2015年1月23日金曜日

神田「みますや」

前から、行こう行こうと思っていながらも、なかなか行けないお店というものがある。私にとって、そのひとつである、神田の居酒屋さん「みますや」へ行った。行ったと言っても、残念ながら夜ではなく昼間のランチ。まー、せめてランチにでも、って感じでね。

お店に着いて、外の看板を見て驚いた。「創業明治38年」とある。「へぇー」との思いを抱いたまま、縄のれんをくぐった。たまたま、私の前に慣れた足取りの二人連れのサラリーマン風の方々がいたので、彼らの後を追うように入店すると、彼らは席に座らず、積んであるお盆を手に取り、その脇にある空の湯飲みをお盆にのせて、奥へ入っていった。私も真似して、奥へ入ると、一皿・一鉢ずつ盛られた10種類ほどのおかずがずらりと並んでいた。

私は、身欠きニシンの煮付けとゼンマイとお揚げの小鉢をお盆にのせると、奥の窓からひとつ(私の分として)湯気の立っているシジミの味噌汁が出てきた。私は当たり前のように、その味噌汁をお盆にのせると、そのそばのお姉さんが、「ご飯は普通でいいですか?」と聞いてくる。「はーい」というと、やや柔らかめのもっちりとしてそうな(普通よりはやや大盛り入った)ご飯が差し出され、「はい、750円です」と言われる。初めて来たのにもかかわらず、ここまでの動線が、何とスムーズなことか。

お代を払うと、12時前のせいで比較的すいている店内を見回した。懐かしい2人用ほどの小ぶりなちゃぶ台のある座敷に上がって、昼食スタート。お茶は、各テーブルにポットがあり、セルフサービス。メニューもテーブルにあったので、手に取ると、好きな銘柄のお酒がたくさんあった。

お店を出たのは12時ちょい過ぎ。どんどんお客さんが入って来た。

実はこの食事後、この近くで行われる「麹について」のセミナーに参加することになっていた。そのセミナーはとても面白かったので、本当は、その「麹」のことを書こうと思ってたんだけど、つい「みますや」の話になってしまった。

話しがあっちこっち飛ぶが、明日からベトナム・カンホア出張だ。

2014年12月25日木曜日

ミカンの贈り物

 もう一ヶ月以上も前のことになってしまったが、11月の初め頃、愛媛の知人から、ミカンが1箱送られて来た。それが冒頭の写真。無農薬・無肥料・ノーワックス。お礼の電話をした際、そのミカンの事情をいろいろ聞かせてもらった。

まず、日本のミカンの消費量は年々減ってきているらしい。(私見ながら、日本の居間にコタツが減ってきているのが原因ではないか。半分冗談だけど、半分マジ。ちなみに我が家はホットカーペットのコタツ) また、その愛媛の知人が言うには、「何年か前まで、愛媛はミカンの出荷量日本一だったが、今は第二位(・・・残念)」とのことだった。農業関係の仕事の人なので、そのへんが気になってるらしい。

しかし、そんなことより、ミカンの需要が減ってると同時に、愛媛でも生産者の高齢化が進み、後継者不足が問題になっている。で、送ったこのミカンは、愛媛でも離島にある畑のもので、そこの生産者は高齢になって、十数年前に松山の老人施設に入ってしまい、その後ずうっと「放ったらかし」状態にあったらしい。

その知人は、「それではもったいない」と、そのミカン収穫し、無農薬・無肥料・ノーワックスの付加価値のある商品として販売しようとした。しかし、十数年前から「放ったらかし」(農薬をやってない)ながらも、検査をすると極微量ながら、農薬の成分が検出されるらしい。その知人曰く、「農薬の成分には、元々土壌に含まれている成分と同じものもあって、おそらくそれが検出されているんだと思う」とのこと。いくら無農薬・無肥料・ノーワックスでも、こうなると「無農薬」とは謳えないらしい。また、写真でお分かりだろうか。やや外皮にキズがある。「無農薬」でもないのに、キズありとなると、商品価値がずいぶん下がるらしい。しっかり農薬使ってワックスかけたミカンよりもよっぽどいいのだが・・・・。

