2014年3月27日木曜日

生が終われば、死も終わる

先日、健康診断に行った。
内視鏡(胃カメラ)を入れるにあたり、その直前に鎮静剤という名の麻酔を行った。あらかじめ針を腕の血管に差して診療台に横たわった。「はい、これから鎮静剤入りますね〜」という看護婦さんの声は憶えているんだが、その5秒後からは記憶が全くない。もうろうとした中、起こされ、気がついたら、終わっていた。

たまたまだが、寺山修司の「幸福論」という本を読んでいて、その中に、以下のような下りがある。

「生が終わって死が始まるのではなく、生が終われば、死も終わるのだ。死はまさに、生のなかにしか存在しないのだから」

これを読んでたときは、「ん〜、なるほど。さすが寺山修司、いいこと言うなー」と観念的に思ったのだけど、内視鏡の麻酔から覚めた後、意識を失ったときのことを思い出した私は、「あー、あれが死んだときの感覚なんじゃないか」と思った。それは確かに生とか死ではなく、

「無」だった。

死に方にもいろいろあろう。でも、たとえどんな死に方でも、死は無なんだと思う。例えば、痛さを感じている間は生きている。でも、死を悟った瞬間、もうその痛さも苦痛ではなくなるのではなかろうか、とさえ思った。麻酔中の見事に何もない「無」の感覚を思い出すと、そう思われるのだった。

「生が終われば、死も終わる」

この言葉は、「死は恐れるに値しない」とも言える。恐れも生の中にした存在しないだろうから。天国も地獄も生の中にあって、生が終われば、「死」も含め全てが終わるのだ。つまりは、死は考えなくてもいいことだ。そう思うと肩の荷が下りた気がして、ホッとした。

それにしても、おかしなのは、こんなことを思う私が健康診断を受けていること。
一体、何てこった。

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