2010年10月15日金曜日

「生物多様性」という思想


上の写真は数年前の11月、京都の大原あたりで撮ったもの。「これが鈴なり」って言ってる柿の木があまりに見事だったんで。背景の稜線の柔らかさも、私はこの地方らしく感じる。

さて、前回の投稿の続きです。

「どーもモヤモヤが晴れない」

この遺伝子組み換え作物(GM作物)の問題を考えると、私は必ずモヤモヤが残るのだ。それは、一番の論点である「危険性/安全性」がハッキリしないことだ。

GM作物の賛成派は、農業試験場などで十分に検討した結果、生態系、種の保存なども含め「大丈夫」だと言う。これに対し、反対派は、たかだか数年の実験などで「十分な検討」とは言えない。隔離された試験場内でそれも数世代だけの試験。自然界では想像もつかない交配もあり得るし、世代も例えば50年後、100年後のことなど、「大丈夫」などと誰が分かるものかと反論する。

反対派の主張を続けよう。

ブラックバスなどでも在来種と外来種の問題があるけど、もしも強力な除草剤や農薬に負けない組み換えられた遺伝子を持つ植物があちこちに生え始めたら、ブラックバスのようにとてもコントロールできなくなる。事実すでに「スーパー雑草」と呼ばれる除草剤の効かない植物が生え始めている。GM作物の広がりはその傾向をさらに進ませ、「とりかえしのつかないこと」になる。

「とりかえしのつかないこと」を想像すると、それはそれは恐ろしい。仮に、「GMナタネと在来種のナタネがある複雑な条件下で交配してできたナタネは、人体にも悪影響を及ぼす」としたら。そしてそのGMナタネの遺伝子を持つナタネはどんな除草剤も効かず加速度的に日本全国に広まるとしたら・・・・と、もしもうこうなると公害だ。

もしかしたらGM作物の「危険性/安全性」は、ハッキリしないと言うより、そもそもハッキリできないものなのではないか。もしそうなら、それはもう感覚の問題なんじゃないか。個人個人の感覚という意味だ。例えば「特別(科学的な)根拠はないけど、イヤな気がする」ぐらいも含めて。昔から、特に第一次産業では、感覚的に決められた「限度」があって、それを超えたことはしてはいけない、みたいなことがあると思う。里山の習慣もしかり。「遺伝子組み換え」とは、感覚的にその限度を超えているような気がしてならない。私がGM作物の反対派な理由も結局はそれだ。物事には何でも限度があるが、その限度は超えたときに初めてハッキリする・・・・なんてシナリオはイヤなのだ。だから現状を考えても、せめて最小限にしといた方がいいんじゃないの〜という気持ちになる。

だいたいひとつの便利な「種」だけが生き残るような世界(または畑)は感覚的に異常にうつる。「生物多様性」とは主に自然界全体のことを示すのだろうが、身近な人間社会でも同じだ。人間社会でも「人間多様性」というか「いろんな人間がいる」からこそ、人間社会が成り立っているように思える。いつもグータラでもいざいというときは頼りがいのある人、人と話すのは苦手だけど知識だけはやたらと豊富な人、どんな人でも何かしらの意味があるものだ。もちろん生態系は人間社会のずっと上位に位置し、その恩恵でもって人間は生きている、生きさせてもらっている。

また私は特に宗教に属してないが、神様、またはそのようなものの存在は信じている。「GM作物は自然界の交配では生まれてこない」。この「自然界の交配」を「神様の仕業」だとすると、遺伝子組み換えは神様に逆らっていることになりはしないか。

そう思うと、「生物多様性」を重んじるというのはひとつの思想なんじゃないかという気がしてくる。思想だから、それは正しいとか間違っているとかの問題じゃないし、強制力も持たない。ただ個人の感覚として、「これはこう思う」というのがあり、同じように思う人がある程度いればそれはひとつの思想なんじゃないかと。

先の投稿で、「私は、GM作物の問題について特別詳しくない私がそれなりに考えることも意味があるのでは・・・」と書いた。詳しくはなくとも「個人の感覚」はある。そしてその「危険性/安全性」が感覚的な問題だとしたら、これは大いに言わないと、と思ったのだ。

ところで、名古屋のMOP5は、「名古屋・クアラルンプール補足議定書」という形で、ある程度の成果を得たようだ。(以下、10月11日付け“YOMIURI ONLINE”から抜粋)

補償の対象範囲は「遺伝子組み換え生物」と簡潔に表現することで折り合った。食用油や飼料などの加工品は対象から除外されることが明確になり、日本の担当者は「日本の主張通りになった」と話した。

何となく、「日本の現状を否定しない内容に落ち着いてよかった」というお役人的な雰囲気も感じなくもないけど。この「補足」議定書の元は「カルタヘナ議定書」。これは言葉にすると難しくなるけど、一応、「生物多様性の保全や持続可能な利用に対する悪影響を防止するため、遺伝子組換え生物(LMO)の国境を超える移送、利用等において講じるべき措置について規定したもの」となっている。

この「カルタヘナ議定書」の160の締約国にアメリカは入っていない。これって温室効果ガス(CO2など)の削減を謳った京都議定書にアメリカが入ってない(抜けたのかな?)のとそっくり。世界で一番GM作物を作っている国、そして世界で一番車が多い国。その国がルール作りを話し合うテーブルにつかない。外交とはギブアンドテイクだと言う人がいた。何かを得ないと何かを譲れない。大きな国にこそ、その大きな懐を見せてもらいたいのに。頑張れ「グリーン・ニューディール」。経済的な国益優先という考え方も、人間社会の多様性の一部分ということか。アメリカの一般市民はどう思っているのだろう。

そんなアメリカの農業の規模は、ご存じのとおり、ひたすらデカイ。このGM作物の問題、日本の農業の規模を考えるととても同じ視点では考えられない気がするけど、どうなんだろう? ん〜、また長くなってしまいました。それはまたこの次に。

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