2011年10月25日火曜日

ベトナム・ソンベー焼

先のエントリに引き続き、ベトナムの陶器のこと。今回はソンベー焼に絞って書いてみたーい。ただこれは私の想像または妄想混じりです。歴史的事実関係のウラまではとってないので、その点ご了承願います。

まずは下の写真。


後ろの大きめの2つはフォーなどのドンブリ。手前の2つは、ご飯茶碗兼スープ椀です。(ここまでは妄想ではなく事実です)。ソンベー焼の中では、大小、左の2つがよくある絵柄で、右の2つは中国の影響を受けているか、もしくは中国からの輸入物・・・・というのが私の想像です。

次に下の写真の平皿4枚。


もう見てお分かりと思いますが、左の2枚がソンベー焼。でも、この左側の上下の2つ、ちょっと違うんです。大きさ・形・絵柄という意味ではなく、私が買った年が10年ほど違うんです。奥の青色の小さいのが10年以上前に買ったやつ。そして手前の花柄の大きい方は、最近たぶん1〜2年ぐらい前に買ったやつです。写真だと伝わりにくいんですが、奥の青い方が堅くて形がしっかりしている。しっかりとは言うものの、だいたいが粗悪な作りのソンベー焼(その粗悪さがいいんですが)。あくまで最近のと比べてという意味です。どうも最近のソンベー焼は10年前のと似てはいるものの、微妙に形・輪郭に緊張感が薄れていると感じています。指の関節でコツコツ叩いても音の違いがあり、生地素材や作り、また焼きの温度も違うように感じてます。

そして問題は右側の2枚。

これが、な、な、何と、フランス製なんです。サイゴンの骨董屋さんで見つけたんですが、昔フランスで作られてたものなんです。2つとも皿のウラには「FRANCE」の文字が押されているので、輸出用だったかも知れません。右側の2つ、左側のソンベー焼と酷似してると思いませんか? 私はこいつを骨董屋さんで見たとき、思いを馳せてしまいました・・・・ベトナムの仏領インドシナ時代、きっとフランス人が陶器とその作り方をベトナムに伝え、それがベトナムなりに変わって今のソンベー焼があるんだ・・・・と。

昔のフランス製の方は、青い絵柄にしても花の絵にしてもキッチリと描かれていますが、ベトナム製・ソンベー焼の方は、ササッと描かれている感じ。こうした変化の中、ソンベー焼はベトナムでとても大衆的な陶器へと変遷していったという訳です・・・・と、これも想像。想像ではありますが、私はこうして大衆化させていったベトナム人の感性が好きです。

そして最後に写真をもうひとつ。


まず手前の小さめのは、前の写真の左上のと同じもの。ですが、上の2枚は昔の(50年ほど前の)ベトナム・ソンベー製のものなんです。昔のフランス製のものを見つけてから何年かした後に、やはりサイゴンの骨董屋さんで出会いました。昔のフランス製と比べるとやや粗悪感がありますが、最近のソンベー焼よりはしっかりと絵柄が描かれていて、形もしっかりしています。つまり、「昔のフランス製」→「昔のベトナム・ソンベー製」→「10年前のベトナム・ソンベー製」→「ここ1〜2年のベトナム・ソンベー製」と、場所と時代の変化とともに変化してきているのが分かります。この間およそ50年〜60年ぐらいだろうと思います。こう変化させながら、ベトナムの人たちは徐々に「自分たちのもの」にしていったと私は思っています。

ちなみに私の個人的な好みとすれば、昔のソンベー焼(上の写真の上の2つ、緑と水色のです)が一番かなぁ〜。50年ほど前のヨーロッパとアジアが溶け合った感じがたまらない。私は骨董として保存する趣味がないので、我が家ではこれらすべての陶器を現役として使っています(金継ぎが大変)。またはそうできないレベルの骨董は買わないことにしてます。値段は、昔のソンベー焼の皿で、US$10ぐらいだったか。

日本の陶器も、昔から主に中国や朝鮮半島から入ってきた陶器を真似て作られてきました。そのベトナム・フランス版がこれらの陶器ということになりましょう。これらの皿で数十年の歳月を感じることができます。