で、問題の味だ。

11月初め頃ということもあってか、イマイチ味がのってない。薄い味という印象。頂いておきながら失礼とは知りつつも、お礼の電話の際、私なりにやんわりとそのことも伝えた。

すると、その3週間後、再びその知人からミカンが1箱着いた。今度のは、すこぶるおいしい。私の好みのミカンは、「甘味7:酸味3」ぐらいのバランスの濃い味。多くは皮が薄くて小ぶりのもの。早生の緑がかったミカンから徐々に黄色くなり、オレンジ色になったばかりのタイミングにこの味のミカンが出回る。ほんの一ヶ月ぐらいの間だと思う。この2度目に送ってくれたミカンがまさにこれだった。それが下の写真。冒頭写真のミカンより小ぶりで外皮も中の皮も薄いのだが、写真じゃ分からないね。
で、再びお礼の電話をすると、知人は第一声、「今度のはおいしいでしょ」と誇らしげ。「これが一番味がのってるミカンだからね。愛媛の人は、クリスマス過ぎてのミカンを、『味の抜けたミカン』と言って、食べなくなるのよ。甘いばっかりになるからね。これも十年無農薬・無肥料でノーワックスなんだけど、先に送ったミカンと違って、土壌から農薬の成分が検出されないから、某著名百貨店(M)の食品売り場に並んでいるのよ」と言う。

「それって、いわゆるブランド・ミカンってやつ?」と私がきくと、
「そういうことになるわ」と答えた。

知人の「そういうことになるわ」という言葉には、同じミカン、しかもどっちも無農薬・無肥料・ノーワックスながら、扱いが全く別物になることへの不満が感じられた。でも、こっちの方がおいしいからね。先のミカンの収穫時期を3週間遅らせるとどうなるのか? そこまでは突っ込まなかった。

そして、知人は続けて言った。

「ミカンは、他の果物と同じように、隔年で収穫量が変わるもの。ブランド・ミカンになれば、扱いが変わるけど、先に送った無農薬・無肥料・ノーワックスのミカンだと、一般の扱いになって、販売するにも『何キロ』と毎年の決まった納入量が確定しないとスーパーは買ってくれないのよ」

「じゃあ、(欠品しないように)少ない年の量を基準に『何キロ』が決まるわけ?」と私はきく。

「そのとおり」

「じゃあ、多い年に余るミカンはどうなるのよ?」

「・・・・それは廃棄してるのよ」

「えー」

とんでもない話しだけど、あるのかも知れない。私は、ポンジュースを思い出した。単に私の想像だけど、ポンジュースは、そういった廃棄されそうなミカンを原料に作られているのかも知れないと思った。グッド・アイデア。

曲がったキュウリが、箱に入りにくいからとの理由で選別されるという有名な話しがあるが、どうも日本の多くの農産物は、かなりとんでもないことになっていると想像できる。隔年の収穫量の差も、地域でまとまればある程度緩和できないものか? など、私なりの想像はあるが、それが難しい想像も出来なくもない。

欠品のないお店、期待する商品がいつもあるお店にはこうした背景もきっとあるのだ。一般の消費者はそれを知らな過ぎるんじゃないか。または麻痺しているのか、させられているのか。いくら廃棄したって、農家は食っていかなくちゃならない。つまり、廃棄も生産コストの中に入ってることも考えられる。そうだとすると、結局そのしわ寄せは消費者に及んでいることになる。

ある種の効率や便利さを求めるあまり、同時にその裏側にも変化が生じる。考えれば当たり前のことながら、現実的に消費者はそこまで思いを馳せないことが多い。全体にとって、一番いいことはどういうことなんだろう。あくまで現実的に。唐突ながら、鈴木大拙の「総合的に考える」という言葉を、思い出した。それにしても、「総合的に考える」は難しい。現実的には、「総合的なことを感じる」なんではなかろうか・・・・などと、ホットカーペットのコタツで頂き物のミカンを頬張りながら、思った。

