2008年3月28日金曜日

海ぶどうの思い出 〜 その3

さて今回は、「海ぶどうの思い出 〜 その2」の続き。フィリピンはルソン島の北西部に位置する、アラミノスの話に戻る。

3日間居候させてもらったその家で、夕食時の会話が盛り上がった、ということを「その2」で書いた。校長先生夫妻や学校の先生たちに囲まれての会話なので、まずは教育関係や学校制度の話で始まったことは憶えている。何せ、今から25年も前のことなので、その詳しい内容は忘れた。しかし、ひとつだけ、強烈に忘れられないことがある。たぶん、居候も2日経ってお互いに慣れてきた3日目ぐらいの夕食時、校長先生が椅子からオモムロに立ち上がり、直立不動で私に向かって、言った。

「ワタクシ、ニッポンゴ、ハナシマス」

その瞬間、私は身動きがとれず、背筋にスゥーっと冷たい風が通った。軍隊である。それは明らかに旧日本軍の誰かから教わった口調だった。私は、戦後生まれだから、その戦争のことは直接知らない。しかし、その一瞬、冷凍保存された戦争が、一気に解凍されて私の目の前にドスンと置かれた。私は、どう反応してよいやら全く分からず、困った。すると、おばあちゃんが「この人は、昔日本人に日本語を習っていたんだよ。今じゃずいぶん忘れちゃったみたいだけど」と助け船を出してくれた。私は、「そ、そうですか」とやっと言葉が口から出た。

私の背筋を通った冷たい風は、いったい何だったんだろう。それは悪い予感だった。この校長先生やその周辺の人たちは、昔日本人からひどいことをされたんじゃないだろうか。最悪のことを考えると、私は同じ日本人ということで、この人にその仕返しをされるんじゃないだろうか。そして、それはそうされても仕方ないんじゃないだろうか。そんなような思いが、その言葉を聞いた瞬間、私の中で駆け抜けた。

その校長先生は身の丈が180cmは楽に超えていて体格もよく、背筋もビシッとまっすぐだ。そのときばかりは、その容姿がまるで軍服を着ている姿に見えた。一瞬のことだが、とても長い時間だった。しかし、私の悪い予感は見事にはずれ、ニコニコ私を見ている校長先生。同席している先生方も、特別な感じはない。今の私なら、きっと当時のこと、当時の日本人と地元の人たちとの関係などきいただろう。でも、そのとき二十歳過ぎぐらいだった私は、当たり障りのなさそうな話をして、時間が過ぎたように思う。

この人たちは寛容なんだ。その寛容さは、「許す」ということも乗り越えたものだ。「ワタクシ、ニッポンゴ、ハナシマス」は、校長先生の私に対するちょっとしたサービス(または余興のようなもの)だった、ように思う。恨み辛みのようなものは全く感じられず、いつものホスピタリティでその後も接してくれた。

嫌だな戦争は。つくづく嫌だな。突然の異邦人をこれだけもてなしてくれている人たちに対して、一瞬とは言え、悪いことを予感し懐疑心まで持ってしまった自分が辛い。テーブルの上の海ぶどうのことなんか吹っ飛んだ。

海ぶどうがほとんど出てこない「海ぶどうの思い出」。でも、「海ぶどう」と聞くと、条件反射的にこのことが私の頭をよぎる。そしてもうひとつ、よぎることがあるので、それはこの次に。

0 件のコメント: