2020年7月17日金曜日

ラッキョウの酒粕漬け


つい先日、「塩だけで甘いラッキョウ」というエントリを書いたが、きょうもラッキョウの話。そのエントリでも書いたが、去年、多めのラッキョウを漬けた。オーソドックスに塩水漬け(10%塩水)、醤油漬け、ちょっと洋風に、塩・ワインビネガー・少しハチミツ・ローレル・ディル・赤唐辛子のマリネ液漬けとやったが、一番多かったのは、シンプルな塩水漬け。

よくある甘酢漬けが、あんまり好きではないこともあり、塩水漬けを少し水で塩抜きして、アッサリとそのままバリバリ食べるなんてことをする。それでも余るので、どうしようかと思案してたら、カミさんが「酒粕漬けなんてどお?」と提案した。

それで連想したのが「塩粕」。10年ほど前だが、それをこのブログで書いたことがあった。酒粕に塩を加え、1〜2年寝かせたもの。最初は白色だった酒粕が飴色(茶色)になる。主に漬け床として使う。米・米麹・酵母で作る酒の粕だから、乱暴に言えば、塩麹に米と酵母を足したようなものだ。詳しくは以下のエントリだが、今は販売してないみたい。いいものなのだけど、元々酒蔵(久保田本家)のまかないで限定的に使われてたものなので。



酒粕自体には塩が含まれていないが、10%塩水に漬けたラッキョウには塩が多め。カミさんの「酒粕漬けなんてどお?」とは、(塩気のない)酒粕に(しっかり塩気のある)ラッキョウを合わせるという寸法だ。無論、「塩粕」の場合は1〜2年の熟成期間があるから、異なるものとなるが、この塩ラッキョウの酒粕漬けもなかなかよい。熟成してない分、複雑な旨味には欠けるものの、酒粕がフレッシュな分、香りがいい。

私にとってラッキョウは、口の中をサッパリさせる口直し的な存在なので、酒粕の芳醇な香りとともにパリッとした歯ごたえのラッキョウはいける。それまでもたない気がするが、置けば置くほど徐々に「塩粕」に近づくことになる。

6月頃に、塩水に漬けたラッキョウを、そろそろ塩抜きして漬け直そうかななんて思ってる方。塩抜きしないで、そのまま酒粕に漬けちゃうのもひとつの手です。酒粕の香りで一捻りした、サッパリな塩ラッキョウになります。

追記:
ただ、考えてみると、今は酒粕の季節ではないな。今どきは、保存技術が進歩しているから、この時期でもあるかも知れないが、普通に出回るのは11月頃だろうか。

2020年7月14日火曜日

ビリケンシュトック、車の運転用



上の写真は、私のサンダル、ビリケンシュトック。ビリケンシュトックは3つ目。履くのは夏場が主だが、これは3年ぐらい履いたもの。ビリケンシュトックのサンダルを初めて知ったのは、1983年の夏にヨーロッパを2ヶ月旅行したときだった。当時私は21歳。当然のことながら、出会うまたは見かける若い旅行者は、ヨーロッパ人がほとんどだった。そして、旅を始めて1〜2週間も経った頃、でっかいバックパックを担いで、足下はビリケンシュトックのサンダルというスタイルが多いことに気がついた。夏の短パン・Tシャツという服装も手伝って、このサンダルがやたらと存在感があった。当時はだいたいが踵にバンドが巻き付いてるタイプだった。それをその主にきくと、「旅行中は歩くことが多いから、踵にバンド付きがいい」なんて言ってた。私はというと、宿なんかでは、いわゆる便所サンダル。便所サンダルも悪くないが、歩き回るには心許ないので、普段歩き回るときはスニーカー。そうなると、どうしても計2足必要になる。しかし、ビリケンシュトックの旅行者たちは、それ1足でオールマイティ。「それにこのビリケンシュトックは修理も利くんだぜ」なんて言われると、「へぇー」なんて思いながら、憧れもした。

そんな思い出があるサンダルだが、話を今に戻そう。

半年ぐらい前のこと。冒頭のサンダルのソールを見たら、右足の踵だけが極端に削れていた。「なぜ右足だけ?」としばらく疑問のまま。「あれ、おれ最近歩き方が偏っているのかな?」とまで思った。しばらくモヤモヤしたが、つい一ヶ月前頃、「あー、この削れはアクセルだ」と、ふと気がついた。

