話す校長先生、そして若い先生たちとの夕餉。会話が弾む。ただ、そのテーブルに並んだごちそうは、ここに下宿する子供たちが料理したものだ。そして私たちが食事している間は、その子供たちの姿はない。食事が終わると、子供たちはジャストのタイミングで登場し、皿を片付け始める。大人たちは、これから自由時間になる。だいたい自分の部屋に入る。田舎だから、外は街灯などなく、外に出かけるような感じもない。私も自分にあてがわれた部屋に入って、ベッドの上で本なんかをパラパラ始める。その部屋の窓は、食事をした中庭に面していて、白いレースのカーテンが掛けられている。カーテン越しに後片付けが終わったような雰囲気を感じると、電気が消え始め、暗めの裸電球が一つだけ残った。すると、子供たちの楽しそうな声が静かに響き始めた。その声は「抑えられた」楽しい声で、ひそひそ話に近い。タガログ語だから、何を話しているのか分からないが、「抑えられた」楽しいそうなひそひそ話というのは、非常に気になる。でも、ここで私が部屋を出て、その裸電球の下に行くのはさすがにはばかられる。カーテンをそっとずらして見てみるが、子供たちの影が動いていることしか分からない。たぶんそのときで9時か10時ぐらい。どうも気になって私は眠ることができず、11時過ぎぐらいだろうか、裸電球が消え、子供たちの声がしなくなってから眠りに入った。

しかし、次の夜。好奇心にあおられた私は、意を決して、部屋を出、裸電球の下に歩み寄った。子供たちは、思いの外、あっさりしていて、「あら〜、日本人のお客さん」といった表情でニコニコしている。この子たちの笑顔を初めて見て、嬉しくなった。そして、私は裸電球の下に視線を移すと、そこにあったのは、教科書。ガリ版刷りだ。みんなの朝食の支度を終えて、学校へ行き、午後に帰ってからは掃除や洗濯、買い物など。そして夕食の支度に片付けと忙しい時間を過ごし、最後の寝る前の1時間ほどがこの子たちの自由時間なのだ。おそらく電気は最小限に使うよう言われていると思う。その薄明かりの下で5〜6人の子供たちは勉強する。でも、仲間が一緒だから、教科書を開いていてもついついふざけあってしまう。大きな声ではしゃぐと怒られるだろう。そこで、その声は「抑えられた」ひそひそ話風になる、というわけだ。

私は、「がんばってね」という気持ちを持って片言の英語でつまらない話をすることしかできない。「がんばってね」を直接言葉にすると、とても陳腐に思えるから。「good night」と言葉を残して、私は部屋に戻った。子供たちの声は続いているが、この夜は心地いいBGMに感じながら、眠りに入った。

「海ぶどうの思い出」終わり

2008年4月23日水曜日

アースデイ東京に行ってきた


数年前から、毎年4月の中旬の土日に開催される、アースデイ(地球の日)のイベントが先週末東京の代々木公園イベント広場であった。「地球のことを考えて行動する日」がテーマだ。基本的に、会場では食べ物・飲み物の容器は自分で持ってくる。そして、環境が考慮された商品・サービスのブース、また環境問題に関わるNPO・NGOのブースが軒を並べ、屋外のステージでのコンサートなど企画も盛りだくさん。詳しくは、こちら


さて、私はというと、自分がプロデュースしている「カンホアの塩」のブースを、毎年このイベントに出展している。普段、ベトナムの生産地や日本の販売先の人たちとの関わりはあっても、「カンホアの塩」を使ってもらっている一般の方たちと直接話ができる機会はあまりない。だからこの出展は稀少だ。実は、このイベント、「アースデイ」という看板を掲げる前にも、同じ場所で似たようなイベントが行われていて、私はその頃から出展している。だから、もう10年ぐらい毎年この会場に来ていることになる。そんなこともあって、毎年うちのブースを訪れてくれる方もいて、年に1回だけど、徐々に仲良くなっていくのもおもしろさのひとつだ。

このイベントの一番おもしろいところは、ちゃんと自分の感覚を持っている来場者が多いこと。だから「カンホアの塩」のブースを訪れた方に、最初から商品の説明はしない。最初は、「どうぞ」と「カンホアの塩」を一粒なめてもらうだけ。それで(無言で)ブースを去っていく方もいれば、そこから詳しい説明に及ぶときもある。格好よく言えば「出会いは一粒の塩」。それがキッカケで、会話が始まり、実はその方と共通の知人がいたりするときもしばしば。そんなことを繰り返していると、そのうち何となく今とは違う将来を少し感じられる。それが気持ちE。古いな。3年前のアースデイでは、ステージで忌野清志郎が格好よく歌ってたっけ。