2014年11月21日金曜日

「祈る」ということ

1989年頃のこと。ガンジス川沿いの町、バラナシという町に滞在していた。2ヶ月ぐらいだったと思う。バラナシはインドで指折りのヒンズー教の聖地。例えば、死を悟ったヒンズー教徒は、生きながらこの町に運ばれた後、逝き、火葬され、遺骨をガンジス川に流されることが至高の幸せとされる。また、ヒンズー教徒が沐浴する写真を見たことのある人もいるかも知れないが、たいがいはこの町のガート(沐浴場)だ。だから、ここは外国人の旅行者も多いが、ヒンズー教徒の巡礼者もたくさんいるエネルギッシュな町だ。

その旧市街の中心であるゴードリア周辺の雑踏を歩いてた私は、道端にいた白髪の初老の男性に手招きされた。お互い面識はない。だが、喧噪と雑踏の中でさえ、その男性の視線はしっかりと私をとらえていたので、私は彼が「私を」呼んでいることを確信した。そして、不思議な気持ちながらも、私は、その男性の方へと歩いていった。

私は、「ナマステ(こんにちは)。どうしました?」と軽く尋ねると、彼は「まー、ここへ座れ」と、その道端にある3人ぐらいが座れる横長の木製の腰掛けに座るよう促された。周りにはその初老の男性の仲間が2〜3人いた。変な話しと思うかも知れない。だが何せ、その初老の男性には、「何か大事なことがある」というような真剣な雰囲気があった。私はその雰囲気に引きつけられるようにその長椅子の端に腰掛けた。そして、同じ椅子の少し離れたところに腰掛けたその男性は、横に座っている私の目を見ながら、英語でこう語りかけた。

“You are very good. Because you are 90% good. But your 10% not good. So if the 10% become good, you will be 100% very good.”(お前はとてもいい。なぜなら90%いいからだ。でも、10%がよくない。だからその10%がよくなれば、お前は100%よくなる)

彼は微笑みながらも私を真剣に見つめている。
少したじろぎながらも、私はその10%が知りたくなった。

“Ummm, I see. So what is the 10%? Would you tell me what it is?”
(そうですか。では、その10%とは何か教えてくれますか?)

“Yes, of course.  It's to pray.  You don't pray, don't you?  So if you pray, you will become 100% very good, you understand?”(もちろんだとも。それは、祈ることだ。お前は祈ることをしないだろ? だから、お前は祈ることで、100%よくなるんだ。分かったか?)

“Umm, yes. I understand.”(は、はい、分かりました)
と、私はインド流に小首をかしげ、合意した。

“OK, good. You can go.”
(よし、分かったら、行っていい)

やや、狐につままれたような感覚になったものの、私は穏やかな笑顔のその男性に合掌した後、その場を去った。この町の滞在中、私はこの会話のことが気になって、この後、何度かこの場所を訪れたが、その初老の男性には会えなかった。それはまるで夢の記憶を辿ったようにも感じたが、ぽつんとある木製の長椅子だけが、夢ではなかったことを私に教えていた。

27年も前のことだけど、私にとってこれは一生忘れられない会話になっている。どうしても答えが見つからないとき、私は答えを見つけることをいったん諦め、「祈る」ことにしている。そして、私はその白髪の初老男性に感謝している。

2014年11月19日水曜日

銀杏の処理、「拾いながらトロトロ落とし法」

今朝、近所の公園へ行って銀杏を拾った。今年は上の写真にあるだけだったが、拾う時間と処理する時間を合わせて30分ぐらいで済ませたので、出勤前の慌ただしい時間でも出来た。