車を運転するとき、ブレーキの方(左足)はいいのだけど、アクセルペダル(右足)は、床に付いた踵をを支点にして踏む。床に付いた右足の踵は尖っていて、サンダルだから、不安定。何ともアクセルペアルを踏みにくい。そして、こういうことがしばらく続くと、一年も経たないうちに、コルク状の踵がすり減ってしまったのだ。

先の思い出話にもあったとおり、ビリケンシュトックのサンダルは、「歩く」ことを主眼に設計されているだろうから、車の運転をするときは考えない方がいいのかも知れない。車の運転には、それ専用の靴を車内に用意しておくというのが正論だろう。しかし、出来たら1足オールマイティを目指したいじゃないですか。そこで私は考えた。

「この削れた部分に、ソールを貼ればいいんじゃないか」と。

私はホームセンターへ行って、ゴムのシートを探した。下の写真、厚み2mmのシートと革靴用の接着剤を使った。

そして、それを貼ったのが下写真の左側。(写真右側の左足の踵は、まだしっかりソールが残っていて、コルクも削れていない)


アングルを変えると、こう。


で、ですよ。
これ履いて運転してみると、何とも快適じゃ〜ないか〜。新たに貼ったゴムシートの踵が床にフィットして安定した。もしも、このゴムシートを貼らないで運転を続けると、コルク状の踵はすり減る一方だから、このサンダル自体の寿命も短くなったことだろう。しかし、ここまですり減ってしまった以上、逆に新たに出来てしまったその面を利用して、踵ソールを貼る。すると、この新しく出来た面ゆえに、アクセルペダルを安定して踏めるようになる。(ゴムシートを貼った右足踵の上端部分が少しせり上がっているのは、接着時にガムテープで固定した際についたクセ)

およそ40年前、自動車学校の学科授業で、運転に適した履き物は「踵がしっかりした靴」と習った記憶がある。しかし、今どき「踵がしっかりした靴」なんてまず履かない。

ビリケンシュトックは、おそらく最も歩きやいデザインについては熟知していることだろう。しかし目先を変えるように、毎シーズン、新しいモデルを出し続けている。見た目だけじゃなく、こうして構造的に、右足の踵部分が車の運転使用になっているモデルなんかを出してくれないかな。左ハンドル車でも、アクセルは右だろうから、右足だけでもいい。ビリケンシュトックのファンで、車を運転する人は少なくない気がするのだけど。

2020年7月2日木曜日

塩だけで甘いラッキョウ


不思議だ。何とも不思議でならない・・・・が、現実は真実しか語らない。

うちのカミさんの実家は昔から本場鳥取でラッキョウを栽培している農家なのだが、私はこれまで一度もラッキョウを漬けたことがなかった。しかし去年のこと、仲間内でラッキョウ漬けの話になり、それならと多めのラッキョウをカミさんの実家に頼んで送ってもらった。

数人で分けて、それぞれがそれぞれのスタイルで漬けたのだが、そのうちの一人のラッキョウ漬けには驚いた。去年漬けたので、ちょうど一年ものを、つい一週間ほど前に、数個頂いた。(冒頭の写真)それをひとつ頬張ってみると、

微妙な甘味と酸味、後味にやや苦味。

私は、よくある(例えば、カレー屋さんの添え物など)甘酢に浸かったラッキョウは好みではない。私にとって、その多くが甘過ぎで、飽きてしまう。ラッキョウは、パリパリ感のある歯ごたえが身上で、それには、甘さ無し、あっても抑えめのサッパリとした味が似つかわしいと思っている。

そのラッキョウを食べて、私はてっきり、よくあるラッキョウ漬けのように、塩水に漬けた後、糖分と酢の甘酢に漬けたのだと思った。しかしその甘味と酸味が、実に絶妙に抑えが効いてて、ほのか。よくある甘酢に漬けたラッキョウとは明らかに違う。サッパリと食べられて、おいしい。

