2016年5月24日火曜日

ホーチミン日本町の「同じようなもの」と「同じもの」

 上の写真は、この3月、ベトナムへ出張した際に撮ったもの。この紫色と赤色のライトを基調とした雰囲気に包まれた私は、何となく、昔みた「ブレード・ランナー」という映画の中に出てきた、未来のアジアの繁華街のシーンを連想した。

ここは、ホーチミン市、レタントン通りから南側に一本露地を入ったところ。この界隈は、日本人ビジネスマンが多く居住していて、日本の食材店が何軒もあったり、日本の漫画喫茶があったりと、日本人向けの店がたくさんある特異なエリアだ。この照明の色のせいか、何となく「子供は来ちゃいけませんよ」的な、怪しげな雰囲気がいい。ぶら下がっている提灯をアップで見ると、
 この日本人が書いたものではない「日本町」の文字が、異国情緒をさらに醸し出している。実際、日本にはこんなところはないんだけど、このベトナム人が作ったと思われる日本のイメージが、私には新鮮で、ここにしかないというオリジナリティを感じる。

このあたりがこんな風になったのは、ここ何年かのことだと思う。私も日本人ビジネスマンといえばそうなのだが、日本人ばっかりのところに行っても面白くないなと、ずうっと思っていて、これまであまりこの界隈に立ち寄ることはなかった。でも今はこんな風に不思議な空間になっていて、最近になって、行くようになった。

さて、この界隈の焼き鳥屋さんに入った。5〜6人いる店員さんは、全てベトナム人の若い女性。注文したり会計したりなど、無論日本語が通じる。座ったカウンター席はちょうど炭火で焼くところの前。炭火で熱い中、丁寧なその仕事ぶりは、さすがベトナム人という感じだ。
 日本のブロイラーの鶏よりおいしい。そして店内の様子はというと、
 メニューはもちろん日本語で、客は仕事帰りの日本人ビジネスマンばかり。時間は7時か8時ぐらいだった。すっかり新橋あたりの焼き鳥屋さんに迷い込んだような雰囲気だ。この焼き鳥屋さんで一杯やった後、次にラーメン店に入った。注文したラーメンはこれ。
 去年行った台北のラーメン店もそうだが、ここサイゴンのラーメン店も豚骨が圧倒的だ。日本のチェーン店の豚骨ラーメンよりおいしい。
 このラーメン店の客も日本人ばかりかと思いきや、若いベトナム人女性の二人連れ客もいた。二人で一つのラーメンや料理を注文していて、各品を二人の真ん中に置いて吟味しながら食べていた。若い人たちの間では、世界中で、日本モノが結構もてはやされているみたいだが、これもその一つなんだろうか、と思ったりする。

この界隈のこの雰囲気の中にいると、「これはいつの時代なのか? またここはどこなのか?」と、時間と空間の感覚がゴッチャになってしまう。日本のようでもありベトナムのようでもあり、現代のようであり一昔前のような、そして未来のような気もする独特なものだ。それが何とも不思議で刺激的。そして「このゴッチャになった感覚はいったい何だろう?」とふと思った。

グローバル化と言うが、だんだん世界中が混じり合っているんだと思う。それは、浸透圧の実験のように、国境という名の膜で仕切られたコップの中に濃い液体と薄い液体があるようなものだ。それは平衡状態になるまで混じり合う。

豚骨ラーメンは、日本の地方の国道沿いのラーメン店でも食べられるが、ホーチミンでも、ニューヨークでも食べられる。ちょっと前までは、ベトナムで(日本の)ラーメン店に入るのは、日本人ぐらいだったと思うが、今やベトナムの若い人たちも気軽に食べに来る。ちなみに、上の写真のラーメンは、8万ドン(400円ぐらい)。たぶん、東京で食べると600円ぐらいかな。そんなに大きな差ではない。一方、日本の百均ショップでは、ベトナム製陶器がいっぱいあり、「あっ、これベトナムの市場で見たことある」ということも珍しくない。ネットや交通・運搬手段がどんどん世界中で普及して、どんどん世界中が混じり合っている。近い将来は、世界中のどこでもだいたい「同じような」ものが食べられ、「同じような」サービスが受けられるようになるような気さえする。

ただそれらは「同じような」であり、「同じ」にはなり得ない。そこに見直されるべき価値がある気がする。「同じような」ものは、珍しくなく世界中にあるようになるのだから。

どこにでもある「同じようなもの」と、ここにしかない「同じもの」。

この2つは今でも身の回りにたくさんあるが、混じり合うことがもっと進み、「同じような」が多くなればなるほど、「同じ」の希少価値が高まるのだ。ただこれは、単純に「同じような」の価値が下がる訳ではない。「同じような」の中から、新しい個性を持った「同じような」も生まれると思うからだ。

紫と赤のライトに包まれたサイゴンの裏露地を歩いていて思った。

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