40年ぐらい前(高校生から二十歳過ぎぐらいまで)、神保町界隈をよく歩いた。当時このあたりは、本屋はもちろん、楽器店、スキー用具店、登山用具店(今で言うところの、キャンプ・トレッキング用具店)などが軒を並べていたためだ。また隣町の秋葉原には、大小のオーディオ店がたくさんあって、レコードは、石丸電気2号館(または本館)が、当時日本で一番の品揃えだったと思う。本やレコードはたまに買ったが、それら以外は高価なのでほとんどが下見。買う場合は、数回の下見は欠かさず、結局、買わないことさえあった。そんな神保町界隈を私は楽しんだ。そして、歩いていれば腹は減る。元々学生街だったから、多くの「安くてしっかり食べられる飲食店」があった。そしてそれらは今でもある。
昨日は、たまたま昼頃に飯田橋での用事が終わって、さて昼飯と思った際、ふと神保町の「いもや」に行きたくなった。ほとんど40年ぶり。昔のおぼろげな記憶だと、神保町の交差点を水道橋方面に向かって左側の路地を入ったところにあったと思ったのだけど、検索してみると、右側の路地を入ったところだった。ちょっと気になったので、ネットで調べてみると、「いもや」は、創業者の店からのれん分けで、天丼・天ぷら・とんかつと、数店舗あったらしく、その後それらの店は次々となくなっていき、今は、「天ぷら いもや(神保町)」と「とんかつ いもや(馬喰町)」の2店舗だけらしい。当時の私は、そういったことはほとんど気にしておらず、ただ「おいしいものを腹一杯食べたい〜」というモチベーションの下、あちこちで食べていた。
さて、40年越しの再訪。厳密には当時と違っていたかも知れないが、店の雰囲気は変わってない。寿司屋のような白木のカウンターの中で、年配のご夫婦が中心となって、次から次へと入ってくる客に対応していた。天ぷら定食、750円也。猛暑の中、ミョウガを欲し、オプションで付けてもらってプラス100円。もうボリュームたっぷりなことは分かりきっていたので、「ご飯は軽く」。ちなみに、ここは食事のための天ぷらなので、アルコール類は置いていない。
最小限の言葉で、黙々と天ぷらを揚げ続けるご主人。そのタイミングに合わせて、お茶、ご飯、味噌汁、天つゆなどを出し続ける奥さん(と思われる方)。(透明のポリシートの奥のバックヤードで、もうひとかたいらっしゃった) 何て言うかな〜。このご夫婦の所作に迷いが全くないのです。カウンター越しに見ていて感じる、何とも言えぬ安心感。胃袋だけでなく、心まで満たされる。この日の東京は、35℃を越える猛暑。直径50〜60-cmはある、揚げ油(カドヤのごま油)がたっぷり入った銅の大鍋。その前に立ってひたすら天ぷらを揚げ続けるご主人。奥さん担当の味噌汁は、ぐつぐつ煮たて続けてるから、味噌の香りなんかぶっ飛んでるが、汁よりもサイの目の絹ごし豆腐の方が多い味噌汁は、「本だし(らしき)」の鰹の味がビシッと利いている。その大衆さを、またよく感じてしまうという、魔法のような味噌汁。
「この仕事をしていることが、私たちの天職」
このお二人が働く姿そのものが、そう語っている。
なっくなってしまった他の「いもや」もそうだが、近年、こういったお店が、後継者不足で閉店することが多い。かといって、私が継げる訳ではないのだけど、「こんな魅力的な仕事なのに・・・・」と、甚だ勝手に、残念がる私がいる。天ぷらは、江戸時代に屋台で始まったと聞く。にぎり寿司も蕎麦もそうだ。元々は決して高級なものではなく、誰もが食す大衆的なものだった。太白のごま油を使って、難しそうな顔して揚げている、高級天ぷらもおいしいが、「原点はこっちだよな」と思う。
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