2014年11月14日金曜日

「魂を純粋にする」ということ

先のエントリに続き、インドのお話。きょうは、神様ではなく、私がインドを旅していたときの思い出。30年近経った今でも忘れられない思い出のうちの一つを書きたいと思う。

1987年の11月、私は初めてインドの地に立った。その町はカルカッタ(今はコルカタと呼ばれている)。あてのない旅だったので、カルカッタから海岸線を南下し、インド半島の先っちょまで行こうと思った。「カルカッタから海岸線を南下」というと、ほとんどの旅行者は、プーリー(Puri)という町を目指す。しかし、アマノジャクの私は、

「そんな(インド人を含む)旅行者がみんな行くようなところじゃなくて、普通の暮らしのある、普通の町に行ってみよう。何せ、私はインドのことは全く分かってないのだから」

と、ちょうどカルカッタとプーリーの中間にある、海辺にある普通の(特に有名な寺院や観光地のない)小さな町、バラソール(Balasore)という駅に降り立った。

いざ着いてみると、さすがに人気(ひとけ)のない駅で、どうしようかと思ったが、まずは泊まるところを見つけないといけない。とりあえず海の方向へ歩き出した。後から思えば、偶然に近いことだったが、看板に“Hoel”という言葉はなかったものの、“tourism”のような英語の言葉があったので、少なくとも泊まるところのことを教えてくれそうな雰囲気の家を見つけた。そして、その門を叩いた。

すると、30代ぐらいの女性と子供が数人やってきた。が、言葉の問題があった。この辺りはオリッサ州で、言葉はオリッサ語(ウーリア)。おそらくベンガル語とヒンズー語の間ぐらいの言葉だった。英語は通じない。インドに来る前、「かつてインドはイギリスの植民地だったから、英語は結構通じる」と聞いていたが、時と場合によった。でも、私はいかにも旅行者に見えるし、身振り手振りで泊まるところを探していることは分かってもらえた。そして、どうもここに泊まらせてくれそうな雰囲気になり、門の中に入れてくれた。

やや不安も残っていたので、次には、宿代を確認することで、泊まれることを確かめねばと思った。最初、アラビア数字は分かるだろうと高をくくっていたが、紙に123と書いても伝わらなかった。このあたりはデバーナガリー文字を使うので、その文字の数字でないと通じなかった。そこでまず思いついたのは、財布の中からお金を出して、金額を教えてもらう方法だったが、何となくそれでは失礼な気がして躊躇してたら、私は別の方法を思いついた。

庭に転がっている小石を集め、まず地面に1個置き、その隣に2個の列、そのまた隣に3個の列、4個の列、・・・・と、10までの列を並べた。インドの通貨・ルピーを見て、十進法であることは確かだったからだ。

そしたら、子供たちは喜んだ。「あ、それはエーク(1)」、「それはドー(2)」と、次々と数字が分かり、ついには宿代まで判明した。子供たちは、私が言葉を知りたがっているのが分かると、私がジェスチャーする行為(食べる・トイレするなど)や、指さした物の名前なども次々と教えてくえた。見知らぬ土地で、言葉も通じなかったが、それ故に、それはとても楽しい時間だった。

心に余裕を持てた私は、海辺まで散歩に行き、日没前にその家に帰ってきた。日が暮れると、食事を持ってきてくれた。周りにレストランはないし、「腹が減ること」は当然だと思ってくれていた。私にとっては、何とも言えぬ、快適さがあった。

そして、さぁ今夜はもう寝ようとしていた、夜9時頃。私のいた部屋のドアがノックされた。誰かと思うと、その家のご主人(男性)だった。40歳ぐらいだったか。驚いたことに、何と、とても丁寧な英語で語りかけてくれた。

「いや〜、いろいろと不自由をおかけして申し訳ない。私が家主です。私は外に仕事に出ていて、きょうは遅くなってしまい、さっき帰宅したところなんです。あなたはどちらの方ですか? こうして私の家に泊まりに来たのも何かの縁。私は、あなたと話をしないとなりません」

と、彼が話し始めたのがキッカケで、おそらく1時間ぐらい、私たちは会話をしたと思う。残念ながら、その詳細は憶えていない。しかし、とても強烈に憶えていて忘れられないことがある。

それは私が会話の中で質問をすると、どんな質問にも彼は必ず、

“It's to purify the (or your) soul.”
「それは、魂を純粋にすることです」

と答えたことだ。
若かりし私は、その意味が全く分からなかった。例えば、「魂を純粋にすることって、どういうことですか?」ときいても、「それは、魂を純粋にすることです」と、彼は答えた。そして私は当惑した。誤解しないでもらいたい。彼は決して悪ふざけてしているのではなく、非常に誠実で真剣な答えと、私は感じていたことを。

翌朝、私はその家を発ち、駅へ向かった。

“to purify the soul”
「魂を純粋にすること」

それから私の5年に及ぶ旅は始まった。最初から5年と思っていた訳ではない。漠然と「1年ぐらい」と思って出発した旅だった。そして、あれから27年経った今、私は、「魂を純粋にすること」の意味を理解しかけているように感じている。

例えば、このブログの左側のプロフィール欄に、下記のコメントがある。

「好きなこと、とことんやりましょ。ただし、無理をしてはいけません。無理と思ったら待ちましょ。無理でなくなるまで待ち続けられるぐらい好きなこと、とことんやりましょ」

このコメントは、「魂を純粋にすること」から説明すると、「自分(の純粋な魂)の声に従いましょう」だ。純粋な魂とは究極的に自分が望んでいること、というのが私の理解。しかし、そのためには雑音のない純粋な魂の声を聞くことが必要になるが、とても難しい。難しいからこそ、例えば、「無理でなくなるまで待ち続けられるぐらい」をフィルターにすることで、より純粋な魂の声に近づくことが出来るのではないかと言いたいのだ。純粋な魂は待って変わるようなことはないと思っている。

また、いったん「自分の魂の声は、これだ」と思っても、誤解していることだってしばしばある。しかし、それが誤解と分かることによって、魂の声(自分の好きなこと)に一歩近づくことにもなるのだから、続けていけば少しずつ近づくことになるのだ。

「魂を純粋にすること」

インドの片田舎、Barasoreでその言葉を聞いたときは、皆目その意味を感じ取れなかった。しかし、何年もの時を経ていくうち、徐々に徐々に私の心に浸透し、今では、それを旨とすることが、私の心の支えになっている。あの日、ドアをノックしてくれたあの家のご主人始めご家族の方々には、どうやって感謝したらいいのだろう? 全く途方に暮れる。

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