2025年9月10日水曜日

思い違いの「美しさ」

映画「国宝」、坂東玉三郎がモデルと聞いて、興味が湧いて観に行った。

序盤で、長崎で幅を利かすヤクザの親分が登場し、玉三郎はその息子。背中いっぱいに大きなフクロウだかミミズクの入れ墨を十代半ばぐらいに入れてて、その入れ墨が、その後もシンボリックに描かれている。

「へー、玉三郎って長崎出身で、ヤクザの息子で、背中にでっかい入れ墨入れてんだ」

と、観ててちょっと驚いたが、後から調べてみると、それらは全てフィクションとのこと。だから、「坂東玉三郎がモデル」は私の早とちりで、他の部分も含めて、玉三郎の半生を描いたというものではなく、「玉三郎を連想させる」ぐらいの原作の小説があっての映画みたいだ。夜8時からの3時間の上映だったので、眠くなるのが心配だったが、全くの杞憂。見応え十分のエンタメでした。

さて、40年ぐらい前、銀座の歌舞伎座で、玉三郎一人の舞(まい)の幕(無論下座音楽はアリ)を観たことがある。一幕見で、長い階段を上った三階席の奥から観てたのだけど、30分ぐらいのその幕で、連続したその動き・所作・表情はもちろん、指先・足先まで行き届いたその舞を観て、「こんな美しさがあるのか」と驚いた。ジェンダー的に、性別を言うのも変だけど、当時二十歳そこそこの私にとって、それは「女性に感じたことのない、女性の美しさ」だった。それが今でも忘れられない。

そして不思議なことに、私の中の、その舞の記憶は、舞台に向かって花道の左側の客席から、花道で舞っている黒っぽい着物を纏った玉三郎を見上げるように観ていたものとして残っている。歌舞伎を一幕見でしか観たことがない人間が、花道脇から観た記憶がある訳がない。後から、寝てる間に見た夢の記憶と入れ違ってしまったのだろうか。

でも、でもです。まぁ、これはこれでいいかと思ってる。一番遠い一幕見の席から、その舞に吸い込まれるように観ていた私は、まるで花道脇から観ていたかのような錯覚に囚われ、その錯覚が現実にまさって、あたかも花道脇から観ていたように記憶されたのかも知れない。そうだとすると、それはそれでいいんじゃないかと思えるのだ。いずれにせよ、私の中で、その40年前の、その舞の「美しさ」は変わらない。

調べてみると、今や玉三郎さんご自身は公演をされておらず、若手へ役を継承しているとのこと。もう生(なま)で観るのは難しそうだ。「国宝」は映画として楽しめたが、それがキッカケで、(玉三郎でなくても)歌舞伎に興味を持った方には、「生は全然違いますよ」と言いたい。たとえ一幕見でも。