2008年3月28日金曜日

海ぶどうの思い出 〜 その3

さて今回は、「海ぶどうの思い出 〜 その2」の続き。フィリピンはルソン島の北西部に位置する、アラミノスの話に戻る。

3日間居候させてもらったその家で、夕食時の会話が盛り上がった、ということを「その2」で書いた。校長先生夫妻や学校の先生たちに囲まれての会話なので、まずは教育関係や学校制度の話で始まったことは憶えている。何せ、今から25年も前のことなので、その詳しい内容は忘れた。しかし、ひとつだけ、強烈に忘れられないことがある。たぶん、居候も2日経ってお互いに慣れてきた3日目ぐらいの夕食時、校長先生が椅子からオモムロに立ち上がり、直立不動で私に向かって、言った。

「ワタクシ、ニッポンゴ、ハナシマス」

その瞬間、私は身動きがとれず、背筋にスゥーっと冷たい風が通った。軍隊である。それは明らかに旧日本軍の誰かから教わった口調だった。私は、戦後生まれだから、その戦争のことは直接知らない。しかし、その一瞬、冷凍保存された戦争が、一気に解凍されて私の目の前にドスンと置かれた。私は、どう反応してよいやら全く分からず、困った。すると、おばあちゃんが「この人は、昔日本人に日本語を習っていたんだよ。今じゃずいぶん忘れちゃったみたいだけど」と助け船を出してくれた。私は、「そ、そうですか」とやっと言葉が口から出た。

私の背筋を通った冷たい風は、いったい何だったんだろう。それは悪い予感だった。この校長先生やその周辺の人たちは、昔日本人からひどいことをされたんじゃないだろうか。最悪のことを考えると、私は同じ日本人ということで、この人にその仕返しをされるんじゃないだろうか。そして、それはそうされても仕方ないんじゃないだろうか。そんなような思いが、その言葉を聞いた瞬間、私の中で駆け抜けた。

その校長先生は身の丈が180cmは楽に超えていて体格もよく、背筋もビシッとまっすぐだ。そのときばかりは、その容姿がまるで軍服を着ている姿に見えた。一瞬のことだが、とても長い時間だった。しかし、私の悪い予感は見事にはずれ、ニコニコ私を見ている校長先生。同席している先生方も、特別な感じはない。今の私なら、きっと当時のこと、当時の日本人と地元の人たちとの関係などきいただろう。でも、そのとき二十歳過ぎぐらいだった私は、当たり障りのなさそうな話をして、時間が過ぎたように思う。

この人たちは寛容なんだ。その寛容さは、「許す」ということも乗り越えたものだ。「ワタクシ、ニッポンゴ、ハナシマス」は、校長先生の私に対するちょっとしたサービス(または余興のようなもの)だった、ように思う。恨み辛みのようなものは全く感じられず、いつものホスピタリティでその後も接してくれた。

嫌だな戦争は。つくづく嫌だな。突然の異邦人をこれだけもてなしてくれている人たちに対して、一瞬とは言え、悪いことを予感し懐疑心まで持ってしまった自分が辛い。テーブルの上の海ぶどうのことなんか吹っ飛んだ。

海ぶどうがほとんど出てこない「海ぶどうの思い出」。でも、「海ぶどう」と聞くと、条件反射的にこのことが私の頭をよぎる。そしてもうひとつ、よぎることがあるので、それはこの次に。

2008年3月6日木曜日

生ワカメのしゃぶしゃぶ


本当は、前回の続きで「海ぶどうの思い出 〜 その3」のところなんですが、ちょうど今が旬のものがあるので、きょうは横道にそれてコッチの方を書きます・・・・生ワカメ。

毎年、この時期しか味わえない。私に春の訪れを知らせてくれる。その食感と繊細な味はもとより、淡い磯の香りがたまらない。そして、「ワカメは緑色ではない」ことを身をもって教えてくれ、その見事な緑への変身ぶりも楽しい、嬉しい。

上の写真の左が茹でる前の生ワカメ。茶褐色だ。こいつを軽く昆布で出汁をとった汁でしゃぶしゃぶし、ポン酢で食す。しゃぶしゃぶするとアッという間に、ご覧のとおり鮮やかな緑色に変身する。右の写真は湯気でややかすんで見えるが、その変身ぶりは見事の一言に尽きる。そしてバクバクたくさん食べられるのも嬉しい。