常日頃、料理って、バランスとかハーモニーだと思っている。甘味、辛味、酸味、鹹味、苦味、旨味など、何か突出した味ではなくて、それぞれの味が調和した味。それがおいしい。料理してると、食べる人に何かを伝えたいという欲のようなものが出て、味に力が入り過ぎることがある。そうなっちゃうと、ある意味「分かりやすい味」にはなるのだけど、バランスとかハーモニーが難しくなる。おいしい料理って、素材の味・食感を感じさせながら、その周りでそれを補ってあげる。そのために、素材だけではなく、いろんな料理法、調味料がある。例えば、火を通しすぎてはなくなってしまうものは、余熱を含めてどこかで止めねばならないし、いい香りだからと使い過ぎると、辛(つら)い香りになってしまう。バランス・ハーモニーのためには、「程いい抑え」が必要なのだ。

私は、このラッキョウ漬けに何とも絶妙な「程いい抑え」を感じ、作り手に「いや〜、イケルね。甘味・酸味が絶妙に抑えられれるところがとってもいい感じ」と伝えた。すると、返ってきた答えは何とも意外。「それ、ただ塩水と唐辛子をちょっと入れて、流しの下に置いといたただけよ。甘味も酸味も加えた訳じゃないから、抑えたというもんじゃないなー」と。

「えー、この甘さと酸味は、加えたものじゃないの?」と、私は何度もきいた。抑えが効いているとはいえ、糖分と言える程の甘さを感じる。糖分を加えながらも、その程度が絶妙だと思ったのだが、そうではないと言う。失礼と知りつつ、しつこく、「一年前のことだから、砂糖加えたの忘れちゃっただけなんじゃないの?」とも。しかし、「何%かは忘れちゃったけど、塩水と少しの鷹の爪だけなのは確かだよ」と答えは変わらない。

酸味については、乳酸発酵した感じがあるので、「ちょうどいい塩分で、うまく乳酸発酵した」と思えたが、甘味については、加えていないのに、どこから来たのか。それが腑に落ちず、不思議でならなかった。ここはひとつ、これを本場鳥取出身のカミさんに食べてもらおうと思った。その晩、そのラッキョウ漬けをひとつ食べた彼女は、「やや苦味が強めだけど、おいしいね」と言った。そこですかさず私は、「それ、砂糖・みりん・ハチミツなんかの甘味が全く入ってないんだよ」と言ったら、「まさかー」。「いやいや、おれも驚いてね、それで少し持って帰ってきたのだよ」。

5分ぐらいすると、彼女は以前、野菜料理研究家の姉に「ラッキョウ(自体)って甘いんだよ、知ってる?」と言われたことを思い出したと言う。そのときは、「もう全部食べちゃって残ってないんだけど」と、実際にはその塩水に漬けただけの甘いラッキョウは食べてないらしい。しかし、意外なこと言われたので、記憶に残っているという。

二人に言われると、私も考えを改める方向に向かった。そもそも私は現物を食べたし、そう主張するひとりは、鳥取出身、それもラッキョウ農家出身の野菜料理研究家だ。考えてみると、(ラッキョウの仲間っぽい)玉ねぎやエシャロットなど、加熱すると甘くなる。新玉ねぎは、水にさらして辛味・苦味を取るとほんのり甘く感じる。この甘くなったラッキョウも、そういうことか。そう思うようになった。

ちなみに私自身は、同じラッキョウを、よくある塩分の10%で漬けたが、こんなことにはならなかった。しっかり漬かって、苦味は少なくなり、やや歯ごたえもよくなったものの、乳酸発酵もしないし、甘味も感じない。

『ラッキョウを、あるパーセンテージの塩水に漬けると、やや乳酸発酵しながら、ラッキョウの甘味が出てくる』

そのパーセンテージは、一体何%か? これが肝心なのだけど、そのラッキョウ漬けの作り手には「パーセンテージの記憶なし」。野菜料理研究家であるカミさんの姉は、「適当にやった」とのこと。使った塩は共通して、私が作る「カンホアの塩」。そんなところに「カンホアの塩」の違いが出るものか。冒頭の写真にもある現物の甘いラッキョウ漬けを食べて、私が感じる塩分は、3%ぐらいか。ラッキョウの水分も出ただろうから、漬けた塩水は5%ぐらいだったかも知れない。

