2012年6月25日月曜日
「早い・便利」のハードル
最近、よく思うことがある。
ネットやハイテク機器とともに、待つことが少なくなったなー、と。
amazonで本を注文すると次の日、早いときはその日に届いたりする。「スゴイなー」と思う。でも、問題なのは、3日後に着くようなのは「遅い」と感じたりすることだ。「遅い」は不快につながる。昔は、近所の本屋で目当ての本がないと、その場で注文した。本屋からの電話を待った2週間ぐらいは、決して悪い時間じゃなかった。
最近のエレベーターのスピードは昔に比べ格段に速くなっている。でも、エレベーターを待つ時間は昔より長く感じることがある。おかしい。標準的な待ち時間が短くなったのはいいが、標準を下回ると、ただちに遅く感じるのだ。
私の会社は東京のはずれにある。電車を使ってときどき都心へ行くが、必ずと言っていいほど、乗る電車をあらかじめネットで調べる。効率のいい乗り継ぎを調べ、待ち時間や到着までの時間は短くなった。でも考えてみると、ネットで調べる手間や時間は増えたし、事前に調べないで電車に乗ることがやや不安にさえ思うときもある。こんなこと考えもしなかった昔は、最寄りの駅の時刻表があれば、あとは勘に頼って十分と思っていた。
あげればキリがない。
「遅い・不便」と感じるのは嫌なものだ。「早い・便利」になると嬉しい。しかし、その「早い・便利」を、現実的にずぅっーと「早い・便利」と感じ続けることは難しい。「早い・便利」はやがて当たり前になり、その当たり前から少しずれると「遅い・不便」と感じ、不快になったりする。
ほとんどの「早い・便利」は後退しない。ハードルは、時代とともにどんどん高くなっていく。どんどん高くなることで、嬉しさを感じるレベルもどんどん高くなる。これを必然と言う人もいよう。しかし、あまりに嬉しさのハードルが高くなって、私が越えられない高さになってしまわないか、ふと心配になることがある。
「もーいーよ。十分早いし、十分便利だよ」
と言ったところで、誰も聞いてくれないだろうな。
「足(たる)を知る」と言うけれど、残念ながら私には、個人プレーだけで越えられる自信はない。
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