2017年5月25日木曜日

「道」

この写真は、私が作る「カンホアの塩」の塩田へと向かう道。(ベトナム・カンホア)
この先の左に水色の平屋の家屋が2つあるのが分かるだろうか。右側のは倉庫、左側のは検品など作業屋舎。写真では見えないが、その周りに「カンホアの塩」の専用塩田がある。一週間前、ここにいた。

この道の左右には水が張ってあるように見えるが、これは現地の塩田。

この塩田地帯は広いので、移動はもっぱらオートバイだ。こうした道をオートバイで走っているとき、いつも考えていることがある。

「どこを通って行こうかな」

写真ではあまり分からないが、この辺りの土の道は結構起伏がある。トラックなど車も通るので、ところどころ轍(わだち)にもなっている。また、乾いた土・砂が吹きだまっているようなところもあるし、小さな橋、そしてときどき大きな石もある。

このときもそうだったが、オートバイの後ろに人を乗せているときは、特に気を使うことになる。ここに通い始めて20年近くなるが、一度、パンクしたこともあるし、何度か砂にはまって転びそうになったこともある。

どこを通れば一番すんなり通れるかは、そのときそのときの状況で違うから、「どこを通って行こうかな」と、少し先の道の状態を見ながら、進むコースのイメージを描きながら走る。

先週、そんなこと思いながら走っていたら、これは人が生きていくことのミニチュアのように思え、この道の写真を撮りたくなった。オートバイをいったん停めて、カメラのシャッターを押した。

きっと人の数だけ道もある。私の場合はこの道ということだ。どこを通ろうと自由だが、選択を誤ると、パンクしたり転んだりすることもある。ガソリンがちゃんと入ってないとオートバイを降りなきゃいけなくなる。目の前の道の状態だけに気を取られると、その先は悪路だったりすることもあるので、なるべく遠くを見ながら、目の前も視野に入れて走るのがいい。かといって、いつも失敗をせずに通れることはない。具体的な失敗の経験こそ、新たに進むときの糧になる。しかしながら、どこを通っても、結局は自分の進む道は目の前にある道しかない。

そんなこと思って写真の道を走っていたら、フェデリコ・フェリーニの「道」を思い出した。続けて、ジャック・ケルアックの「路上(オン・ザ・ロード)」。どちらの主人公も、運命的とも思える人生を歩んでいて、どこに辿り着くのかは不確かだが、その不確かな中を生き抜くことが現実なのだ。不確かだからと、つい確かにしたくなるのが人情だが、それこそが現実の歪曲(誤りまたは偽り)の始まりだと思う。

もう数百回は通った道を走っていて、初めて思ったことだった。

2 件のコメント:

くにこ さんのコメント...

はじめまして、最近はじめてカンホアの塩を
買いました。美味しいです。
こんな綺麗なところで作られているのですね。
嬉しくなり、コメントさせていただきました。

下条剛史 さんのコメント...

> くにこ さんへ

コメントありがとうございます。
natural salt cafe店長の下条です。

「こんな綺麗なところ」とは、この道の写真のことですか?
私がここに通い始めたのが19年前ですが、この風景はほとんど変わってないですね。
今の私には麻痺してしまった風景ですが、思えば19年前は、のんびりとして開放的で特別な風景に感じていたことを思い出しました。

「美味しいです」

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