ラッキョウは、去年たくさん漬けたので、まだ残っていて、今年は漬けていない。来年にはなくなりそうなので、3%、5%、7%ぐらいで、複数試してみようと思う。乳酸発酵の酸味とラッキョウ自体から出る甘味にによる、「程いい抑え」の効いた酸味と甘味。きっとちょうどいいその黄金比があるはずだ。今から楽しみだなー。

2020年5月15日金曜日

トマトの「三角錐型螺旋栽培法 in 植木鉢」


マスクの消毒が日々の日課になって、はや2ヶ月。今や手慣れたものだ。アベノマスクは未だに届かないが、この調子だと手持ちの3枚で一年はいけそうだ。医療従事者の方々は別として、我々一般人にとって、普通の不織布のマスクがこんなに長く使えるだなんて、以前は思いもしなかった。コロナ後も、ひと冬2〜3枚しか使わないで過ごせちゃいそうだ。そんな人が少なくないとすると、マスク製造業は今後一気に供給過多に陥るかも知れない・・・・、なんて思いにふける今日この頃。

さて、このエントリのタイトル、トマトの「三角錐型螺旋栽培法 in 植木鉢」。
変な名前だ。これは今年私が試みる(ミニ)トマトの栽培法の名前なんです。

実は3年前、2017年7月に、このブログで、似たようなことを書いたが、きょうの「トマトの三角錐螺旋栽培 in 植木鉢」は、その発展型。ちょっと長くなりますが、このエントリだけお読み頂けたら大丈夫なように書こうと思います。

まず最初に、この栽培法の発想のキッカケについて。

芽欠きをしながら、茎を一本にしてトマトを育てると、スイスイと高くなって、すぐに背丈より高くなってしまう。広い畑なら支柱を幅広く立てて、茎を横や斜めに誘導すればいいが、狭い家庭菜園だとそうはいかない。狭いところで、茎の長さを出来るだけ低い位置で稼ぎながら、つまり茎長く&背低く育てたい。その方が収穫時期は長くなるし、支柱も倒れにくくなる。さらに、トマトが甘くなるよう、極力雨に当てたくない(一般家庭だからハウスは無しよ)。さらにさらに、狭い家庭菜園にありがちな、連作障害を避けたい。これらの条件を全てクリア出来る一般家庭での栽培法はないものか? 素人ながら、いやいや素人だからこその発想というのがあったっていいじゃないか? ということで、課題は、下記の4点。

1.一般家庭の庭先など極限られたスペースの中で陽当たり良好に。
2.いかに茎長く&背低く。
3.極力雨に当たらないように。
4.連作障害を避ける。

3年前に考えた方法は、トマトの苗ひとつに支柱を3本、三角錐型に立てて、二本立てにした茎をその三角錐の周りを螺旋状に上らせるよう誘導することだった。これは庭先の地べた、花壇の片隅でのことだ。当時は、「三角錐型螺旋方式」と馬鹿みたいに自分で呼んでいた。肝心の成果はどうだったかと言うと、葉っぱが混みすぎて風通しが悪くなり、収量が少なかった。パートナー・プラントのバジルを近くに植えたことも混みすぎを助長した。さらに、同じ場所での3年目だったので、連作障害の疑いもあった。ただ、上記課題の「1.一般家庭の庭先など極限られたスペースで陽当たり良好」と「2.いかに茎長く&背低く」はある程度クリアした。

そして去年、3年前は地べたの家庭菜園で試した「三角錐型螺旋方式」を3つの植木鉢(ひと鉢1苗)に移した。トマトを植木鉢で栽培することは、愛読ブログ「サムライ菊の助・畑日記」で菊の助さんが、以前、植木鉢を南向きの軒下に置いて栽培していたアイデアを拝借してのことだった。ただ、我が家にはそんなに広い南向きの軒下がない。そこで、3年前は、たまたまある我が家の屋上(地上3階相当)で、植木鉢での「三角錐型螺旋方式」を試みた。植木鉢の土なので、これで上記課題の「4.連作障害を避ける」をクリア。屋上には軒下がないので、残るは「3.極力雨に当たらないように」なのだが、夏場はかなり暑くなる屋上。雨に当たっても、きっと乾燥が早そうだから、ある程度いけんじゃないか。そして、屋上の抜群の陽当たりと暑さは、おいしいトマトに繋がりはしないかと、当初は考えた。

