2011年4月18日月曜日

エネルギー政策以前に

先のエントリの続き。

「原発から段階的に再生可能エネルギーに転換すればいい」

誰でも考えることだが、なかなかそうはならない現実がある。何十年もやってきた原子力発電だから、関係者には既得権のようなものもあろうが、ここではそういうことじゃなく、民意としての現実を考えてみたい。

しばしば記者会見に登場してくる「原子力安全・保安院」は、経済産業省の管轄。そもそも経済産業省とは、日本経済の発展を図ることが目的。「原子力安全・保安院」は「経済発展には原発推進が必要」という国の方針の下に存在している。だから、東京電力も含め事態を過小評価する傾向にある。

過小評価を感じたら、本当は厚生労働省や環境省、農林水産省には怒ってもらいたい。ただそれらの省は原発の管理には関わってないだろうし、そもそも国の方針が「経済発展には原発推進が必要」だから、結局は「原子力安全・保安院」の会見が表紙になっているというのが現状なんだろう。

ただ、「原発推進&経済発展」セットの前提は、あくまで「事故は起きない」だ。でも起きたのだからそれはもう経済の問題というより、まずは健康(厚生労働省)、環境(環境省)、農水産業(農林水産省)の問題のハズだ。

このゆがんで見える光景は、日本がこれまでいかに経済優先で来たかを示しているように思う。戦後の経済発展は日本人のモノの豊かさに直結していた。多くの政策も、「経済発展=国民の幸せ」という基本方程式の下にあったと思う。そしてここ20年ほどの日本経済の低調さ、「出口の見えない不況」と言われた状況は、現実とその方程式がかみ合ってなかったことを意味していたように思う。

「カネはたくさんある方がいい」
「簡単・便利な方がいい」

この2つの心理が原動力になって、今まで経済やテクノロジーが発展してきたと思う。すごく単純で当たり前のことのようだけど、本当は「カネや便利さは適度なのがいい」。人類の最大の弱点は、この「適度」の判断(足を知る)が下手なことだと思う。カネや便利さはときに小さな幸せをもたらせてくれることがあるが、安心・健康のような大きな幸せとは別次元だ。人間はいろんなことが出来るようになった分、「適度」がより複雑で分かりにくくなり、目先の幸せしか見えなくなってきたんじゃなかろうか。だから例えばGDPを指標にする。GDPだけを見れば、たくさんカネを稼いで、たくさん電気を使って、たくさんモノを作って、たくさんモノを買って、たくさんモノを捨て、そしてまたたくさんカネを稼ぐ。という循環がいいことであり、それを好景気と呼ぶ。

その「適度」を失ったところの象徴が原子力発電のように思えてならない。

「原発から段階的に再生可能エネルギーに転換すればいい」

先のエントリ(再生可能エネルギー転換とその痛み)でも書いたが、再生可能エネルギーへの転換は「痛み」をともなう。つまり「カネはたくさんある方がいい」「簡単・便利な方がいい」の心理に逆らう「痛み」とのセットだ。

または全国に散在している原発をそれほど危険と感じずにその「痛み」を避けるか。原発事故は周知のとおりだが、たとえ事故がなくても、目に見えず臭いもしない、そして何万年も土深く埋めておかねばならないほどの放射能の危険とセットの原子力発電。

どちらにしても、個人個人の覚悟が必要だ。

最後に、先日政府が組織した、東日本大震災復興構想会議。この委員の一人(特別顧問)、梅原猛氏が会議後、記者団に語った言葉がある。

「原発問題を考えずにこの会議は意味がない。近代文明は原発を前提としており、文明そのものが問われている。私は原発を廃止した方がいいと考えているが、(原発容認派と)双方の意見を聞くべきだ」(時事ドットコム「委員の会議後の発言=復興構想会議」より)

つまり、今は「文明の曲がり角」なんだと。人類は来るところまで来てしまったのかも知れない。そのぐらいのことだと、本当に思う。

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