銀杏拾いは何年かしているので、私なりのノウハウがある。それをここでお披露目しようと思う。

「銀杏拾いは楽しいけれど、後の処理が大変」

というのが、大方の見方ではないだろうか。それと、「臭い」かな。私は、二十歳ぐらいまでは、銀杏独特の臭いをクサイと思っていたが、30〜40歳ぐらいからは拾うときにクサイとは全く思わなくなった。銀杏は昔から好物だったが、「自分で臭いを感じながら拾い、それを食べる」を何年かしているうち、おそらく無意識的に、「この臭い」と「この味」が繋がってきたからのような気がする。ついでに言うと、初夏のドクダミも一緒。子供の頃は、クサイと思っていたドクダミだが、大人になって、「自分でその臭いを感じながらドクダミを刈って、乾かして、煎じて飲む」を何年かしているうちに、すっかり変わり、今では、ドクダミは爽やかな香りと感じるようになり、鼻がスースーするし、とても心地よい。刈り終わるといい気分になる。

さて、話しが脱線した。銀杏の処理方法だ。

一般的だが、まず、銀杏拾いで用意するものは、ゴム手袋(安いのでも銀杏専用にすれば、何年も使える)とスーパーなどのレジ袋。これでオッケー。靴に臭いがつくのが気になる人は、洗える靴を履いたらいいが、私の場合は、普段履いてる靴で十分。帰宅したら、靴の両底をパーンパーンと叩けばいいだけだから。

銀杏を拾うにはもちろんゴム手袋をはめるのだが、私の場合、拾った銀杏をすぐにレジ袋に入れない。一粒右手で拾ったら、その手の平を上に向け、粒を人差し指と中指の間もしくは中指と薬指の谷間に置く。そして、その粒を親指で注射器を押すように押す。すると、銀杏の種だけが下に落ち、手の平には銀杏の外側のトロトロしたところが残る。このとき、種が落ちるのを、左手で持っているレジ袋で受けるのだ。手の平に残ったトロトロは、その場の地面に落とす。これを拾いながら繰り返す。私的には、地面に落ちたトロトロは土に還り、イチョウの栄養になる。そして、大まかにトロトロを取り除かれた種だけがレジ袋にたまっていく、という寸法だ。

以前、銀杏拾いを始めた頃は、拾った外側のトロトロ付きのまま、レジ袋に入れて家へ持って帰って処理していた。が、その処理の最初の工程を拾いながら終わらせてしまうのが、この「拾いながらトロトロ落とし法」だ。拾うときにクサイとは思わなくても、ずぅーと家が銀杏の臭いなのは嫌なので、その心配はなくなるし、家に帰ってからの処理は楽になるし、トロトロをイチョウの栄養として還元できるしと、いいことずくめのように思っている。

大まかにドロドロがとれた種は、家に持ち帰った後、ぬるま湯を張ったバケツに投入する。ゴム手袋をはめた両手で擦るように種をガラガラ洗って、一度ぬるま湯を替えてザルに上げたのが、冒頭の写真だ。この量で、だいたい拾うの5分、洗うの5分ぐらいだ。

この「拾いながらトロトロ落とし法」のコツは、トロトロがやや乾いた頃の銀杏だと、やりやすいということ。銀杏の落ち始めはトロトロの水分が多い。その後、地面に落ちたものはもちろん、イチョウの枝に付いたままでもトロトロは乾いていく。このやや乾き気味の銀杏だと、トロトロ落としの際、ツルッと種だけが落ちやすく、種の周りに残るトロトロの繊維が少なくなる。よって、その後バケツで洗う工程も楽になるのだ。上記の説明で、バケツのぬるま湯は一度しか替えてないが、落ち始めの銀杏だと、一度では無理かも知れない。

あと、別件だけど、銀杏拾いの名所には行かないことですね。実は、ウチの近所には、昭和記念公園という立派な国営の公園があり、そこのイチョウ並木が有名で、銀杏もたくさん落ちる。でも、拾う人が落ちる銀杏以上にたくさん来るから、ちょっとタイミングを誤ると、落ちてても拾い残りの小さいのがほんのちょっとだ。