そんなソンベー焼だけど、先のエントリの最後にも書いたとおり、ベトナムではもうなくなってしまうかも知れない。単に私が懐古的なだけかも知れないけど、その存続のためにも、ベトナムへ旅行にでも行ったら、是非ローカルな市場に隣接する小さな食器店の片隅をチェックしてソンベー焼をお土産に買いましょうね〜。

2011年10月19日水曜日

ベトナムの陶器


上の写真は、俗にベトナムで「ソンベー焼」と呼ばれる陶器たち。ソンベーとはサイゴン近郊にある地名で、昔からの焼き物の生産地だ。すべて型に粘土を流し込んで成形してある。

ソンベー焼は、10〜20年ぐらい前まではベトナムで最もポピュラーな陶器だった。私が初めてベトナムを訪れた1998年にはどこでも見かけた。当時は、「こんな器が普通に使われているんだ〜」と驚いたものだが、それがここ10年ぐらいの間に、つまりはベトナムの急速な経済発展にちょうど反比例するように激減している。

現在ベトナムの巷で最も使われているのは、世界中どこにでもあるような洋食器風のものがほとんでなので、このソンベー焼は、すでに普通の食器店には並んでいない。あるとすれば、ローカルな市場に隣接した古くからの食器店の片隅で、そのほとんどはたっぷりとホコリをかぶっている。きっと今の多くのベトナム人にとって、ソンベー焼は「古くさい」印象に映っていると思う。

ところで、ベトナムへ旅行に来る人たちの間で最もポピュラーなのは、「バッチャン焼」だろう。バッチャンとはハノイ近郊にある地名で、こちらも古くからの焼き物の生産地。千利休が愛したと伝えられる安南焼も「今のベトナム北部」が生産地だったと言われているから、この地域で作られたものだと思う。

ただ現在のバッチャン焼は、例えば外国人旅行者向けのお土産屋さんにはどこにでも置いてあり、ソンベー焼と違い、作りがしっかりしている。ハノイからはバッチャンへの日帰りバスツアーなんかもある。そして、このお土産屋さんに置いてあるバッチャン焼がソンベー焼と決定的に違うのは、それを使うベトナム人がいないことだ。激減したソンベー焼とはいえ、まだソンベー焼を使っている人はいれど、ベトナム人でその手のバッチャン焼を使っている人を見たことがない。興味のある方は、「バッチャン焼 画像」で検索してみてください。

一方、ソンベー焼は、バッチャン焼同様型で成形されているとは言え、作りが粗悪。微妙にゆがんだりしていてひとつひとつ形が違う。平らなところに置くと、カタカタと不安定なこともしばしばだ。しかし、それを嫌がるベトナム人はいなかったから、10〜20年ぐらい前までは最もポピュラーな陶器だったのだ。そして私はそんなソンベー焼が好きだ。ベトナム土産には、本当はこっちのソンベー焼の方がよりベトナムらしいと個人的には思う。何となく醸し出される素朴な生活の臭いがあるし(それも一昔前の臭いになりつつあるが)、その粗悪さは私にとっては暖かみや味。ベトナムへ行く度にそんなソンベー焼をちまちま買っては、我が家の食器棚に入れてきた。うちのカミさんからは「まーた買ってきたのー」と毎回小言を言われながらなんだけど。上の写真はそれらを引っ張り出して並べたもの。

さて、もう少しバッチャン焼の方の話を。

これは私の想像だが、外国人旅行者向けのバッチャン焼はおそらくどっかの西洋人がベトナムへの外国人旅行者向けに企画制作されたのが発端だと思う。なぜなら、15年ぐらい前は、西洋人経営のお土産屋さんを中心にバッチャン焼が置かれていたからだ。その後、ベトナム人経営のお土産屋さんにも並ぶようになった。それが10年ぐらい前のこと。そうなると、西洋人経営のお土産屋さんは、今度はどんどん新作を並べるようになった。しかしそれら新作は1〜2年もすると、ベトナム人経営のお土産屋さんにも並び始める。こんな追っかけっこが数年続く間、その「1〜2年」のサイクルはどんどん短くなった。そして、西洋人経営のお土産屋さんからバッチャン焼は消えた。新作もなくなり、今はベトナム人経営のお土産屋さんの隅っこに、「前はこういうのが流行ってたよな〜」ってな感じで置いてある。