これに出会う前までは、ワカメは緑色と漠然と思っていた。見たことはなくとも、緑色のワカメが海の中でゆ〜らゆ〜らしていると。おそらく、子供のように絵を描かせると、ワカメを緑色に描いたに違いない私。だから最初にお目にかかったときは、色だけでなくその無骨とも言える容姿にちょっと驚いた。でも、現物を目の前にして、海の中をゆ〜らゆ〜らする姿を思い浮かべると、確かにコッチの茶褐色の方が似合う気がする。また市販の茹でた緑色のワカメは、たいがい使いやすいように細かくなっている。でも、元々はもっとでっかくて堂々としたものだ。知ってる人には当たり前のことだろうが、都会育ちの私にはとても新鮮だった。

この時期、2〜3度はこの生ワカメをしゃぶしゃぶする。基本は、シンプルに生ワカメだけど、ちょっとまだ寒い日には、湯豆腐とコラボしたりする。(ただ、鍋の昆布出汁の中に豆腐を入れるだけ) ポン酢でいけるし、アサツキ・紅葉おろし・おろし生姜などなどとともに、いろいろ楽しめる。ただ、ん〜、やっぱりこれは精進がいいかなと思う。鯛やイカ・タコなんかもおいしいと思うが、生臭さがまったくないところで、このときばかりはひたすら生ワカメを食したくなる。おいしい燗酒とともに。豆腐はそれに邪魔にならない、というだけ。それで何となく、新しい季節へ敬意を表しているつもりになる。

2008年2月6日水曜日

海ぶどうの思い出 〜 その2

アラミノスのおばあちゃんとの出会いだけで終わってしまった前のブログ。読み返したら、大事なことを書くのを忘れたことに気がついた。まだ海ぶどうのことではない。その煙草の吸い方だ。

1本の煙草をしばらく吸って、短くなった長さ3〜4cmぐらいの火のついた(くわえ)煙草を、起用に口と舌を動かして(手を使わずに)、フィルター側と火のついた側をひっくり返す。

と書いた。フィルター側を吸うのは至極当たり前。でも、火のついた側を吸うのはかなり特別でしょ。この説明を忘れた。まず、火のついた側を吸っても舌を火傷するようなことはない。もちろん、それにはかなりの熟練が必要だと思うが。 このおばあちゃん、要は煙を直接吸いたいのだ。そのへんのヘビースモーカーとは訳が違う。このあと、私も実際に試してみたが、それは両切りの煙草なんてもんじゃない。両切りの煙草の煙はフィルターはなくとも、煙は葉の詰まった煙草を通って冷やされる。煙を直接吸うとは、燃えて出た煙がそのまんま。かなり熱くキツイ。(危険かつ身体に悪いので絶対に真似をしないでください)それだけでも、このおばあちゃんの豪傑さを感じてもらえるだろうか。

さて、話の続きに戻る。
おばあちゃんと私は、海まで500mほどのところでバスを降りた。お迎えの人が待っていた。おばあちゃんの荷物をその人が持って3人で歩き始めると、おばあちゃんの説明が始まった。「ウチの旦那は、校長先生だ。そして先生も何人か一緒に暮らしてる」みたいな話。その家に着くと、広い敷地に平屋の家が3棟ぐらいあっただろうか。特別お金持ちには見えないが、緑も多く全てがきれいに整理整頓されてある、とても気持ちのいい家だった。エアコンはなくとも、風通しのいい中庭に人が集まれるように大きなテーブルが置いてある。着いたのは、午後3時か4時ぐらいだったと思う。お茶を頂きながら、おばあちゃんと話をしているうちにしばらくすると、子供たちによる炊事が始まった気配。そう、この家には5〜6人の子供たちも暮らしている。おばあちゃんに尋ねると、家が(学校から)遠い子供たちが、いわば下宿しているとのこと。この子たちは、この家の掃除・洗濯から炊事など全ての家事をやりながら、ここから学校へ通っている。そんな子供たちにおばあちゃんは、結構厳しい。「あそこが汚い。すぐに掃除しなさい」「この洗濯物、ちゃんと汚れが落ちてないじゃないか」。私にも、「この子ら、全く働きが悪い」などとぼやく。しかし私には「まぁまぁ、お手柔らかに」などと無責任なことは言えない。そうこうしているうちに、背筋の伸びた大柄な校長先生ご帰宅。そして、あとから先生方も到着し、夕食が始まった。昔の話だ。携帯電話などある由もない。私は、突然の異国からの客だが、それを特別驚かれることもない。「ん〜、(おばあちゃんが)バスの中で知り合ったんだ」ぐらい。しかし食事中の会話は、日本の教育から始まっていろいろ盛り上がった。毎晩何時間も話した記憶がある。そうなんです、あまりの居心地のよさに、私はこの家に3日ぐらい泊めてもらったのです。