また、名所でなくても、町中など競争が激し目の場所では、強風が吹いた直後を狙う。実は、ウチの辺りは昨夜強風が吹いてたので、私は今朝行ったのだった。銀杏シーズンに必ず2〜3度は強風が吹くので、それに合わせられる人は、合わせた方が断然効率的です。

それから、「散歩がてらに銀杏拾い 」ぐらいゆる〜い気分だったらいいのだけど、効率よく拾うには、あらかじめ、イチョウの木を決めておくことですね。私が今朝10分で拾い終えたのも、決めているイチョウの木があるから。だいたい、銀杏の粒のサイズや、実が落ちるタイミングは、各イチョウの木によってだいたい決まっている。

私の今年の銀杏拾いは、やや遅れ気味の今朝だったけど、これで私の秋が終わった感じです。以前、銀杏拾いに燃えてたときもあったけど、いくら「拾いながらトロトロ落とし法」でも、山ほど拾うと大変。人にあげてもいいのだけど、無理のない程度拾って、大事に食べるのも悪くない。そんなこと思う、今年の秋最後の日でした。

2014年11月14日金曜日

「魂を純粋にする」ということ

先のエントリに続き、インドのお話。きょうは、神様ではなく、私がインドを旅していたときの思い出。30年近く経った今でも忘れられない思い出のうちの一つを書きたいと思う。

1987年の11月、私は初めてインドの地に立った。その町はカルカッタ(今はコルカタと呼ばれている)。あてのない旅だったので、カルカッタから海岸線を南下し、インド半島の先っちょまで行こうと思った。「カルカッタから海岸線を南下」というと、ほとんどの旅行者は、プーリー(Puri)という町を目指す。しかし、アマノジャクの私は、

「そんな(インド人を含む)旅行者がみんな行くようなところじゃなくて、普通の暮らしのある、普通の町に行ってみよう。何せ、私はインドのことは全く分かってないのだから」

と、ちょうどカルカッタとプーリーの中間にある、海辺にある普通の(特に有名な寺院や観光地のない)小さな町、バラソール(Balasore)という駅に降り立った。

いざ着いてみると、さすがに人気(ひとけ)のない駅で、どうしようかと思ったが、まずは泊まるところを見つけないといけない。とりあえず海の方向へ歩き出した。後から思えば、偶然に近いことだったが、看板に“Hotel”という言葉はなかったものの、“tourism”のような英語の言葉があったので、泊まれなくとも、泊まるところを教えてくれそうな雰囲気の家を見つけた。そして、その門を叩いた。

すると、30代ぐらいの女性と子供が数人やってきた。が、言葉の問題があった。この辺りはオリッサ州で、言葉はオリッサ語(ウーリア)。おそらくベンガル語とヒンズー語の間ぐらいの言葉か。何しろ英語は通じない。インドに来る前、「かつてインドはイギリスの植民地だったから、英語は結構通じる」と聞いていたが、時と場合によった。でも、私はいかにも旅行者に見えるし、身振り手振りで泊まるところを探していることは分かってもらえた。そして、どうもここに泊まらせてくれそうな雰囲気になり、門の中に入れてくれた。

やや不安も残っていたので、次には、宿代を確認することで、泊まれることを確かめねばと思った。最初、アラビア数字は分かるだろうと高をくくっていたが、紙に123と書いても伝わらなかった。このあたりはデバーナガリー文字を使うので、その文字の数字でないと通じなかった。そこでまず思いついたのは、財布の中からお金を出して、金額を教えてもらう方法だったが、何となくそれでは失礼な気がして躊躇してたら、私は別の方法を思いついた。

庭に転がっている小石を集め、まず地面に1個置き、その隣に2個の列、そのまた隣に3個の列、4個の列、・・・・と、10までの列を並べた。

そしたら、子供たちは喜んだ。「あ、それはエーク(1)」、「それはドー(2)」と、次々と数字が分かり、ついには宿代まで判明した。子供たちは、私が言葉を知りたがっているのが分かると、私がジェスチャーする行為(食べる・トイレするなど)や、指さした物の名前なども次々と教えてくえた。見知らぬ土地で、言葉も通じなかったが、それ故に、それはとても楽しい時間だった。