そんなバッチャン焼の攻防とは無縁に、ここ10〜20年の間、ソンベー焼はベトナムの経済発展と逆行しながら、激減していった。ちょうど私がベトナムに関わり始めてからのことのようにも思えるので、そんなソンベー焼には思い入れがある。だから、妄想を含め、私が個人的に感じるソンベー焼のことを書いてみたいと思った。

冒頭の写真のソンベー焼は、実はここ10年ぐらいのものだ。もちろんソンベー焼はそれ以前からあった・・・・長くなりそうなので、詳しくはまた改めて。(→2011年10月25日 ベトナム・ソンベー焼)

ちなみに最近聞いた話だが、ソンベーは区画整理のため、近いうちになくなるとの噂もある。時代の流れはそう簡単には変わらない。消えゆくソンベー焼なのかも知れない。そう思うと、私の思い入れはますます強くなるばかりだ。

2011年10月14日金曜日

バジル・ペーストへの思い


もー、限界・・・・。
今やらねば今年のチャンスはもうないだろう。

庭のバジルのことだ。毎年この時期になると、バジルの葉を収穫し、バジル・ペーストをこしらえてスパゲティを食す。ジェノバ・ペーストとも言うんだっけか。バジルの葉、松の実、オリーブオイル、ニンニク、塩のペースト。毎年、庭のバジルでスパゲティを食して十数年になる。

初めてバジル・ペーストを作って食べたのは、20年以上も前になるが、陶芸家の小野哲平さんと服作家の早川ユミさんの家に2ヶ月ほど居候させてもらってたときのこと。当時は常滑だった。

ユミちゃんが「松の実買ってきたよ。これでバジルのペースト作るとおいしいんだって。それでスパゲティ食べようよ」と進言した。そのとき私たちはみんな初めてのバジル・ペースト。早速彼女と私は、その庭のバジルを収穫しに向かった。そのときもちょうど今時分だった。「もう枯れてきちゃうところだね〜」なんて話しながらの収穫。「もー、限界」だった。

収穫後、どっさりザルに盛られたバジル。一般的には、こいつをフードプロセッサーかミキサーにかけるのだけど、当時彼らの家にはそれがなかった。でも、でっかいすり鉢がある。だからバジルは最初に包丁で粗く刻む。ニンニクを摺り下ろす、順序として最初に松の実を当たってから、バジル。でもスリコギでゴリゴリ始めたときは、「こんなたくさんのバジルがペーストになるまでどのくらい時間かかるんだろう?」と不安になったものだが、5〜10分も当たってると思いの外、ペースト状になってきた。

それは旨かった。その後、何度もこのペーストを作ったけど、必ずフードプロセッサーかミキサーを使った。初体験ってこともあったと思うが、金属の刃の高速回転で一気に砕くよりも、スリコギとすり鉢でちまちま当たったのがよかったのかも知れないと今でも思う。

しかし、このバジル・ペーストで最も大事なことは、バジルの葉の状態だ。マルゲリータなど、バジルが添え物または飾りで使われるのとは大きく違い、バジル・ペーストの場合、バジルは完全に主役だ。鮮度はもちろん、春から夏にかけてお日様をたっぷり浴びていること。これが肝要だ。茎や葉がたくましく育ってないとペーストになって、香り・味が劣る。当時の小野哲平・早川ユミ宅のバジルは南向きの庭の畑のド真ん中にあって、秋とはいえ、茂りすぎているぐらい元気に育っていた。

東京の我が家でも、陽当たりのいい南向きの庭で育ったバジルのペーストは旨かった。でもその翌年、その庭の南側に新たに家が建ち、陽当たりが十分でなくなったことがあった。バジルの発育が劣ったとたんに、ペーストの風味はガクンと落ちた。

また、10年以上もやってると、いろいろなバリエーションを試すことにもなった。場所に余裕があれば、バジルは放っておくだけで種が落ちて何年かは毎年同じところに生えてくるが、我が家にその余裕はない。だからバジルの育て方も、種植えだったり、苗植えだったり。背丈が20cmぐらいになってからは、芽かきをして葉っぱの成長を促したり、またはそんな余裕もなかったり・・・・。松の実の代わりにカシューナッツやクルミを使ったり混ぜたりしたこともあるが、やっぱり松の実だけが一番旨いな。ニンニクを擦ってみたりみじん切りにしてみたり。ちなみに今年の新たな試みは、ペペロンチーノのように、ニンニクのみじん切りをオリーブオイルに入れてゆっくり加熱して抽出してみたこと。子供も食べやすい味になった。刺激を欲する方は、ニンニクの玉をそのままフードプロセッサーがいいでしょう。