その毎晩の夕食時に必ずテーブルの上にあったのが、何を隠そう「海ぶどう」。初めてだった。「これは何ですか?」と尋ねると、「seaweed(海藻)」という答え。今思うと、あんなにおいしい海ぶどうは、これまでで最初にして最後だ。粒が大きく、口の中でプチっとはじける食感、粒の中からあふれるトロッとした濃厚な汁。そしてちょうどよくからまった海水がいわば調味料。たまらない。最初に「seeweed」と聞いたけど、それが海藻とはにわかに信じられなかったので、辞書をひいて他に意味がないか確認したりもした。しかし、私の感動は、ここの家の人たちには通じない。その海ぶどうは、大きな皿にこんもりと無造作に盛られていて、ここの人たちにとっては、何も特別なものではない。そうだな、日本で言えばキャベツの千切りが山盛りもってあるぐらいの感じ。食事が終わると、だいたい余る。そしてそれは捨てられ、翌日には新しいこんもり。食べても感じるが、これはまずは新鮮さが第一だ。思えば、「海ぶどう」と称されたものを、ここ東京でも何度か食べた。たぶん、海ぶどうも種類があるのだろうが、アラミノスの海ぶどうとは天と地の違いだ。日本なら、沖縄になるのだろう、それは間違いなく、沖縄で採れたてのものを食べないといけない。沖縄には行ったことがない。海ぶどうを食べに、沖縄に行くか。もう私のことを憶えている人は誰もいないだろうアラミノスを再び訪れるか。アラミノスを去ってから、2〜3年は手紙を書いた。ありがたく返事もときどきくれた。

とまぁ、やっとこさ「海ぶどう」にたどり着いた。知人からは、「オマエは、話が長い」とよく言われる。自他共に認める「話が長い」。長いついでに、もう少し、このアラミノスの家でのことを書きたい。それは次に。

2008年1月31日木曜日

海ぶどうの思い出 〜 その1


昨日、ある沖縄料理店にランチを食べに行ったら、「海ぶどう丼」というメニューがあり、思わず頼んでしまった。それがこの写真である。海ぶどうとともにタンザクに切ったスパム(ランチョンミート)が散りばめてある。これに醤油ベースのやや甘いソースをかけて食べるのだが、「冬場は、海ぶどうの粒が小さいから、夏場に比べるとイマイチかも」とは、店主の談。でも、この海ぶどう。私には忘れられない思い出がある。

昔、二十歳過ぎぐらいの頃、フィリピンを1ヶ月ほど旅をしたことがある。私は、マニラからバスに乗って、アラミノスという町に着いた。アラミノスは、日本の松島のように沖合に島が点々とあり、風光明媚な観光地でもある。アラミノスのバスターミナルに着いた私は、海辺を目指して、ローカルバスに乗り換えた。運よく、2人掛けの椅子の片方に空席を見つけた私は、隣の席のおばあちゃんに声をかけ、座った。年の頃、70歳ぐらいだろうか。煙草を吹かしている。もう20数年前のことなので、今は分からないが、当時のフィリピンのローカルバスは、喫煙なんて当たり前。窓ガラスはあったかどうか憶えていない。そのおばあちゃん、煙草を吸うのはいいとして、その吸い方がスゴイ。1本の煙草をしばらく吸って、短くなった長さ3〜4cmぐらいの火のついた(くわえ)煙草を、起用に口と舌を動かして(手を使わずに)、フィルター側と火のついた側をひっくり返す。分かります?(危険ですから真似しないでください) 度肝を抜かれた私は、驚きを隠しながら横目で見てるのだが、それを何度も何本もするので、見間違えでは決してない。かなりのヘビースモーカーだ。そして、バスが出発して10分ぐらいを過ぎた頃、思わず話かけた。「その吸い方スゴイですね。こんなの初めて見た」。フィリピンは田舎でもかなり英語が通じる。小柄だが貫禄たっぷりのおばあちゃんは、この言葉をキッカケに、早口でまくしたてた。「そうか、お前さんは日本から来たのか」みたいな話だったと思うが、何しろこれが縁で、その日は海に近いこのおばあちゃんの家に泊めてもらうことになった。

閑話休題。

キッカケは、海ぶどう丼。タイトルどおり、海ぶどうの話を書こうと思って書き始めたが、なかなか本題にたどり着けない。この続きは、また改めて。