その夜の寝床が確保出来、心に余裕を持てた私は、海辺まで散歩に行き、日没前にその家に帰ってきた。日が暮れると、食事を持ってきてくれた。周りにレストランはないし、「腹が減ること」は当然だと思ってくれていた。私にとっては、何とも言えぬ、快適さがあった。

そして、さぁ今夜はもう寝ようとしていた、夜9時頃。私のいた部屋のドアがノックされた。誰かと思うと、その家のご主人(男性)だった。40歳ぐらいだったか。驚いたことに、何と、とても丁寧な英語で語りかけてくれた。

「いや〜、いろいろと不自由をおかけして申し訳ない。私が家主です。私は外に仕事に出ていて、きょうは遅くなってしまい、さっき帰宅したところなんです。あなたはどちらの方ですか? こうして私の家に泊まりに来たのも何かの縁。私は、あなたと話をしないとなりません」

と、彼が話し始めたのがキッカケで、おそらく1時間ぐらい、私たちは会話をしたと思う。その詳細は憶えていないが、とても強烈に憶えていて忘れられないことがある。

それは私が会話の中で質問をすると、どんな質問にも彼は必ず、

“It's to purify the (or your) soul.”
「それは、魂を純粋にすることです」

と答えたことだ。
若かりし私は、その意味が全く分からなかった。例えば、「魂を純粋にすることって、どういうことですか?」ときいても、「それは、魂を純粋にすることです」と、彼は答えた。そして私は当惑した。誤解しないでもらいたい。彼は決して悪ふざけてしているのではなく、非常に誠実で真剣な答えと、私は感じていたことを。

翌朝、私はその家を発ち、駅へ向かった。

“to purify the soul”
「魂を純粋にすること」

それから私の5年に及ぶ旅は始まった。最初から5年と思っていた訳ではない。漠然と「1年ぐらい」と思って出発した旅だった。そして、あれから27年経った今、私は、「魂を純粋にすること」の意味を理解しかけているように感じている。

例えば、このブログの左側のプロフィール欄に、下記のコメントがある。

「好きなこと、とことんやりましょ。ただし、無理をしてはいけません。無理と思ったら待ちましょ。無理でなくなるまで待ち続けられるぐらい好きなこと、とことんやりましょ」

このコメントは、「魂を純粋にすること」から説明すると、「自分(の純粋な魂)の声に従いましょう」だ。純粋な魂とは究極的に自分が望んでいること、というのが私の理解。しかし、そのためには雑音のない純粋な魂の声を聞くことが必要になるが、とても難しい。難しいからこそ、例えば、「無理でなくなるまで待ち続けられるぐらい」をフィルターにすることで、より純粋な魂の声に近づくことが出来るのではないかと言いたいのだ。純粋な魂はいくら待っても変わるようなことはないと思っている。

また、いったん「自分の魂の声は、これだ」と思っても、誤解していることだってしばしばある。しかし、それが誤解と分かることによって、魂の声(自分の好きなこと)に一歩近づくことにもなるのだから、続けていけば少しずつ近づくことになるのだ。

「魂を純粋にすること」

インドの片田舎、Balasoreでその言葉を聞いたときは、皆目その意味を感じ取れなかった。しかし、何年もの時を経ていくうち、徐々に徐々に私の心に浸透し、今では、それを旨とすることが、私の心の支えになっている。あの日、ドアをノックしてくれたあの家のご主人始めご家族の方々には、どうやって感謝したらいいのだろう? 全く途方に暮れる。

2014年10月23日木曜日

ヒンズー教の神様

上の写真は、東京の自宅近所にあるインド料理レストランの片隅にあった神棚。メモ書きや配線などでゴチャゴチャしてる雰囲気が気に入って、つい写真を撮った。

私はインドに1年ほどいたので、この手の神棚には馴染みがある。ヒンズー教は多神教だ。神様がたくさんいる。その点、日本とも通ずるところがある。まずは金色の額縁に入った絵にあるヒンズー教の神々の説明を少し。