第一にバジルの状態。これが一番なのは自信がある。次には、「出来たてを食すこと」もあろう。そしてすり鉢も・・・・と言いたいところだが、すり鉢を使ったのは先の話の1回だけだから自信はない。ジェノバの人たちにもきいてみたいものだ。バジル・ペーストの歴史からしたら、フードプロセッサーなんて極最近のものだしね。

「ガーガー」轟かせながらフードプロセッサー回してるとき、心の中ではいつも、すり鉢で静かにゴリゴリ当たってたときのことを思い出す。フードプロセッサーにはない、すり鉢の豊かさがそこにあるのだ。私はフードプロセッサーの便利さにかまけて、すり鉢の利点を見逃しているかも知れない。豊かさとは心の豊かさ、余裕に他ならないなぁ、との思いをかみしめる秋の日だった。

冒頭の写真、今年のバジル・ペーストのスパゲティを盛った皿はいつかと同じ、小野哲平作のものである。ペーストはフードプロセッサー製だけど・・・・。

2011年9月26日月曜日

蛇のはなし〜その2:マムシを食うこと

今回のエントリは、前回「蛇のはなし〜その1:蛇の根回し」の続きです。まだ前回のを読んでない方は、後からでもそっちもお読みになることをオススメします。

さて、20年ほど前の滋賀県は朽木村での話。

田んぼの草取り中に、蛇にからまれたんだが、そのときの記憶で一番私の感覚に残っているものは、「シャー、シャー」の声でもなく、私に向かって思いきりのばされた先割れの舌でもない。それはスネにスリスリされたときの皮膚の触感だ。それは体温がありそうで冷たく、独特の少しのザラザラ感をともなっていた。

蛇が水面でも地面でもはうとき、おそらく頭が通ったところと同じ場所を首、腹、尻尾と全身が通っていく。私のスネに絡まってきたとき、頭から尻尾の先まで、その蛇の全長を感じたのはそのためだったと思う。

当時私が住み込んでいた山小屋へは、車が通る道から山道を10分ほど歩いたところにあった。そこでは24時間車の音が聞こえない。その山道の前半の半分はゆるやかな登りで、両側に草が茂っていた。天気のいい日は、黒く細長い蛇がよく甲羅干しをするかのように横たわっていた。田んぼにいたのと同じ種類の蛇。それが多いときは片道で10匹ほど横たわっていた。最初のうちは木の枝などで追い払いながら通っていたが、だんだん面倒になって、またぐことにした。そうこうするうちに、またぐこともだんだん日常になっていった。

ある夏の日の深夜、その山小屋で、私が熟睡していたときのこと。

布団の上に仰向けに寝ていたが、暑かったので掛け布団から両足が出ていた。出していたその右足のスネに触るものがいた。先の田んぼの草取りのときの感覚が一瞬のうちによみがえり、蛇と分かった。熟睡中だったが、最初のそのタッチで頭だけはスッキリと目覚めた。でも、田んぼのときと同じように、「ここで動いちゃマズイだろうな」という感覚になると同時に、全身の力が抜けた。蛇は私の右側から右足のスネの上を通り、足の間を直進し、左足のスネの上を通って私の左側へとゆっくりと抜けていった。

このときは田んぼのときと違い、真っ暗だったせいか嫌な感じだった。その触覚は田んぼのよりやや太かったので「冷たさ」があり、重みも感じた。そしてザラザラ感がよりあった。長さは同じぐらいだったが、田んぼのと違う蛇ということもすぐに分かった。私は指一本、全身のどこも動かさずにそれが去っていくことを待った。間違えなく、全身のどこも動かさないためには、どこにも力が入ってはいけないような感覚になったため、全身の力が抜けたのだと思う。

右足から左足へ。その蛇の全身が抜けるまで長く感じた。おそらく10〜20秒ぐらいのことだったと思うが、とても長く感じた。

私の左足から離れた後、まだそのあたりにいることも考えられたし、すぐにまた身体のどこかの上をはうことだって考えられた。だから、真っ暗闇の中、私は全身の力を抜き続けた。力を抜き続けていたら、いつのまにか再び眠りに落ちていた。