しかし、実際は、私の不在中(10日間の出張中)の嵐で、無残にも三角錐型の支柱が立った植木鉢は3つとも倒れ、土は散らばり、私の帰宅時には、3本の苗は息も絶え絶え。カミさんと子供二人という家族構成だが、その10日間、誰も屋上に出ず、無関心そのものだった。無論、瀕死の苗を植え直したが、その後の屋上の猛暑は私の想像を超えていた。6月半ば以降は陽当たりがいいというより、暑すぎてトマトが耐えられず、結果的に干からびてほぼ全滅した。季節が暑くなると、無関心だった家族の者たちがそうだったように、私自身も頻繁に屋上に出ることをついつい忘れた。そして、酷暑の中、放っておかれた可哀想なトマトの苗たちは、ほぼ全滅したのだった。

さて、やっとこさ、本題。
今年の、トマトの「三角錐型螺旋栽培法 in 植木鉢」だ。
現在の実物(2鉢)は冒頭の写真。(今朝撮影)

まずは、小まめに世話ができる一階の南向きの軒下の小さなスペースを何とか確保。スペースに余裕がないので、奥の方を一段高くし、水道と縁側の間に何とか収めた。(高さ180センチほどに立てた支柱が)「洗濯物の邪魔になる」とのカミさんの苦情にも対応済み。これで、「1.一般家庭の庭先など極限られたスペースで陽当たり良好」と「3.極力雨に当たらないように」、そして「4.連作障害を避ける」をクリア。残るは、「2.いかに背を低く&茎を長く」だ。

植木鉢での栽培の一番のメリットは、好きな場所に置けることだろう。ありさえすれば、陽当たりのいい場所で、軒下などあまり雨に当たらない場所を選ぶことが出来る。しかし、私が考えるメリットはそれだけではない。特に、この「三角錐型螺旋栽培法 in 植木鉢」において。

この栽培法では、三角錐型の支柱の周りを螺旋状に茎をうまく誘導していかねばならないが、茎が南方向へと伸びる習性を使って、植木鉢を少しずつ回しながら、茎を支柱に誘導することは出来ないものかと考えた。地面は回せない。これは回せる植木鉢ならでこそだ。例えば、冒頭の写真のとおり、今年スタートしたウチの苗は上から見て反時計回りの螺旋状になっている。茎の先は南に向かうので、茎の成長に合わせ、植木鉢を少しずつ時計回りに回しながら、茎を支柱にとめていくと、(理論上は)自然と三角錐型螺旋栽培になるという寸法だ。

これは3年前、先述の地べたでこの「三角錐型螺旋栽培法」を試みた際の苦い経験があったので、なおさらにして思うことだ。トマトの苗は、5月ぐらいまでの茎の細いうちは難しいことなく、螺旋状に誘導出来たのだが、6月以降、茎が太くなってきて、誘導が難しくなった。太くなった茎をちょっと無理に誘導しようとすると、簡単にポキッと折れた。それも二度三度と。そういうこともあって、そのときは、ひとつの苗から、一本立てでなく、二本立てにして、「一本折れても、もう一本ある」状態にしながら栽培した。(一本折れると、新たなもう一本が出てくるのを待ち、再び二本にした) しかし、二本にすることによって、「葉っぱが混みすぎた」状態になった。

何とかより確実に、一本立てで育てたい。小まめに植木鉢を茎の螺旋とは反対の時計回りにちょっとずつ回しながら、トマトが伸びたい方向に逆らわずに誘導出来ないか? それが首尾よくいけば、補欠のもう一本の担保は不要になり、一本のまま誘導し続けられるのではないか? それが出来れば、「葉っぱの混みすぎ」を避けられるんじゃないか、と考えた。無論もうバジルは植えない。

これでここまで、限られた環境の下、考え得る策は講じた。今年は、毎日帰宅して車を降りたところに2つの植木鉢が鎮座されているのだから、忘れることはない。小まめに世話しよう。ウチに帰るのが楽しみになった。

