2016年12月16日金曜日

ベトナム人で、日本を想う

 外国に行くと、「日本(の特異なところ)が見えてくる」なんてことが、よく言われる。私自身の経験からしても、それは本当にそう思う。これは、普段、「当たり前」と(空気のように)意識もしていないことが、外国へ行くと「当たり前」でも何でもないことに気がつき、「あれー」となって、「日本の特異なところ」として認識する、というようなことだと思う。いい意味でも悪い意味でも。それは外国人が日本に来ても同じこと。外国に行かずとも、それを感じた外国人と接っすると、それを経験できるときがある。

先のエントリで、ベトナム人の知人と、一週間日本旅行したことを書いた。

京都の町をタクシーで走っていると、「あれー、道路にゴミが落ちてない」とベトナム人は驚く。たしかに、ベトナムの町にはゴミが散らかっている。夜になると、人々は、ポリ袋に入ったゴミをポンと道路に捨てる。何度かそんな光景をを見た私は、最初は「ん?」と、思ったものだ。それから何年かして、夜中に車でベトナムの町を走っていると、すっかり道路のゴミがなくなっていて、驚いたことがあった。もう少し走ったら、その訳が分かった。その先で、清掃車が道路のゴミを回収しながら走っていた。

ベトナムの町では、日本のようなゴミ捨て場がない。人々はどこにゴミを捨てるかというと、大きな道路なのだ。いわば大きな道路は、公のゴミ捨て場なのだ。そこにもちょっとしたマナーがある。真夜中の回収がしやすいように、ポリ袋などに入れて、道路の端に、夜寝る前などに、ゴミを捨てる。だから、朝は道路がキレイになっているのだが、それまでは景観はあまりよくないかも知れない。でも、そのシステムを知ってからは、これはこれで効率的なゴミ回収システムだと思った。人通りが多い真っ昼間にはあまりゴミを捨てないが、捨てるときもあろう。そんな緩〜いシステムなのだ。この緩さ故に、ベトナムの南国的なおおらかさがあるのだと思う。また、粗大ゴミなどのリユース・リサイクルは促される。

さて、一週間の日本旅行に話しを戻そう。京都から東京に移動した私たちは、東京の町をタクシーで走っていた。するとそのベトナム人は、「あれ、京都では道路にゴミが落ちてなかったが、東京は落ちているな。これはどうしてだ?」と質問した。窓の外を見ると、イチョウなど色づいた街路樹の葉が道路の端に吹きだまっていた。11月半ば過ぎのことだ。「京都では、あまり風がなかったけど、東京では夕べ強い風が吹いたでしょ。それで木の葉が落ちただけだよ」と、当たり前のような答えをしたが、それに納得する様子もなく、「京都の方がきれい好きだ」と思ったようだった。落ち葉はこの季節の風情に感じるが、考えてみると、熱帯のベトナムでは秋になって葉が落ちるということはないのだ。

我が家に来たときも似たようなことがあった。すっかり葉が落ちて草花も静かになった庭(冒頭の写真)を見て、「もっと、こんもり植木を植えた方がいい。これじゃあまりに寂しい庭だ」とアドバイスをくれた。「いや〜、もう冬だからね。今はこのぐらいがいいと思っているんだけど・・・・」と答えたが、その意味は伝わったのかは分からない。松の木や椿はないので、たしかに寂しいかも知れないが、晩秋の枯れかけの小菊や真っ赤な葉が何枚か残ってたブルーベリーの木など、量からすれば少しだけど、この季節なりの表情は見せてくれている。私にとっては、それもまたこの季節の趣なのだが、こういったことを一週間の滞在で分かってもらうのは難しいことだと思った。「これでも春から夏の草取りは大変なんだよ」と言えばよかったか。

「東京のエスカレータは、左側に立ってね」、「日本の町中では、煙草はどこでも吸えないよ」、「車は左側通行だから、道を渡るときは、右から見てね(ベトナムは右側通行)」などなどは、一言で説明がつくが、食べ物を含んだ季節感については、説明が難しい。

四季の中で暮らしている人間は、知らず知らずのうちに、それなりの感覚が根付いているんだなあ。それは雨期と乾期の熱帯の人たちに根付いている感覚があるのと同じように。そう思うと、まだまだ私が知らないベトナムのことがたくさんあるように思えた。

きっと、広く、人と人の間の誤解なんて、こんなことなんじゃないかと思う。

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