翌朝、その山小屋の主である友人にそのことを話した。

「へぇ〜、するとまだ部屋の中にいるかも知れないね」

ということで、二人でまずは私が寝ていた枕元のタンスを持ち上げてみた。すると、そこには、トグロを巻いた、マムシ様が鎮座されていた。

「タケシ、分かる? 身体がずんぐりむっくりしていて、頭が三角だろ。これがマムシだよ」

私は、じっとして動かないマムシを凝視した。二人はお互い「どうしよう?」と顔を見合わせるが、結論が出ない。そこでとりあえず、タンスを元の位置に戻すことにした。

しばらくすると、その山小屋のすぐ下に住む別の友人が訪れてきた。私が草取りした田んぼの主でもある。

「いや〜、今そのタンスの下に結構でかいマムシがいるんだよね。どうしたものかと思っているところなんだよ」と私たち二人。

しかし、来訪した友人の決断は早かった。

「ここには、ウチの娘たち(当時4歳と10歳ぐらいだったか)も遊びに来る。薄暗い中なんかで踏んづけたりでもしたら大変だ。今すぐ殺すぞ」

それまでのところ、私たち二人は全く危害は加えられていなかったし、何となく「蛇は家の守り神」のような迷信もあるような気がしたので、思いあぐねていたが、彼の「娘たち」の話には説得力があった。もしものとき、私たちには責任がとれない。

私と山小屋の主は、再びタンスをそぉっ〜と動かした。さっきと全く同じようにトグロを巻いていて、寝ているかのようだった。娘さんのいる友人は、太めの枝を拾ってきて、マムシの頭を一撃した。マムシは、少し動いた後、動かなくなった。

「ん、これでいい。これで安心だ。そうだろー」

太めの枝をポンと草むらへ投げて、その友人は帰っていった。

残された私たち二人は、再び新たな問題に直面した。

「これ、どうする?」と私。
「村の人から、網で焼いて食べるとおいしいって聞いたことがあるけど」と友人。

たしかにまたとない機会かも知れない。思案している私の中には、夕べ私の両足の上をはっていったその「触感」がよみがえっていた。

「おーれ、やめとくわ」

私は辞退した。
が、友人は早速七輪に炭をおこし、マムシを包丁で開き、一口サイズに切った。

結構念入りに火を通していた記憶がある。「どお(味は)?」と聞くと、彼は「よく分からない」と言った。

ところで、その後の何年か後に、私は自分の子供の胎盤を食べた。(詳しくは、「胎盤の味」)そのときも説明しようのない味だったが、今思うと、そのときの友人の「よく分からない」はそれと似ていたかも知れないとふと思う。

私には苦手な食べ物はない。強いて言えば、甘い物がやや苦手なぐらい。しかしこのマムシの場合、味がどうのこうのじゃない。この朽木村に滞在して、いろいろ蛇にまつわる経験をさせてもらい、ほんの数時間前には私の足の上をはって、枕元のタンスの下でぐっすり寝ていたマムシ。訳あって、殺すことにはなったものの、それを食う気にはとてもなれなかっただけなのだ。ちょっとした気持ちの問題って言えばそれまでだが、その気持ちの問題っていうのが大きい。

昔、浅草の仁丹塔の下にたしか屋号が「よっちゃん」だったかな?、いわゆるゲテモノ(メインは蛇だったと思う)を食べさせてくれるお店があった。その店の前を通るたびに、不思議な特別なものを感じはしたが、暖簾をくぐる気にはならなかった。今でもその思いは変わらない。

2011年9月21日水曜日

蛇のはなし〜その1:蛇の根回し


上の写真は、10日ほど前、東京・昭島にある自宅の近所の道ばたの蛇。おそらく車にひかれたんだと思うが、死んでしまっている。動かなかった。つまんで草むらに投げた。そんなことのあった1週間後、友人から電話があった。

「友だちからマムシが送られて来たんだよ。一緒に食べないか?」

他の用件もあったので、主にそっちの話をして、マムシのお誘い話にはお茶を濁して電話を切った。

もう20年ぐらい前のこと。マムシを含め、蛇を「特別な生き物」と思わされた出来事が2〜3あった。場所は、滋賀県の朽木村。その村の谷の一番奥から少し上ったところにある友人の山小屋に、私は春から半年ほど住み込んでいた。