さてこの先、本当に、うまい具体に「三角錐型螺旋栽培法 in 植木鉢」が進んで、長らくトマト(ミニトマト)を収穫出来るのか? 後日、経過報告のエントリを書きたいと思う。

ちなみに、下の写真は、10日前に撮ったもので、まだ軒下が確保されてない状態だが、三角錐型に組んだ高さ180センチほどの支柱の全体像。イメージとして、この三角錐の周りを螺旋状にグルグル巻きながら茎が伸びていく・・・・(と、いいんだけど)という写真です。

2020年4月22日水曜日

山中伸弥氏のwebサイト

私は、毎日、下記のwebサイトを見ています。

山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信
https://www.covid19-yamanaka.com

こういうときは、いろんな情報の急流がある。
この山中氏のwebサイトは、その急流ににドカッと座った岩のようだ。
その岩につかまることで、急流に流されずに済む。

すでに相当なアクセス数があると思うけど、まだご存じない方は、是非見てみてください。データに基づいていて、とても客観的な見方。「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」というページもあり、巷に流布している情報が「確かなもの」から「やや確か」、「あまり信用ならない」などと分けられて、載ってもいます。

山中氏が選んだデータとその説、報道などが日々あり、それに山中氏がコメントを付し、それにはどんな意味(または可能性)があるなど、解説もしてくれています。

ご存じのとおり、山中氏は、iPS細胞の研究者だから、感染症の専門家ではありません。しかし、専門家ではないからこそ、私など素人にも分かりやすく、客観的に書いてもらえているんではないかとも思います。

毎日、3点程もの更新があります。そのための情報収集や論文などを読むのに、かなりの時間がかけられているはずなので、ご自分の本業を犠牲にしてまで、このwebサイトを更新し続けてくれているようにも思います。

例えば、きょう(4月22日)更新の、「東京の感染者数は減少しているのか?」の山中氏のコメント。下記(カッコ書き)は、私が思ったこと。少し短くして下記に書いてみます。

ここ何日かの、東京都発表の日毎の感染者数は、やや減少傾向にあるが、誤解してはいけない。PCR検査件数は、この何日か、ガクッと減っているというデータがあるからだ。単に検査をしていないから感染者数が減ってるだけのこと。陽性率が高くなっているのはそのため。2月は3%だった陽性率はどんどん上がり、4月は19%。(ある程度症状が出ている人しか検査でしていない、またはしたくても出来ていないのでは?) 日本よりはるかに多くの検査をしている米国の陽性率は20%程度で、専門家は検査数を3倍に増やす必要があると主張している。ちなみに、十分に検査しているドイツは陽性率7%、韓国は3%。(日本もPCR検査数を増せるようにならないと、未検査の感染者が増える一方になるから、とても危険)

最後は、
感染者数のみで一喜一憂するのではなく、真の姿をとらえる必要があります。
と、太字のコメントで終わっている。

追記(4月24日):
上記の「東京の感染者数は減少しているのか?」について、山中氏によって、4月23日付けで訂正されました。それによると、4月16日以降の検査件数のデータは「保険適用で行われた検査数が含まれていない」(実際の検査数はもっと多いよ)との指摘を受けてとのこと。山中氏は、その指摘を受け、正確な検査数を「未確定」と訂正している。その指摘した方は、「保険適用で行われた検査数」を山中氏に提示していないのか?

日毎の感染者数とともに正確なPCR検査件数の把握はとても大事なはず。どっちも正確でないと、陽性率/陰性率が出ない。それを誰にでも容易に分かるようにしてもらいたく思う。ちなみに、PCR検査の保険適用は3月6日からだった。その後40日も経った4月16日以降のデータが分かりにくくなったとは、集計が混乱してきたのかと心配になる。

2020年3月26日木曜日

「歯に衣着せぬ」と「オブラートに包んで」


新型コロナウィルス一色で、どうも落ち着かない日々が続いている。しかし、そればかりで現実的な暮らしは出来ない。少し前に、心にとまった新聞のコラムがあったので、きょうは一時(いっとき)、パソコンの画面に集中して、それについて書いてみたい。