青い顔をしたのはシバ神。破壊の神様である。インドで一番人気の神様は、間違いなくこのシバ神だ。たくさんいる神様は大きく3つのグループに分けられる。創造の神様(ブラフマ)のグループ、維持の神様(ヴィシュヌ)のグループ、そして破壊の神様であるこのシバのグループと。世の中は、「創造→維持→破壊→創造・・・」と繰り返されていると考えられている。この3つの中で、破壊は一番物騒な感じもするが、一番ドラマチックなのも破壊であり、破壊は創造を産むとも考えられているから、シバ神が一番人気なのも、そのへんが理由だと思う。

さて、額縁の絵に戻ろう。

絵の中央にシバの妻であるパールヴァティ。彼女の膝にのっているのが象の頭をした息子のガネーシャ。右下にはもう一人の息子のムルガン。そして、小さいけど右上の白い牛。これはシバ神の聖なる乗り物であり、ナンディと呼ばれる立派な神様だ。この店の人は、シバ神系がお好きらしい。

私のインド滞在中、こういう絵はしょっちゅうお目にかかっていた。そして、ヒンズー教徒の人たちは自分が信仰している神様のことを私に喜々として説明してくれた。ちなみに私は、ヴィシュヌの何番目かの化身であるクリシュナが好きだ。クリシュナは、シバのような力強さはないが、いつものんびりと川辺で笛を吹いていたりして、キレイな女性に囲まれていたりする。いいでしょ。当時、私はよく笛を吹いていたせいで、「お前は、クリシュナを信仰すればいい」と言われたこともあった。

彼らヒンズー教徒にとって、神様はもちろん神聖なものなのだが、その神様の絵を、まるで、日本の若い人たちがアイドル歌手の写真を自分の部屋に貼って楽しんでいるような面もあるところが面白い。それだけ神様は実に身近な存在とも言える。

ヒンズー教の神様は、おそらく数十いる。ただ、それらだけではない。例えばインドのヒンズー教徒の家や店の神棚には、キリストの絵やお釈迦様の絵までもが飾られていることさえある。あるとき、「お前の宗教は何か?」と質問され、私が「仏教だ」と答えると、「仏教か。あー、仏陀もなかなかいいことを言ってるよな」などと言われたこともあった。それはキリストもしかりだ。

仏陀やキリストなどはやや例外的にはなるが、ヒンズーの神様だけを奉らなくてはならないという訳でもない「多神教」なのだ。上の写真の額縁の右側にある「伏見稲荷」のお札はお気づきだろうか。シバ神の隣にお稲荷さんのお札が掲げられていても、ヒンズー教的に、不信心さを示している訳ではないのである。ただ、ヒンズーの神がいなくて、伏見稲荷だけだと、ヒンズー教徒としてはおかしい、とはなりますが。言うまでもないか。

何しろこのへんがヒンズー教の面白いところであり、懐の深さだと思う。
そして、この多神教の根底には「異教同根」という考え方・教えがある。

「宗教(または人生)というのは、ひとつの山を登るようなものである」

と、しばしば例えられる。この場合の山は、富士山のような独立峰の山のイメージが分かりやすい。中心の頂上へは、(上から見れば放射線状に)360度の登るルートがあることになる。

「登り口は異なれど、目指す頂上は皆同じ。宗教(または人生)とはそういうものだ」

という考えがあるのだ。だから、キリストでもお稲荷さんでも、神様は神様ということになる。「異教同根」とは、今どきの言葉で言えば、「多様性」を認めるまたはそれが当たり前な考え方なのだ。

もう27年も前のこと、インドを旅していた私は、そんなインドに心惹かれていった。インドでは面白いことがたくさんあった。そのいくつかを、次のエントリに書けたらと思う。冒頭の写真の絵を見てたら、いろいろ思い出すことがある。これも写真のシバ神のお導きか・・・・。