その近くにも別の友人が住んでいて、ある日、彼の田んぼの草取りを私ひとりですることがあった。無農薬、除草剤を使わない田んぼなので、クレソンなどがどんどん生えてくる。裸足で田んぼに入り、膝下ぐらいが水面になる。前かがみになって、軍手をした手で田んぼの床に根ざした草を鷲づかみにし、根こそぎ取っていく。

やや汗ばむぐらいの初夏の陽差しの下、ひとりで話し相手もいなかったせいか、草取りに集中した。前かがみの姿勢なので、ときどき身体を起こして腰を真っ直ぐにするぐらいが、ちょっとした息抜きだった。

前かがみになって、目の前の草取りに没頭していた、そのとき。

私の右足のスネに何か触るものがあって、ハッとした。黒く細長い蛇だった。体長は50センチぐらい。その蛇は、自分の頭から尻尾の先まで、つまりは身体全体を丁寧にこすりながら、私の右足のスネを1周し、次に左足のスネも全く同様に身体全体をスネにこすりながら律儀に1周した。こすりながらとはいえ、水面を動いているのだから、とても正確に泳いでいたということだ。私は、身体を起こしてその蛇の行動をただ見てるのが精一杯で、田んぼに肩幅に突っ込まれた両足は動かせない。

「この後はどうなるんだろう?」

と思った瞬間。その蛇は私の両足のちょうど間で鎌首を上げ、頭を私の顔に向けてきた。しばし私とにらめっこ状態になり、「えっ、それで?」と思ったら、今度は口を180度に大きく開いて、先が2つに割れた細長い舌を思いきり私の顔に向かって伸ばしながら、「シャー、シャー」と5秒ほど威嚇するような声をあげた。私はただそれを見ているだけだが、不思議とそれが怖くない。私は、この蛇が右足に触ってからは、全身の力が抜けたOFFの状態で、完全に観念していたからだ。だから、私が何かをするというよりは、この蛇様に畏敬の念を抱いていて、「何かお気に召されぬことでもありましたか?」という心境だった。「シャー、シャー」が終わると、何事もなかったかのように、スイスイと田んぼの水面を泳ぎ去っていった。

少しの間、ボォーっとした後、私は草取りを再開した。再開して30分ぐらいした頃だろうか、そのときの私は前よりは周りが見えてた。私の先10メートルぐらいのところにその蛇がいた。ジィーッとしてるので、どうしたのかと思ったら、その蛇の4〜5メートル先にカエルがいた。

カエルも動かない。が、たまにピョンと動く。その1度のピョンと動いた短い時間の間だけ、蛇も素早く動き、カエルとの距離を縮める。そしてまた静寂の時間に入る。しばらくしてまた、カエルはピョンと動く。蛇も動き、徐々にカエルに近づいていく。もー完全に私は(観客として)蛇の虜になった。その決定的瞬間を思うとワクワクし、その狩猟に見入った。しかし蛇は私が思った以上にずっと慎重だった。「さー次だな(食いつくな)」と私が思ってから食いつくまで5度はあったと思う。最初の1〜2度の「さー次だな」にはかなりの興奮があったが、5度目ぐらいになるとその興奮もやや冷めていて、「(そこまで近づいたら)そりゃ成功するよな。石橋たたき過ぎなんじゃないの」なんて気分にもなった。でも、それが自然の厳しさなのだ。

その蛇が最初わざわざ私の両足に絡まり、鎌首上げて大きな口の中から舌出して「シャー、シャー」やったのも、「これからカエル捕まえるんだから、お前ちゃんと周りを見ながら草取りしろよ。それでオレが狩猟モードになったら、くれぐれも邪魔してくれるなよ」という、カエルを捕まえるための根回しのようなものだったのか。だとしたら、それは大成功だし、決して石橋をたたくようなことではなく、至って正攻法だ。