まずは、冒頭の新聞のコラムを読んでもらいたい。(クリックすると大きくなります)

3月7日付け東京新聞(朝刊)に載ってた、師岡カリーマさんによる「本音のコラム」。このコラムの中で、「アサド大統領という正真正銘の悪党」という下りがあるが、そこは「正真正銘」とまで言い切れるものかどうか、私には定かでない。その点だけ、ひっかかるのだけど、全体として、ここで彼女が訴える・・・「無力化(Neutralize)」と言わず、「殺す」と言え・・・は本当に私もそうだと、常々思っている。

日本語に「歯に衣着せぬ」という言い回しがある。反対に「オブラートに包んで」というのもある。それは親切心が本来の意味だから、悪いことを誤魔化すためにオブラートに包んでは、逆に悪意となろう。日本は和の文化として、争い事を嫌い和やかに事を進めるという風習があるように思うが、「オブラートに包んで」は、それを反映しているように思う。しかし、「歯に衣着せぬ」という言葉もあるのだから、こっちもときには必要ってことかと思う。

カリーマさんは、「歯に衣着せぬ」言い方で、痛快だ。ずいぶん前に、彼女の著書「イスラームから考える」を読んだことがある。彼女は、エジプト人と日本人のハーフで、イスラム教徒でもある。日本を外から見る目を持っていながら、日本の「オブラートに包んで」の文化も知っている人だ。しかし、「オブラートに包んで」の文化は、日本だけのものじゃない。

「Neutralize」という言葉。自動車のギアの「N」でもある「neutral(中立な)」という形容詞の状態にする、つまり「中立的にする」という意味だ。それ自体に危険な香りはないが、場合によっては「殺す」を意味する。国を挙げての武力行使または戦争の場合、相手兵士を殺しても罪にならないどころか、むしろ目的を達成するのだから成功となる。それを「Neutralize」という言葉で表す。

どんな武力行使や戦争にも大義名分がある。つまり、それは正しいという理由だ。でも、武力行使や戦争には必ず相手がいるのだから、それは必ず一方的な理由であることは確かだ。国連を含め、誰が一体、「○○側の理由が正しい」と決めるのか?

一般市民はもちろん、政治家・企業家を含めて、戦争の是非を問うと、誰にきいても、「No」と答える。しかし現実として、今までたくさんの戦争があったし、今でも地球上で戦争がある。これはどういうことか? 「戦争No」と言う人も、その後には戦争をしてきたということだ。戦争に至るまでは必ずプロセスがあるとも言える。

例えば、「必要悪」という言葉。これは「必要>悪」で、「必要」が「悪」を上回った場合に使われる。最初は「必要悪」と始まり、それがあるプロセスを経て、なし崩し的にやがて「必要な戦争」ということになりはしないか。これまで起こってきた戦争とは、そういう歴史の繰り返しではなかったか。本来、必要な戦争なんかありゃしない。その矛盾を断ち切るために、「戦争の放棄」を謳った第9条がある。

さて、どこかの国の首相は、その憲法改正に躍起になっている。「戦後レジームからの脱却」という詰合せセットの中の一つのピースとして、憲法第9条に「『自衛軍保持』を明記すべき」と言う。「『わたし達は断固として国民の生命、財産、領土を守る』という決意が明記されるのが当然」であり、それが「普通の国家」であると言う。(この「普通」が意味不明だが)『国民の生命、財産、領土を守る』ために『自衛軍保持』が必要だという主張だ。

『自衛軍』と言ったって、具体的には、(世界最大の軍事国家である)米国に従う武力行使が行えるようになることを示すのは、明らかだ。「米国は誤らない」が前提になっている。そして『守る』ために、自衛隊をわざわざ『自衛軍』にする。では、この『守る』とは現実的に何を意味するのか?

これって、「人殺し」を「無力化(Nueutralize)」と表現することと同類だと思いませんか?

