先週金曜日の大寒で、「ここが寒さのピーク。こっから少しずつ暖ったかくなるんだ」なんて思っていたが、私が住む東京・昭島の今朝の最低気温は、何とマイナス4℃。幸いにも暖房器具が部屋を暖かくしてくれているとはいえ、春が待ち遠しい。
さてさて、私は海水から塩を作るという生業なのだが、去年、塩に関して、初めての質問を受けた。それも二人の別々のお客さんから、同じような質問だったのでとても印象に残った。一人は春頃に東京のラーメン店店主から。もう一人は秋頃に愛知県のスーパーマーケットの社長から。その同じような初めての質問とは以下。
「毎年、スゴイ量の塩が世界中で作られてるって言うじゃないですか。そんなに作って、海は大丈夫なんですか?」
まず、この「スゴイ量」というのは、だいたい年間、2億トンから3億トンということだ。そして、「大丈夫?」というのは、海の生態系への影響などのこと。そのときの私からの回答は、二度とも、こうだった。
「大丈夫です。なぜなら、地球上の海水は圧倒的な量だから。それに比べれば、人間が塩を作るのに使う海水なんて微々たるものです」
こう答えたものの、二度ともに回答後、何となく自分の中にはスッキリしない違和感が残った。そしてその後、ときどきそれをそれを思い起こしては思いにふけった。こんなこと世間では話題にもならないだろうなと思いつつも、もや〜っとしたその違和感に光を当ててみたくなった。
実はこの回答をした際、思い出していた資料があった。それは「Newton」という科学誌の別冊の中にあったもので、その別冊のタイトルは以下。(冒頭の写真)。
●なぜ、「水と生命」に恵まれたのか? 「地球」 宇宙に浮かぶ奇跡の惑星
●奇跡の惑星 地球の科学 誕生と歴史、構造と環境
(蛇足ながら、2冊とも同じような内容なので、ご興味おありの方は、どちらか1冊持っていればいいと思います)
この2冊には共通して、「地球の海は圧倒的なまでの水量をもつ」という見出しの、地球の海水のについての章がある。そして、「地球の海水の量は、1,348,850,000立方キロメートル」で、「常に大量に蒸発し続けているが、同時に雨や河川から水が供給されているので、海面が下がることはない」とある。
この「圧倒的な水量」という言葉とイメージは、私の記憶に染みつき、先のような回答に繋がった。しかし、それではその質問に答え切れていない感覚が残ったのだった。
それは何だろう?
まずは「圧倒的な水量」の海水から、世界中の製塩所で塩が作られ続け、雨や河川から水分が海に供給される風景を想像した。
「海水塩を作るために消費する海水」の成分。そして、「雨や河川から海に供給される水」の成分。理論的には、これらがイコールならば、確かに「海水の成分は変わらない」ということになる。しかし、イコールだろうか? いや、イコールではないハズだ。雨や河川の成分は、主に人間の生活スタイルの変化とともにどんどん変化しているハズだからだ。(詳しくは次のエントリ以降に) 無論「圧倒的な水量」の海水は、人間の一生分ぐらいではほとんど変わらないだろう。しかし、これが何千年、何万年と続いたら、人間よりずっと敏感な(プランクトンはじめ)海の生物に影響が及ぶことはなかろうか。及ぶとすれば、それは生態系への影響となる。
先のNewton別冊の記述は、あくまで「水分量」についてで、「海水の水位は変わらない」ということであり、その水分に含まれた「成分」については一言も言及していない。確かに、「圧倒的な水量」の海水にとって、人間が塩の生産のために使う海水は微量かも知れない。しかし、これが循環ではなく、不可逆の一方通行の変化となれば、「塵も積もれば・・・・」である。
私は、海水から塩を作っている生産現場へ、年に1〜2度行く。目の前に大きく広がる海があり、その海から海水を引き入れて塩を作っている。そこは世界の中では、とても小規模な生産地ながら、感覚として、それで海水の成分が変わるなどとはとても想像出来ない。しかし、先述のとおり、遠い将来となると、変わり得るのではないか。先の回答をした後に私が感じた違和感は、それだったように思った。
次のエントリでは、もう少し踏み込んで書いてみようと思う。
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