2014年10月15日水曜日

エスカレータの片側

上の写真は、東京を走るオレンジ色の中央線のホームへと上るエスカレーター。東京なので、左側に立って、急ぐ人のために右側を空けている。これが大阪では左右が逆。では名古屋では? というクイズがきょうの内容ではない。

私が21歳の頃(32年前)は、日本にはこんなエスカレーターの習慣はなかった。その頃、知人を訪ねがてら滞在した、ロンドンの地下鉄(tube)のエスカレーターでは、(右だか左だか忘れたが)今の日本のように、片側に寄って立ち、急ぐ人に他方を空けていた。最初気がつかなかった私は、空けるべき側にのんびり立っていた。すると、後ろからド突きながら走り抜け、イヤーな顔で一瞥して上っていった男がいた。私は、「おいおい、やけに荒っぽいなぁ」と思ったものの、それによって鈍かった私もさすがにその習慣を学習した。当時21歳だった。普段しょっちゅう駅の階段を2段飛ばしで上っていた私は、「あ、これはいい習慣だ。さすが(地下鉄の歴史が古い)ロンドンだ」と感心した。

その3年後ぐらいから、私は2年間、エスカレータがほとんどないアジアの国々を旅行した。ロンドンの頃から数えると5年後。2年たって日本に戻ってきて驚いたことが2つあった。ひとつは、レコード盤がなくなって全てCDになっていたこと。そしてもう一つは、東京のエスカレーターでは、立つ人はみんな左側で、右側を急ぐ人たちが上っていたことだった。

そして20年ほどの月日が流れたこの頃、私は思うのです。

「エスカレーターの右側、何も空けなくてもいいんじゃないかぁ」

と。無論、急いでいる人がほとんどいない場合だ。
そりゃー、若い頃は特に急いでなくても階段を2段飛ばしで上ることもあったが、この歳になってくると、多少急いでいても、階段を駆け上がることはない。エスカレーターもしかり。

そして、時代もあると思う。

東京で、急ぐ人用にエスカレーターの片側を空ける習慣が始まった1988年か89年頃は、若い人ばかりでなく右側を使う人(急いでいる人)が多かった。今はスマホを見たいのかも知れないが、エスカレーターでは若い人でも立っている人が多い。そして、立ってる側の乗り口に長い列が出来ることがしばしばなのだ。長い列の横には、誰も上らない不思議なスペースが細長く空いている。そんなとき、その長い列に並ぶのがかったるい。だから仕方がないと、私は渋々空いたスペースを上ったりする。後ろから誰も上ってこないか振り返りながら、いないと上るの止めて立ってたりして。

要するに、例えば、通勤ラッシュの時間帯など、急いでいる人が一定以上多いときは、エスカレータの片側を空ける意味がある。急ぐ人と急がない人、各々が各々の事情に合わせられる。たとえ99%の人が急いでいる場合でも、1%の急がない人の安全が保たれるという面も見逃せない。しかし、昔に比べ最近は、特別な時間帯を除き、急いでいる人が減った。たった一人二人のために、片側を空けて長い列を作ることはないのではないか、ということだ。

日本の活気も、20〜30年前と比べたら、ない。でも、ここで重要なことは無理して活気あるようにすることではなく、ないならないなりの活気(=落ち着き)に合わせて、決まり事を変えることだと思う。景気も同様。政治家が「景気をよくする」という目標をしばしば掲げるが、そもそも景気なんていう全体的なものは、人間がコントロール出来るものではない。政治家が出来ることは、景気のコントロールなんかではなく、減った税収に対して借金(国債)を膨らませたり、せいぜいアッチの予算をコッチに移動するぐらいだ。「景気をよくする」なんていう幻想に囚われず、現状に合わせて、決まり事をどう変えていくかが重要だ。

エスカレーターの片側がすっぽり空いていて、反対側に長い列が出来ていると、ついそう思ってしまう。