2018年10月11日木曜日

ホワイトアスパラとグリンピース、そしてマメ(赤エンドウマメ)

きょう、知人が「ホワイトアスパラの缶詰が食べたい」とfacebookで書いていた。率直に言って、実のところ、私は缶詰のホワイトアスパラが苦手だ。短くしか書けないfacdbookの書き込みをすると、単純な否定になってしまうので、このブログに書こうと思う。

以前に一度、関連したことをこのブログのエントリで書いた。

ホワイトアスパラとグリンピース(2013年4月19日)

私の幼少時代(50年も前のこと)、ホワイトアスパラとグリンピースと言ったら缶詰しかなかったのだが、苦手な食べ物だった。また当時、それらは「そういうもの」と思っていた。しかし、それから20年も経った頃か、初めて生から調理したものを食べたときは、そのおいしさに身震いした。ゼロからプラス10へは10の差だが、マイナス10からプラス10へは20もの差があるということのように思える。何しろ、私の中で、ホワイトアスパラとグリンピースは、生から調理したものに限る。

しかし、先のエントリにも書いたとおり、幼少の私が缶詰のホワイトアスパラを食したのは、おじいちゃんが好物だったからだ。おじいちゃんの思いが私と違っていたように、それぞれ人の思いは違っていて(例えば、それぞれの状況や経験は違っていて)、その人の好みが出来上がっていくのだ。

そんなことを考えていたら、きょうもう一つ、私にとって、缶詰とのギャップが大きく、感動した食べ物を思い出した。それは、浅草の「梅むら」の豆カンだ。豆カンまたはあんみつの缶詰のマメ(赤エンドウマメ)は、子供の頃からどうしても好きになれなかった。

大人になったある日に、知人に連れられ浅草の「梅むら」へ入った際、「ここのマメは特別だよ」と薦められ食べた豆カンは、全くの別物だった。プックリと炊かれ、はち切れそうな皮。クリームの様な滑らかな赤エンドウマメの餡のおいしさがジンワリと口の中に広がった。そしてちょうどいい甘さ。酒飲みの大人になった私は、普段あまり甘い物を食べないのだが、このときばかりはそんなの吹き飛んでいた。

食べ終わってしばらくして、缶詰のマメのことを思い出すが、どうしても同じマメとは思えない。その後、他の甘味屋さんに何度か入る機会があり、「梅むら」の幸せをうっすらと期待しつつ豆カンを注文したが、期待どおりの豆カンに出会ったことがない。

ホワイトアスパラとグリンピースの場合は、缶詰と生から調理したもののギャップだが、豆カンについては、今のところ、「缶詰プラス一般のマメ」と「梅むらのマメ」のギャップということになる。

「そういうもの」と思うことは、無意識に思い込んでしまうことだ。しかし、そういう思い込みの陰に、未知の幸せが潜んでいることがある。それを、ホワイトアスパラとグリンピース、そしてマメ(赤エンドウマメ、そして梅むらさん)が教えてくれた。だから、今度はそれを意識する。さて、他に思い込んでることは何だろう。食べ物の他にだってあるはずだ。

0 件のコメント: