ムカゴは、いつもヌカゴと迷う。(そんなことはどうでもいい)
写真は、ムカゴをオリーブオイルとニンニクでソテーしたもの。このムカゴ、そのへんのムカゴとは違う。自然薯のムカゴだ。カミさんが鳥取に出張へ行った際、お土産で買ってきてくれた。最初にそれを見たとき、「何だコレ、やけに小粒なムカゴだな」と彼女に言った。すると「それは長芋のムカゴじゃないのよ。自然薯のムカゴなんだから」と返された。私は「自然薯だからって、ずいぶん偉そうだなー、そんなに違うのかぁ?」とまで言った。
しかし、食べてみると明らかに違った。長芋のムカゴは食べると何となく粉っぽいというか、味にパサパサ感があって、ムカゴご飯なんかにすると、失礼ながら、ムカゴが邪魔に感じるときもある。しかし、この自然薯のは、歯ごたえがそれはそれは自然薯で、ネットリしていて、味も芋のほんのりした甘さを感じるし、モサッとした感じがない。「さすがは、自然薯様だね」と、手の平を返したようにちゃっかり言い直した。
しかし、「本当に、自然薯様なのだろうか?」と、改めて考えた。思い巡らせていたら、10日ほど前、知人の集まりに行った際に持参した松茸ご飯のことを思い出した。
その集まりは、12〜13人で行う枝豆の収穫後食べる会の集まりだった。作業後、それぞれが持ち寄った料理が屋外の大きなテーブルの上に並んだ。私は、松茸ご飯の入った三段のお重を黙ってそっと広げた。若干の葛藤はあったものの、何となく、「松茸ご飯で〜す」と言いたくなかった。でも少しの後、「これ何ですか?」ときかれたので、「松茸ご飯です。松茸は1パック1600円のカナダ産ですけどね・・・・」と小さな声で答えた。これが松茸ご飯だということが参加者に少しずつ広がってしばらくしたら、「松茸ご飯は、『松茸ご飯ですよ!』と、大きな声で言ってくださいよ」と忠告された。私は、それをしたくなかったのだ。
もしも『松茸ご飯ですよ!』と大きな声で言うと、みんな「松茸」というブランド名が故に、「すごい」、「高価(希少品)」または「おいしいに決まってる」などといった先入観優先の感覚になり、目の前にあるそのものを味わうことから離れてしまうことを、私は恐れたのだ。前日の晩、カミさんにレシピを聞き出して、当日、早起きして私が作った松茸ご飯は、我ながら上手に炊けたと思った。だから、なおのこと、松茸ブランドには屈したくなかった。でも、ひとりだけ、「これ、おいしい」と言ってくれた人がいて、それには嬉しくなって、お礼を言った。
子供の頃(今もそうだが)、私は真アジの開きが好物だった。具体的に何だったか忘れたが、親父が「きょうは、○○だぞー」とスペシャルな雰囲気の中、「さーて、お前は何を食べたい?」と、わざとらしく私にきいた。正直、○○に魅力を感じていなかった私は、「きょうは、冷蔵庫のアジの開きが食べたい」と言った。「アジの開き?」と、そのときの親父の残念そうな顔が忘れられない。私はそのとき、心の底からそれを食べたかったのだけど。しかし、親父はアジを焼いてくれた。おいしかったが、妙なムードの中、いつもと違った味だったことを覚えている。でもやはり○○は何だったか、今でも思い出せない。
さて、話を自然薯のムカゴに戻そう。
雑木の山の中で2時間かけてでっかい穴を掘り、何とか収穫した女性のこぶし大の自然薯を堀ったことのある私は、その有り難さを知っているつもりだ。その強烈なネットリ感、濃厚な味も好きだ。だから「自然薯」というブランドに弱い。弱いからこそ、「自然薯のムカゴなんだから」と言われると警戒する。「そんな簡単にひれ伏したりはしないぞ」と。それは松茸と同じだ。椎茸より松茸の方が「おいしいに決まってる」だろうか? アジ・サバ・イワシよりも、天然の鯛や平目の方が「おいしいに決まってる」だろうか? どっちの方が希少かと言われれば、後者になるが。つまり、これらはメタファー(刷り込み)なんじゃないかと疑う。
「もっと気軽に楽しめばいいんじゃない?」
その方が幸せに近づけるかも知れない。食べ物以外も含め、こういうことって、世の中にたくさんあると思う。松茸だって、椎茸だって、いろいろだ。自分がおいしくないと感じる松茸より、おいしいと感じる椎茸の方が好きなのは、やっぱり譲れない。様々な雑音の中、肩の力を抜いて、自分の感覚に素直になれることの方の幸せを、私は求めたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