政治家、通信社・マスコミが、「人殺し」を「無力化(Neutralize)」と表現し続けるとなると、私たちは、「無力化(Neutralize)」を「人殺し」と読み替えなくてはならない。『自衛軍』を、武力行使も出来る「軍隊」と読み替える。その度に気持ちの悪い「歪み」を感じる。彼女は冒頭のコラム記事の最後に、

相手の人間性に敬意を払い、はっきり「私たちは兵士を○人殺した」というのが、人としての最低限の礼儀だ。

と書いているが、それは、殺された側の人たちだけでなく、殺す側の主権者である市民に対しても、最低限の礼儀だと思う。なぜなら、殺す側だって、いずれは殺される側になるからだ。仇討ちのように個人対個人の場合と違って、多数対多数の場合、全員を殺し殺されることまでは通常ない。だから全ての人が殺されるとはならないが、部分的には必ずある。その「部分」が具体的に誰かは「分からない」というだけで、それは貴方の孫かもしれないし、私自身かも知れない。何しろ、世の中、一方的で終わることなどない。

最後に改めて、第9条を以下に。

第9条
    日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
    前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2020年3月16日月曜日

「You've got a friend」と「昭和枯れすゝき」


この春から、息子が小学生から中学生へ、娘が中学校生から高校生になる。この機会に二人が個室を持てるようにと、家中の配置を再編成した。それにともない、私は持ってた本・音楽CD・服類などを半分処分した。それは、眠っていた本や音楽CDを整理し、見直す機会にもなった。

それで、たまたまキャロル・キングのカーネギーホールのライブ録音(1971年録音)のCDを久しぶりに聴いた。後半に、ジェームス・テイラーがサプライズ登場して、「You've got a friend」を一緒に歌う。

それ聴いてて私は、「あっ、これ、さくらと一郎だ」と思った。「昭和枯れすゝき」だ。

久しぶりに「昭和枯れすゝき」を聴きたいと思って、Youtubeで検索したら、二代目さくらさんの映像がほとんどだった。少なかった初代さくらさんのをやっと見つけたが、全然違う。二代目さくらさんは、とっても頑張っているんだが、残念ながら特別な感じがしない。初代さくらさんは特別だった。

さてさて、「You've got a friend」は、いろいろな事情があるアメリカ社会の中で、アメリカの良心を歌っていると感じる。それは至って穏やか。一方、「昭和枯れすゝき」は、いろいろな事情ある日本社会の中で、日本の情愛を歌っていると感じる。それは至って強烈。

この2曲、男女のデュエットという点が共通。男女のデュエットというのは、何となく、女性と男性の代表者が歌っているようにも感じる。片方の独りよがりでは成り立たないというか。それが説得力にも繋がっているように思う。

とは言うものの。この2曲は、歌詞の内容も曲調も全く違う。むしろ対照的だ。しかし、何かが同じと感じてしまうのはなぜだろう。至って私の感覚的なことなので、客観的なタイミングを調べてみた。

キャロル・キングの録音は前述のとおり、1971年。
そして、「昭和枯れすゝき」は、1974年のリリース。
3年の違い。同時代ということか。

太平洋の東と西ということはあっても、どちらもポップミュージック、大衆に好まれた曲だ。最近は、ポップという言葉も死語だろうか。代わってポピュリズムが使われる。大衆迎合主義と訳されるポピュリズム。大衆に迎合したっていいはずなのに、どこか危険さを孕むように感じる。

しかし、「You've got a friend」も「昭和枯れすゝき」も危険さを全く感じない。「昭和枯れすゝき」には、「死」という言葉さえ歌詞に含まれるが、危険な感じがしない。

切取り方だ。

ふとそう思った。いろいろある社会の中で、「アメリカの穏やかな良心」を、そして「日本の強烈な情愛」を切り取って曲が出来ている。その切取り方が、この2曲は実に見事で、「いろいろある事情」など思い浮かべる余地なく、しっかりとその世界観だけに浸らせてくれる。そういう力を持っていることがこの2曲の共通点なような気がしてきた。切取り方、それはいい役者がそうであるように、切り取った世界観の人物への成り切り方とも言える。

切取り方、成り切り方。それは純粋さでもある。ネット社会になって、情報が溢れている環境では、物事を純粋に捉えることが難しくなっているんじゃないか。たまには昔のように、雑音(情報)をオフにして、静かに自分の中にある純粋な感情に光を当てることがあった方がいいように、または今の自分にはそれが不足しているように、思った。