そう思うと、ますます蛇への畏敬の念は深まるばかりだった。

この20年前の、朽木村での蛇の話にはまだ続きがある。次はマムシ編だ。改めてこの次に書きたい。

2011年9月9日金曜日

果実の中ではマンゴスチン


井上陽水の昔の曲に「カーネーション」というのがある。

カーネーション
お花の中ではカーネーション
一番好きな花

私は鼻歌で、この曲の節に合わせて、こう歌う。

マンゴスチン
果実の中ではマンゴスチン
一番好きなもの

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

私には持病がある。膀胱炎及び尿道結石。普段は何でもないが、極端に身体が疲れたりすると、下っ腹の膀胱あたりがとても不快なムズムズ感をおぼえる。そしてそれがさらに悪化すると尿道結石に発展する。これまで尿道結石までいってしまったことが二度あった。

そんな私が昔アジアを旅していた頃、洪水のバングラディッシュで無理をして、膀胱炎が発症してしまった。ダッカから何とかバンコクまで飛んで、1ヶ月ほど病院通いした。1988年のこと。通院は週に一度ほどだったので、ほとんどの日は、慣れないバンコクの町をひたすら散歩していた。その散歩コースにチャイナタウンがあった。他でもない。そこには目当ての屋台の果物屋があったからだった。

手押しの大八車の上にはマンゴスチンとランブータンの大きな山が2つ。商品はこの2つだけ。どっちもキロ15バーツだったことを今でも憶えている。当時のレートで、75円ぐらいか。それが初めて食べたマンゴスチンとランブータンだった。何とうまいフルーツがあるのかと3週間の間、この2つの果物を毎日むさぼり食った。マンゴスチンとランブータン、合わせて2キロ買って、寝泊まりしていたゲストハウスの冷蔵庫に入れた。そして入れた直後、前日に買って冷やしておいたマンゴスチンとランブータンを食すのだ。この2つの果物は冷えてた方が断然うまい。2キロはペロッと食べてしまった。これぞ至福の時だった。体調が悪いことで、フラストレーションがたまってたこともあったろう。また無意識にも膀胱炎の身にいいものだったのかも知れない。3週間の間、勤め仕事のように毎日チャイナタウンまで散歩をし、この2種類の果物を買い続け、食べ続けた。一日散歩を怠ると、次の日は冷えたのが食えないことになる。それが耐えられなかった。今思えば、もっと近くでも売ってたろうにと思うけど・・・・。

最初の1週間ぐらいは、マンゴスチンとランブータンを半々買っていたが、日が進むにつれ、徐々にマンゴスチンの割合が高くなっていった。マンゴスチンの上品な甘味とその甘味をやさしく包むような酸味の虜になったのだ。そしてその3週間の後半は、マンゴスチンが1.5キロ、ランブータンが0.5キロぐらいになっていた。食べ方もメインはマンゴスチンで、箸休め的にときどきランブータンを間にはさむようになっていた。

こうして「果物の虜」になる話は、ドリアンでしばしばあるが、私の場合、マンゴスチンだった。ドリアン様も好きだけど、マンゴスチン様の比ではない。

ところで、先月ベトナムへ行った際、木になってるマンゴスチン様に初めてお目にかかれた。よくマンゴスチンを知らない日本の人へのその外見の説明で、「柿みたいだけど、色が濃い紫色」というのがあるが、その葉っぱもやや柿の葉にも似ていた。

また、今年のベトナムは、マンゴスチンの当たり年だったらしい。例年より安く、小さめのマンゴスチンをたくさん食すことが出来た。小さいヤツは、中の種がないのが多いので食べやすく、味もいい。

もう今は、さすがにキロ単位で食べることはなくなったが、今でも「一番好きな果物は?」と聞かれると、迷わず「マンゴスチン」と答える。「一番好きな食べ物は?」と聞かれても答えられないんだけど・・・・。

2011年9月2日金曜日

想定内の「想定外」


これは、8月29日付け東京新聞の朝刊から。5ページ目の紙面の端っこの小さな囲み記事。

この記事読んで、「へ〜、ウソだったんだー」なんて思う人はいない。だからこんなに小さい記事であり、今は誰も目にもとめないものかも知れない。

しかし事の重大さと、ささやく声のようなこの小さな記事。そのコントラストには何かスゴイものがあると思いませんか? メチャクチャだ。あまりにメチャクチャすぎて、憤る以前に、私は唖然としゾッとした。

大手新聞の中で最も「脱原発」を明言しているとされる東京新聞(発行元は中日新聞)なのだけど、この「ウソだった!」のビックリ・マークはかなりその空虚さと怖さを引き立てている。

原発事故で苦しんでいる人たちのことを思うと言葉がない。